僕はの第1回目の時に、アメリカ氏の研究状況みたいなところを踏まえた時に、基本的に歴史学っていうのはその歴史学が持っている国家の制約であったり、
それを学んだ国家の制約とか、その後、歴史家自身が持っているこの認識論的なものとかも含めて、すごく制約がある学問だっていうふうな話をしたんですけれども、
特ビルは自分が貴族出身なんですけど、その貴族の主演をもたらすようなこの民主主義っていったものが今後展開されていくっていうことで、
ある意味この自分という観点から離れた上で自分の思想を展開することができているっていうのも一つありますし、
かつそれが一つの現代状況から見た結論というだけではなくて、それが過去からの一つの流れとして現代まで到達し、
さらにそれが未来に向かって進んでいく一つの理念だっていうふうにそういう話を進めているんですね。
これは多分我々の現代社会においてもある程度納得できるところの点で、当然全ての差別とかがなくなったわけではないですし、
現在社会の全ての人類が平等であるっていう話ではないんですけれども、しかし少しずつ確実に平等になってきているっていうことは多分言えると思うんですね。
そういった意味で、この今後続くすべての時代の流れの一つの理念を彼は導くことができたという意味で、
自分の時代、自分がいる今この現世の世界から抜け出すような思考法を持つことができたっていう意味で、
やはりかなり得意な人物だったというか、一つのやはり大きな思想家であったと言えると思うんです。
そういう人物が書いている本で、アメリカのこのデモクラシーって今、約本になっていると全3巻本みたいな感じになっているんですけど、
1冊500ページくらいあって、しかもそれがすごくアメリカのことの政治状況とか、
あと今後の民主主義のことだとか、すごくいろいろくれていて、これ読むの結構大変なんですけど、
それを読んだ上で、やっぱりこの本は確かに一つの中国憲法じゃないですけど、スタンダードをもたらした本であるっていうふうには本当に読んでて思いました。
彼がアメリカ境の中でどこにその意義を思い出したかっていうと、
次の資格のところで書いてるんですけど、アメリカのタウンシップにおける自治っていったものをすごく評価していて、
次の引用のところで、アメリカでは共同体、過去コミューンが軍以前に、
軍は州以前に、州は連邦以前にそれぞれ組織されているっていうことを書いていて、
つまりある意味歴史の皮肉でもあるんですけども、
アメリカ社会の規定にあるのはこのコミューンと呼ばれている共同体が基本にあって、
それが少しずつ拡大していった形態として連邦政府が成立していってるんだっていう、
つまり人々の基盤といったものはこの共同体、コミューンの方にあるのであって、
連邦の方にあるわけではないっていう話をしてるんですね。
これはある意味、第2代大統領とか第3代大統領からすると、
必死に中央集権を目指して働いていた政治家たちからすると皮肉かもしれないんですけれども、
結局この段階においてアメリカっていうのは統一国家、国民国家としての共同体という枠にはほとんどなっていなかったっていう風な観察結果を
トクビルはもたらしていると。
そうではなくて、かなり小さい共同体の種類。
この当時のコミューンっていうのは英語で言うとタウンシップっていう話らしいんですけど、
これが2,000〜3,000人の共同体を指すと。
トクビルがアメリカの政治体制の規定に見出したのが、
このタウンシップにおける人々の自治体制だったっていうことなんですね。
これってつまりオークワイズの一つの町村くらいの単位ですよ、言ってしまえば。
これくらいの単位のものが機能してるからこそ、
アメリカ社会っていったものは実は共和国家というか共和政府として成り立っていたっていうのが彼の見解なんです。
そこの状況を書いていた文があって、
結構長くなっちゃうんですが、
僕は当時のアメリカの様子がわかったので引用として書いたんですけど、
アメリカの土の上に諸君が降り立つやいなや、
諸君は一種の混雷、同体、同様の真っ只中にある自分を見つけることであろう。
そこでは四方八方からワーという騒音が沸き起こっている。
諸君の耳には同時に無数の声が聞こえてくる。
それらの声の一つ一つは何らかの社会的要求を表している。
諸君の周囲ではあらゆるものが動いている。
こちらではある地区の人々が協会を立てるべきか、討議するために集会している。
あちらでは人々は代表者の選択のために活動している。
向こうの方ではある軍の大議員たちがみんなでいくらかの地区的な改良策を告げるために急いで街に向かっている。
別のところには道または学校の計画を討議するために自分たちの畑からやってきたある村の農民たちが集っている。
いくらかの市民たちは政府の方針に反対を宣言する唯一の目的で集会を催している。
他の市民たちは当局者が祖国の父たちであることを宣言するために集合している。
また他の市民たちは酒酔いを国家の外役の重たる源と見なして禁酒の実例を示すために大阪に制約しようとして集まる協会をつくっている。
とにかくここで書かれてあることは彼らの共同体の中での自治の作業なんですね。
あらゆるものを自分たちで考えて自分たちで形作っていくっていうこのすごく力強い姿勢。
これにすごいトクビルは感動するわけです。
結局彼らのひとりびとりが共同体の一部を構成していて、
共同体を統同しようとして払う苦労に値するだけの自由な強力な団結を
共同体のうちに見出しているからであるというふうに結論しているんですけれども、
こうなってくるとトクビルがさっき言ったいわゆる共和主義の発想とも違ってくるんですね。
共和主義にとってみると民衆っていうのはそんなに当てにはならない存在であって、
彼らの自治能力とかをほとんど認めてないので、
だから強要のある人物たちが彼らを指導しなくてはいけないっていうこういう発想を持っていたんですけれども、
トクビルにとってみると、いや彼らは別にそういうものを必要としていないと。
彼らは彼らで自分たちで共同体を形作りそれを維持するための活動を日々行っていると。
それこそがこの市民生活の元になっていて、それが民主主義の最大の可能性なんだっていうような発想をしているんですね。
だからトクビルによってその当時までに民主主義っていうのは基本的に否定的な政治体制というか否定すべき考え方であったところがあったんですけれども、
トクビルによってこの民主主義、デモクラシーっていうものがものすごくその共同体を維持するための一つの政治機構であり、
あるいは政治思想としての有効性を初めて見出していったって言えるくらいの功績を持っていたんですね。
これは我々の現代社会でもそうですし、特にアメリカなんていうのはものすごく民主主義っていうのを標榜する国家でもあるので、
すごくこのトクビルの古典に頼ってアメリカの国家が形成されていったっていうことが後の社会からでも言えるかと思うんですけれども、
その中でやっぱりそのトクビルの発想っていったもの、このアメリカのデモクラシーっていう本が一つの思想的ですし、あるいは歴史的転換の本になっていったっていうことは言えるかと思います。
ただ、この時にトクビルが見出していた民主主義の可能性っていうのは、あくまで自治に関する協力体制のことを指して民主主義の可能性を展望していったのであって、
民主主義による多数者の支配っていったものはすごく否定的な考えを持ってるんですね。
だから民主主義はトクビルにとっては多数者の支配ではないと、そうではないところに民主主義の可能性があるんだけれども、
でも民主主義はその思想的なとか制度的な基盤には常にこの多数者の支配っていうこの問題も隠されているっていうことを思想として展開していきます。
で、それがちょっと次のところからの話になるんですけれども、多数者の先生という恐怖っていうところで挙げたんですが、
アメリカ連邦である人またはある党派が不正に苦しんでいるとき、一体それを誰に訴えたら良いのであろうか。
世論に対してであろうか。多数者を作り出すものは世論であって、これではダメであるっていうようなことも言っていて、
結局そうなってきて、民主主義といったものが普及していったその先で何が起きるのかっていったときに、
すごくその多数派っていったものが権力を持っていくっていうのは確かにあり得るっていうことを言ってるんですね。
で、それゆえにその多数者の権力っていったものがどのような不公平なまたは不条理な処置が諸君に対して取られるのしよう、
諸君はそれに服従しなければならないのであるっていう、こういう否定的な見解もしています。
で、結構ここで特に宇野さんの本なんかで挙げられてるんですけども、
民主主義の前提として、つまり人々は平等でないと民主主義っていう体制は成り立たないはずなんですね。
だってこれが例えば貴族主義であったり、身分差っていうことを認めてしまうと、
この身分を持ってる人が政治的には正しく導けるっていう共和制の考え方であるとか、貴族制の考え方と変わらなくなってしまうので、
そういった意味で民主主義っていうのは基本的には平等を前提として成り立つ体制なんですけども、
じゃあ本当にこれが例えば平等っていった観念を押し進めていったときに、
あの人も平等、この人も平等ってなってくると、じゃあ誰の意見も採用できなくなるはずなんですね。
つまりこの人が正しいとか、あの人が正しいっていう、そういうことの根本的裏付けがなくなるわけですよ。
全ての人が平等である以上、そこで発想されているものっていうのは常に50-50であって、何も選べるはずがないんですね。
で、そうなったときに、じゃあ人々がどういうことを支持していくかのかっていったときに、
一人一人の人間は50-50であるからこそ、じゃあこの多数者、集まった人間の意見を決めるというか、
それが有力な見解として支持されるっていうことになっていくんですね。
つまりそうなってくると不思議な話というか、まあ考えるとそうなんですけど、
平等を標榜してなっているにもかかわらず、最終的に多数者の方が上になっていくっていう、
こういうものが理念として考えられてしまうので、そういった民主主義の問題っていうのが常にあるというところなんですね。
で、これに対しては、さっきも言ったように、
ザ・フェデラリストとかを書いたハミルトンとかの、いわゆる独立期の建国の父と呼ばれている人たちは、
ものすごくこの多数者の支配っていったものには否定的であって、
ハミルトンのところで引用すると、共和国の自由を転覆するに至った連中の大多数のものは、
その政治的経歴を人民へのこびへつらいから始めているっていうようなことを言っていて、
すなわち先導者たることから始まり、先制者として終わっているのであるというふうに書いてあります。
で、この多数者に従わなければいけないっていうことは、ものすごくトクビリンにとっても否定的な見解であって、
だからこそ前のページのところで、ジャクソン大統領の評価として、
彼のことを多数者の奴隷っていうふうに言ってるんですけども、
それは民主政治としてはむしろ欠陥であるという、そういうような見解を示してるんですね。
で、やっぱりその多数者の利益っていったものは公共の利益ではないっていう、
これが多分重要なところで、多数者の利益ってなってしまっていると、
今度じゃあ多数者に入れない人たちはすべて切り捨てていいのかっていう反対にもなってしまいますし、
で、実はその共和主義を望む建国の父とかにとってみると、やはり目指すべきは公共の利益。
公共っていうのはつまり誰でもっていう基本的な意味合いになってくるので、
その公共の利益であって多数者の利益ではないというところで。
これはやはり理念としては多数者の利益を望んでしまうと、
結果的にはどんどん多数者に加われない人たちを切り捨てていって、
その多数者そのものが存続できなくなってくるようなところにもなってくるんですね。
なぜかというと結局いろんな属性を当てはめていくと、
多数者じゃない人の方が多くなってしまうというか、
例えば人種的なものもそうですし、
今のアメリカ社会においてももう白人の男性女性っていうのは人種的な割合でいうと少数派というか、
今でいうと確かメキシコ系のヒスパニック系の人の方が人口的には増えてますので、
そういったもので多数者の支配っていうのはそういうのを突き進めてしまうと、
最終的にすべて細分化されていって独裁しか生まないような状況にもなりかねないものになってしまうんですね。
こういったところで、民主主義っていったものが特備理にとってみるとどんどん普及されていく中で、
どういう弊害とどういう可能性があるのかっていうのが特備理のやはり素晴らしい論点のところで、
彼は単純にそのデモクラシーっていったものを支持したとかではなくて、
デモクラシーは一つの時代状況というか、一つの理念としての流れみたいなものであって、
それはいや往々なく進んでいくんですけど、その中でそこから人々が利益として挙げられるものと不利益を被るものが
どういったもので挙げられるのかっていったものをすごく考察していくんですね。
ただ、やはり問題としてはたくさんあって、次のところで3ページの下のところになるんですけども、
地位の平等化とデモクラシーの対等に伴う新たな社会問題というところで、
さっきもちょっと言わせていただいたんですけども、
誰もが同じ地位の社会ってことは、人々はだんだんと全員が同じっていう立場だからこそ、
誰でもない私を求めるようになるというような見解を示すんですね。
これはちょっと我々の現代においてもちょっと通じるものがあるような発想でもあると思うんですけど、
実はそうなってくると、平等化の末に進んでいくのはかえってある種の個人主義であるというふうになっていて、
そうなると、自らの小社会に閉じこもり、誰の世話にもなってないという意識がなされ、
大社会の圧勢を放任するような利己主義が生まれると、
つまり、自分たちが良ければそれでいいということになっていくということなんですね。
誰もが同じ社会っていうこと自体はかなり現実的にはありえないんですけども、
人々がそういうふうに自分を認識するとか、そういうふうに思うっていうことは当然あり得て、
そういう認識形態を持った人間がどういう発想になっていくのか、どういう行動を取っていくのかっていうところに、
自らの小社会に閉じこもりっていうところは多分にあると思うんですよね。
それは非常に現代日本の状況も多分似たようなところもあって、
つまり非常に例えば投票するパーセンテージが低いとかね、
そういうことも引きになれになるかもしれないんですけども、
基本的に自己という関心から逃れられなくなる。
人々が平等であるからこそ、最終的に平等の中で誰でもない私っていうのを求めるようになるし、
それによって自分にしか向き合わなくなり、自分を取り巻く社会に関しては目を向けなくなると。
そうすると社会の中でどのような不正があったり、
あるいは実はその社会の行動によって自分も多分影響を受けているはずなんですけれども、
その社会そのものの変革には向かっていかないというふうになってくる。
これが一つの課題。
2つ目として富への欲望っていったものが非常にどんどん増やしていくだろうっていうことも特備では言ってます。
それは経済関係のみが人間関係の規定となるっていうような話で、
つまり、ここの引用文に挙げるんですけど、
市民たちがすべて互いに独立的であり、そして無関心で冷淡であるときには、
金が支払われなければ各人の協力は得られない。
そのために富の使用が限りなく増えるのであり、
そして富の値打ちも増加するのであるというふうに言ってます。
結構すごく僕は納得する話なんですけど、
富から生まれる差別は他のすべての差別の水滅と減少とに比例して増えていくっていう、
つまり今度、人間関係が平等で、
その身分の立場からは誰も誰に対して命令は言えないわけですよ。
人を動かすことはできないわけで、原理的には。
投票を普通に挙手制とかでやっていて、それを数える人とかがいてっていう感じらしかったんですけども、
そういうことをただ200年も続けていたっていう。
これ自体、民主主義がアメリカのところでは新しい政治体制ではあったんですけれども、
少なくとも古代ギリシャにおいては200年近くも機能し続けた政治体制でもなっているというところだったんですね。
結局これができてたのは、このアテネの人々がこの制度に深い愛着を抱き、
その維持に努めてきたからだっていうような、そういうことで終わってます。
なので、この当時のアメリカが持っていた一つの価値を、もちろんトクビルはフランスの読者に向けて書いているので、
かなり大げさに言っているところもあるし、戦略的に言っているところもあるんですけれども、
このトクビルが見出したアメリカ社会のこの自治体制、デモクラシーの体制っていったものは、
これが最終的にというか、今現代のアメリカの原点みたいなものになっているんですね。
だからアメリカの民主主義っていったものが損なわれたり問われたりするときに、
常に参照されていくのが、このトクビルのアメリカのデモクラシーっていう本なんです。
だから歴代大統領がずっと読んでいるし、これの本を参照して、
常にこの現人体の彼らの政治体制がどうなっているのかっていうのを見極めるような、そういう本になっています。
だからこそこの18世紀前半のアメリカ社会をモデルにしたこの本っていうのは、
現代の我々にとっても重要ですし、この体制がどうなったのかっていったものを歴史的に学んでいくっていうことが面白いところでもあります。
しかもこの後、アメリカは南北戦争を迎えますので、この統治体制がつまり破綻するわけですよ。
ということになると、この自治として目指していたアメリカのタウンシップの体制が、
トクビルからすると非常に大きなものとして、時代の数勢として現れていたんですが、
これが今度、19世紀の中盤にそれぞれの内戦という形で、アメリカ国民同士が殺し合うということを迎えていると。
これはなぜなのかっていったものがやっぱり次に問われなければいけない点でもありますので、
次回はこれで僕は南北戦争をテーマにしたいと思っています。
というところで一通り今回、第3回目のアメリカのデモクラシーってお話をさせていただきました。
というわけで一旦切りたいと思います。