2025-06-18 20:38

STORY.01-1:医者になれなきゃ死んだ方が良いと本気で思っていた高校時代のお話

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▼人生物語

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▼番組概要

人生の物語と対話をこよなく愛する「人生オタク」がお届けする、心温まるインターネットラジオ。視聴者や自分たちの等身大の悩みを取り扱いながら、教科書や自己啓発本では見つけられない人生の気づきや知恵を、実話をもとに紐解きながら「人はなぜ悩むのか」「転機の見つけ方」「幸せのかたち」を探っていきます。共感あり、笑いありの新感覚・人生ストーリー探究プログラム!毎週水曜日配信。


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STORYS.JPとは誰もが経験し得る、誰かの人生物語が集まる場所です。投稿された人生物語はすべて実体験にもとづくノンフィクションとなります。

サマリー

高校時代、主人公は医者になるという夢を抱いていますが、数々の挫折を経て自己価値を見失いかけています。身近な人の死をきっかけに猛勉強を始め、目標を持つことで再び人生が動き出します。高校時代、主人公は医者になることを心から願っていましたが、3度の受験に失敗し、深い絶望を味わいます。しかし、家族の支えを受けながら、医者になる夢を手放し、新たな道を目指す決意を固めました。

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STORYS 人生物語、パーソナリティーのビリギャルが生まれた人生投稿サイトの編集長、川端輝です。
STORYS 人生物語は、ゲストと一緒にいろんな人生を生きる人たちから寄せてもらった物語や相談をもとに、僕らの今とこれからの生き方について考えてみる番組です。
そして引き続き、人生相談や人生の物語の方も、概要欄の方から募集しておりますので、そちらのリンクから是非ご投稿ください。お待ちしています。
はい、ついにシーズン2始まりました。シーズン2からですね、ちょっとフォーマットを変えまして、今までは人生相談室って形だったんですけども、人生物語という形で、人々の人生の物語を取り扱いながら、
いろんなゲストの方と彼らの人生の物語を聞きながら、どういう葛藤があったか、どういう悩みがあったか、そしてどういうふうに乗り越えてきたかっていう、そういった人生物語を紹介していくというような、そんな感じのフォーマットでこれからをやっていけたらと思っています。
それでですね、ゲストの人生物語を聞く前にですね、stories.jp、物語がたくさんあるんですけども、その物語の中から物語をピックアップしまして、そちらの方ですね、今日はナレーターの方が読んでくれます。
第1回目の取り上げるストーリーなんですけども、高校生の方が医者を目指していたという物語ですね。その中でいろんな葛藤がある中で気づきがあったと、医者になるごと以上に大事な気づきがあったという、そんな物語を今日は紹介したいと思います。
その後にゲストの方々と対談をしていくというような流れになっていくので、そちらのエピソードも合わせて聞いてくださるととても嬉しいです。ということで、第1回目の物語をお楽しみください。
高校生活の葛藤
どうだったかというと、全国模試で数学の偏差値が38。おまけに足首をねんざするのが癖になっていて、運動もまともにできない。彼女はいない。青春の思い出はゲーセンでのメダルゲームだけ。そんな素晴らしい灰色オレンジデイズを送っていたわけです。
とはいえ、最初から落ちこぼれだったわけではありません。高校受験では第一志望にこそ落ちてしまいましたが、学力は受験期の貯金があったので入学当初は学年でもトップの成績でした。というか滑り止めの高校のレベルが鉄すぎたんですけどね。笑い。
三流高校とはいえ、一応学年トップ。バスケット部では新入生で一番の瞬速を誇り、おまけに文化祭実行委員とバンドでボーカルまでやっていました。必然的に当時はモテました。あえて謙遜しませんが、人生で最もモテた時期だったと思います。
他のクラスの教室に入って女の子にキャーキャー騒がれたのは、おそらく過去にもこの先にもないでしょう。笑い。しかし、バスケットボールで念座をしてしまって、そこからすべての高校ライフが変わってしまいました。
運動ができなくなったことで自暴自棄になり、すべてのモチベーションが下がってしまったのです。勉強も手につかない。彼女には振られる。バンドは解散。というか追い出されました。文化祭実行委員では、委員の中の政治に負けて窓際族に追いやられていました。
当時、高校2年生。子供ながらに、「ああ、自分って本当に価値がないんだなあ。」と本気で思っていました。取り立てて何の取り柄もなく、平均以下でこのまま人生を過ごしていくんだとすべてを諦めてしまっていました。
今思うと、それくらい私にとってバスケットボールができないということは辛かったのです。私の青春はすべて吐きそうになりながらも駆け抜けたバスケットボールと一緒にあったのです。私の青春は中心にある大きな歯車が欠けてしまったため、すべてが機能しなくなってしまいました。
何もかも無気力になり、毎日ゲーセンに入り浸る中で自分の中のエネルギーがくすぶり続けていました。いつも何か変わるきっかけが欲しかった。何かがあればまたバスケットボールと同じくらい熱くなれるかもしれない。自分はこんなもんじゃないはずだという思いだけが絡まっていました。何かが自分の人生を変えてくれる。そんなサインをただひたすら待っていました。
そんな中、ふと思い出すことがありました。実は私には小さい頃からの夢がありまして、それが医者になることだったんです。しかし数学の偏差値が38になってしまっていた私にとって、医学部に入学するということはとてつもなく高いハードルに見えたのです。
学力もなければ努力もできない。おまけに体能もない。こんな状況だったので半ば諦めてしまっていました。心のどこかで自分には無理だろうと思うようになっていました。そんな日々が変わったのが身近な女性の死でした。その人の死に対して自分は何もできませんでした。
病死でした。無力感に襲われ、無気力な自分がさらに無気力になり、しばらく学校にすらいきませんでした。毎日悲しくてどうしようもなかった。行き場のない感情だけがくすぶって、どうしたらいいのか当時の私にはわかりませんでした。そしてある日、いてもたってもいられなくなり、突然猛勉強を始めました。
今思うと、悲しみやフラストレーションというマイナスのエネルギーが鬱屈していて、とにかく発散せずにはいられなかったのでしょう。とにかく何かにエネルギーをぶつけないといけないような気がしました。それからというもの、人生でかつてないほど猛烈に勉強を始めました。高校2年生の冬でした。
それから約半年、昔から得意だった英語だけは順調に成績が伸び、むしろ英語が好きだったので英語しか勉強していませんでしたが、ひょんなことからセンター試験模試で英語を満点を獲得し、落ちこぼれ高校生が一気に学年でも話題の人物になりました。
というのも、私のいた高校は決して学力の高い学校ではなかったので、もしで目星い結果が出せれば誰でも有名人になれるくらいだっただけなんですね。しかし苦手な数学は相変わらず偏差値50以下。トータルの学力で医学部合格にはほど遠いので、その結果として浪人することになりました。
しかし私には希望が満ちていました。なぜなら人生に目標ができたから。医学部に入るという明確な目標ができたから私の人生は少しずつ正常に歯車が噛み合ってきたように感じました。浪人生活を寸大予備校の市谷校舎で過ごすことにしました。市谷校舎は医学部専門校舎ということもあり、医学部受験で素晴らしい実績のあるところでした。
生徒数も千人ほどいる、いわゆるマンモス予備校です。私は期待に胸を膨らませて市谷校舎の門を叩きました。しかし待っていたのは思っていたのと違った浪人生活でした。苦手な数学と物理をやるものの、自分は集団授業のスタイルは苦手だということを痛感して、思うように結果は伸びませんでした。
というのも、レベル別に一応クラスは分けられているものの、英数国の総合点で判断するので、私のような、英語は超得意だけど数学は絶望的、という生徒は下手をすれば上のクラスに入ってしまうんです。それが全ての失敗の現況で、私は当然のごとく落ちこぼれました。
クラスにいても、周りは自分よりも頭のいい連中ばかり、自分がとんでもなく才能のない、どうしようもない愚図のように思えました。英語の授業は毎回余裕でしたが、数学や物理や科学の授業はいつも苦痛で仕方なく、いつの間にか授業に出席しなくなっていきました。
結局、最後まで頑張ったものの、理系科目の基礎学力不足のため、センター試験で失敗しました。国立医学部受験は絶望的になりました。それからというもの、私は引きこもりました。悔しいやら、情けないやらで、毎日ドラクエとマンガ喫茶マンボウに通う毎日。人生で初めて本気で死にたくなりました。
山手線のホームから本気で飛び込みたくなる近況ってあるんだなぁと、今更ながら振り返ってゾッとします。この時期の生活リズムは、6時睡眠、13時起床、ゲーム開始、17時マンガ喫茶に行く、23時帰宅、ゲーム開始、朝になる、そして最初から繰り返し。
これを1ヶ月ほど繰り返していました。人生で最も無駄な時間であり、しかし今思うと必要な無駄な時間でした。
猛勉強と成果
廃人生活を繰り返していくうちに、やはりどうしても医学部に入りたい、もう1回チャレンジしたいという気力が戻ってきました。そして両親の反対を押し切り、2浪目に入ることを決意しました。そして2浪目は徹底的に数学と物理をやることを決意しました。
1浪目の失敗から学び、独学できる塾を探すことにし、自宅では全く勉強できない人間なので、自習室だけ使えて授業に出なくてもいい塾を選ぼうと決意しました。そして大宮予備校という予備校の特待生制度を利用し、幸いなことに1浪目の学力の貯金があったこともあり、特待生として無料で予備校に通うことができるようになりました。
というか、今思い返すと試験が簡単すぎたんだろうなと思います笑い。
2浪目は朝6時から夜22時まで勉強。この時私の頭にあったのは、ここで結果を出せなきゃ一生ゴミのような人生のままだ。今勝たなきゃ一生負け続けるんだ。もう高校2年生の時のような無気力な毎日なんてまっぴらだ。これだけを考えてとにかく勉強しまくりました。
基本的に授業は取らず、自習室で黙々と勉強し続けました。ご飯を食べながら勉強し、友達を一切作らず誰とも喋らず一心不乱に勉強しました。今ここで頑張らないと多分一生頑張れない人生になる。根拠はありません。そんな気がしたんです。とにかく必死に鬼の行走で勉強していたと思います。
この勉強スタイルが性に合っていたのか、夏の模試では東大理算以外はだいたいA半テレが出るようになりました。順調に学力も伸び、これはいけるだろうと予備校の先生にも言われました。
そして迎えたセンター試験では、2年間連続失敗の切熟を晴らすべく対策し、結果として93%と医学部受験生としてはまずまずの成果を残すことができました。昔から志望していた千葉大医学部ではなく、横浜市立医学部を受けることに決定しました。そこからはひたすら過去問を解いてきました。
合格すると周りの人にも思われていましたし、自分も合格を疑いませんでした。しかし、運の悪いことに私が受験した年から数学の問題が激しく難化し、英記の数学のセンスの無さを露呈してしまいました。数学の試験が終わった後は、まさに呆然実質、何が起きたのか現実を受け止めることができませんでした。
英語など他の教科で若干巻き返すものの、合格にはいたらず、結局3度目の医学部受験も失敗で終わりました。
悔しかった。悲しかった。辛かった。死にたいと心から思った。この時ほど、神様を恨んだことはありません。私は経済的な理由から市立の医学部には入学できませんでした。
そのことで、両親を恨んだこともありました。自分の数学センスの無さを呪いました。いや、これまでの人生すべてを捨て去りたかった。私の頭にあったのは、3度もやったのに失敗したクズ野郎な自分という劣等感でした。
そして、当時2年ほど付き合っていた恋人と別れることになりました。その元恋人は一郎目の時に出会い、ずっと交際していました。
彼女は私と違って才能があったので、一郎で国立医学部に合格し、私の医学部合格をずっと応援してくれていました。しかし、当時の私にはプライドやメンツがすべてでした。彼女の優しさを受け入れられず、一方的に別れを切り出しました。
この時のことは、今までの人生の中での最大の後悔の一つです。
新たな道への旅立ち
別れたことに未練があるということではなく、なぜ自分勝手で独りよがりになり、周りの人の優しさと向き合えなかったのか、ということにです。
当時の私には、目の前の失敗で全ての思考が奪われてしまっていました。老人時代は友達がいなかったので、本当の意味で独りきりになりました。
全てを失ったと思いました。夢は途絶え、恋人と友人を失いました。しかし、こんな私をいつでも温かく受け入れてくれたのは家族でした。これだけやって失敗した私に、
お前はよく頑張った!本当に偉い!と言い続けてくれたのは両親と姉だけでした。周りの友人は私が失敗すると同時に離れていきました。それが当然だと思っていました。
しかし、家族は私の挑戦をそれでも価値があったと褒めてくれました。よく頑張ったと、お前を誇りに思うと言ってくれました。そして、少しずつ少しずつ悲しみや悔しさと同時に、2年間勉強し続けたという境地と達成感を持てるようになりました。
頑張った自分を少しだけ認めてあげてもいいのかもしれない、そう思えるようになりました。そして、いよいよ産老するか滑り止めの大学に入るか選ぶ時期になり、私は浪人をしないで私立文系の大学に入ることに決めました。
医者という夢に未練がなかったわけではないのですが、むしろ未練たらたらでしたが、もう自分の120%の努力をしたと思ったので、これでダメなら神様が行くなと言っているんだと思うことにしました。自分には医者は向いてなかったのだと、新しい道で頑張ろうと思うようになりました。
もともと英語が好きだったので、医学を学べないなら英語を極めようと決意し、英語教育が日本で最も充実している国際キリスト教大学に入学することにしました。国際キリスト教大学はセンター試験利用入試で合格していました。
人生に無駄なことなんてない。結果として私は医学部受験を失敗したまま終わりました。当時はそれがどうしても悔しくてかまわず、大学に入ってからも何度か医学部へ再チャレンジすることを真剣に検討したくらいです。
しかし、こうやって振り返ってみて思うことがあります。それは、人生に無駄なことなんてないということです。医学部に入ることはできませんでしたが、私には得たものがたくさんありました。
自分はここまで頑張ることができるんだという自信、情熱をもって努力することの尊さ、そして夢を追い続ける冒険の楽しさを知りました。これは今でも私のアイデンティティを形成したと思える貴重な経験です。スティーブ・ジョブズが言っていたように、点と点がつながるというやつでしょう。
一見無関係なことが振り返ってみるとつながっている。それが未来の力になることもあるのだと実感しました。とはいえ、やはりその価値にいるときはそうは思えないものですけどね。振り返ってみて、改めて、無駄なことなんてないのだと思いました。
3度の挑戦を通じて、いつの間にか無気力でエネルギーを持ち余した青年は、努力することの楽しさを学んだ大人になっていました。
そして気づきました。私が本当に求めていたのは、医者になることではなかったのだと。私は、医者になるために頑張っている自分を求めていたのだと。自分だって夢に向かって頑張れるのだと、生きている意味があるのだとそう信じたかっただけなのです。私はただ、死んだように生きることが怖かったのだと気づきました。
だからこそ、夢に敗れた今でも胸を張って言えます。この2年間を私は誇りに思うと、これから先の何度つらいことが起きようとも、この2年間の浪人時代の経験が私を奮い立たせてくれるだろうと、誰が何を言おうと、私は夢に向かって喧嘩を売り続けた浪人時代を誇りに思っています。
これから先の私の人生の続きは、これをしのぐ喜劇に。
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