2026-03-16 25:56

#9 吃音、適応障害、自分が背負うモノと他人とのありかた

全然カミングアウトできなかった「吃音」。アウティングっぽい体験がありつつも、なんだかんだ周りの人の理解と思いやりがありました。自分を開けても、開けなくても、その人に合ったコンプレックスとの向き合い方ができればいいですよね。あと、適応障害にもなったけど、心の病気ってなんだんだ?「昭和」がしみついていて、当事者になってもなお理解できていない・・他者の境遇を理解することの難しさを改めて感じた話です。

<大体のチャプター>

noteの「吃音」の記事とカミングアウト/ 知り合いに向けたカミングアウトは大変/ カミングアウトしなくても大丈夫なパターン/ アウティングされた体験/ 自己開示って?/ かかっても理解できない心の病気/ 適応障害になった話/ 心で思ってもできないってどういう状態?/ やりたいけどやりたくないって、心どうなってるの!?/ もちろん他人にもわかりにくい適応障害/ 精神論な人たち/ 心と体のつながりがやっぱりわからない/ 当事者になれば理解できるという幻想

感想

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サマリー

今回のエピソードでは、話し手である田中さんが自身の吃音と適応障害の経験を通して、コンプレックスや心の病気との向き合い方、そして他者の境遇を理解することの難しさについて語っています。 吃音に関しては、SNSでのカミングアウトや、学校という集団の中でのカミングアウトの難しさ、アウティングの経験について触れています。カミングアウトは必ずしも必要ではなく、周囲の理解や配慮があれば、必ずしも公表する必要はないという考えを示唆しています。また、アウティングは傷つく行為であり、信頼関係に基づいた情報開示とは異なると述べています。 適応障害については、自身が経験してもなお心の病気の全容を理解できないという戸惑いを語っています。精神論が根強い昭和・平成初期の価値観の中で育ったため、気持ちがあっても体が動かないという状態に混乱し、自分自身でさえ理解できない心の状態に直面した経験を共有しています。他者への理解の難しさ、特に「気持ちがあればできる」という精神論で片付けてしまう人々とのギャップに苦しみ、診断書が出て初めて扱いが変わった経験から、表面的な理解の限界を痛感したと語っています。最終的に、自分自身が当事者になっても他者を完全に理解することは難しいという結論に至り、その前提で人と接することの重要性を説いています。

吃音に関するカミングアウトとSNSでの発信
田中嘉人の Stammer Studio。 どうも私、Stammerの田中嘉人と申します。
Stammerとは、吃音の人という意味です。 私はStammer、つまり吃音の人なんですが、そんな人が一人で喋っていくポッドキャストです。
今回もよろしくお願いします。 SNSのノートっていうやつだけはちょっとやってるんですよ。
そのノートで、やっぱり吃音とかって検索すると、 結構な人が記事を書いてるんですよね。
それを見て、カミングアウトっていうか、 自分で自分のそういう吃音のことを言えるっていうことについて、
いろいろ思うところがあって、 今回はちょっとそういう話をしてみたいなと思ってます。
後半は、適応障害というのにもなったっていうことなんですけど、 私は心の病気と言われてますけど、不思議だったんですよね。
全然ひどくなかったんですけど、症状が。 心の病気ってなんだろうって思ったので、そういう話をしていきたいなと思います。
ということで、まずカミングアウトの話なんですけど、 最初にSNSで自分のことについて書いてるっていう話をしたんですけど、
あれってカミングアウトなのかなと思ってみると、 必ずしもそうじゃないところもあるのかなと思いました。
不特定多数の知らない人とか顔も見えない人にあれは言ってるので、 これはカミングアウトなのかどうかっていうのはちょっとわかんないなって思ったんですね。
でもやっぱりあれっていいところがあって、 僕のこのポッドキャストで吃音の話をしてるのも全く同じことなんですよね。
身近な人や自分が所属しているコミュニティの人に、 私実は吃音なんですよっていうよりもずっと楽だと思うんですよ。
しかもこと細かく言えるみたいな文章を長く書けばたくさん語れますし、 ポッドキャストも長尺がある程度許されるので結構たくさん語れるので、
そういう意味でエピソードの一つなのかな、 あと同じような境遇の人いませんかみたいな、そういう共感を求めてたりするんですかね。
だからカミングアウトとはもしかしたら違うのかもしれないですよね。
このカミングアウトって結局僕はできなかったんです。
でなんかこれもノートで見たのかな。
高校生の人が投稿しててカミングアウトして一歩前に進めましたみたいな。
すげーなって思っちゃいましたね。
高校生一番多感な時期で、思春期でそこでカミングアウトができるっていうのは、
その子の人間性もすごいし考えてることもすごいし、
人間関係、周りの人の友達とかの関係もすごくいいなと思ってちょっと感動しちゃいました。
思わずねコメントとかしちゃったぐらいなんですけど、
羨ましいなーっていうのとすごいなーっていうのと、
それ思いましたね。
でカミングアウトってやっぱりねこれなかなかできないなと思うんですよ。
僕小学校の先生でやっぱり吉祥の子とかがたまにいるわけなんですよね。
で、そういう吉祥に限らず言葉とかにちょっと課題がある子が通う、
そういう専門の教室があるんですよね。
言葉の教室とかって言ったりするんですけど、
そういうところにね週に1時間とか通ってる子とかがいるんですけど、
そこの先生との知り合いっていうか一緒にすごい先輩の先生で教わったことがあるんですけど、
やっぱ一番いいのは自分のクラスでカミングアウトするっていうのが一番いいって言ってましたね。
でも相当ハードルが高いと。
これはですね、喫音が原因で周りからの見られ方とか友達関係とかが不安になっちゃって、
結局学校に行けないとか教室に入れないとか、
そうなっちゃうのを防ぐっていうのが短期的な目標というか目先の目標。
でもそこでカミングアウトとかをしていくことによって自分が多分変わっていくと思うんですよね。
人の見方とか集団の見方とか。
自分が多分すごく成長すると思うんですよ。
っていうのを目的としていると思うんですけど、
特に喫音の場合、喋るので、
しかもクラスの30何人の前で前に立って喋るってなると、
それはちょっと過酷すぎるでしょうと。
しかも内容が自分の喫音の話を喫音で言うわけなので、
これ過酷すぎるだろうと僕は思うんですよね。
学校でのカミングアウトの難しさと周囲の理解
でも多分少ないですけど、
それをやってる子とか子供ができるように導いている、
すごい温かくて腕がある、すご腕の先生もいるわけですよね。
これはね、すげえなと思いますね。
僕も実際に喫音の子を担任で持ったりしたこともありますけど、
カミングアウトまではね、これはきついですよ。
だからあとそこに先生が入って、
じゃあちょっと先生が代わりによっかとかっていう方法もありますしね。
いろんな、そこまでいかなくても、
カミングアウトを自分で喋ってするっていうまでいかなくても、
結構いろんな方法があるので、
そういう方法は数々試みてはきてるんですけど、
要するに学校っていう集団の空間でいうと目標としては、
理解を得るっていうことですね。
知ってる人たちに理解を得る。
ただSNSとかとはちょっと違いますよね。
リアルな知ってる知り合い、
自分の所属してるコミュニティの人から理解を得るっていうことですから。
これがやっぱ難しいなとは思いますけど、
でもこれが大事なんですよね、きっとね。
で、あとね、このアウティングってのがあるんですよね。
アウティングは言われちゃうってことですね。
自分がまだ公開したり打ち上げたりしたくないと思ってるのに、
勝手に友達とかに言われちゃう、勝手に先生とかに言われちゃうっていうのが、
これがアウティングですね。
これは余計傷ついてしまい、裏切られた感じもしてしまい、
余計悪くなります。精神的にも良くないし。
でもこれって紙一重で、
カミングアウトしてなくても友達とか周りの人が理解してくれてるパターンっていうのはたくさんあるんですよね。
そういう場ではわざわざカミングアウトする必要ないんじゃないかとかって思いますし、
あえてすることによって自分が一歩前進むみたいなね、
そういう意味合いもあると思うんですけど、
カミングアウトしてなくても周りの子が知ってるっていう場合は、
そこのところを気を使ったり配慮したり、さりげなく守ってくれたり、
全く逆に気にしないで普通に接してくれたり、
あとその信頼関係ができていれば、
その人の個性として喫音をね、個性として、
その人の個人として全部受け入れてくれたり、
すごい素敵だなって思えるような関係になるわけです。
そういう関係なんだったら、その信頼してる友達が、
この子ね、実はこういうところがあってね、喫音があってね、みたいなのを、
新しい友達に伝えてくれるみたいな、
そういうのも全然喫音の本人が納得できるかもしれないですよね。
それはちょっとアウティングとは違うと思うんですよね。
だからそれやっぱり関係によってくるんですからね。
アウティングの経験と信頼関係の重要性
これアウティングじゃね?って思ったことがあるんですけど、僕実体験で。
これ大人になってから先生になってから、
最初の挨拶で結構どもっちゃった自己紹介で、
その時に多くの若い人とか中堅とかの人は、
こう指してくれて普通に接してくれるんですけど、
なんかね、退職校長がね、
もうその当時10年ぐらい前、15年ぐらい前かな、
とかにもう60を超えてて、
退職した後に新人の教育をするとかで、
まあ天下りですよね。
天下りじゃんって思うんですけど、
また採用されるわけなんですよ。
再任用とかっつって。
その元校長がね、そこに話しかけてきて、
田中さんはどもりなんかとかって結構でかい声で言った。
でかい声じゃなかったかもしれないんですけど、
僕にはでかくもちろん聞こえたわけですよ。
こいつと思って。
どもりっていう言い方もちょっと差別的だったし、
結構でかい声で周りに言ってるし、
いやいやいや、これアウティングじゃんって今思うと思うんですよね。
だからね、教育者の中でもそういうやつはいるんですよ。
このジジイもう信用しねえと思いましたけど、
そもそも初対面っていうかね、初めて会ったぐらいで、
そんなことを言ってくるような人がね、いますよね。
でその場合、周りの人に言ってるわけじゃないけど、
声がでかかったり人に聞かれる状態で言ったりすると、
いやこれアウティングじゃんって。
ちょっと今思うと思うんですけど、
あんまり思い出してもムカついてきちゃうんで。
そういう状況にね、出くわしたことがあります。
アウティングかどうかっていうのも、
相手と信頼しあってて、
でポロッと信頼してる相手が、
第三者に実はちょっとこういうところがあるんですよとか、
で言って、あごめんこれ言っちゃまずかったよねとか後で言って、
いや全然いいよむしろありがとねみたいな感じなんだったら、
それは素晴らしいことだと思うし。
この辺はね結構繊細な問題だなぁと思うんですよね。
そうであとさっき最初に言った、
ノートとかSNSが今はあるから、
そこで発信するっていうことは、
カミングアウトともちょっと違うと思うし、
発信することによって本人が救われる部分もあるし、
見た人が救われるかもしれないしっていうので、
こういろいろなんかね、
喫音だっていうことを言うっていう、
これ多分喫音に限らないでしょうね。
さっきも言ったしその他のコンプレックスの話も多分そうなってくるんですけど、
言うってことを表現するっていうこと、
伝えるっていうこと、
自己開示というか、
っていうのはすごく深く考えられる繊細なことなんだなと思います。
そんなことをノートの記事から昔のこととかも思い出して考えました。
心の病気、適応障害の理解の難しさ
そういう話ですね。
はい。
もう一つは心の病気の話なんですよね。
これも自分が感じたことなんですけど、
ここ1,2年ですよね。
心の病気っぽいというか、
でもそうなのかな?心の病気なのかな?にもなって、
結構思ったことがあったんですよ。
それ思ったのはね、
心の病気ってやっぱり、
本当に自分がなっても、
本当には理解できないなっていうか、
そういうのを思ったんですよね。
かかってもまだ分かってないみたいな、
自分の状態が。
で、それどういうことかっていうと、
僕がなったのは適応障害で、
適応障害とは違うけど鬱の症状もありますね、
とお医者さんに言われたんですよね。
全然軽いほうだと思うんですよ。
でも一時期薬は、
飲んでいい量マックスを飲んでたかな?
それはなかなか抜けなかったからなんですけどね。
風邪とか怪我みたく、
ある日突然治るとか、
かさぶたができて治りますとか、
この日からはもう仕事行って平気ですよとか、
っていう境目がないんですよ、全然。
なので本当に不思議で、
僕は昭和の時代とか平成の初期を生きてきて、
スパルタな指導とかも受けているし、
体育会見も経験しているので、
精神論というか、
気持ちがあればできるでしょっていうのが、
根強く自分の中に残っちゃったのかなって思いますよね。
だから朝起きて、
本当にひどいと仕事に行けないとか、
お風呂に入れないとか、
動けないとか起き上がれないとかね。
適応障害ってなっちゃうんですけど、
僕はそこまでじゃなかったから、
余計そう思うのかな。
気持ちがあるんだったら動けるだろうっていうのを、
多分自分で自分に思ってるんですよね。
でもね、気持ちがあるのに動けないっていうのが、
すごい不思議だったんですよね。
よくすごい疲れて家帰ってきて、
もう眠いみたいな、
お風呂入れないみたいな時ってあると思うんですよ。
その時に、仮にお風呂入れなかったとして、
気持ちが足りなかったからお風呂に入れなかったのか、
疲れが尋常じゃなかったからお風呂に入れなかったのか、
そこにグラデーションで多分差がバーッとあると思うんですよね。
昔の自分とかだと、
気持ちを振り立たせてじゃないけど、
お風呂に入るみたいな。
めんどくさいけど、これだけはやるぞみたいな。
意識でというか、気持ちで。
やっぱりできるんだって思っちゃうんですけど、
どんなに体が疲れていても。
話ずれますけど、
バンプ・オブ・チキンの歌とかで、歌詞とかで言われてるけど、
昔の少年漫画の主人公みたいな風にずっとやってきたけど、
でも完全にはできなかったな、
あれは漫画の世界だなとか。
だから、ラッド・ウィンプスとかの歌詞とかでも、
そんなニュアンスの表現があったりしますけど、
昔ってやっぱり、
気持ちが爆発して、
なんか主人公が強くなったり、
何か乗り越えたり、
できるんだっていう。
そういうエンタメも多かったし、
そういうことが言われてたので、
やっぱり僕もそれが染み付いてるんだなと思って、
気持ちがあんなら風呂入れんだろみたいな。
で、その適応障害っていう、
なってない時に話を聞いて、
いやいやいや、
いや、お風呂も入らないほど、
飯も食いたくなくなるほどみたいな。
思ったんですけど、
自分がちょっとなったらやっぱりわかったんですよね。
あ、こういうことかみたいな。
でもわからないんですよ。
自分がそういう状態になってて、
あ、もう動けないわみたいな。
休日に、
もう今日は仕事行かなくていいのに、
なんか動けない時が2時間か3時間くらいあって、
もう何もしたくなくて座ってるだけみたいな。
好きなことをするにも、
ゲームとか音楽とかも聞いたりしたくなかったし、
でもなんかしたいんですけど、
したいと頭では気持ちで思っている、
このまま無駄に過ごしたくないと思っている、
なんかした方がきっと心にもいいんだろうなと思っている、
でも動けないっていうのを、
すごいね、不思議だなと思いました。
あとはね、
適応障害と自身の葛藤、他者への理解の限界
去年の明けは本当に仕事がしんどかったんですけど、
担任で持ってた子たちもいて、
自分が学年主任でついてきてくれる若い、
他のクラスの先生もいたので、
これはもう一人でもやってやると、
誰も助けてくれなくても、
みんな口だけでも、
一人でなんとか3月まではやってやると、
戦ってやるぞと、
気持ちでなんとかしてやると思って、
でたら、2月くらいからおかしくなり始めて、
体調に出始めて、
そういう症状がありながらも、
それでもやっぱり3月の終わりまでは、
病気やりながらやったんですよ、仕事も。
そこから病気休暇に入ったっていう感じなんですけど、
他の病気で言うと熱が出てるけど、
仕事を続けたみたいな感じかな、
そんな状態でやってたんですけど、
その時持ってたのが5年生だったんですね。
で、結構育てたぞっていう実感があったんですよ。
周りはなんも言ってくんないけどね。
全然こっちが仕事を見てくんないけどね、みたいな。
だから、もう1年ね。
唯一の保護者の人とかにも、
もう1年持ってほしいですとかって言われてたんですよね。
そういうところが嬉しかったんですよね。
よし、そこまで言ってくれる人が1人でもいるんだったら、
俺はやりたいと。
本当に毎日学校行きたくないと思ってるし、
仕事もしたくないと思ってるし、
で、症状が出て動けなくなっちゃうし、
そもそもなんもしたくないって思ってるんですよ。
一時期はこんな生活が続くんだったら、
もう生きててもしょうがないなって、
生まれて初めてちょっと思ったんですよ。
そんな頭の中なんだけど、
そうやって言ってくれる人がいるんだったら、
もう1年できることなら、
やってあげたいなって思ってるんですよ。
でもできないじゃないですか、そんな状態じゃ。
これどういう状態?って思いましたね。
ここが言えないんですよ。
だからここが自分でも分かってない部分なんですけど、
めちゃくちゃ何か振り絞れば、
まだゲームしたりできそうなんですよ。
これ多分本当にもっと心の病気が進行しちゃうと、
そこも思えなくなるんでしょうね。
やりたいけどできないもなくなるんでしょうね。
もう最後多分できないしかなくなっちゃうんだと思うんですけど、
それすら思わないのかな。
でね、やっぱりそういうのが自分でも分からないから、
やっぱり他人にも分かってもらってないなっていう実感はすごいあって、
まあこういう心の病気に縁がない人もいますよね、考え方とかで。
だから要は仕事っていうか、
気持ちで頑張れるじゃんみたいな。
気持ちがあればやれるじゃんっていうのを昔から思っていて、
それを実行しちゃってる人たち。
教師生活40年とか言ってるような人たちかな。
校長とか管理職とかその世代に当たるんですよ。
熱が出たって子供のために来るんだみたいな。
そういう人たちね。
なんか1回教徒もそういう人なんですけど、
熱出してて、ほら見ろと。
自分がなってんじゃねえかとって思ったんですけど、
やっぱりちょっとかわいそうだったから、
大丈夫ですかって来た日に言ったら、
全然問題ないみたいな。
すごい強気でっていうか、
こんなのなんでもないんだよみたいなことを言ったんですよね。
ああそういう思考なんだな。
多分その来た日もね、完全に治ってないんですよ。
結構良くなってはいたけど、
全然万全じゃないんですよ。
こっちから見てもね。
でもそうやってこのぐらい平気だみたいなのを言うし、
校長とかもね、体調崩してたっぽいんですけど、
でもそれを見せずにやるのが責任だみたいに思ってるのかな。
思ってるんでしょうね。
話ちょっと逸れますけど、
精神論者とのギャップと診断書の効果
昔の学校の先生って、
これ先輩の先生だから言ってたんですけど、
その先輩の先生も仕事ばっかりする会議的な考え方の持ち主の人ですけど、
あの人たちね、全然風邪とかひかないんだよ。
学校っていう病原菌とか雑菌がすごい待ってるようなところの中にずっといるから、
免疫がすごいついてるんだと。
全然あいつらは体調崩さないからみたいなことを言って、
事実その年はみんながバタバタ病気になって、
病気っていうのは普通の体の病気ですよ。
になって休んでるのに、
全然体調崩してる様子がなくて、
楽しそうにいいかな、その時はね。
まだやってて。
でなんか先生たちが、先生たちの休みが多いから、
体調管理も仕事の一部ですよ、みたいなことを言ってちょっと怒ってるんですよ。
なんなのこいつらって思って。
でもそれって多分そうなんですよね。
そういう風に、自分も健康な方だし、
病気になっても気持ちでなんとかなるって思ってるし、
っていう人たちなんですよ。
そういう人たちもいるんです。
そういう人たちにはね、やっぱりわかってもらえないし、
自分もそういう考え方わかるから、
気持ちで動けるじゃん、みたいな。
わかっちゃうし、そうしてきたし、
それで乗り越えてきたところもたくさんあるから、
わかっちゃうんですよね。
校長とかもね、
自分のペースを掴んでいこうねとか、
頑張ろうねとか言ってくるんですよ。
多分早く治そうねって言いたいんですよね。
早く治してまた担任ができるように、
自分にとって使えるコマになってねって言いたいんでしょうけど、
それが透けて見えるんですけど、
でもね、頑張ろうねって言うんですよ。
いや、頑張って治るもんじゃないんだよなって。
あ、わかんねえんだ、この人にはっていう。
だからね、病院の先生に診断書書いてもらって提出すると、
手のひらを返すようにすごい扱いが丁寧になったんですよ、僕への。
やっとわかってくれたのかな。
だからもっと前からね、病気になる前から、
もうちょっとしんどいですとか悪いですと言ってたんですよ、ずっと。
でも全然聞いてくれなかった。
それが診断書1枚でコロッと変わるわけですね。
急に休んでみたいな。
そこでちょっとわかったのかなと思ったらね、
でもやっぱり全然わかってなくて。
当事者になっても理解できない心の仕組み
復帰したからもう治ってるんでしょうとは言わないけど、
多分そうやって思ってるんですよね。
別にその人たちを批判してるんじゃなくて、
わかってくれない人を批判してるんじゃなくて、
わかんねえな、この野郎とは思うんですけど。
でも自分もわかってないよなって思うんですよね。
心と体のこととか、
人がどういう原動力、原動力っていうかどういう状態で
日々動いているのか、
行動を好きなことも好きじゃないことも、
頑張りたいことも頑張りたくないことも、
普段どういうテンションというかね、
どういう仕組みで動いているのかっていうのが、
すごい不思議になりましたね。
自分も経験してみてちょっとした心の病気を。
僕も教育者から見たら、きっと自分と同じような傾向が
子供とかが持ってたりして、
それを情報不足で自分がちゃんとわかってなかったら、
やっぱ頑張れよって言っちゃいそうで、それが怖い。
結局自分がなっても、
ちょっと似た教育とか同じ教育の人に対して、
自分が言われたくない言葉を言っちゃいそうで、
怖いなって思いました。
そういう心の病気ってわかんないなっていう、
心と体の動きっていうか、
一応医学的にはあるし、最近言われてることもいっぱいあるけどね、
わかんねえなっていう、そういうことを思ったっていう話ですね。
ということでね、喫煙のことにしても、
適応障害という心の病気とかのことにしても、
自分が当事者になっても考えていくとわかんないな、
自分が当事者になったら人のことを理解できるのかって言われると、
昔は俺は喫煙なんだから、喫煙の子供の気持ちがわかるんだって思ってたけど、
そうじゃない気がしてきた。
そういう話かな、今日は。
なんかすごく思っちゃったんですよ。
でもできるだけね、わかってあげたいっていう気持ちはありますけどね。
だから本当に難しいなって思います。
その人のことをわかるっていうのは。
例えば同じ病気とかでも、完全に同じとかじゃないと思うんですよ。
っていうことは少ないと思うので。
だから本当に境遇が近くないと本当には理解できないのかな。
でもそうじゃなくたってやっぱり理解していかなきゃいけないなっていう。
でもそれってすごい難しいことなんだなっていう。
結局人間自分中心なんでね。
自分がなってもわからない。
だから人のことなんかわかるわけないのか。
そういうことですね。
自分がなったって自分が体験したって本当にはわかんないんだから、
自分じゃない人のことなんかわかるわけないんだよっていうスタンスでいればいいのか。
そういう前提で人と接するのがいいのかなっていうまとめですかね。
ということで今回はここで終わりたいと思います。
もしお付き合いしてくれた方いたら本当にありがとうございます。
では終わりです。
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