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#447 敵か味方か?メルロ・ポンティにおける「他者」という存在
2026-08-09 46:21

#447 敵か味方か?メルロ・ポンティにおける「他者」という存在

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00:11
はい、それ哲ラジオ。今日も始めていきたいと思います。 よろしくお願いします。
よろしくお願いします。 はい、メルロ・ポンティ第5回ということでやっていきたいと思います。
はい、前回はですね、いわゆる体って話をしましたよね。
それまでは、メルロ・ポンティの原初学長が知覚するとか、その物事をどう感じ取るかっていうふうな話から、
感じ取る、主体っていう言葉、主体がもうなんか主観と客観を分けるから、この場では使いにくい言葉なんだけど、
やっぱり体っていうものがある種、媒介?繋がりを持って、世界の中にも存在してますねと。
なので、前回デカルトの話もしたけれども、精神っていうものが体っていう物質を乗り物にしてるとかじゃなくて、
体っていうのはもう既に世界と繋がっていて存在するんだみたいな、そういう世界観というか、
メルロ・ポンティの話をさせていただいたかなと思うんですよね。 だからそもそも精神と体二つに分けてるっていうのを忘れましょうねっていうところだもんね、まずね。
それが疑似問題だみたいな話もしたと思うんですけど。
でね、あとバレンキが一番ピンときたのが原始、腕がないのに腕があるような気がするとかさ、痛みがあるような気がするっていうところが、
エフェクトそれはまさに精神と体っていう、逃げるのだとやっぱり説明できないよっていうふうな、そういうこともしたかなと思うんですけれども、
今回ですね、そこから一歩進んで、他者、他人って話をしたいんですよね。
で、これなんで一歩進むかっていうと、これまで自分がどう世界と関わるかとかさ、自分の体がどうかって話をしてきたじゃないですか。
なので、いわゆる自分って話を今回のメルロ・ポンティもだし、前回のフロイトとかもね、心とか自我とか無意識かっていう自分の話をしたんですけれども、
やっぱり自分っていうのが見えてくると、人って次にやっぱり他者っていう存在を意識しだすもんなんですってあれなんだけれども。
まあ必要なとこなのかな。前回も言ったけど、サルトルでもそういう順番でなんかやった気がするよね。
そうそうそう、まさに去年サルトルの話もちょっとするんだけれども、ある意味これはすごくわかりやすいのが、要はエゴだよね。
自分、自己とか自我とかそういうものから出発すると、そこから世界を作っていきますねと。
03:06
で、やっぱり世の中との関わりとかっていうことを考えるときに、物と自分っていう話と、やっぱりちょっと違うその他者と自分。
要はその相手も、相手っていうかどうやら相手も私と同じ人間っていうのも概念だから、そこまでだいぶ概念獲得してるんだけど、
っていうような存在らしいとか。近いんだけれども、でもその自分というものは今言って理解できたけど、この目の前の相手、
自分と同じように見える存在というのは何かっていうことの分析は、これまでのところ全くできないわけですよね。ネイロポンティの今までの話だけで言うと。
まあ、そうね。
当然その人が集まって、社会とか国とかができていくってなっていくとしたときに、もちろん段階は別に一個一個踏む必要はないんだけれども、
やっぱり自分と世界っていうものが間にいる他者っていう、これはやっぱりめちゃめちゃ大きな問題になるんですよ。
なるほど。だから絶対、前回の話で言うと、まず世界があって、それを捉えるっていうこととは違うんだっていう話だったと思うんだけど。
そうだね。
そういう百手の世界があるっていうわけじゃないっていう世界観になったときにも、体っていうもので世界と繋がり始めたときにも、
やっぱりチラチラと他の人間が入ってきちゃうから、それについて分かったりとか説明しとかないと、
基本、避けるとは通れないというか、問題にしてるんじゃなくて、やっぱり他人っていうのは、ある意味他の自然、これもどう国というかわからないけど、自然とか動物とか生き物とかさ、
いろいろあると思うけど、やっぱりその中でも大きな存在として出てきちゃうから、そりゃ考えないとね、みたいな感じなのかな。
そうだね。そこに関しては、サルトルまさに今日少しだけ持ってきてるので、サルトルの話を踏まえた上でちょっとメロポンっていう話をできればと思っているんだけれども、
じゃあ早速いくんですけど、サルトルね、これもだいぶ前にやったので、ほとんど覚えてないんじゃないか、僕もあんまり覚えてないみたいな感じもあるんですけど、
言葉として即時存在とか退治存在とかさ、やったのって何か覚えてます?
06:02
言葉は聞いたなーっていうだけだね、内容忘れちゃった。
細かい内容は例によってまたサルトルかよかったら聞いてくださいって今回はしてしまうんだけれども、
すっごいざっくり言うと、いわゆるサルトルは意識とか精神みたいなものと物質みたいなものを分けて考え方なんですよね。
あ、そうなんだ。
分けた時の物質的なものを即時存在、即時っていう、自らそのままであるものっていうふうな話で、
もう一方の意識とかっていうのは、人間存在っていうのを退治存在っていうようなもので表現しました。
要は自分だけだと自分がまさに退治存在意識で、他のものは全部物質の即時存在だっていうふうに切り分けられるんですよね。
なのでこれはこれでもうすごくいいんだけれども、そういうことマインクラフトの話時々すると思うんですけど、
自分だけがプレイヤーで、他のものは全部自分が自由に使えるものであればトペに問題ないんですよね。
そこにマインクラフトをオンラインに繋いで他のプレイヤーが来ましたと。
そうすると一気に世界が混乱するんですよ。
たぶんお子さんとかいる方イメージ良くて思うんですけど、一生懸命作ってた建物が他のプレイヤーに壊されたとか、
本当はあっちに冒険に行きたいのにこっちに行かなきゃいけなくなったとか、いろんなことが起きるわけなんだよね。
現実世界もまさにそうで、自分だけであればその退治存在自分だけで良かったのに、
その相手、他の存在がいるとその退治存在が二人ではなく、
相手にとって自分がある種物質化されるというか、対象化されてしまって即時存在にある種落としめられるみたいな、
そういうふうなことが起きるんだっていう話をしてるんですよね。
うんうん、そうだね。
たぶん当時のまなざしみたいな話をちょっと思うんですけれども、
相手も自分もお互いに、互いを物質化するというか対象化して、
意識っていうものから物質の世界に引きずり落とすんだみたいな、
結構そういうふうな闘争状態みたいなものをサルトルは考えるんですよね。
はいはい、なるほどね。
こっちの方が、今の話でいうと即何存在?
09:03
えっと、退治存在かな。意識の方は退治存在。
退治存在か。より退治存在の方はどっちだみたいな。
相手は即時だよね。即時存在落とした方が勝ちみたいな。
有利にゲームが進められるみたいになっちゃうってことね。
そうそうそうそう。っていうことが、マインクラフトというゲームだけじゃなくても、
現実世界でもむしろそういうふうな成り立ちなんだみたいな。
結構サルトルに言わせると他者っていうのは、実際こういう言葉も使ってるらしいんだけれども、
地獄は他者であるみたいな。自分っていう自由な意識に基づいて動ける存在を不自由にするって意味で、
他者と出会うってことは地獄みたいなことなんだみたいな。
結構そういう厳しいこと言ってるんですよね。
なるほど。だいぶ厳しいね、確かに。
だいぶ厳しい。そうそうそう。っていう感じなんだけれども、
メルロポンティはそこまでは言わないっていうか、むしろもうちょっと、
いやいや、他者ってそんな厳しいもんじゃないよっていうふうな感覚なんですよ。
ただそれを言うときに、じゃあどういうふうな話を、
前回までしてきたような知覚とか、体ってどこからしてくるのかっていうのは今日の話なんだけれども、
メルロポンティが考えたいのってさ、やっぱりずっと言っている意識と物質を分けるとか、
そもそも百点の世界があって、どっちかが主人公でどっちかが脇役だみたいな、
そういう優劣をつけるということをやっぱりやめたいわけなんですよね。
そうなったときに、やっぱりメルロポンティが考える他者っていうのは、
いやいや、そんなお互いに貶めるものなんじゃなくて、
ちゃんとお互いに共感し合えるとか、ちゃんと繋がっていて、
一緒に世界を作っていけるようにみたいな、やっぱりそういうふうな世界観を語っていきたいですよと。
いうふうな、どっちが先かわかんないよ。
分析を進めた結果、そういう決断があったのかもしれないし、
もともとそういう価値観とか世界観があったのかっていうのが、ちょっと今しかわかってないんだけれども、
当たり口的にはそういうふうなことを言おうとしていくんだよね。
そうなんだね。もうちょっと希望がある感じで言ってるのに。
そうそうそう。ちょっと人に、哲学者によってはそれがちょっと楽観的すぎるというか、
あんな人って簡単にわからないよみたいな話も言う人もいるみたいなんだけれども、
でもサルトルに比べるとだいぶ、いや人間っていうのはもともと繋がっていてねみたいな話をしますと。
このもともと繋がっているっていう土台にあるのが、実は体っていうものなんですっていうふうな、そういう話をするんですよね。
これどういうことかっていうと、例えばね、これちょっとこの後少し具体な話をしていくんだけれども、
12:02
僕らが普段思っている、体を通じてお互いを理解しますみたいなこととかっていうことをちょっとイメージしてほしいんだけれども、
おそらくそうすると、例えばじゃあ姉貴がさ、手を挙げてさって、僕と性違いの時にさって挙げたとすると、
あ、これは多分挨拶をしたいんだなとかさ、あるいは、なんだろうわかんないけど、手の形によってはこっちに来るなって言ってるのかなとかさ、
それジェスチャーってあったりするじゃない?
あー、はいはいはい、あるね。
っていうふうに、ジェスチャーを読み取って、こっちが意味を理解して、それを解釈するみたいな、そういうふうな発想が多いと思うんですよ。
あー、多いね、はいはいはい。
うん、多い。これはここから否定していくんだけれども、
やっぱりこれってでも、ある種、相手のメッセージというものを自分が知覚して、それを脳で処理して理解するっていう、やっぱりこう、なんだろうな、外部からの情報を受け取って処理するっていう図式の話なんですよね。
あー、そうだね。
だからこの僕らがイメージしやすい、体を通じて相手を理解するっていうのは、やっぱり主観、客観が分かれているとか、精神と体が分かれているとかっていうふうなモデルの話ですと。
あー、そうなんだ、ほうほうほう、確かに。
ね、なんでこれを捨て去りたいんだけれども、毎回のごとくこれって難しいんだよね。
ほうほうほうほう。
そう、なのでメロポンティンをちょっと例みたいなものを挙げていくんですけれども、これをね、これっていうのが、人間っていうのは体っていうものを通じて、そもそも繋がっているんだっていうことをある種伝えたいわけよ。
あー、あの、ジェスチャーでの意思疎通とは違う意味でっていう話ね。
そうそうそう。
どうなんだ、これ。
今言った話はあくまでも僕らが持っている常識の話だから、それを超える話をしたいんだよね。
はいはいはい。
そう、っていう時に、メロポンティンは赤ちゃんの発達主役に注目するんですよ。
ほうほうほう。
つまり、赤ん坊がどうやって成長するかとか、他者を理解するかとかっていうのは色んな研究があるんだけれども、当時も結構それが盛んだったみたいなんだよね。
ほうほうほう。
という時に、どんな事象を取り上げるかというと、1歳くらいかな、赤ちゃんらしいんだけれども、大人がね、もしそのくらいのお子さんがいたらやってみてほしいなって思うんだけど、大人が赤ちゃんの指をね、指を持って口に含んで噛む真似をしますと。
大人が赤ちゃんの指を噛む真似。
15:02
そうそうそう。
噛むのよってすると、赤ちゃんの方が口を大きく開けるんだって。
へー。
大人がアーンって噛もうとすると、赤ちゃんも口を開けるってことが起きるらしいんですよ。
ほうほうほう。
で、まあまあありそうなことじゃん。大人の開けてるの見て真似してんのかなみたいな。
そうね。
って思うんだけれども、実はこれって驚くべきことなんだみたいな話を迷路ポンティは言っていて、何でかっていうと、おそらく赤ちゃんって別に自分の顔の構造とか、大人の口と同じものを自分が持っていて、その口をこういう風に動かすと同じ動作ができるみたいな、そんな複雑なことは考えられないはずなんだよね。
あー、確かにそうだね。そんなに日常的に鏡見せてるわけじゃないだろうから。
うんうん。
そうだね。その大人が口開けた時に、口開けてるから自分の口も同じ形にしようと思って同じように口を開けてる赤ちゃんは、その一周目、人生一周目だったらいなさそうだねっていう感じだね。
そうね。シャーマンキングのハオみたいに何周目もしてるような人だったらやれるかもしれないんだけれども。
確かにね。ここで親が口開けたから自分も口開けないと怪しまれると思って口を開けてる赤ちゃん以外は、普通に開けてるはずだね。
そうそうそうそう。ってのがあったりするときに。なのでこの相手の動きは真似をするとか、相手の動きで自分の動きを制御するみたいなさっきのジェスチャーを見てさ、自分理解するとかって実はめちゃめちゃ高度っていうか、やっぱり普通では難しいことをやってますと。
なるほど。そうだよね。すれ違ったときに相手が手を挙げたのでこっちも手を挙げるっていうのと、今の赤ちゃんの例は全然違うことが起こってるんだね。
そうそうそうそう。って話したんだよね。だったときにこの赤ちゃんにとって口を開けるっていうのは、やっぱりそういう複雑なことを知らなくてもできることだよねと。
そういう振る舞いだよねとしたときに、これが何でかってことはちょっとわからないというか、現代ではあるのかもしれないけれども、メロポンティがこれから考えたのは、今言った通りその同じ動きを真似をするっていうのが何かそうめちゃめちゃ知的な高度なプロセスを経ているんじゃなくて、
単純にこのお互い持ってる赤ちゃんと大人っていうのはそれぞれ持ってる体っていう場というか、そういうものがつながっている生きるスタイルみたいなものがあって、
18:08
それを人間っていうものはベース共有をしているから、この相手が口を開くとか何か動かしたっていうときに、自分もそれができるっていうのはむしろごく当たり前のことなんだ。
要は体っていうものがつながっているから、そういうお互いの行動を真似をするとか、相手の行動を見て自分も動かすっていうことが自然にできるんだっていうふうな、そういうふうなことを考えるんですよね。
だからこれに関しては、あれだ、タブララサじゃないってことね。
そうね、白紙ね、そうそう。
無理やり過去の言葉を使って。
哲学の言葉を使ったけれども、覚えていくっていうよりは、もともと生まれたときから備わってるってことが今の話でわかるよねっていうのをメルロポンティは感じたというか思ったんだね。
だからそれが体っていう場で表現されてるよねと。
やっぱり哲学というか、私とか自己から始まる哲学だと、まず自分を作り上げて、その自分が他者を理解するっていうふうにするから、そもそもつながっているとか、意識より前の段階でお互いが同じシステムで動いてるとかっていう発想はないわけなんだよね。
そうだよね、サルトルの時は結構そこでつまづいたというか、そういう人がお互いいるとバグる感覚になったけれども。
そうそうそう。
これもメルロポンティ的に言うと議事問題みたいな感じで、そもそも人間っていうものは体っていう構造、もしかしたら動物も一体あるかもしれないけれども、
それでつながっている、動物と人間の体はやっぱり違うから違うシステムだってことも言えるんだけど、そういうふうなものがあるからそういったリテラルな行動とか相手を真似するとかができるんだという話をする。
だからある種、僕らっていうのはやっぱり人と人もつながっている。
その精神と肉体が分けられないように、自分と他者っていうものを分けられないんだっていうふうな話から考えていくんですよね。
おー、はいはいはい。面白いね。
ていうかちょっと東洋のニューもしてくるかなと思うんだけれども、分けられませんみたいな。
とはいえさ、僕らが普段生きている時には言ってもそれぞれ別の人間だしさ、体でつながっているとかって言われても正直わかんないと思うんですよ。
そうだね、つながっているって言われるとちょっと違和感はあるよね。
もともとそういうふうにできているとかなら、まだ下って感じかな。
21:04
これがね、すごく難しいというか、メロポンティはたぶん苦労したことだと思うんだけれども、もちろんすべての人間はつながっていて、一つの生命なんですとかもちろん言わないわけよ。
そういう発想があってもいいと思うんだけれども。
でもメロポンティが言っているのは、そのベースになる世界との関わり方っていうのはつながってますねと。
それぞれの生き方とか、生きる世界との関わり方っていうのは当然違っているから、その部分で違いがあるんだっていう、2階建てみたいな構造にしたんだよね。
それを表すちょっと面白いなと思った言葉があるんだけれども、それが生きられる毒ガロンっていう言葉なんですよ。
生きられる毒ガロン。
毒ガロンっていうのはすごい一言に言うと、世界には自分しか存在しませんと。
他人とかっていうのは全部自分が作り上げたものなので、究極自分がその存在を抹消しようとしたら抹消できますねみたいな、そんなふうな発想があるんですよね。
そうなんだ。
そういうときに、いわゆる一つの主体とか私っていうような世界をすべて作り上げてるっていう話なんだけれども、ここにメロポンティは生きられるって言葉をつけるんですよ。
これどういうことかっていうと、僕らはさっきこれまで言った通り、ずいぶん繋がってるんですと。
身体、体っていうものを通じてね。
でも、生きてる実体としてはそれぞれバラバラに見えるし、本当の意味で共感したりとか相手のことを理解することはやっぱり難しいよねっていうふうな、こういうふうなバランスをとっていくんだよね。
例として挙げられてるというか、わかりやすいかなと思うのが、やっぱり感情なんだけれども、これは喜びでも悲しみでもいいんだけれども、
例えば喜びで言うと、悲しみの方が強くてわかりやすいからそれで言うんだけど、
例えば親御さんがいて子供を亡くしてしまいましたと言うときに、やっぱり親御さんが悲しんでるっていうこととか、
泣き崩れてる姿とかを見て、やっぱりすごく自分も苦しくなるっていうことがわかるじゃないですか。
やっぱりそれは身体表現として泣くとか崩れるとか、そういったところも含めて自分も悲しかったらそうするだろうっていうふうな、そういう共感っていうものが起きるわけなんだよね。
24:00
ちなみに、これ迷路ポイントで言ってるわけじゃないんだけれども、その姿を見て頭で、この母親とかお父さんが泣いてるから悲しんでいるっていう知的な理解をするとしたら、
それはちょっとあまりにも共感力がないよねみたいな、多分そういう話になってきます。
おー、そうなのね。はいはいはい。
ただその共感というかそれを感じられるとは言っても、当たり前な話だけれども、本当にその父親なり母親なりが感じている悲しみとか、やりきれなさとか、そういうものを実感することはやっぱりできないじゃないですか。
そうだね、おそらくだけど迷路ポイント的な話で言うと、それについては自分は身体的に経験してないからとも言えるよね。
そうだね、経験もしてないし、仮に自分も子供を亡くした経験があるとしても、
でもやっぱりそこに対するまさに知覚だよね、伝染界とかに物事を感じるっていう受け取り方の話をしたと思うんだけれども、
それも要は外から中じゃなかったじゃないですか、外と内側が響き合って生まれてくるものとしたときに、
同じ子供を失ったっていう実証だとしても、そこと響き合って生まれてくるものって絶対に違うはずなんだよね。
まあ違うし、子供を失ったっていう時点で相当抽象化されてるからね、そもそも。
子が何歳かとか、どういう姿勢だったのかとか、どんな子だったのかとか、いろんなことがあったときに、
その文脈全部をもちろん引き受けることなんてやっぱりできないわけなんだよね。
すると、僕らはその体っていうものを通じて、その悲しみとかっていうものをお互いに感じることはできるけれども、
そのベースがあることと、今言った子供が亡くなったってことに対して、
その瞬間に湧き上がってくる悲しみがどんなものであるのかっていうことはやっぱり別なんですよ。
なので、あくまでも僕らは、あるいは観の速さという人間は、この観の速さを感じたことでしか生きていけないんだけれども、
でもそのベースには同じようなことを感じ得るとか、それを伝え得るその身体性を伴った存在としての他者がいるんだっていう。
こういうふうなことを指して生きられる独我論とか、一人、自分のことしかわかんないんだけど、でもその中でもちゃんと生きていけないっていうふうな、
そういうことを他者とともに生きていけないっていうことを迷路ポンティは考えるんですよね。
27:06
独我論っていうのは、そもそも他の哲学者とか誰かが提唱してたものなんだね。
よくあるというか、それこそデカルトとかも悪いと思うみたいな話をしていくと、そのエゴが中心になるし、
やっぱり他者っていうものは自分の認識する限りにおいて存在するみたいな。
そういうところは結構あるかな。
そういう意味では、生きられる独我論っていう、独我論って言葉を使ってるっていうことは、
やっぱり迷路ポンティは現象学というか、自分が世界を作っていくじゃないけれども、
との関わりで理解していくというか、感じていくっていうところから言うと、
やっぱり独我論的な世界観にならざるを得ないんだけれども、
その中でも一人で閉じてるんじゃなくて、今のようなベースにいたような人たちがいる中で、
差異があるけれども、その人たちと関わるというか、ぶつかりながらというか、
ぶつかるというのは、存在を感じながら生きていってるんだよねっていうイメージなのかな。
そうだね。そのベースには身体、身体っていうものとか、やっぱり知覚っていう人間の働きがあって、
ただ単純に人と人は分かり合えるとか共感できるじゃなくて、
そのベースっていうものがそもそも人間の存在の仕方とか、
生きてる在り方って根付いてるんだみたいな、そういうことを語ったよっていう感じなんだよね。
なるほど、なるほど。ちょっと分かってきたというか、サルトルとの違いというかね、
他人と戦っていく感じみたいなのは確かに弱い気がするね。ちゃんと共感とか、そういう感じがするね。
そうだね、そうだね。あえて独我論っていう使い方もあると思うんだけれども、
独我論みたいな話って、要は独、一人我のみみたいなのみっていうかね、一人我がいる論っていう感じなんだけれども、
これはやっぱり他者っていうものを切り捨てるか、やっぱり自分の道具にするかって、
やっぱり結構そういう緊張関係っていうものをむしろなくして、単なる道具にするってやっぱり発想になりやすいんだよね。
そうしちゃうとやっぱり自分っていうものだけがまさに理工的になってくるよねとか、
私と繋がってその世の中を生きていくっていうふうな発想にやっぱり及びにくいので、
いわゆる真理を追求するものとして、私とは何かとか、生命とは何かっていう方にはいけるかもしれないんだけれども、
30:02
結局その自分でどう生きていくのよとか、そもそもそれを考えてる自分も朝ご飯食べて、
家族とか友達と生きてるでしょみたいな、そこになかなか行かないわけなんだよね。
それの考え方の怖いところは、主人公を変えると自分もそっち側になっちゃうっていう、まさにサルトのさ、
胎児と即児の話?
そうそうそう、っていうのがすぐ逆転するというかさ、自分もそっちにやっぱりなりかえないっていう恐怖も感じてそうだよね。
そうなんだよね。結局自分も道具でしかなかったとか、他者にとっては物体でしかなかったっていうふうになるのが、
サルトの地獄なわけじゃない?
これはやっぱり、世界を闘争的に、戦い的に見るとか、常にお互い削り合いを見て世界観につながるから、
やっぱりそれは良くない。良くないだけじゃなくて、哲学的とか思想的には間違いだっていう話はやっぱりメロ・ポンティはずっと言ってるわけですよね。
なるほど、ちょっと怖い世界観かも、確かに。
そうそうそう、そういうところがあるので、
ただね、やっぱりメロ・ポンティからしたら別にあなたと私はだから運命共同体ですとかさ、同じですって言ったわけではなくて、
むしろこのズレがあるからこそ、自分と他者の違いっていうものをちゃんと尊重できるよねとか、
自分にとって未知なものとして他者を大事にできるっていうふうな話もありますと。
逆に言うと、私とあなたは体っていうもので伝わってるとかって言ってしまうと、これも結局自分の拡張でしかなくなるんだよね。
自分の拡張、はいはいはい。
うん、つまり私とあなたは同じっていうことはさ、あなたってものを私に取り込んでるじゃん。
うんうんうん。
っていうのはある程度これもう僕が論の一個になっちゃうんだよ。
おー、なるほど。
つまり全ての他者は私であるって言った瞬間に、あれなんかこの世界私しか存在しないんだけどみたいな。
うんうんうん。
だからこれもやっぱりダメというか、メロ・ポンティ的にはやっぱりできないことなんだよね。
なるほど、うんうんうん。
なので、ベースは共通していて、体ってものをちゃんと使ってるんだけれども、その上に分かり合えないものがあるっていう。
この構造って言われたら当たり前っぽく聞こえるかもしれないんだけれども、
これまでお伝えしてきた、その心身二元論を超えていくとかさ、やっぱりその外の自称と内部ってものをちゃんと響き合わせて、意味というか世界ってものを作っていくっていうような発想から考えると、
確かにそういうふうな他者の捉え方とか、他者との繋がり方ってあるよねみたいなところがちょっとイメージ湧くんじゃないかなと思うんですよね。
33:04
おー、はいはいはい。
なるほどね。今のだとあれだな、攻殻機動隊の立ちコマが思い浮かんだね。
ほんと、まだ見てないんだよね。アマプラで見なきゃってさ、今週見ようかなと思ってるんだけどさ。
今年始まった原作の方じゃなくて、スタンドアローン・コンプレックス、昔からある方。
はいはい。
あれも確か最近無料で見れるようになったはずだから。
あれって確か何匹?5、6体いるんだけど全く同じ規格のロボットが、試行戦車、戦車が5、6台いて。
立ちコマってそんなにいっぱいいるの?浮いてる機械みたいなやつでしょ?
浮いてないですね。
浮いてないの?あれじゃあ僕の思ってると違うな。
フォーみたいな足があって先っちょにタイヤがついててウィーンって。浮く時はワイヤーでガシャーンってやってそこから飛んでますっていう。
マジでちょっと違うわ、僕の思ってる立ちコマじゃないわそれ。
みんなさ、機械だからみんな全く同じように作られてる5、6体。全く同じに作られて全く同じAIが乗っていると。
で、なんだけどやっぱその5体、ないし6体がちょっとずつする経験は違かったりとか。
同じ現場にいても多少やっぱり入ってくる情報とか行う行動は違うし。
なんならそのうち2体だけ一緒に行くぞって言われて別の現場に行ったりとかする?
はいはいはい。
みたいなことをやっているうちに、もちろん毎日というか定期的に全員の経験とかっていうものを同期してるから。
はいはいはい。
情報としては全員同じもの、同じ経験とか同じ情報を定期的にちゃんと共有してるから全部同じはずなのね。
なんだけれども、それぞれなぜかちょっとずつ個性が出てきちゃうみたいなことがあって、結構そういうのを思い出したね。
だからある意味人間よりもわかりやすい実験というかさ。
人間はそういう意味で言うと人種も違う、性別もある、身長体重も違うみたいなさ。
そもそもの構造という意味では同じだとしても、物理的には大きさとかいろいろ違うから。
あとセンサーも違うじゃん、目の良さとかさ、肌の良さみたいなのが違うから。
余計同じ経験をしてもそういう違いって出てくるんだろうな。
でも確かにベースとして同じような仕組みというか構造があった時に、確かに同じというか。
36:02
親が口を開けたら赤ちゃんも口を開けるみたいなさ。
そういうものは人間同士で確かに起こるっていうのは想像はできるかなとは思ったね。
そうだし、今の立ちコマの話は僕立ちコマ知らなかったわけだけれども、まさに迷路ポンティだなって思ったね。
そうなんだ。
さっき兄貴言ってくれた、それぞれ経験、一日過ごした後に同期するって言ったじゃん。
それによって同じ知識とかを共有するはずなのにっていう時に、この共有された知識って絶対に同じではないはずなんだよね。
例えば現場Aに行った立ちコマと現場Bに行った立ちコマが、それぞれAとBの情報を共有するってことでしょ?
そうそう、お互いにね。
そうした時に、現場Aっていう場において経験した立ちコマAと、
自分のボディで経験したAとでしょ?
そうそうそうそう。まさにこれは身体、体だよね、今で言うと。
それがないまま、それをインプットされた情報だけでやっぱり共有されているB、
それがもしかしたら映像データとかも全部含めて共有されていたとしても。
あと映像データだけじゃなくて、触覚というか感覚も含めてね、すべてをセンサーも含めて共有されたとしてってことね、例えばね。
そうしたとしても、やっぱりそれって絶対にイコールの情報論にならないはずっていうのが、迷路ポンティが言っていること。
面白いよね。立ちコマの例で言うと、人間では不可能なレベルでの体験の共有をしてるはずなんだけれども、っていう感じだよね。
人間だとさ、例えば痛さとか甘さとかって共有はできないと思うんだけど、
たぶんロボットならできるはずじゃん。
そうだね。電気信号的にね。
そうそうそうそう。
だからもちろんね、それは実際のところどうかはわかんないけれども。
確かに。創作だからね、確かに。
創作だからね、わかんないけれども、でもかなりそういった発想をやっぱり下敷きにしてというか、やっぱり近いところから作ってるなっていう感じがするんだよね。
だから、やっぱりこの体っていうものを軸に考えるときに、やっぱり情報の在り方が変わるとか、まさに学び方も伝え方も全部変わってくるっていう話もあるし、
やっぱり今回は他者の捉え方だよね。やっぱり他人っていうものがベースにつながって捉えるのか、あくまでも自分っていうものがいて、それが相手を理解する、外からインプットするっていう外部の存在なのか捉えるのかによって、
これもやっぱり全然関わり方って変わってきますよね。
っていうのがあるので、この辺りでメルポンティの話をってこともそうだし、やっぱり他者との関わり方っていうのもすごくいろんな考え方とか、やっぱり問題とかがあるんだっていうところから、今回刺さるといいなと思っているんですよね。
39:15
はいはい、なるほどね。改めてそれこそサルトルの回とかと比較すると面白いかもなと思ったね。
そうねそうね。次回ね、実はこの他者っていうものを取り上げて、1個やりたいなと思っているんですけれども、レビナスっていう人がいるんですよ。
レビナス、時代的にはメルポンティの差に後なので、流れ的にもちょうどいいんだけれども、
その人はまさに他者っていうものを倫理的な観点から結構考えて、割ともっと厳しい。
他者っていうのはやっぱり自分にとって本当に乗り越えられないというか、そんな簡単に共通の土台があるとか言ってるんじゃないよみたいな、
そういうふうなことを言う人もいるんで、それは次回取り上げたいんですけれども。
いろいろ調べたら出てきたエピソードがあって、例えばからざえつながってるみたいな話をするじゃないですか。
これもよくあることだと思うんだけれども、例えばさ、くすぐると、こそばえっていうのかな、くすぐったい。
くすぐったい。
笑うみたいな、そういうのって普通あるじゃないですか。
っていう時に、人にくすぐられると笑っちゃうんだけど、自分でくすぐっても全然笑わないとかくすぐったくないみたいな、そういうのってあるじゃないですか。
なので、これはメルポンティのある種逆の話で、
要はからざっていうものがある種そういうふうにつながっているんであれば、自分でくすぐろうが他人がくすぐろうが、同じくすぐったさを感じるんじゃなかろうかと。
もちろんこれもくすぐりとか予期されてるからくすぐったいとか、そういうふうな話、説明もあるっぽいんだけれども、
それと正しいかどうかわからないんだけれども、
でも仮にそうとしても、やっぱり人の感じる力っていうのは自分の体と他人の体っていうものが、
ある種、体レベルでも分けているというか、そんな簡単につながってるとも言えない。
あー、はいはい、なるほど。つながってない、つながってるとは言えないケースって話ね。
その事例として、そのくすぐりの自分か他者かっていうものを考えたりしますね。
そういうところがあるときに、やっぱりこう、もちろんね、今こうやって話を聞いた中で、
42:00
体っていうものを通じてつながっているって話も一定説得力があるんだけれども、
いやいやとはいえ、そんな人と自分って簡単に一つにできないよねとか、
もっと言うとそんな簡単に一緒にしてくれないよみたいな話も当然あっているわけなんだよね。
あー、まあそうだね。
そうそうそう。やっぱり自分は自分だみたいな話も別にあって、別にそれは悪くないわけだから。
そういうときに、やっぱり自分と他者というか、もっと言うと世界っていうものを捉えたときに、
その中にいる私とあなたとか、もっと言うと私っていうのはどうしても特権化されるのが、
これちょっと西洋哲学っぽい話なので、ルビナスの次はちょっと東洋に一回戻るというか、
取り上げて東洋的なあり方、自分と他者あり方とかっていうのもやろうと思ってるんですけど、
そんな感じで、このいろいろ見てきた主観と客観を分けないにしましょうとかっていろんな発想の中においての、
自分とか他者って何みたいな話ってところがちょっと引き続き取り上げたいなと思ってますという風な感じなんだよね。
おー、なるほど。ほうほうほう。
とりあえずメロポンティアでもうちょっとだけ続きまして、あと2回分ぐらいあると思ってるんだけれども、
こうやって今他者の話を今日してきたんだけれども、他人と繋がるときに、
さっき赤ちゃんと大人っていう意味では、ある種ノンバーバルというか、言葉を交わさないコミュニケーションだったんだけれども、
やっぱり僕らって普段言葉を使って他者と繋がっているのが多いじゃないですか。
そうだね、うん。
で、今こうやって3人きり話してるし、ポートレーサーお届けしてもそうだけれども、
やっぱりこの自分と他者を繋ぐものってやっぱり言葉っていうのがめちゃめちゃ大事ですね。
っていうときに、メロポンティアの考え方をいろいろ広げていくと、この言葉っていうのを捉え方もやっぱり変わってくるんですよ。
へー、そうなんだ。
そう。なのでこれもすごく面白いというか、僕らっていうのは、今聞いてる皆さんも語っている僕らも含めて、
言葉ってその辺に捉えてなかったよねっていうふうになる発見もあると思うし、
あとはね、ルディクレアって僕がやってる哲学の授業というか取り組みの中で、
借り物ではない言葉みたいな言葉を使うんですよ。
だからちゃんと自分の本音というか、本当に語りたいことがあるはずだって前提なんだけれども、
この本当に語りたいことって何?みたいな、そのヒントも結構メロポンティアがくれてるんですよね。
へー、そうなんだ。ほうほうほう。
なのでちょっと最後はわーって言っちゃったんだけれども、
45:01
次回ね、この自分と他人を繋ぐ言葉っていうものに関して捉え下げていくことで、
よりこのメロポンティアの哲学っていうものを理解深めていこうと思いますので、
ぜひこちらを試していただければというふうに思っておりますというふうな感じですね。
じゃああれだね、レビナスは次回出てくるんじゃなくて、
メロポンティの次のテーマになる人だよってこと?
あ、そうですそうです。
次のテーマとして、レビナスも超っていうか、
偉大な哲学者だからね。
じゃあ次回1回分で出てきますっていうレベルの人じゃないんだね。
そうじゃない。
もう20世紀の重要な哲学者なので。
わかりました。じゃあその次に、
メロポンティ、レビナス、でまたちょっと東洋みたいな話ね。
そうですそうです。
わかりました。次回ですね、引き続きメロポンティの言葉ですね。
その部分見ていくというところで楽しみにしていきたいと思います。
では引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
46:21

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