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#448 考えてから話す?メルロ・ポンティが捉えた思考と言葉の関係
2026-08-12 48:35

#448 考えてから話す?メルロ・ポンティが捉えた思考と言葉の関係

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サマリー

今回の「それ哲ラジオ」では、メルロ・ポンティの哲学における思考と言葉の関係に焦点を当てています。一般的に、思考が先にあり、言葉はそれを伝えるための道具と考えられがちですが、メルロ・ポンティはこの見方を批判します。彼は、言葉は単なる思考の伝達手段ではなく、意味を生み出すための身体的な実体を伴った場であると主張します。 メルロ・ポンティは言葉を「語られた言葉」と「語る言葉」の二つに分けます。「語られた言葉」は辞書的な定義を持つ決まりきった言葉であり、私たちは日常的にこれを使用します。一方、「語る言葉」は、その場の状況や個人の関わり方に応じて、新しい意味を生み出す生き生きとした表現です。これは、同じ音階でも多様な音楽が生まれるように、既存の言葉の組み合わせによって独自の表現が可能になるという考え方に基づいています。 さらに、この「語る言葉」は、能動と受動の中間にある「中道体」という概念とも関連付けられます。話す行為は、話す側自身にも影響を与え、聞き手もまた能動的に言葉を受け止め、応答することで、言葉という場において意味が生成されると説明されます。この考え方は、精神と身体、あるいは思考と言葉が切り離せないというメルロ・ポンティの基本的な思想と深く結びついており、言葉は思考そのものの身体であるとも言えます。次回は、メルロ・ポンティの晩年の思想の根源である「肉」という概念について掘り下げていく予定です。

思考と言葉の関係:一般的な見方とメルロ・ポンティの問い
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。 よろしくお願いします。
よろしくお願いします。 はい、メルロ・ポンティ第6回ということでやっていきたいと思います。
はい、前回ですね、他者、他人っていうものを通じて、 まあやっぱりこう、なんていうのかな、サルトルとね、ちょっとメルロ・ポンティの比較を申し上げたと思うんですけれども、
結構サルトルとかまず自分っていうものがいて、 そこがどうやってやっぱ他者ってもう関わるのかとか、
他者も自分だとすると、自分はそのね、物とか道具っぽくなっちゃうみたいな、 結構そういう闘争、まあ戦いみたいなものになっちゃうよね、っていうふうな話をしたと思うんですよね。
はいはい、まあそうね、全員がそのRPGの主人公だと思って生きているっていうね。 あ、そうそうそうそう。
結局なんかもうバラバラじゃん、みたいな感じになっちゃうんだけれども、 メルロ・ポンティはそこでもやっぱりそういう区別っていうものをなくすというか、
いったいやっぱ共通のその体って、まあ土台になって繋がりがあると。 ただ繋がっているだけじゃなくて、当然一人一人違う人間だからそのバラバラの部分もあるんだけれども、
でもそういったポンティには繋がりがあると、この両方を見ましょうねっていうふうな話が結構メルロ・ポンティの大事な観点だよっていうふうな話をしたと思うんですよね。
で、今回さらにそこから一歩ちょっと進んで、 私はその他者と繋がるっていう時に、
多くの人、もちろん少しじゃない人もいると思うんだけれども、 やっぱコミュニケーションにおいて言葉っていうものを伝えると思いますと。
それが喋っている言葉であれ、書き言葉とかね、手話とかいろんなものもあると思うんだけれども、
いってそれを使ってね、繋がり合っていますよねっていう時に、 この言葉というものでなんだとか、あんま考えないじゃん、言葉ってなんだみたいなさ。
まあ、そうだね。
言葉っていうものを我々はどう取り扱っているのかみたいなさ、 そういうことってあんま考えないと思うんですけれども、
やっぱりメルロ・ポンティはそういったこともちゃんと考えていくわけですよ。 すごいよね、だからね、やっぱり。
そうだね、なんか体がとか言ってるのに言葉も入ってくるんだね。
そうそうそう、やっぱりそれは体というものを使って、それを通じてやっぱり他者とあるっていう世界を考えた時に、
その繋がりっていうものが、でもやっぱり現実を考えると別に、僕らって指と指を繋いでさ、なんか思考を交換してるわけじゃないじゃん。
言葉っていうものは現実やってる時に、じゃあこの言葉ってなんだよみたいな、体を介してないように見えるじゃん、言葉って、ともすると。
はいはいはい。
けどこうやって何なのっていうふうな、そんな話を考えていくわけなんですよね。
で、そうやっていくんですけれども、どうかな、ジャニーキーがさ、いきなりさ、これ久々に聞くんだけれども、
言葉って何ですかとか、何で言葉を使うと他者と通じ合えるんですかって言われたらさ、どう答えるかね。
おー、難しいね、確かに。
ね、当たり前すぎて考えなくて、てかもうさ、それが常識じゃん。
そうだね、言葉ありきだね。なんか、確かにね、前何かで見たんだけど、鳥も言葉を喋ってるみたいな。
はいはいはい。
で、YouTubeかな、鳥の言葉がわかる人みたいなやつ。
うんうん、腸医学者の方の本とかもね、結構有名になったりするもんね。
うんうんうん、そういう人なのかな、鳥とかだと敵が来たぞとかさ、集合とか、あっちに注意とかって結構あるらしくて、みたいな話してて、人間もそういう順番なのかね。
あー、なるほどね。それ何か伝えたいことがあって、それを周囲の人にも伝えようとか、身の、あるいは集団の安全を保つために発展してきたよ、みたいな、そういう感覚なのかな。
うん、だから、必要は発明の母じゃないけどさ、そういった必然性、必要というか必然性があって、発展してきたみたいな感じなのかな、わかんない、もうそうです。
いやでもでもありがとうございます。もちろんね、こうやっていきなり聞かれても答えらんないよって話だと思うんだけれども、これも今回もね、ある種多くの人はこう思ってるんじゃないかってところから始めていくんだけれども、今のね、兄貴の話も同じくですが、やっぱりこう、ある種、頭の中に伝えたいこと、危ないとか逃げろとか、
そういうものがあって、それを外に伝えるための、まるで道具というか、ツールっていうものが言葉だよっていうふうな発想だと思うんだよね。
っていう時に、たぶん僕らも普段話してる時って、やっぱり考えたいこととか言いたいことがあって、それを外に出すために、そのなんだろうな、それを乗せるものとしての言葉っていうふうな、そういう発想じゃないかと思うんだよね。
もちろんそれって、イラストとかさ、もしかしたら音楽とかにも伝わるかもしれないけれども、やっぱりそれだとなかなか伝わりづらいから、僕らは言葉っていうものを磨いてきましたと。
逆に言うと、言葉がうまく出ない時って、ちょっとまだ考えがまとまってなくてとかさ、思考がせりしなくてみたいな、その思考の方を問題にするじゃん。
そうね。
っていうことからも、やっぱり思考とか考えが先で、言葉が後みたいな、そういう発想があると思います。
そうね。
これは前回まで同じなんだけれども、僕らが一般的に思うことなので、ある種メルロポンティー化すると批判したいことなんですよね。
ここを言言論で捉えてんじゃねえよっていう場所なんだ。
そうそうそう。でもだいぶイメージつかない。やっぱりその、内から外へとかさ、思考が先でってあえて言ったけれども、これってさ全部これ前の回でもメルロポンティーが否定してきたことじゃん。
そうね。
やっぱり内と外っていうのは響き合ってるんだよとかさ、思考とか精神と体っていうのは分かれてないんだよとかってことがずっと言ったことなので、この言葉に対してもメルロポンティーはそれを当てはめますと。
どうなるんだ?
「語られた言葉」と「語る言葉」:意味の生成
どうなるのかって話なんだけれども、やっぱりメルロポンティーが何を実際に体験するからそういうことを考えるのかって話なんだけれども、
例えばさ、言葉っていうものを考えたときに、もちろんね、まとまって考えたことを伝えるっていう話もあるんだけれども、逆にさ、話してみて初めて自分の言いたいことがつかめるとかさ、
なんかとにかく紙にバーって洗い出して書いてみたときに、あ、自分ってこういうことを考えたなってわかるみたいなさ、そういうことも一方であるわけじゃない?
あー、だし自分はそっちタイプかもな。
なるほどね、話しながら。
あんまり普段物を考えないから、このラジオでもさ、喋りながら考えてるっていうか、もうとりあえず喋ってるみたいな感じだから、こっち近いかも。
そうすると兄貴は、普段は喋りながら考えるってことができているけど、さっき言った通り、じゃあ改めて言葉って何ですかって聞かれると、先に思考があってみたいな、そういう考え方に思い込まされてるみたいな。
あー、はいはい、そっかそっか。
自分が普段やってることと思ってることが違ったみたいな、そういうことが起きてたかもしれないよね、今。
あー、はいはい、さっき言葉とは何って聞かれたときの答えと、違かったってことはね、自分がやってることはね。
そうそうそうそう。
なるほどなるほど、確かに確かに。
っていうことに、やっぱメールポンティはちゃんと目を向けるんですよね。
なので、本当にその言葉が思考を外に伝えるだけのものならば、その話してるうちに言いたいことが見えてくるとか、あるいは思考がない中で話すっていうのはできないはずなんだよね。
あー、確かに。
うん、厳密に言うとだけどね。
そうね。
でもやっぱ僕らが生きてないじゃないですか、普段の人生、生活を見たときにそうはなってないよねって言えば、そこをちゃんと捉えて、じゃあ何が起きてるんだっていうふうなことを考えます。
うんうんうん。
うん、っていうことになったときに、メールポンティが考えていくのは、言葉にも2種類あるんだと。
で、この2つの区別っていうのが、前回の最後ね、レディ・クレアっていう自分がやってる活動の中で、借り物の言葉みたいな、そういう表現をするって言ったと思うんだけれども、
そのある種、どこかから借りてきた、自分で吟味して使う言葉じゃなくて、何か人が言ってるかみたいな言葉と、これはもう自分の内側から出てくる、自分だから使える言葉っていうものがあったときに、
で、こういう区別をメールポンティがもう既にしてくれてたんですよね。
へー、あ、そうなんだ。
そう、だからこれ知らなくて、もっとちゃんとメールポンティやらなきゃっていうのを改めて思ったんですけれども、
そう、つまり彼に言わせると、その2つの言葉、ちょっとこれから説明していくんだけれども、
えっとね、1つは、語られた言葉っていう話と、もう1つは語る言葉っていう、この2つに分けるんですよ。
ほうほうほうほう。
例えばバスって言ったら、もう大きな人を乗せる乗り物ですよね、みたいな。
それちょっと定義みたいな話です。
で、メールポンティが大事にしてるのは、この語る言葉っていう校舎のほうで、
こっちがさっき言ったところの、自分の内側から出てくる、ある種表現として生き生きとしたというか、
そこに何か自分ならではの意味っていうものが加わるような、そういう言葉ですっていうふうなことを言うんだよね。
はいはいはい。
で、これ面白いのが、僕らは、いわゆる常に新しい言葉を使い続けることって無理じゃないですか。
そうだね、伝わらないそうですよね。
そうやって変人っていうか、もう社会とは確立した人になっちゃうと思うんだよね。
だから、僕らはさっき言ったように語られた言葉、ある種決まりきった言葉を使いますと。
それを使うんだけれども、やっぱりその場その場の場のあり方とか関わり方とか、他の人のね。
とか、物事の捉え方とか、そういうものを踏まえて、誰も聞いたことがない、誰も見たことがないような、
そういう意味っていうものを生み出すことができるんだっていうふうな、それが語る言葉なんだっていうふうに言うんだよね。
これってピアノとかもそうと思うんだけどさ、ピアノって同じじゃん、同じというか、同じピアノを誰も弾くことができるじゃん。
でもそれを弾いても当然、演者とか人とか、あるいはどういうホール、場所かによっても、響きとか音色とか変わってくるはずなんだよね。
それが僕らが言葉っていうものにも起きているんだと。
あー、なるほどなるほど。面白いね。確かに確かに。まさに音とかそうだね。
ドレミファソラシドと、あとシャープとかあるけれども、その12のスケールの中で、それしかない中でこんなにたくさんの音楽って生まれるの?みたいな話で。
音楽でもたまにあるけど、ドとドシャープの間の音をさらに使って曲を作るみたいなのもあるんだけど、そうじゃなくて、
それはそこまでしなくても、その12の中でもいろんなものが作れるよって意味で、さっきの語られた言葉みたいなものを使うのが悪なんじゃなくて、
それの組み合わせ次第であなた独自のというか、あなたならではの表現もしてるんですよみたいな、そっちが語る言葉ですよみたいなイメージっていう感じかな。
そうそうそう、そういうこと。
すごいね。
だからまさに語るって言ってる通りで、当然その言葉だけじゃなくて、こうやって僕の言葉にもいろんな多分ね、イントネーションとかさ、ホワイローとかもついて回っていると思うんだけれども、
そういうものも含めて、やっぱり言葉とか発話?発する言葉っていうものにはやっぱりいろんなものがくっついてますねと。
だからそれこそね、スピーチとかまさやと思うんだけれども、同じ原稿でさ、読んでもやっぱり熱がこもるのが違うとかっていう話もあるし。
あー、ほうほうほう。
そうそう。っていう意味では、やっぱりその言葉っていうものがただその思考の乗り物っていうことじゃなくて、それを思考を運ぶものっていうことじゃない、
もっといろんな要素が含んでるんだよっていうことをやっぱりムエル・ポンティは考えるんですよね。
うーん、なるほどなるほど。確かに確かに。そっか、文字情報だけじゃなくて表現の仕方とかね、含めてってことね。
そうそうそう。これがさっき言ったね、話しながらとか文字に書いてると見えてくるっていうのも、やっぱりこう書いてることは確かに誰か使ったことがあるようなとかさ、
例えばさ、ちょっと夜にさ、出して自分は今何がしたいのかって書いたりするわけじゃん、悩んでますというときに、
その言葉自体は別に誰でも発せることもできるし、別に特に意味はないというか、そういう言葉ではあるかもしれないけれども、
やっぱりそれが出た瞬間に、やっぱりその言葉を受け取った自分がまたその次の言葉が引き出されるみたいな、やっぱりそういうことも起きるわけだよね。
そういう意味で、果たして自分は何がしたいのかっていう言葉が自分にとって意味を持ち始めますと。
そうするとこれは、いわゆる語られた、どこにでもありふれた言葉じゃなくて、今この夜、寝れない夜に自分が悩みながらこの言葉を絞り出したっていう、
このことが語る言葉を生み出すみたいな、そういうふうな繋がりがどんどん出てくるわけなんだよね。
そういうふうな形でいくと、言葉っていうものもただ単純な情報伝達とか、他者とのコミュニケーション手段ということじゃなくて、
そこから、むしろそこからしか意味が生まれてこないみたいな、そのぐらいのやっぱり機能というか、
何だろうな、そういった役割を持つものですよってことを言っていくんだよね。
はいはい。
これ面白いなと思うのが、さっき言葉の話をしたじゃん、スピーチとかさ、語るって話をしたんだけれども、
言葉は思考の身体:中道体と意味の生成
実はこれは読書、書いた言葉でも全然起こり得るんだって話をするんですよ。
そうなの、ほうほう。
これもある種分かりやすいけどさ、例えば自分が本を読んで子供のときに読んだ本と、大人になったときに読んだ本で受ける印象が違うとかさ、
感じる部分が変わるとかって全然あるわけじゃないですか。
はいはいはい。
ましてやね、さっきのピアノの話もそうだけど、同じ本が100万冊売れて100万人読みましたっていうときに、やっぱり同じ情報が伝わるってことはまずないはずなんだよね。
あー、そうね。
ただ、書いてある言葉自体はさ、もしかしたらめちゃめちゃ造語で自分の言葉を作って書いてる人もいるかもしれないけれども、
基本的にはその言葉の辞書的な定義がわかりませんとかさ、そういうことはないわけなんだよね。
まあ、そうね。ただの暗号解読みたいになっちゃうからね。
そうそうそうそう。
テキサマと全然違ってなったときに、やっぱりその、なんていうのかな、言葉を、書かれた言葉を理解するっていうことに関しても、
そこには自分、読む自分と、それを書いた作者、特に優れた作者であればあるほど、その言葉の間から作者の飾る言葉だよね。
ただ言葉を並べてるんじゃなくて、やっぱりそこから感じ取れる作者独自の言葉っていうものが伝わってくると。
そういったことが起こるから、やっぱり身体制、体っていう話をしてきたんだけれども、
それを伴わない言葉でも全然伝わるというか、
もっと言うとイメージ的には、その言葉っていうもの自体が、ある種思考っていうものの体なんだみたいな。
思考っていうものの体?
これちょっと伝わりにくいと思うんだけれども、これまで精神と体は違うっていうものがいやいやそうじゃないって話をしてきたじゃないですか。
身体っていうものが既に生きた場であって、身体っていう場において、外と内が混ざり合って世界が生まれてくるっていう話をしたと思うんですよね。
これと同じようなことが、いわゆる思考と言葉っていう場合もあるんじゃないかっていう話をしていて、
要はその言葉っていうものがあれから、相手が発した思考と受け取る自分の側の思考っていうものが混ざり合って、言葉という場において意味が生まれてくるみたいな。
なるほどね。精神と体っていうものが、思考と言葉で対応してるわけね。
そうそうそう、そういうこと、そういうこと。ちょっとイメージ湧くかな。
それと湧く湧く。
そうそうそう。っていうのがあるので、冒頭言ったような言葉っていうのはただ思考をするための道具なんだよじゃなくて、
まさに意味というものを生み出すために必要な場所というか、そういう実体を伴ったものなんだよっていう風な、そういう捉え方にある種変わっていくんだよね。
あー、面白いね。確かに。
言葉の本当の意味とか、言葉の本質みたいなことがナンセンスだよっていう風な感じになるね、そうすると。
そうだね、だから言葉そのものみたいな話っていうのがそもそも無理っていう話で、それは体だけを見てこれが人間であるっていうことと同じだっていう風な話だね。
だからそう考えると言葉っていうものって、もっといろんなものがくっついてるというか、そんな単純に聞きやすいものじゃないよっていうことが見えてくると思うんですよ。
あー、そうだね。
だから、それがやっぱりメロポンティが見出した思考と言葉は分かれてないイコール、精神と体は分かれてないだし、イコール、自分としてはもう分かれてないみたいな、そういうことが全部出続きになってますっていう風な話なんだよね。
あー、はいはい。
どうよ、この感覚。
面白いけど、あれだね、今話してくれた全部を身体的に理解するって、すごい難しそうだと思ったね。
いやー、そうなんだよね。
逆に言うと、今回さ、結構メロポンティの場合は最初にこれって一般的な考えですよね、それを否定しますっていう風なさ、そういうのをこの3回ぐらい続けてるんだけれども、
これがどのぐらい皆さんが確かに確かにって思ってくださるかは聞いてみたいと思ってはいるんだけれども、
やっぱりどれだけ僕らが分ける思考とか、自分っていうものが中心で、自分が世界を捉えてるっていう思考とかそういう在り方に捉えてるかってそういうことかなと思うんだよね。
いやー、そうだね。
ただ、そうだね、さっきその身体的に理解するのは難しいって言ったけれども、
する必要はないんだろうね、たぶんメロポンティに言わせると、
あなたたちはもうすでにそういう風に生きているというか、そういう風に行動しているので、
例えばそのメロポンティの言うところ、二元論じゃない感覚を別に理解する必要もないですよと、もう育ってますからみたいな感じなのかな、どうなんだろう。
でもね、それでいくと前々回かな、知覚のところとかで言ったと思うんだけれども、
やっぱり普段僕らが意識している世界よりも一個根底にある世界というか、
その知覚するって言葉とか意識に昇る前のやっぱりレイヤーがありますと、
それがある種現象学的還元っていうふうな操作をすることで実感できるというか、
それを知ることができるから、それはちゃんと知った方がいいねっていうような感じなんだよね。
なるほど、少なくとも今二元論的な価値観を持っちゃってるから、そこは破壊しときましょうねっていう感じか。
それを破壊して、適切な別れてないというか、そういった捉え方をベースにして世界というものを見ていきましょうねとか、
哲学っていうものをしていきましょうねっていうのはあるから、やっぱりメロボンでも哲学者なので、
単純にこういう説明書置いておくんで、でもみんなもうすでに育ってるからいいですよじゃなくて、
僕らみんな正しく理解できないから、その正しい理解っていうものでちゃんと近づいていきましょうねっていうふうな、
そういう話でもあるかな。よくある言葉で言うとさ、みんな違ってみんないいってあるじゃないですか。
そこはやっぱメロボンって言ってないよね。
みんな同じでみんないいっていうか、みんないいっていうかみんな同じって言ってるからね。
そうそうそう、みんな同じでそれをみんな知らないから、ちゃんと知ろうよみたいな。
みんなが言ってるところのみんな違っての、みんな違ってっていうところの1個ほどとみんな同じがあるんだよと。
みんな同じだからこそみんな違うっていう、みんな違うのはいいんだけど、その違うも違うから、
まず同じっていうところから違うっていうのが出てるっていうことをみんなわかってね、みんなっていう感じだね。
3分あってるんだけどちょっと違うと同じが交互に来すぎてもうよくわかんなくなってくるね。
この勢いで言われちゃうとね。
そうね、なんか合ってる気がするんですけどみたいな。
勢いで押し切れる。
普段と逆ですね、割と僕は勢いで押しがちだからあれだけど。
でも本当そうで、前回ね、パシャカの時にお伝えしましたけど、ベース同じだけど当然一人一人の人間が違うっていうのも現実そうだみたいな。
逆に言うとそれをちゃんと捉えましょうって話なんだよね。
やっぱりさ、前回読画論の話もしましたし、今回の言葉の話もそうなんですけど、
言葉っていうものは思考の道具であるとか、文章っていうものは自分の認識が作り出した外部にあるものであるってやってしまうと、
僕らは素朴に生きている世界というか日常の中での感覚、とはいえあの人にこんなに共感するってなぜなんだろうとかさ、
ある種、自分を犠牲してでもやっぱり誰かを助けるみたいなことってなんで起こるのかなとかさ、
なんで同じ言葉を使ってるのにこの人に伝わってこっちには伝わらないんだとかさ、そういうのっていっぱいあるわけじゃない?
それをある種、そんなものはエラーで間違っていることだからまさに100点満点の世界っていうものじゃないだけなんだよっていう風に言うのか、
いやいやそういうエラーとか違いとかがあるっていうことがむしろこの僕らの生きてる世界なんだから、
それを否定してよくわかんない100点の世界に逃げるのやめなよっていう風に言うのか、
ここがやっぱり一番違うメルロポンティの100点の世界を否定するっていう話、
第1回から言ってるイメージの話と100点の世界を守りたいっていう違いっていうところのやっぱり差なんだなって思うんだよね。
おーなるほど。
ちょっとこれ見えてきたんじゃないかな、この第1回からずっと100点の世界ってなんだみたいなさ、
ことを多分思いながら今回出発してきたと思うんだけれども。
そこ結構難しいね、そこがないっていうところを一回意識しないとなくさないから。
いやーそうなんだよね。
外にいろいろ正解があるとか、外にいろんなものが存在してそれを受け取ってるみたいな感じが、
いかに無意識的にやっちゃってるかっていうのも思うよね。
ほんとそう、ほんとそう。
常に世界はそうじゃないんだって思わないと、一瞬でもそれを忘れたらもう正解を受け取る感じになっちゃうから、
難しいなと思う。
いやーほんとそうね。
なので、やっぱりこれが哲学の力というか、世界の在り方から考えるとか、
そもそも人間というのは世界というものとどう関わってるかっていうことを掘り下げるっていう、
やっぱりそこの力だなと思うし、そもそも原初学っていうものがやっぱりそういう自分の世界の捉え方、
そこに立ち返っていくのはフッサルが始めた話だから、
それをまさに受け継いで発展させたメロポンティが世界というものを捉えるとこうなりますよっていう話だと思うんだよね。
サルトルとの比較と東洋思想
いやーでもあれでしょ、サルトルも原初学から来てる?
うん、来てる。
だから同じところ出発でもサルトルは分けたんだもんね、その精神と肉体みたいなものを。
そうだね、だからちょっとこれはもう一回サルトル編またやってもいいかなと思ってるんだけれども、
サルトルの捉えた世界っていうのはやっぱり自分っていうものが周りにも大きな存在で、
ある種それが目前とかっていう形で失われるっていうことが恐怖だから、
その恐怖っていうものを抱えながらどう生きるかっていうときに、
それを前提とした他者っていうものはやっぱり自分にとってのある種闘争の相手であるみたいな、
そういうふうな繋がりになってるんだと思うんだよね。
はいはい、なんかこの辺はもう、こういうとあれだけども、
サルトルとメロポンティの個性みたいなものが現れてるのかな、なんか。
まあでも絶対あると思うね。
結構サルトル編って言ったとあれだけど、かなりユニークな方でしたよね、確かに。
あーそうだね。
これもちょっと当時話したかもしれないけれども、
西洋っていう文化圏というか、その場においてやっぱり無とか、
そういった自分が溶けていく感覚っていうものをやっぱり実感した人だから、
それを語る言葉もないし概念もないしっていうふうなところで苦労したんじゃないかっていうふうな話があるんだよね。
あーそうなんだ。
伊津敏彦さんっていうその有名な日本の学者さんがいるんだけれども、
名前は聞いたことあるかな。
そうね。
伊津さん、これちょっと間違えたら申し訳ないけど、確か伊津さんだったかがサルトルのことを指して、
こんなんはね、東洋ではもう千年前とかからずっと語られてることだから、
それをしてたらサルトルは別に絶望なんかしなかったよね、みたいな。
そう、そういうことを言ってちょっと批判するというか。
映像なんだ。
そう、無と関わる文化っていうものがないからそうなったんだ、みたいな。
そういうことを言ってる人もいるんだよね。
あー面白いね。
そんな、その答え方ができるんだ、サルトルの。
そうそうそうそう。
ね、だからそれを見ては面白いなと思ったんだけれども。
メルロ・ポンティの思想の核心と「肉」の概念
なのでやっぱり原子音楽がっていうのもあれなんだけれども、もっと言うとね、前回、
この誰だったかの時に、哲学者の問題っていうのは結局はその人がやっぱり捉えた世界のあり方とか、
その人の問題点で切り取った問題でしかないみたいな話もあるっちゃあるから、
決して人類全体の共通の課題を切り取ってるんですってわけではないかもしれないけれども、
だから今回お伝えしているものは、今日お話していることって、やっぱりその僕らがどうしても捉えがちな、
自分っていうものが外部にある世界をインプットして理解してますとか、
言葉っていうものを使って自分の思考を伝えますっていうことをある種ちょっと相対化してくれるような話だから、
それを両方のちゃんと目線を持って考えていくってこと自体は大事かなと思ってるんだよね。
そうだね。
あともう一個言葉の話でいくとさ、いくつもあってからなんだけれども、
やっぱりメルボンピーの言葉を現代的な言葉で言うと、中道体ってキーワードがあるんですけど、中道体。
中道体、なんだろうな。
能動とか受動っていうのは聞くじゃない?能動っていうと自分から相手に課題をかけるだし、
受動で言うと相手から課題をかけられるってやつ。
それこそ映画の文法とかでやると思うんだけれども、ただその中に中道体って中だよね、中。
能動、受動、中道って3つがあるんだって話をすることがあるんですよ。
へー、ほうほうほう。
これはあの、2017年からの国文さんっていうさ、日本大工総理理学とか結構有名な本を書いてる。
哲学界隈での割と人気者というか、有名な方っていうのがいらっしゃるんだけれども、
こんな方が中道体の世界っていうのを出して、結構この中道体っていうキーワードになってるっていうのがあるんですよね。
そうなんだ。
っていうのがベースあるんだよって話をするんだけれども、
まさにメルポンティが言ってるこの言葉の在り方、
要はただ単純に一方的に伝えるんじゃなくて、その言葉によって語る言葉っていうのが生まれてくるっていう話。
っていうのもかなり中道体的な発想なんですよ。
これどういうことかっていうと、
例えばこうやって自分が兄貴にいろいろ話してるじゃん。
話してるってことはこれは能動的な動作で、
要は自分が兄貴に言葉を渡してるっていうふうな考えられがちなんだけれども、
実は今日話した言葉の働き方すると、
この自分、カンのハヤトが話してる言葉っていうのは、
カンのハヤトそのものに影響を与えてるんだよね。
なるほど。
当然こう話すときにもっと上手く言えたかもなとかさ、
ってことはもっと実はこういうことだったかもって台本とは違う話をしたくなったりするってことがあったときに、
そういう作用を持ってますね。
なるほど。
で、兄貴は兄貴で、その言葉を受け取ってるっていうのは受動的って見られるんだけれども、
ただ聞いてるってことはないはずで、
その言葉を受け取ったときに、え、でもそれってどうなの?とか、
これってこういうことかな?みたいな、
やっぱ兄貴の目線での語りかけっていうのがあるはずなんだよね。
はいはいはい。
っていう意味では、その語ると語られるっていうことって実はこれも分けられないし、
ある種その語ることと語ることの間にしかその意味っていうのは生じない。
まさにこの間っていうものを指して中道体みたいな、
そういうことを言えますよねっていう風な話なんだよね。
へーなるほど。これはベルドポンティが話したんじゃなくて、さっきの福分さんの言葉。
えっとね、中道体って言葉自体は実はギリシャ時代からあるって言われてて、
言葉っていうか、そういう概念としてはね。
そうなんだ。
そうそうそう。
ベルドポンティもそういった発想を受け取れてるっていう話はあるんだけれども、
ちょっとベルドポンティが言葉は中道体であるって言ってたわけではないと思う。
現代的なその割と扱いやすい中道体って言葉っていうものって概念と、
ベルドポンティが言っている言葉の性質、
っていうものが結構似てるよねっていう風な話かな。
へーなるほど。面白いね。確かに確かに。
やっぱりこれも分けでは分けない論争で言うと、
受動とやっぱり能動だけだとやっぱり足りないんだよね。
どっちも一方通行だから、やっぱりお互いに響き合うとか、
共鳴するとかっていうのがない。
それを扱う、手伝うっていうものもどんどん増えてますっていう風な話なんだよね。
なるほど。
っていう感じで言葉の話をしてきてるんだけれども、
どうかな、最初言ってた鳥の言葉ももちろん言葉ではあるんだけれども、
果たして鳥って、
お互いの鳴き声とか言葉のやり取りから、
意味を生み出してるのかどうかみたいな話だよね。
今日の話で言うと。
要は語る言葉?
語られる言葉として、親かわかんないけれども、
その集団においてこれは逃げろっていうリズムだとかさ、
これは危ないっていう風な鳴き声だっていうことは多分受け取ってると思うんだけど、
それをさらに発展させて、そのやり取りから意味を見いらしてますかねっていう。
ここがやっぱり結構面白いところだなと思うんだよね。
そうだね、うんうん、確かに確かに。
今日の話で言うと語られる言葉の方だけかもしれないと思っちゃうよね。
そうそうそう。
もしかしたら語る言葉があるかもしれないけれども、
じゃあ仮にもう一個言うとね、
じゃあ仮にそれがあったとして、
あったとしてそれって人間が理解できるのかなっていう問いもあるよね。
あのー、あれ、その学者の人ならできるんじゃない?頑張れば。
あのね、これはね、ちょっと思い強く話したいんだけれども、
要は危ないとか逃げろはさ、
多分あらゆる動物共通のものとして理解できると思うのは一定ね。
でも、例えば僕らがこういうふうに実学について話していることって、
鳥からしたらわけわかんないと思うんだよね。
まあそうね。
それと同じ形で、鳥が何に関心を持ってどういうことに意味付けをするかって、
人間からすると全くわけがわかんない可能性があるじゃん。
まあそうだよね。
危ない逃げろとかは、
行動を観察していれば導き出せるかもしれないけど、
めっちゃ鳥同士が鳥哲学院について語ってたときに、
その行動から意味を抽出できないもんね。
じゃないかと思うんだよね。
今んとこね。
翻訳とかない限りね。
それを人間が理解したっていうのも、
いくまでも人間が理解できる範囲の事象として理解したでしかないはずなんだよね。
つまり人間は赤外線とか紫外線が見られないって話と同じで、
鳥というものをあくまでも人間が理解しようとした範囲の中でしかできないはずなんだよ。
それは鳥が語る言葉なんですか、それとも人間が受け取った言葉なんですかってことは分けられるんだけれども、
でもここまで話して思ったんだけど、
それを分けないという選択肢があったときに、
初めて鳥の世界の意味と人間の世界の意味が混ざり合うっていう瞬間は来るかもしれないね、確かに。
今の話を鳥と人間でやっちゃうと、
人間A、Bの間でもそれを凍らないっていう風になっちゃうから、
鳥よりはなりづらいけど、なるよねっていう風になっちゃうよね。
でも人間は一応この体っていうものを共有しているから、
ある程度の共感は持てるはずっていうのはメロポンっていう話だね。
確かに、そっかそっか、その前提があるからだいぶいいとこまでは行けるはずなのか。
全く分かり合えないってことはないでしょうって感覚ではあります。
やっぱり人間と鳥の体っていうものは明確に違うから、
その違う体で何を感じて何を思ってっていうことが果たして通じ合うかっていうのはちょっと分かんないね。
ちょっと試行実験ではあるけれども、
やっぱりこういった話をすると、鳥には言葉がありますとか、
鳥も言語を持ってるんですっていうことの解説度が1個深まると思うんだよね。
もちろん別にそれを否定したいとかじゃないんだけれども、
逆に言うと僕らが扱っている言葉とか言葉にまつわるコミュニケーションって、
こんなに複雑というかいろんなものは織り込まれてるんだよっていう話だよね。
そうだね、確かに確かに。
語られる言葉だけで交わされる情報交換じゃないですよ、全然っていうね。
世界には僕たちはもう生きちゃってますよねっていうような話だね。
だしそっか、そこそこ本人は無意識でも、
もしくは本人は語られる言葉だけだと思って話してても、
実は語る言葉になってるっていうケースも全然あるだろうし、
その逆もあるだろうよね。
めっちゃ自分が語ってるつもりなのに、
実は語られる言葉しか話してないみたいな、いろいろありそうだもんね。
あるね、ある。
結構ね、時々僕が言うかもしれないけれども、
昔の自分とかって結構語られる言葉しかないと思ってたから、
ああ、世の中にね、それしか存在しない、はいはい。
言葉の定義というのは普遍であるならば、認識のずらに起きるわけがないと思っていたから、
なんで言うってことが伝わんないのかとか、
逆にカンノくんの言うことがわからないって言われて、
それがわかんないっすみたいな。
早いと鳥側の人間なんじゃない?
早いと鳥とかの学者になったらいいんじゃない?
むしろね。
確かにそうやったらなんかもっと理解できるかもな。
そういう身体勢で生きてるのかも、もしかしたらね。
でも実際にやっぱりもっと自分と世界は分かれてたし、
他人なんて、そしたら他人と繋がることはないと思ってたから、
そういう意味ではバリバリのね、分断論者だったかもしれないけど、
やっぱりね、それが少しずつ変わってくる中で、
メルポンテが言ってることってすごく、やっぱり真実とついてるなというか、
そういうことを思ったりもするんですよ。
面白いね、確かに確かに。
そういったものは、やっぱり自分の世の中の捉え方とか、
自分の生活で起きてることが変わると、
もしかしてやっぱり自分が大事にしてた価値観とか、
世界観ってやっぱり違うのかみたいな、
そういうところから見上げられてきた中で、
やっぱりメルポンテすごいなとかって思って、今話したりしてるんですけれども。
ここはね、地殻やって、体やって、他者、言語ときたんだけれども、
次回はね、全体でまとめっていう形で、
メルポンテの最終回というところで話していこうと思ってるんですけれども、
キーワード的にはね、これすっごい誤解がある言葉だっていうのを承知言うんだけれども、
肉、お肉の、お肉の肉って言うともう間違えてるんだけど。
漢字としては。
漢字としては。
っていう日本語で語れるメルポンテの概念があるんですよね。
これはメルポンテの概念なんだね。
概念。
やはり体って肉と骨じゃないですか。
神経でもあるけど。
肉と骨が入る。
っていう時の、ある種肉っていう話なんだけれども、
これがある種メルポンテがこの晩年ね、
後期といわれる時代に育りついたメルポンテの思想の根源的な要素というか、
そういう概念なんだっていうような話があるんですよ。
そうなの。メルポンテの語ることだね。
そうそうそう。
なんだけど、語られる言葉でとるとさ、
お肉なの?みたいな、ミートのことですか?みたいになっちゃうじゃん。
そうだね。
っていうことがあるんで、
これを何とかこれまでの流れも踏まえつつ、
ちゃんとお伝えするっていう、
これは僕の宿題だし、
皆さんにどこまで伝わるかっていうところを含めて、
次回ね、メルポンテ最終回として肉っていう概念。
これを伝えたいと思ってますって感じなんだよね。
いやー、なるほど。でも面白いね。
確かにこの哲学あるあるなのかなとは思ったんだけど、
その哲学書を読むと眠くなるじゃん。
じゃんって。
眠くなる?
え、なるなる。僕もなるよ、全然。
なんか、このさっきの小説家が語る言葉を書いてるみたいな、
あったけども、
たぶん哲学者も語る言葉を書いてる人が多いとして、
それを語る言葉として理解することがやっぱり難しい。
そうだね。抜け取れないよね。
肉とかって書いてた時にさ、
語られる言葉の方の言葉しか入ってこないと、
そりゃ眠くなるわっていう話があったから、
やっぱね、それをちゃんと、
誰かが語っている言葉をちゃんと語ることができる人とか、
もしくは、
これも答えはないかもしれないけど、
語られる言葉と語る言葉を区別して、
ちゃんとそれを語られることができる人みたいな。
そういうのは面白いだろうし、
そういう意味でネイロポンティが語ってるとすると、
次回、ハヤトに上手に語ってほしいなって思ったというか。
そうね。
面白いね。
責任重大なチャレンジだけど。
ネイロポンティが語った言葉を語る観のハヤトみたいなさ。
そうそうそう。
だから僕らはネイロポンティは肉という概念を作りまして、
言っちゃうと語られてる言葉で言ってるだけなんだよね。
そうだよね。
確かにこれはポッドキャスターに沿って大事な概念かもしれない。
授業が面白い先生とそうじゃない先生の違いみたいなのがあるかもね。
ちょっと大学生の人に言ってほしいんだよ。
あなたは今ネイロポンティの語られる言葉を言ってるだけじゃありませんか?みたいな。
先生。
批判したら嫌がられるか喜ばれるかどっちかだと思うけど。
哲学以外の先生だったらポカーンとして終わりだろうけどね。
確かにね。
哲学の先生だと喜んでくれる人もいるかもしれない。
あるいはこいつうぜえって思われるかもしれないけど。
うぜえだろうね。
基本はね。
でもこれは間違いなくありますね確かに。
なのでちょっと頑張って次回ネイロポンティの肉を語ります。
というところですね。
やっていこうと思っております。
次回ですねネイロポンティの最終回ということで楽しんでいきたいと思います。
では引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
48:35

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