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#446 精神と身体の二元論はもう古い?メルロ・ポンティの身体論
2026-08-05 51:17

#446 精神と身体の二元論はもう古い?メルロ・ポンティの身体論

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サマリー

今回の「それ哲ラジオ」では、哲学者のメルロ・ポンティの身体論に焦点を当て、精神と身体の二元論が現代では古い考え方であることを解説しています。デカルト以来の心身二元論は、精神と身体を別々のものとして捉え、その相互作用に説明の困難さを抱えていました。例えば、右手を挙げようとする意志(精神)が、どのようにして物理的な筋肉(身体)を動かすのか、あるいは身体の小指をぶつけた痛み(物理的衝撃)が、どのようにして意識的な痛みとして感じられるのか、といった問題です。メルロ・ポンティは、この二元論自体が誤りであり、身体と精神は切り離せない一体のものであると主張します。彼は、身体は単なる物質ではなく、感覚する主体であり、世界と繋がる入り口でもある「両義性」を持つ存在だと説きます。原始感覚(幻肢痛)や、自分の手を自分で触る際の二重感覚、暗闇でも自分の体の位置が分かること、靴を履いて地面の感覚を感じることなどを例に挙げ、身体が単なる物質以上の働きを持ち、世界と能動的に関わっていることを示しました。最終的に、メルロ・ポンティは、人間は意識や理性ではなく、身体を通して世界と出会う存在であり、身体こそが世界の捉え方や関係性の基盤であると結論づけています。次回は、この身体論を踏まえ、他者の身体や存在について掘り下げていく予定です。

前回の振り返りとメルロ・ポンティの身体論への導入
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。 よろしくお願いします。
よろしくお願いします。 はい、メルロ・ポンティ第4回ということでやっていきたいと思います。
はい、前回はですね、その、いわゆるこう、視覚の現象枠っていうメルロ・ポンティの種類があるんですけれども、
その中でも、いわゆる見ること、まさに視覚ですね。 これに対して、世の中的にはというか、普通に考えると、外の情報を内側に取り込む。
光が入ってくるとかさ、いろんなデータっていうものを入れて、脳が処理するみたいな、そういうふうに捉えている、一方通行で捉えているんだけれども、実はそうじゃないんだよと。
メルロ・ポンティに言わせると、むしろそのね、双方向でね、月を見る話をしたと思うんですけれども、
当然月が自分に変わってくるし、自分もその月を見るということはあるし、まあ選んでいるというかさ。
そういう見方っていうものを本当は選んで、あの、そういうふうに世界を作り出しているんだけれども、そのプロセスには気づきませんねみたいなさ。
そういうふうにはね、ちょっと僕らが普段意識しない世界の話があるよっていうようなことをしたかなと思うんですよね。
あー、なるほど。ごめん冒頭からちょっと荒いけど、月を見ることを選んでるっていう話があったけれども、
選ぶっていうところも含めてみたいな感じなの?それともパッとさ、砂浜にポイって置かれたとしても、それでも月を見たときに、
やっぱりそのいろんな視覚から入ってくる情報、その機械的に写真でパッと撮った情報とはやっぱりちょっと違くて、
その場にいる感覚、その空気感だったり風だったりみたいなさ、いろんなものを含めて外にある何かを受け取っているだけじゃなくて、
ちゃんと自分で作ってますよというか、見てますよ主体的にみたいな、その双方向性ですねみたいな話があったんだけど、
その選ぶみたいなところも含めてみたいな感じなのかな? そうだね、選ぶ、いわば前回ずっと主体と背景みたいな話をしたと思うんですけど、
やっぱり人間ってもちろんぼんやりと全体を見ることもあるんだけれども、やっぱり何をメインで見て、何を情報としてある種、
何だろうな、捨てるというかさ、やるかっていうところも、やっぱりこれも見る瞬間にそれって本当はもう手段選択されてるんだよね。
何が選ばれましたかとか、何が捨てられましたかってやっぱり普通は意識しないじゃない? そうだね。
そういうことも含めて、僕らっていうのはただただ外のデータっていうものをインプットしてるんじゃなくって、
見るということ自体にその人間の選び取り方とか、そういったものが入ってる、それを今選択っていった感じかな。
なるほど、そっかそっか。前回の話だけで言うとね、月を見ろって言われて同じ、
月をさ、そこに砂浜に2人並べられても、多分取り方違うだろうねぐらいの感覚で受け取ってたんだけれども、
そもそもただ2人をそこに置いた時に、片方は月を見て、片方はもしかしたらただ海見てるだけみたいなこともあるよねっていう。
もう全然あるある。
って話ね。
そうねそうね。
で、他社の問題ちょっとまたややこしいんで、これまた次回にやるんですけれども。
いろいろ減るんだね。
いろいろやっていくよ。
やっぱりこうね、他の人もそうですけど、やっぱり世界の捉え方を一変させるのが哲学だから、
いろんなことがアップデートされるというか変わっていくんだよね。
前回は見ることやりましたねと。
で、今回は体っていうちょっと広がったものをやるんだけれども、
当然1回では扱い切れないので、だいぶ大掴みにしちゃってるところはありますと。
でも雰囲気として伝わればいいなと思ってるんだけれども、じゃあなんで体かっていうと、
デカルトの心身二元論とその問題点
前回もちょっと話した通り、デカルトの話が最初にありますと。
で、これ何かっていうと、要はデカルトがさ、いわゆる神様の時代っていうところから、
やっぱり理性の時代っていうところに近代に移り変わりに立って、
考える精神っていう働きと、あとはその広がりを持つ物体、物質っていうものが空間上に広がってるっていうものをある種定義として置くんだけれども、
イコール体なんだよね。
つまり精神っていうものはどこにあるかわかんないっていうことがむしろ特徴で、
物理的にないっていうことが強みだったんだけれども、それを分けちゃって、
で、この物心二元論とか心身二元論っていう風に完全に分けちゃうんですよね。
そうなのね。
そうするとって話なんだけれども、この二元論って厄介なのは、光と闇とかさ、
何でもいいんだけども、そういう風に分けちゃった時に、それがどういう風に関係し合うんですかとか混ざり合うんですかみたいな、そういう問題が起きるんですよ。
つまり善と悪ってスパッと分けちゃうと、こっからは善でこっからは悪だってグレーがなくなっちゃうじゃないですか。
ああ、はいはいはい。
で、すると善人はいい人だし、悪人はずっと悪い人だみたいになっちゃって、結局そこの行き来とか交流がなくなっちゃうんだよね。
うんうんうん。
それと同じような感じで、このデカイトが心身二元論とかって分けちゃうと、
この物質でしかない広がりを持った、いわゆる体っていうものと、物質世界にはないはずの精神っていうものが、
どういう風に影響をしてるの?っていうことが問題になっちゃうんですよ。
これってイメージ湧くかな?確かに言われてみれば、それってどうやって繋がるの?みたいなのとかって、なんかあるかな?
まあそうだよね、そこを概念で二つに分けてもらったとして、
そもそもその精神の方どこにあるか分からないっていう時点でだいぶもう困るけどね。
そうね、そう。
そこからだよ、まずはね、どこにあんの?そしてどういう風な関係で成り立ってるの?みたいなね。
そうそうそう。だからね、いわゆる魂とかと同じなんだけどさ、なんかあるって言わればあるっぽい?
生きてる人と死んでる人っていうのは違うから、生きてる人に特有の魂っていうものがあるんだろう?とかさ。
意識とかっていうのも、なんか僕らは考える力を持っていて、他の動物とは違うから、なんかあるんだろう?って言葉は言えるけれども、
例えばね、めっちゃ身近な例で言うと、右手を挙げようとかって思った時にさ、
その、挙げようっていう意志はおそらく精神の働きだと言えるよね。
ほいほいほい。
何か僕らの意識とか理性というものがあって、今、挙げた方が良いとか、挙げたいって思ったっていうものがあるから、
それはある種、精神の方に含まれますと。でもその精神的な、なんだ、働きというか、それが、
なんでこの物理的な筋肉を動かせるのかっていうのがわかんないんですよ。
で、それを脳が電気信号とかって言うと、脳も物理だから、脳と意識が違うんですよってなっちゃうんだよね、こんなん逆に。
そうだよね。じゃあその脳に何が働きかけたんですかっていう、どうやって精神は働きかけてるんですかねってなるよね。
そうそうそう。だからどこまで行ってもこれわかんないですねと。
で、逆にそうなんだけど、体の方を見た時に、例えばさ、足の小指、この前ちょっと僕もめっちゃぶつけて、すごい青技というか内出血したんだけど、
めっちゃ痛いじゃん。でもそのぶつけたっていう事象と、痛いっていう意識で、なんで繋がるのって話なんですよね。
おー、確かに確かに。
これも痛みを感じる人とかもいるみたいな話もあると思うんだけれども、なんで物理的な衝撃っていうものが痛みとして変換されて感じるのかっていうのが、
この物心には二元論だとわかんないんですよ。
そうだね。
それを化学で、例えばホルモンがとか電気信号がとか、それを感覚で受け取る脳の回路がとかって色々あるかもしれないんだけれども、
これもさっき言った通りで、意識っていうものを立てた瞬間に、結局そこが離れてしまうので、結局は繋がりがなくなっちゃうっていう風なのが、なんか問題だよっていう風になっちゃうんですよね。
誰にとって?
この物心二元論者にとって。
あー、なるほど。このデカルトが考えた物心元論をある意味極めるというか、深めようとするほどその問題にぶつかっちゃうんだ。
そうそうそうそう。
えー面白いね。
メルロ・ポンティの身体論:二元論の否定と身体の「両義性」
なので実学的にはデカルトってやっぱり元祖だし、そういった発想を受け取ってやっていこうって思っても、でもこの問題にぶち当たった時にやっぱりどうするっていう風なものがあって。
そういったものをやっぱりこう、ある種物心二元論の人たちは色々考えながら乗り越えてきたみたいな感じがあるんですよね。
で、これは大元沢でやっぱりプラトンまで行き着くような話で、よく言うさ、イデアは二元論ですみたいな。
イデア界と現実界がありますっていう時に、なんでイデア界にあるその全のイデアとか、完璧なものが現実に影響するんですかみたいなものがやっぱりめちゃめちゃ大問題なんだよね。
なるほど、はいはいはい。
そこにプラトンっていうか、二姿みたいなものとか、理想のものがあって一部を映し取っているだけだみたいな発想とかもするんだけれども、
一部を映し取るってなんだよとか、それで誰がどうやって判断するんだよとか、色んなことが一問つけようといえばつけれますと。
なるほど、まさに外に正解があるの、極地というかオリジナルだね。
これがずっと言ってる尺点があるとか、客観視するっていう、外の世界に完璧なものがあって、それを人間が受け取りますみたいな発想でいくと常にそこの問題が起きるんだよね。
確かになんだっけ、三角形のイデアを描いてみようみたいなね。
そうそうそうそう。
できんの?みたいなのがあったね。
そう、それってなんだ?みたいなさ、そういうのがあるから、やっぱりそれは無理というか分かんないみたいな感じなんだよね。
そういった時に、これが前回も私第一回から言っているメルポンティの回答なんだけれども、
要はその二つに分けているっていうのはそもそも間違いなんで、結びつけがどうとかっていうのは疑似問題です。
つまり問題ではありませんっていうことを一貫してメルポンティは言うんですよね。
はいはいはい。
これがやっぱり彼のある種回答というか、それまでほとんど他の人が説得力を持って出せてなかった回答を出しましたっていう話なんだけれども、
じゃあ何よっていうね、その心身二元論があった時に、身体と精神ってどうなってるのって言った時に、
前回の最後ちょっと言いましたけれども、そもそも精神が上、種で、身体が中で、機械みたいに従ってるっていう、
この思考が間違ってるんだっていう、デカルトを正面から殴りに行ったみたいな感じなんだよね。
いやー、ある意味哲学あるあるだけどさ、やっぱその土台ぶん殴られると、というかその土台って多分みんな強硬に作ってるから頑丈なはずなんだけど、
いやそうなんだよ。
やっぱそこを破壊できるやつ現れた時の衝撃たるやって感じするね。
そうそうそう、そうなんだよね。
でも兄貴が言う通り、そのね、心身二元論ってものそれこそ当時でも多分2、300年ぐらいの歴史があるから、
やっぱりそこに対するいろんな説とか論っていうのが詰め上がってるんだよね。
それは迷路ポンティーでやっぱ打ち壊しに行きますと。
はいはい。
それをどうやってっていう話が、まさに前回も言ったような現象学っていう風な方法だったりとか、
そういったその僕ら意識できていない世界があるっていう発想なんだけれども、
まず、迷路ポンティーは考えるのね。
その前回言った、ちょっとね、混乱させてまた原始的とか言って、
そういった自然のこととか田舎のこととかっていう話をしたと思うんだけれども、
そうじゃなく、世界と自分関わるっていうその関わる瞬間、
関わり方はそのプリミティブな領域において、
果たしてその身体精神って分かれてるんでしたっけっていう、
そういうことをやっぱ考えていくんだよね。
つまり、僕らが前回で言うとミルだったけれども、
もっと五感を触れ稼働して、
それこそ砂浜の砂が気持ちいいなとか、
風がすごい静かな音が鳴ってるなとかっていう時に、
この聞いている心地よさとか、風の気持ちよさ、
さっき言ったら、身体が傷つけられて痛いって分かれてたじゃん。
でも、この海、砂浜に座っている自分が感じる心地よさと、
風の静かな音と砂の滑らかさとみたいな時に、
これって分かれてるんでしたっけっていうようなことを考えるんだよね。
でいくと、当然メールポンティーからすると、
それって分かれてませんと。
つまり、身体に何か刺激があったからそれを意識が分析して、
これは痛いとか、これは心地いいとかってやってるんじゃなくって、
ダイレクトに、その風の音、砂のサラサラ感っていうものが、
自分の心地よさっていうものと、ある種、生み出しているというか、
そこと直結してるっていう、そういうふうなことを考えるんですよね。
でいくと、あえて精神とか意識とか、別の主体を立てる必要がありませんねと、
いうような感じになっていくんだよね。
で、これは何を言ってるかっていうと、
その意識っていうものは感じる主体で、
身体っていうものはそれを感じるというか、
チャンネルというか道具だったわけなんだけれども、
メールポンティーにすると、いや、違くて身体っていうものが、
感じる主体でもあり、世界に繋がる入り口というか、
通路でもありっていう、
この主体でもあり客体でもあるみたいな、
そういう構造を持つものなんだっていうふうに言うんですよね。
はいはいはい。
うん。これを実は第一回の時にキーワードとして、
あの量儀性って話をしたんだけれども、
量儀性、二つの意義を持つものっていうふうなキーワードとして、
身体の量儀性とかっていうふうに言うんですよ。
どう?ここまでなんかいい感じ?
例えばこの話、量儀性を持ってますって聞いた時に、
いや、じゃあ精神はどこに行ったんだよっていう疑問を持ったとすると、
それはもうあの心身二元論、物心二元論の頭ですねって感じになっちゃうんだよね。
そうそうそう、そういうこと。
ね、だから、
なんだろう、体に全部あるって考えるっていうのは、
なんかおかしいなとか、
じゃあ精神も体の中にあるってことですか?みたいなふうに、
疑問を持つのはちょっとまだ早いよねっていう感じだね。
そう、まだ早い。だからそもそも分かれてないんだから、
どこにあるのって探す必要もないと。
まずは体っていうものをちゃんと考えていけば、
それでも自然にいろんなことは説明できますよね。
わざわざ意識とか精神なんて持ち出さなくても、みたいな。
そういうふうな発想だね。
だからここで、この瞬間に精神っていう感覚、
もしくは精神と物っていうその二元論的な感覚を、
いかに捨てれるかっていう感じがするね。
原始感覚(幻肢痛)から見る身体の不思議
すごい、兄貴がすごい研ぎ澄まされてるね、去年。
そうなんだ、ほうほう。
でも本当そうで、やっぱその、
前回の見ることもそうだけどさ、
やっぱ僕らは外の世界を受け取ってるってやっぱ発想が強すぎて、
いやいや、ここはコミュニケーションで一緒に作ってるんですよって言っても、
やっぱりピンと来ないし、ピンと来たとしても、
じゃあそれどうやるんですか?みたいなさ。
じゃあ私見せてくださいよ、みたいな。
やっぱそういうふうになると思うのよ。
今あれだからね、
物心二元論側の立場で、
果たして論破できるかなっていう感じで聞いてるからね。
はいはいはい、そうね。
でも今僕のっていうか、明朗根の立場からすると、
そもそも分かれてません。
だから探す必要はありませんって話なんだけれども、
それでもただただ主張してもやっぱしょうがないんで、
やっぱいろんな事例を引っ張ってくるんですよね。
で、第二回の時とかにもさ、
いろんな当時の最先端のいろんな朝礼とかさ、
学歴的な知見、哲学以外のものを持ってきてますって話をしたと思うんだけれども、
こういった話をする時にも、
まさにこの最先端というか同時代のいろんなケースを持ってきながら説明をしてるんですよ。
例えば、そういった身体と精神ってものが本当に分かれてないんですか?っていう時に、
彼が持ち出すのが、原始っていう幻の腕とか脂脂。
それこそ怪我とかをして腕とか脚とかを切り落とした人がいると思うんだけれども、
そういう時に腕がある感覚がするとか、ないはずの腕が痛むみたいなさ、
そういう話って聞いたことない?
あるある。
そういうのが当時ある種、
朝礼として出てたし、実際そういうのを治療しようっていう動きがあったわけなんだよね。
ああ、そのないはずの腕の痛みをなくしましょうみたいな、
お医者さんもいたってことね。
そうそうそうそう。
出会った時に、さっきされた通り、指先を怪我して指先の痛みを感じるっていうのが、
物心逃げ論の時にも説明できるじゃないですか。
でも、ないはずの腕が痛むっていうのは、
これ物心逃げ論でやっぱり説明できないんですよ。
できないか。
なぜかっていうと、対象がない痛みを感じるはずの。
うん。
だから100歩譲って、
指先の痛みと痛みを感じる、指先の怪我と、
その痛みを感じる意識っていうのは繋がったとしても、
その繋がるはずの対象の指がないとした時に、
意識は何をしてるのって話なんだよね。
えー、ああ、そうなんだ。
なんかその意識の側が、
その
なんか覚えててとか、意識だけでやっちゃってるみたいな、
ことはダメなのか、その逃げ論的な方だと。
それでいくと、意識っていうものはどんどん格下げされていってしまって、
要は間違い得るとか、過去の誤ったデータを覚えているとか、
そういう名責判明な、世の中を理解する意識じゃなくて、
ゴミデータに溜められていった、使いづらい意識でなっていくじゃないですか。
わー、なるほど。
その客観っていうものがどんどん穢されていくというか、
そうそうそうそう。
あなたの主観でしょと、
いうふうに言われかねないものになっていっちゃうってことね、精神的に。
ない腕が痛むって、それって全然客観的じゃなくないですか。だってないんですよ、みたいな。
うんうんうん。
そうなると、結局物心に言論で合わせると、やっぱりちょっと痛いんだよね、それは。
なるほどなるほど。
痛いんだね。
痛い。痛いとこ疲れたってなるわけだよね。
痛みの話してるから、ちょっと何か周りのわけに。
心の痛みがあるんですけど。
でもこの、メルロポンティが言うような、そもそも体っていうものしかないんですと。
そうなった時には、腕はなくなっただけれども、
腕があったという、やっぱりその人間の感覚だったりとか、
そういうふうに生きてきたっていう積み重ねっていうものは残るんですよ、体の中に。
うんうんうん。
だから、たとえばね、仮に腕がないとしても、たとえば左腕がなくなったとしても、
左腕がぶつかんないような距離感を持ってたぶん人は歩くだろうし、
うんうんうん。
左があった時のように、たぶん振る舞おうとしてなかったってことに気づくだろうし。
うん。
それが馴染んでいくと、やっぱりそういう痛みとかってなくなるらしいんだけれども、
そういうあった時の、まさにそういった体の振る舞いとかっていうものが、
そういった痛みとか、腕がある感覚、まさに原始の感覚でも作っているっていうふうになると、
本当はもっとね、ちゃんといろんな話あるんだけれども、
でも、すごいざっくり言うと、あえて意識というものを置かずとも、
体っていうふうな話をするだけで、そういった現象っていうのが一体説明できるよね、とか。
うんうんうん。
ある種その体っていうものが、ただ受け取っている、その物質として、
ただただその、何だろうな、要はそこにあるから、機能を知るだけじゃなくて、
なくても機能を知るっていうことは、そこに対して物質以上の何かがある。
だってさ、本当に物なんだったらさ、なかったら別に何の影響も及ぼさないはずじゃない?
そうね。
でも、なくても影響を及ぼすということは、
そこには何か物以上の働きとか、こういったものがあるよねっていうことが言えるんじゃないかっていうふうに考えるんだよね。
わー、はいはいはい。
そっか、その物心二元論だと、
今のその物以上っていうのは、物心二元論者へのその、ちょっと当て付けだね。
物以上のものがありますよっていう。
そうですそうです。
そっか。
あなたたちはその体っていうものをただのものとして同列に扱っているけれども、
決してそうではないんですよっていうふうな話だね。
はいはい。
だから、さっきその物以上のものがありますってやると、
じゃあ精神あるじゃんってなるんだけど、
この話を精神の側だけで済ませようとすると精神の方が濁るのでっていうところを、
うまくついてるというか、濁らせてるんだねむしろ。
そうそうそうそう。
そうなんだよね。
はいはい。
原始の話をじゃあ精神っていうもので客観的に説明してくださいって言うと、
すごくやっぱ難しくなってしまう。
わー、だってね、どこにあるかわかんないもんね。
そうそうそうそう。
ないものをないもので説明するって何なの?みたいなさ。
いやー、まだでもイーブンだなまだ。
オッケー。じゃあちょっと2つ目ね。
二重感覚に見る身体の主体性と客体性
2つ目いくんですけれども、
これは精神に原来の規範というよりは体っていうものの不思議さっていう話なんだけれども、
さっき体っていうものは迷路ポンティに言わせると主体でもあり客体でもあるみたいな、
物を捉える働きでもあり捉えられる存在でもあるみたいな、
そういう話をしたと思うんですよ。
これね、結構簡単に考えるんで、
ちょっともしね、余裕がある人はやってみてほしいんですけれども、
二重感覚っていう話があって、
いわゆる自分の右手、右手を左手で触りますと。
右手を左手で、はい。
そう、触りますとすると、
当然左手の方が触るっていう主体じゃないですか。
左手が右手に触るっていう。
なので右手は触れられる客体じゃないですか。
うん。
そうなんだけれども、実はこれを反転させてみると、
右手の方にも左手を触れてる感覚ってあるじゃないですか。
あるね、うん。
つまり右手が左手に触れているとも言えますよねと。
おー、そうね、うんうん。
という時に、この右手と左手っていうすごくなんだろうな、
物質で言うと別の空間とか位置を占めているから、
別のものじゃないですか。
で、客観、でもやっぱこれも真摯に言えるのは反論だな。
客観的な世界でいくと主体と客体って別なんですよね。
うんうんうん。
人が犬を飼うとかっていう風に、
AとBって分かれてる必要があるんだけれども、
でもこの右手と左手ってとこにおいては、
この主体と客体っていうのが両方入れ混じる。
左手が主体でもあり客体でもあるし、
右手が客体でもあり主体でもあるっていう風になります。
うんうんうん。
なので、これって要は、
触れる自分と触れられる自分っていうものがあった時に、
これが一つでもないし、別物でもないっていう、
このまさに両義性、どっちもあるよねっていうことが言えるものが
自分の体ですよねって。
なので、ただの物であればこういったことは起きないんですよ。
要は客体だから。
絶対に何かをされる方、前回で言うと、
外の刺激を受け取るだけとか、
データを集めて意識の方が処理をするっていう風な、
そういう風なものにしかならないんだけれども、
今は右手で、
ごめん。
さっき逆に言ったかな。
右手で左手を触るってちょっと逆になってたところがあったかもしれないんだけど。
左で右手を触るって言ってたよ。
言ってたか。ごめん。
左で右手を触るってことをやった時に、
その主体と客体が常に入れ替わるというか、
どっちもある状態っていうものは起きますねと。
これって、今その自分の体っていうものを見た時に、
他のものにはない特性でした。
っていうことは、やっぱりこの自分の体、
今あくまでも自分のことだけを話すけれども、
この体っていうものは、
あくまでもその意識の主体としての意識、
もう一回言うわ。
自分の体っていうものの主体としての意識と、
その客体としての体っていうふうに分けられるものじゃなくって、
やっぱり両方を持っている、合わせ持っている存在なんですねっていうことを伝えます。
っていうふうな話なんだよね。
はいはい、全くピンとこないぞ。
これはね、多分さっきの原始の話は、
全く逆にわかりやすいというか、
そんだけ劇的なことが起きれば、
確かに体って大事なんですよっていうふうに思うと思うんだけど、
今すごくありきたりな、ただ自分の手を自分で触るっていうことに、
そこに体の主体でもある、客体でもあるっていう意味が、
全部詰め込まれてますねみたいな、
そういう感覚なんだよね。
なるほど、これはちょっと悟った人しか、
もうなるほどとはならなそうな感じか、
そう言われればねっていう感じかな。
ここはもしかしたら感じた人には感じられるみたいなことかもしれないけれども、
ちょっと3つ目も言ってみようか、せっかくなんで。
身体図式と生きた空間:座標空間からの脱却
3つ目はですね、さっきちょっと先取りしたところもあるんだけれども、
さっき例えば左腕が無くなった人がいたとしても、
多分腕が合った時のような感覚を保って人とすれ違うんじゃないか、
そういう話をしたと思うんですよ。
つまり、これもう心身二元来の反論なんだけれども、
物質っていうことは空間の中に広がりを持ちますっていう定義があるって言ったと思うんだけれども、
つまり、いわゆる3次元空間、デカルト座標ってさ、
XY軸ってデカルトが作ってるって話あるじゃない?
あ〜、あったあった、うんうんうん。
そうそうそう、っていうのと同じような感じで、
XYZっていう3次元空間みたいな考え方も、
もともとはデカルトに端を貼らせてるんですよね。
だった時にその空間の座標上において、
位置を占めるものが物質です、言うと、
確かに体も物質なんだよね。
そうね、うん。
行くと他のいろんなものと変わらなくなるんだけれども、
メルポンティアはそうじゃない空間の捉え方っていうものを考えるんですよ。
つまり、いわゆる3次元の座標空間っていうものも空間を客観化しているから、
そうじゃない、客観化される前の空間ってもの何かってことを考えるんですよね。
これ分かるかな?
いや、まだイメージが持てない。
分かんない?
うん。
これね、結構大事なんだけど、
前回もさ、見ることっていうのが一方通行じゃなくて双方向ですと言ったじゃないですか。
うん。
で、その双方向の瞬間だけ生きている、生きた世界か。
うん。
っていう、客観化する前のそういった世界が広がるよって話をしたと思うんですよね。
うんうんうん。
うん。
で、僕らは、これちょっとベルクさんにも違うかもしれないんだけれども、
普段生きていると時間っていうものの切り刻むとか、
空間っていうものを切り刻んで、例えば高い低いとかさ、
右左とかっていう風に言うんだけど、
これ全部客観化されてるんですよ。
はいはいはいはい。
つまり自分から見て右とかっていうのは主観っぽく見えるんだけれども、
あくまでもその、代表空間がある中での位置関係を打ってるだけで、
この右とか左とかって言った瞬間に、
やっぱその空間っていうものを分割して記号化してるわけなんだよね。
うんうんうん。
うん。
って言うと、この空間、分割化される空間っていうものは、
メルロポンテの生きた世界とは馴染まないんですよ。
うーん、そうなんだ。
うん。
で、そうすると、もう世の中を客観視してることになっちゃうから、
うんうんうん。
生きた世界じゃなくなっちゃうんだよね。
はいはいはい。
なるほど、客観視した後にしか生まれないんだね、
そういう空間の座標的な感覚はね。
そうそうそう。
うんうんうん。
なので、この空間捉え方っていうものをメルロポンテは置き換えて、
生きた世界における空間の捉え方っていうものを考えるんですよね。
うんうんうん。
これが、ある種身体図式とかって言われるんだけれども、
うん。
ちょっと難しい言葉を置いといて、イメージとして言うと、
例えばさ、部屋真っ暗にしてみますと、
うん。
何も見えないじゃん。
うん。
っていう時にも、でも自分の手がどこにあるかっていうのは分かると思うんだよね。
そうね、うん。
だから自分の足がどこにあるか分かるっていう時に、
それが、もしその意識で捉えてるとすると、
なんかよく分かんないんだけど意識さんっていうのが、
その体の、なんだ、位置関係っていうものを把握して、
うん。
計算して、手が大体この辺だなとか、
ということは大体この辺りにお腹があって、
そっから下何十センチぐらいに足があるとか、
うんうんうん。
こういう風に捉えているとすると、
意識っぽいんだけれども、
うん。
でもそんなことせずと、
もう大体手とか足ってこの辺にあるって分かるはずなんだよね。
うんうんうん。
そうした時に、この体の捉え方っていうのは、
ある種、距離とか、
空間、まずさっき言った座標?
の捉え方とは違うんじゃないかってことを考えます。
おー、はいはいはいはい。
うん。
つまり、体がその体自身の位置関係が分かるとか、
場所を捉えられるっていうのは、
この体っていうもの全体が一個のシステム、
まさにこうね、今回言ってるゲストアウトなんだけれども、
うん。
そうしてあって、その手の位置は、
右手はここ、左足はこことかじゃなくって、
体全体として何となくこういう位置関係を占めてるよねっていう、
そういうようなものの感覚があるからだって話をするんですよ。
はいはいはい。
うん。
なので、それがあるっていうことは、
身体感覚の拡張:靴や服との関わり
我々体はバラバラの、要は細胞の集まりで分割されていて、
右手と左手は別々だってことじゃなくって、
その体全体が一つのシステムだから、
そういう捉え方をしないと間違えますよねってことを言うんだよね。
うん。
で、これは体だけじゃないっていうのは実は面白いところで、
体がシステムとして捉えるのって、
自分の肉体だけじゃないんですよ。
例えばさ、靴を履いてさ、アスファルト歩くとかさ、
ね、土歩くとかさ、水溜まれるとかっていろんなとこ歩いた時にさ、
うん。
なんとなくその靴底のヌメヌメした感覚とか硬い感覚とか、
そういうのを感じたりしないですか?
あーはいはい、あるね、うん。
っていう時に、本来その、
僕らの体がただのデータのインプット装置なのであれば、
感じろって触れている靴底のその感覚というか、
そこだけなはずなんだよね。
はいはいはい。
でも僕らの体っていうのはその靴の先、
まさに靴底までその感覚を拡張させて、
その靴底が踏んでいるアスファルトとか泥とか、
そういうものの感覚を感じますと。
うんうん。
そういう時に、
あとはその服とかもそうなんだけど、
あの要は、
あのー、服もさ、
普通は意識しないけど、
なんかめっちゃ毛玉ついてるとかさ、
うん。
ゴワゴワする時って急に気になったりするじゃん。
うん、あるね、うん。
っていう風に体の感覚って拡張したりするんだよね。
つまり、
これもその心身二元論の違反みたいな形で、
体が単なるものであれば、
そういった感じ方っていうのが常に一定なはずですと。
うんうんうん。
うん。
インプットは一緒だからね。
でも、
えっと、
空手もそうじゃなくって、
どういう風に、
えっと、
なんだろうな、
世界と関わってるかとか、
あとは何を新しい意味として取り上げているか、
例えばアスファルトを歩いてる時は、
多分そこって感じないんだけれども、
急にぬからみとかに行くと、
ぬめっとした感覚とかってめっちゃ入ってくると思うのね。
うんうんうん。
前回言った、
月が目に入ってくると近い話で、
その時に自分が何にフォーカスをするかとか、
世界とどう関わるかっていうことが、
体に入ってくる情報とか、
体が受け取って世界を考える時の、
世界を捉える時の捉え方っていうものに、
めちゃめちゃ影響してます。
っていうふうな話があります。
これはメラル・ポンティーから言わせると、
その意識っていうものが別にあって、
それで判断するんじゃなくて、
意識が働く前に体が感じていて、
意識なんて関係なくて、
体自体が世界とコミュニケーションを取っている中で、
そのアスファルトの硬さとか、
ぬめぬめしたぬからみの感覚とか、
そういったものを感じて、
そこに対して応答するっていう、
そういうふうな働きっていうものが、
体はあるんだよと、
っていうふうなことを言っていますって感じなんだよね。
なのでちょっとこれはいろんな情報は?って言ったんだけれども、
そういうことで言うと、
身体を通じた世界との出会いと哲学の転換
体は物質ではありませんっていう話。
物質ではない、はいはいはい。
ただの物質や物心二元論者が言うような、
単なるその空間に広がりを持って、
外から何かをインプットするっていうものじゃなくて、
こんなにも気づかないうちにというか、
まさに前回の見るってことと一緒で、
僕らが普段意識しないところで、
こんなにもいろんなことが起きてるんですよっていう、
そういうことを伝えたいんだっていう話なんだよね。
今日の話で言うと、
意識がある前提の人に対して、
意識っていうものがなくても、
人はこの体だけで、
いろいろうまくやってますよみたいなことを、
説明してる感じなのかな?
そうだね。思っていると本当に私っていうのは、
意識じゃなくて体であると。
むしろ体を通してのみ、
世界と出会えるんだっていうふうな、
そういうことをメロポンでは言おうとしてるね。
それはそれ以前の哲学っていうものとか、
科学っていうものが理性っていうもので、
人間が世界と出会えるとか、
あるいは理性とか精神っていうものが、
むしろ人間であるっていうふうな、
そういうことがあったからっていうふうな前提かな。
体の思いを取り戻して聞けるぞって感じ?
そうね。
あまりにもこれまで下げ詰めてきたから、
むしろそれが主体である。
主体である客体であるって、もっと格上げしたいよねっていう。
体の大切さっていうものに目を向けましょうねっていうふうな話と、
一旦は捉えてもいいと思う。
本当にメロポンっていうのをちゃんと読んでいくと、
むしろもっと深いっていうか、
どれだけ体っていうものが、
独自のメカニズムを持って世界とか変わってるかっていう、
そういうことを話したりはしてるんだけれども。
そうなんだ。
うん。
それで言うと、
今回で言う物心二元論との、
レイユー体とメルロポンティリー体の比較として、
めちゃくちゃ際立ってるなみたいなのは原始が一番わかりやすかったかな。
なるほどね。
最後のやつだと、
靴履いてようが何し、手袋してようが、
物心二元論で考えたとしても、
その時のセンサーの入り方は変わるかなみたいな感じで、
まだ分けといてもいいかなって思えちゃうっていう感じはしたかな。
なるほどね。
確かにね、そもそも対象がないっていう方がやっぱりわかりやすいか。
そうね。
確かにね。
そういった特殊な状況とか、
何か病気とか怪我とかでいう人だけじゃなくて、
本当に僕ら普段生きている、
本当に今この瞬間あるっていうことを考えても、
実はそういったことって起きてるよとか、
だけど僕ら客観化した世界にどうしても生きがちなんだけれども、
そうじゃない、あり方があるよっていう風な、
そういう意味で2番目とか3番目の話、
これを話してもらうと嬉しいなっていう感じかな。
そうだね、2番目3番目に関しては、
わざわざ2つに分けなくても、
体だけでこんなにも説明できるんですよ。
むしろ体だけで説明した方が納得性高いでしょっていう風な意味で捉えると、
確かに確かにっていう風に思えるかもねっていう感じはしたかな。
この辺は前回言った自転車例とかはむしろ分かりやすいかもしれないけれども、
何でもそうだよね、車運転する時とかもさ、
バック駐車しますっていう時に、
全部さ、この車幅はいくらで、この駐車場はこのサイズでとかってやるよりも、
大体こんな感じかなってスッて入れた方がもちろん早いとかさ。
あれはダンスとか、もしかしたら兄貴やってる柔術とかもそうかもしれないけど、
頭で考えてこういう技を繰り出してこういう体を動かしてとかってやってたら全然素人で、
わりと体がもう動くとかさ、反応するみたいになって、
やっとこうなんだ、ちょっと上達してきたねみたいな話があった時に、
これは多分現代の、現代的な言葉で言うと身体値みたいな、
身体の知識みたいな感じなんだけど、
その根底には、もっとメルポンティ的に言うと、
そもそも身体っていうものを通じて人は世界の中で生きているんだとか、
世界との関係を作っているんだっていう、
そこまでこう、何だろうな、
遡るというか、何ていうのかな、
ゼロ地点に行くというか、
そういうところまで掘り下げていったんですよっていうような話なんだよね。
これはやっぱり前提が違うんだろうね。
前回の話を思い出すと、
どうしても物心言論的な世界観で言うと、
プラトンのイデアじゃないけれども、
やっぱりその外側にいろんな個体だったりとか、
世界っていうものが存在していて、
空間にせよ、何にせよ、
それを物質である身体っていうものが捉えたものを、
意識が捉えているっていう順番だったり、
そういう仕組みになってますよっていう。
意識と身体だけに目を向けると、
ふーんってちょっとなったけれども、
今改めて、大前提である外側に答えがあります。
世界が存在する、それを捉えるという、
自動的な世界っていうところと、
また今回メル・オポンティの言うところの、
世界は別にそういう世界があるわけじゃないっていうところ。
その大前提を思い出した上で、
今日の話を捉えると、
今やっとなんか、
多分ハヤトの面白いねっていうのに、
少し今じわじわ染みてきたかな、
追いついてきたかなっていう感じはするかな。
なるほどね、確かに確かに。
人間の身体と意識っていうものの、
人間論的な感じと、
身体で全部説明できますっていうところにフォーカスしちゃうと、
うーんってなるんだけど、
その前提としての外側の世界、
の捉え方っていうところも含めると、
あ、確かにっていう感じになってきてる。
うれしい、うれしい。
それちょっと蓄積だね、やっぱりね。
米制っていうのは何回も100点満点の世界があるとか、
身体論の意義と次回の予告(他者論)
客観的に世界を捉えられるっていうことに、
やっぱりメル・オポンティが向き合っているので、
その向き合い方の主体として、
意識とか理性の代わりに働いたのが、
この身体っていうものだって話なんだよね。
逆に言うと、意識とか理性っていうものを大事にしている限りでは、
どう頑張っても100点の世界探しからは逃れられないというか、
それが終わらないっていうことでやっぱり気づいたんだろうね。
そうっていう風な話があるので、
やっぱり僕とかも人間は理性があってナンバーダンみたいな話とか、
その後も体なんて本能なんていらんみたいなことを思っていた時代もあったんですけど、
当時にメル・オポンティを呼んでいたら、
もうちょっと真っ当な人間になったんじゃないかなっていう気もするなと思ってましたね、
この辺りを読んでて。
なるほどね、この身体知的な実践を早めに始められていればみたいなね。
そう、とか、客観的な世界なんていうのは幻想だよみたいな。
そういうことを言ってくれる人がいれば、
もうちょっと理性変調にならなかった10代遅れてたなっていう気がする。
まあ難しいけどね、客観的な世界が幻想なのかって言われると、
幻想ではないからね、リアルとして前提で回ってる世界もあるから難しいんだけどね。
まあね、そこは難しい。
やっぱりリアルと幻想っていう言葉の使い方もあるけれども、
多くの人は客観的だと言われる世界とか、
外の世界に一定の正しさがあるというふうに思って生きている。
確かにそれはリアルなんだけれども、
それが全部幻想だよっていう話でもあるから、
今回のメル・オポンティの話は。
でもそれを言ったら惜しめよみたいなところもあるじゃん。
一気に世界は変わらないからさ。
そうだね、変わってくれればいいけども。
確かにそういった意味でのメル・オポンティだけがすごく正しくて、
他の客観的なものは悪だとか間違えて生きれない部分もあるんだけれども、
やっぱりこういった考え方の知ることによって見えてくる世界観とか、
あるいは自分が感じている違和感ってメル・オポンティが言うところのこの身体っていうことが大事だったんだとか、
物心逃げるまで捉えられたから今自分が大事にしても大事にできなかったんだとか、
そういうことは起こりうるなって思うんだよね。
今回ちょっと身体っていう話を、
だいぶこれもとりあえず3つ例を挙げてみましたって感じなので、
実学的な説明をがっつりしましたってわけではないかもしれないんだけれども、
いったんちょっと前回の見ることと2つお話してみましたよと。
一応今回で近くの原子力の話っていうところはおしまいにして、
次ですね、ちょっと前回言ったんだけれども、
いわゆる他人のっていうと、他人の身体というか、
それってどういうものなんですかっていう話をちょっとしていこうと思うんですよ。
逆の世界があるならば、
自分がいて他人がいてっていうものも同じ物質として意識を持った人間同士がいるって話なんだけれども、
あらってことでフォーカスすると、
世界と関係を作っている私と同じようなことをしているはずの他者っていうものがいることになるわけじゃない?
っていう時に、この他者って自分にとって何だ?みたいな。
そういうこともまた変わってくるんですよ、捉え方が。
サルトルの時とかもそういう話した気がするよね。
じゃあ、他人は何なんだ?みたいなね。
結構まさに次回サルトルの話をしようと思ってて、
今回メイロポンティとサルトルは元々仲良しだったけど、
仲違いしちゃってたって話もしたと思うんだけど、
そういった話も次回していきたいなと思っているので、
ぜひ今回までの話も踏まえつつ、
また次回以降楽しみにしていただければ嬉しいなと思っておりますという感じですね。
次回は他人について掘り下げていくというところで楽しんでいきたいと思います。
引き続きよろしくお願いします。
お願いします。
今回もありがとうございました。
51:17

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