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はい、そのです。こんにちはかな。昼休みの後に撮ってますね。
今日は朝がちょっとね、なんだろうな、体調が悪いせいなのかよくわかんないけど、起きるのが遅くて、散歩もしなかったので昼になってますかね。
今はなんかちょうど昼休みが終わったぐらいの時間なので公園は割と静かかな。
なんかね、曇って雨がたまにぱらつくみたいな感じなので、まあそれもあってかな、とこですね。
昨日は、なんだろうな、記号化されていく人っていうのかな。なんだそれって感じだけど。
例えば、あれかな、あれ前も話したのかなこれ。
僕だとコルクラボの定例会の運営の人とか、司会の人とか、あるいはネッタ分析の会社の人とか、コンサルタントとか、あるいは40代のおじさんとか。
なんかいろいろなタグみたいなものなんだけど、タグは本体があってつくからいいんだけど、
今はオンライン中心になって、直接出会うことがない、接することがないとか、
接触の機会も結構オンラインミーティングだと、要件だけなんで、すごい機能的にそういう意味だと情報処理して、それで終わりになるみたいなのを繰り返しをすることによって、
すごく機能的に人を扱いやすいから、今までの関係性がない人と会うと、すごいコルクラボで運営をやっている人とか、司会の人とかっていうふうに覚えられるけど、
そこからどういう性格の人なの?みたいになってくると、ほとんど情報がなくて、司会といえば、例えば信仰管理をしっかりできる人とか、きっちりしてる人とか、真面目な人とか、
タグになっていた記号が主語になって、理解をしていくから、ほとんど例えばそのっていう個人についての個人的なことっていうのは知らずに、また考えずに、
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どんどんそのっていう名前のコルクラボの司会だったりとか、コンサルタントっていうのがすられていくというか、広がっていくなーみたいなことを考えていたかな。
なんかそれがね、この前の感情を伝えるとか、自分を伝えるっていうことが大切になってくるゆえんだなというふうなことを考えてたかな。
そんなこんな至った昨日はというと、在宅で仕事を処理して、昨日は木曜日だったよね。
昨日話したような気もするけど、テレ会の司会に関してもらった意見の返信とかもしつつ過ごして、夜は少し知っているメンバーで雑談しようみたいな感じで、
コルクラボでリーダーやったことある人とかで少し集まって雑談してて、その中で最近の自分の気づきとかを話しているときに、
そもそも最近入ってきた人だと、まるで自分が運営の偉い人みたいな感じで、上下関係を、別に上下関係っていうほどまで意識はしてないと思うけども、
何か少し言っていることを聞かなきゃいけないみたいな、強制しているような感覚を持つような関係性に思われてそうなことに気づいて、
そうなったときに多分、お互いに個人を知らない、特に扱われるっていう意味では、こっちのことを知らない、確かに自分も接触してないから、
知っている人がたまたま前に立っているっていうシチュエーションじゃなくて、そもそも前に立っている人と話すっていう感じになって、自分も何か飢餓として扱われているなぁみたいな、
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そこがね、すごい気になったなっていう話とかをしてたかな。
結構そういう意味だと、フォルクラボっていうコミュニティに対して、その傾向っていうのが進むとまずいなと。
それはみんなが与えられるっていうこと、運営が用意してそれを受け取るっていうことにどうしても集中しがちになって、
自分のできることは当然前向きにやるし、別に一人一人の心持ちがどうってわけではないんだけど、
そういう用意されたものを受け取り、できることをするっていうのが当たり前のコミュニティになったときに、
コミュニティに広がっていく感じはなくなって、ワクワクもなくなるから、そうなってくるとだんだんコミュニティは死んでいくよねっていう気はするんだよね。
そうなってくるとまずいんで、何か変えなきゃいけないんだなっていうのを昨日はより強く感じたところかなと思ってるかな。
思ったより深いところまで枯れ始めてるみたいな、そういう感覚があるかな。
気になったのは運営と自分みたいな形で、同じメンバーにも関わらず、僕がフラットっていうのがすごいこだわるからってなるけど、
同じメンバーにも関わらず、与える与えない、与えるのと受け取るのに差がつくような線ができ始めてるっていうことと、
あとは安全安心っていうのを僕らはよく使うんだけど、安全安心が何ヶ月か前くらいからだんだん認識が違うねみたいな話があって、
自分自身もアップデートしたんだけど、安全安心とか心理的安全性だね、世間一本で言う心理的安全性っていうのは、もともと中原先生がコラボに書いた通りで、
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チャレンジをするっていう前提のもとをそのチャレンジをするときに、そういう意味では否定をされたりとか、心の中でネガティブに思われてないっていうふうに安心できることを心理的安全性って呼んでるんだけど、
今は特に居心地とかそういうものにフォーカスした結果、自分が守られてるって感じるので、極論すれば何もしなくても認められているっていうのを重視するような雰囲気になってしまって、
そこも新しいことをやるやつが損をするみたいな感じなんで、なんだかなっていうところと、あとはチャレンジだよね。
与えると受け取るっていうのを、よく水を汲むって言うんだけど、水を汲んだら新しい水を注ぐっていうような話をよくコラボではするんだけど、
その辺の考え方も少し弱くて、コールグラボの中で経験を積まないと与える側にはならないみたいな、そういう風潮なんだよね。
でも与えるか与えないかっていうのは、スタンスの問題でできることをするとか、自分がチャレンジをするとか一歩踏み出すっていうのが与えることで、受け取ってから与えようっていう、
ギブアンドテイク、いやテイクアンドギブか、ギブアンドテイクでもいいんだけど、それがむしろ助長されてるような気がして、
本当はギブ10でテイク1ぐらいのものを目指してたはずなのに、すごい今は認識が固まってきてるなーみたいなのを感じながら話してたかな、そんな今日は振り返でした。