本日のゲストは現代美術家の横尾忠則さんです。
よろしくお願いいたします。
よろしく。
はい、西条の今アトリエにお伺いしてお話を伺っております。
はい。
早速なんですけど、横尾忠則現代美術館で今されているレンガの幅展ですね。
拝見してきました。
すごく面白く拝見させていただいて、
ちょっとこの辺りの話から伺っていきたいなと思うんですけど、
まずこのレンガの幅展、80代後半になられて、
新たな取り組みを始められたということなんですけど、
この展覧会がまず横尾さんにとってどういう位置づけなのか、
この一連の作品がどういうものなのか、この辺りから伺ってもよろしいでしょうか。
そうですね。
位置づけ。
そんなものがあるかどうかわからないですけれどもね、
この絵の舞台になっているのは僕の郷里ですよね。
郷里は兵庫県の西脇市というところの郷里で、
郷里で一緒に過ごした同級生をテーマにして描いた作品ですね。
同級生というのは僕の分身でもあるわけですよね。
ある意味で特別の存在でもあるのかなと思ったりするんですけども、
僕も90歳になってですね、
同級生が全部集まることは不可能なんですよ。
もう大半が皆いなくなってしまって、
ほんのわずかの人たちしかいなくなって、
そのわずかな人たちの中のさらにわずかな人に集まってもらってですね、
僕がよく遊びに行っていた鉄橋のある河原ですね、
そこに皆が来てくれまして、
そこで写真を撮ったり、それから雑談したり、
そういう時間を過ごしたわけですけれども、
その過ごした時間をテーマにした作品を今度発表したわけですけれども、
どういうふうに言っていいのかな、もう一回質問してもらおうかな。
分かりました。80代後半からですね、
絵画の川についてどんどん変化をしていく作品ということで作られたということなんですけど、
その横さんの長い芸術家人生にとって、
それがどういう位置づけの作品だったのかというところですね。
そうね、まず変化というのは時間を表しますよね。
とにかく変化する、生きているということは既に変化ですからね。
それでそこに、それぞれ久しぶりで会ったり、いろいろするんだけども、
やっぱり変化の集積というか、変化そのものなんですよね。
かつて小学生時代だったとか高校時代だった、
そういった人たちが何十年後かに、
70年から80年後に会うわけですけれども、
そこで感じるのは、やっぱり時間。
時間というのは変化の集積ですからね。
それをですね、絵に描けないかなと思って、
それで始めたわけです。
最初に同級生が集まって写真を撮ったのが、
何年ぐらいだったかな、60年代か70年代だと思うんですけれども、
この鉄橋の下の河原で十数人が集まって、
写真を舟山岸さんに撮ってもらって、
その写真を元にして、何か時間の変化が展開できないかなと思って、
始めたわけですよね。
だから何かテーマがあるとかね、
意味があるとかそういったものじゃなくて、
とりあえずまあ、描き始めましょうっていうので、
描き始めたわけです。
それがどういうふうに変化して、どんな絵になっていくかっていうのは、
描き上げないと全くわからない。
レンガの川っていうと、歌のレンガってありますね。
誰かの歌を次の人がそれを受け継いで、
また次々と渡していく。
それを絵で表してみようということで、
しかもレンガっていうのは何人も複数の人たちが作っていく歌ですけれども、
僕の場合は自分が一人ですね、一人が作っていく。
まず一枚描いて、
二枚目は一枚が描き終わらないと、
二枚目が描けないわけです。
二枚目が描けば今月は三枚目、それで四枚目って、
一つずつ描いていかないと作品が進化していかないわけですよね。
それをやってみようと思って。
実験でもあると同時に、お遊びでもあるわけですよね。
そういったことで始めたシリーズですけれども、
これは言葉で僕が今話しているわけですけれども、
実際は作品を見てもらうのが一番いいわけです。
だけどそれはちょっと不可能だから話をしなきゃいけないんだけれども、
言葉にすればするほど絵から離れていってしまうわけです。
絵に近づくんじゃなくて、絵から離れていって、
絵でないものになってしまうという意味では非常に矛盾しているわけですよね。
話すということ自体がね。
だから言葉にできないものを僕は絵にしているわけです。
その絵をさらにまた言葉にもう一度引き戻そうということで、
これはもうそのこと自体が不可能なことですね。
だから絵について語る、喋るということ自体が、
そもそも不可能なことですよね。
すみません、そうすると恐縮ながらそのテーマから話が始まってしまったんですけど、
そうすると毎日キャンパスに向き合われて、
横尾さんご自身もどういうふうに変化しているかわからない中で描かれていたっていうことですかね。
そうですね。だから自分が何をしようとしているのかさえわからない。
描き上がってからこんな絵ができましたっていう。
そういう、なるようにしかなっていかない。
そこにイメージがあるとか、アイデアがあるとか、
テクニックがあるとか、表現があるとか、
そういったことは一切ないわけです。
とにかく描かないと絵になっていかない。
これはね、それをね、また今こうやって言葉に置き換えようとしている、
これほとんど不可能なことをやっているわけですよね。
だから皆さんにぜひこの場所に、場所っていうのは展覧会場に行って、
見ていただける、いただく。
そして自分でご覧になった時の気分でもいいし、
感性でもいいんだけども、そこでいろいろ感じ取ってもらう。
これが絵の役割でもあると思うんですけどね。
文学とか他のことだったら言葉に置き換えられるけども、
最も言葉に置き換えられないのが絵だと思うんですよね。
そうですね。
すみません、ちょっと音声コンテンツという形態上、
どうしても言葉で聞かざるを得ないっていう制服があって、
嬉しくないんですけど。
だから目の前にない絵をですね、
言葉で、僕の言葉を聞いている人に伝えようということ自体が、
そもそも不可能なことですよね。
その中でもう一点だけ伺ってもいいですか?
それで言うと、どんどん時間とともに変化していったと。
まさに連続で、私も鑑賞させていただいたんですけど、
突然そのあるモチーフが現れたりとか、
最後は思いもよらぬところに作品が変化していったというところが
わかったんですけど、
その変化について、
横尾さんご自身も何かその変化から気づきを得たりとか、
こんな風になったんだっていうような、
何か発見っていうのはありましたでしょうか?
これはね、本当に描いてみないとね、
頭で考えて、
この前の作品をこういう風なものを描いたから、
それをここで新たに変化をさせてみようとか、
そういうね、考えそのものをね、
絵を描いているときは、
頭の中から考え、あるいは言葉を全部排除しているんですよね。
排除して、極端に言うと、
頭を空っぽにして、真っ白にして、
何も考えられない状態で絵を描いていく。
そういう意味では、文章を描いたりする行為とは全く正反対。
むしろ、スポーツ選手というのか、
アスリートが瞬間的に何かことを起こしますね。
それに近いことをやっていると思うんですよね。
例えば、スポーツ、野球だったら野球に置き換えるとですね、
ピッチャーがボールを投げました。
投げる前まではどういう球を投げようかっていうことはあったかもしれない。
しかし、ボールが手から離れた瞬間、
思ったようにならない。
ボールが勝手に走ってしまう。
バッターはバッタイで、
多分ピッチャーがこういう球を投げてくるだろうって想定して、
それを待ち構えているところが、
予期せぬボールが飛んできた。
そこで合わせて打つなり、身を引くなりしますね。
それは本当に一種の瞬間芸。
0.00っていう瞬間ですよね。
その瞬間がスポーツっていう、
野球にかけらず他のスポーツも、
みんな瞬間だと思うんです。
それと同じ考え方で捉え方で、
僕は絵を描いているわけだから、
アーティストじゃなくって、
アスリートなんですよね。
やっていること自体が。
アーティストって言うと、
今日的な芸術を考えると、
コンセプシャルアートっていう言葉をご存知だと思いますけども、
つまり頭で考えて、それを言葉に置き換えて、
それを絵にするっていう、
それがコンセプシャルアート。
だけど僕は、
全く反コンセプシャルアートで、
考えないっていう、
言葉にもしないっていう、
コンセプシャルアートって言うと、
今日の最先端の芸術っていうのは、
コンセプシャルアートなんですよ。
僕は全くそれのね、
反対のことをやっているわけです。
考えない、
言葉にもしない、
それを瞬間的に絵を描こうとしている。
コンセプシャルアートっていうのは、
考えて考えて、
とことん考え抜いてですね、
それを言葉、
言語化にできるところまで考えて、
それで作品にする。
その方法と僕は、
全く正反対の方法を取っているわけですよね。
だからそこが、
他の作家とは全然、
結果としても、
絵を描く動機としても、
全く違うことをやっていると思いますね。
だから見る人がね、
何を描いているんだろう、
何を言わんとしているんだろう、
この絵の意味はっていう風に、
絵の見方が固定化されてしまっているんです。
されてしまってますよね。
それはコンセプシャルアートを見ている習慣が、
そういう風な問いかけてしまうんです。
これは何ですか、
意味は何ですか、
ここに書いてあるのは何でしょうか、
とにかく自分で感じ取るっていうことじゃなくて、
とことん問い詰めて、
作家なりあるいは評論家に問い詰めていくわけです。
その人たちは問われれば答えるわけです。
僕は問われれば答えられないんですよね。
そこが根本的に違うなと思いますね。
だけど僕がやっているのも現代美術、
コンセプシャルアーティストのも現代美術、
同じフィールドでやっているんだけど、
全くやっていることが異なっているわけですよね。
その結果が今度の作品で、
さっきもお話ししましたように、
まず1点描く。
1点描かないと2点目が浮かばないんですよね。
それで2点目を描く。
今度3点目はどういう絵を描くのかは、
2点目を描いている最初には全くわからない。
描き終わってホッとした時に浮かんでくるのが3点目なんです。
その次は4点目5点目というふうに、
ずっと点数を増やしていって、
今回は60数点描いたと思うんですけども、
そういうふうにきて、
これで終わったわけじゃないです。
未完で終わっているわけです。
常に僕の作品というのは、
全て未完なんですよね。
終わっていないんです。
終わっていないから、
何をしようとしている。
それも自分ではわからない。
だからそれを見る人は、
分かろうとすることをまず頭から捨てて、
排除して、感じ取る。
作品の前に立って、
作品から感じ取る感じ。
それがその人の作品なんですよ。
僕の作品じゃない。
その人が感じ取ることによって、
その人の作品ができるんです。
Aさんが見ればAさんの作品、
Bさんが見ればBさんの作品です。
共通していないんですよ。
そういうことで僕はやっているので、
コンセプチャルアートは共通しているんですよ。
各作家がこういうふうに描いたんだ、
こういうふうに見てほしいって要求してくるんです。
そうすると見る側もその通りに見て感じる。
僕は全くその反対。
ある意味では何も考えない、
ぼんやりした状態で感じ取ってくれれば、
それは僕の作品がぼんやりしたものでいいわけです。
そこに何でもかんでも意味づけたい人が、
性格的に意味づけたい人がいるとすると、
その人はしきりにいろんな書かれているものに対して、
意味を求めていく。
それはその人の見方だけれども、
その人の見方は僕からどんどん離れていった見方で、
何にもわからなかったっていう。
横尾さんの絵をじっと見てて、
何にもわからなかった、
あるいは気持ちよかった、あるいは気持ち悪かった。
あれでいいんですよね。
あるいは見てる間にお腹が空いたとか、
あるいは見てるうちにどこか行きたくなった、
とか感じる。
そのことがその人の行動であり、
僕の絵を感じ取ってくれた瞬間でもあると思うんですよね。
そうですね。
多分とかく頭でっかちになってるのかなという感じがする。
頭でっかちですね。つまり関連的で。
とにかく知識そのものを吸収しようとする。
そんなものいらないんですよ知識なんか。
何にも知らなくていいんですよ。
1たす1は2かもしれないけども
1たす1は100だって5でも6でも何だっていいんですよ。
それをそこに結果を求める。
正しい答えを求めようとする。
正しい答えなんかないんですよ。
1たす1は2だけれども
1たす1は芸術の世界は3であり5であり100でもあるわけです。
予報さまの目からご覧になって
特に現代、最近になって頭でっかちの傾向っていうのは
強くなってるなっていうふうにお感じになりますか?
世間を見てると
やっぱり学問本位になってしまって
それで物事を白黒善悪つけすぎるんですよ。
いいことと悪いことと分別するんです。
それは西洋の近代主義的なところから来てるかもしれないけども
そんなもの分別することないんですよ。
もっと無分別でもっとそれがぐちゃぐちゃになっちゃって
ほんとにとした幕の内弁当でいいんですよ。
ちゃんとしたおにぎりではなくて
幕の内弁当でぐちゃぐちゃになって
そういうことを我々の日常生活の中でやっていかないと
みんな白黒で分別する。
特に知識を主導にしている知識人、インテリ
インテリはみんな物を分別したくなる。
いいこと、悪いこと、正しいこと、間違ってること
美しいこと、醜いこと、全部分けるわけ。
安心するわけです。どっちを取るかっていう
安心するわけですよね。
善も悪も分けることないです。
善の中に悪があって、悪の中に善があるんだから
それぐちゃぐちゃになってるのは我々が人間がそうなんですよ。
その人間をいくつかに分析していこうとするより
僕は無分別でいいんですよね。
芸術が求めているのは無分別なんですよ。
ところが今の流行りのコンセプチャルアートは
そこに意味を求めようとする。
知識人がやったことと同じことをやろうとする。
学校で教えるのは知識ばっかりですよ。
知識っていうのはある一つの教わったことは
枠の中に放り込むわけです。
そうすると枠の中でしか物が考えられなくなるんです。
ところが知識がなければ枠の外、
これは大自然、宇宙まで行っちゃうくらい枠がないから
自由奔放に何だっていいんです。
だけど知識を得ちゃうと自由奔放、
何でもよく生きることができなくなるんです。
自分が経験して覚えたり、感覚的にそれを取り入れたことだけを
その中のものを活用してそれを利用して生きていこうとするから
非常に狭い世界。
知識人というのは本当に狭い世界の中で
ぎゅうぎゅう詰めの中で生きているわけですよ。
だから自分が学んだ知識でないものがその中に入り込むと排除するんですよ。
本当は彼が学んだ知識より宇宙はもっと遥かに広大無限じゃないですか。
そこから来るインスピレーション、それをキャッチしないとダメ。
それはまた直感でありったりね。
どこから来たか分かんない。大自然から来たかも分かんない。
もしかしたら神仏から来たかも分かんない。悪魔から来たかも分かんない。
死者から、死んだ人間から来たかも分かんない。
それぐらい自由奔放っていうのが無限なんですよ。
知識はそれの反対のことをやっちゃうんですよ。
だから芸術は知識じゃないんですよ。僕もやろうとしてるのは。
ところが一方で今流行りの芸術はみんな知識なんですよ。コンセプシャルっていう。
だから僕は全く反対のことをやってるわけです。
特にここ数年だとAIというものが社会にかなり影響を与えていて、
でも正しい知識がとにかく溢れている世の中になっているので、
どんどん人々が頭でっかちになっているんだろうなというのは感じますね。
頭でっかちは限界ないんですよ。
本3万冊読みましたっていう知能巨人は言いましたけれども、
3万冊より4万冊のが知能巨人よりもっとすごいのか。
5万はもっとすごいのか。だから今おっしゃってる限界がないんです。
そうですね。確かに。
でもそれで言うとやっぱり現代人がそれこそ身体勢であり衝動であり
感情というのを取り戻すための何かをしなければいけないってことなんですかね。
やっぱり身体勢、今おっしゃった身体勢っていうのはものすごく重要だと思います。
だから僕がアスリートって言ったのは身体勢。
だから野球のピッチャーが別に一流の大学出てなくてもいいんです。
中卒でもいいんです。身体勢が大学生以上であればいいわけでしょ。
だからそれを狭い枠を決めてそこで学ばせようとしちゃうから
そういうことになっちゃうわけ。
なるほど。
たぶんこの聞いている人も含めて意味の方に延長している人たちは多いんだろうなという感じがするんですけど、
そういった人たちに向けては、横尾さんとしては何か…
一言。考えるな。考えない力を身につける。
世間は考える知識を身につけすぎたんですよ。
考えない知識っていうのは非常に重要なんです。
僕はかつて若い頃に座禅をしました。
お寺で1年間くらい座禅をしたんですけれども、
禅が求めている究極のものは何かというと考えるなということなんです。
だから経典も何もないんです。何も教えられない。
ただ座っているだけです。
座っていると次から次いろんな物事が雑念として巨大化してくるわけです。
子供のことが出てきたり、友達のことが出たり、
どこか旅行に行ったことが出たり、食べ物が出たり、いろんなことが出たり。
それは全部知識と経験なんですよ。
それを一つずつ全部目の前に現れたら、それを全部流していくんです。
そうしたら何にも来なくなった時が悟りなんですよ。
何にも来なくなったということは無になった時ですよね。
それは悟りです。
その悟りまで10年、20年、30年かかるんですよ。
1時間ぐらいでなりませんからね。
だから物を考えないという、
これは禅の教えというのは面白いなと思います。
一回やってみるといいと思うけど、
大抵学禅として帰ってくると思います。
考えないことの苦しさ。
でもそういう経験をしていると、
僕なんかの年になると考えること自体がバカバカしくなってくるんですよ。
もう考えることは死ぬことしかないんですよ。
そうすると辞めたってことになるわけですよね。
そういう意味ではある程度年を取るということは大事だと思いますね。
本当は年を取らなくたって、
若い時にそういう老年になって経験する経験を
若くても同じ経験を得られると思うんですよ。
だけど勉強しすぎてしまっているからできない。
今まで学んだことを全部今度は捨てる生き方をしなきゃいけない。
例えば50代までいろんなものを学びました。
51歳から100歳まで今まで学んだものを
順番に捨てていく。
最後ゼロになった時にその人は悟りになるんですけどね。