【土曜版 #88】現代美術家・横尾忠則が語る、創作論、死生観、そして運命について
2026-07-25 1:12:13

【土曜版 #88】現代美術家・横尾忠則が語る、創作論、死生観、そして運命について

「News Connect」土曜版。今回のゲストは現代美術家の横尾忠則さん、収録は世田谷区のアトリエで行われました。1936年生まれ、90歳。3歳から絵を描き続け、60年代からはグラフィックデザイナーとして活躍。80年代初頭に画家へ転身し、以来旺盛な創作活動を展開されてきた日本を代表するアーティストです。現在開催中の展覧会「連画の河」を起点に、考えずに描くという創作論、「飽きる美学」の真意、そして寺山修司・三島由紀夫・唐十郎らと受け身で出会ってきた人生まで、横尾さんの人生哲学が詰まったインタビューです。

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【ゲストプロフィール】

横尾忠則/現代美術家

1936年兵庫県生まれ。美術家。1972年ニューヨーク近代美術館で個展。その後もパリ、ヴェネツィア、サンパウロなど各国のビエンナーレに出品し、国内外の美術館で個展を開催。2012年には兵庫県立横尾忠則現代美術館、2013年には豊島横尾館を開館。主な受賞、綬章に毎日芸術賞、旭日小綬章、朝日賞、高松宮殿下記念世界文化賞など。令和2年度東京都名誉都民顕彰、2023年日本芸術院会員、文化功労者に選ばれる。著書には小説『ぶるうらんど』(泉鏡花文学賞)、『言葉を離れる』(講談社エッセイ賞)『原郷の森』など。

横尾忠則現代美術館https://ytmoca.jp/

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▼撮影:遠藤素子

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感想

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サマリー

現代美術家の横尾忠則氏は、自身の創作活動や人生哲学について深く語りました。特に、思考や意味を排除し、アスリートのように瞬間的な衝動で絵を描くという独自のスタイルを強調。作品は鑑賞者それぞれが自由に感じ取るものであり、言葉で説明することは絵の本質から離れる行為だと述べました。 横尾氏は、現代社会が陥りがちな「頭でっかち」な知識偏重や、物事を白黒つける分別主義に警鐘を鳴らします。禅の教えにも通じる「考えない力」や「無分別」の重要性を説き、知識を捨て、身体性や直感を取り戻すことの価値を強調しました。また、自身の著書「飽きる美学」に触れ、一つのことに熱中し「飽きる」ことが、次なる変化と成長を促す原動力であると語りました。 さらに、横尾氏は「生は死のシミュレーションであり、死こそが本番」という独自の死生観を展開。欲望や執着を捨て去ることで、死後の世界を極楽と捉えることができると示唆しました。自身の人生を「受け身」と表現し、画家への転身もピカソ展での「洗脳」によるもので、運命に身を委ねることで予期せぬ面白い展開が訪れたと語り、リスナーにも「努力せず運命に任せる」生き方を提案しました。

オープニング:横尾忠則の創作と人生哲学
あきてからが実は本番なんだっていうふうに 書かれていたと思うんですけど、
やっぱりその飽きという感情は悪いことではなくて、 むしろその次に自分を進めてくれる。
つまり飽きるっていうことは、飽きるぐらいそのことに 夢中になって熱中したから飽きるんですよ。
飽きたときは、なんか俺はなんか妙なものにね、 こだわって囚われてたな、意味なしでお仕事するのが一番いいんですよ。
ところが、みんな意味を求める。 意味を求めないとできない。
そういう人間性ができてしまってるような気がするんです。
みんな、いろんな見る人が、いろんな日常生活の中で、 全て意味を求めて、なぜ?っていう質問を投げかける。
そういう生活を僕は排除してもらいたいんです。
めちゃくちゃ現代人に必要な態度だなというふうに 思いました、今。
運命に任せた結果、やっぱり結構人生面白いなっていう感じはありますか?
大抵の人は怖い。そんなことできない。
僕は何が起こるかわからないことが期待を持ったんですよ。
誰が来てどこ連れて行くかわかんない。 これは僕が期待やってる。
ところが他の人はみんな恐れなのよ。
全部運命に任せて、そのために今日まで来れた。
だから僕はみんなに運命に任せなさい。 努力しなくていいよって。
いやーすごい人生ですね。
だからそのままずっと今日まで来てしまった。
こんにちは。パーソナリティーの野村孝文です。
本日のゲストは現代美術家の横尾忠則さんです。
横尾さんは1936年生まれの90歳。
1960年代から70年代にかけてグラフィックデザイナー、イラストレーターとして活躍された後、
80年代初頭には画家に転校し、以後旺盛な創作活動を展開されてきた日本を代表する現代アーティストです。
今日は横尾さんの最新の作品を皮切りに、
3歳から90歳まで絵を描き続けるとはどういうことか、
現代社会をどう見つめているか、そして死と生についても伺いました。
前置きはこれくらいにして、まずはぜひ本編を聞いていただければと思います。
収録は世田谷区西条にある横尾さんのアトリエで行われました。
それではどうぞ。
「連画の河」展と絵画における時間の表現
本日のゲストは現代美術家の横尾忠則さんです。
よろしくお願いいたします。
よろしく。
はい、西条の今アトリエにお伺いしてお話を伺っております。
はい。
早速なんですけど、横尾忠則現代美術館で今されているレンガの幅展ですね。
拝見してきました。
すごく面白く拝見させていただいて、
ちょっとこの辺りの話から伺っていきたいなと思うんですけど、
まずこのレンガの幅展、80代後半になられて、
新たな取り組みを始められたということなんですけど、
この展覧会がまず横尾さんにとってどういう位置づけなのか、
この一連の作品がどういうものなのか、この辺りから伺ってもよろしいでしょうか。
そうですね。
位置づけ。
そんなものがあるかどうかわからないですけれどもね、
この絵の舞台になっているのは僕の郷里ですよね。
郷里は兵庫県の西脇市というところの郷里で、
郷里で一緒に過ごした同級生をテーマにして描いた作品ですね。
同級生というのは僕の分身でもあるわけですよね。
ある意味で特別の存在でもあるのかなと思ったりするんですけども、
僕も90歳になってですね、
同級生が全部集まることは不可能なんですよ。
もう大半が皆いなくなってしまって、
ほんのわずかの人たちしかいなくなって、
そのわずかな人たちの中のさらにわずかな人に集まってもらってですね、
僕がよく遊びに行っていた鉄橋のある河原ですね、
そこに皆が来てくれまして、
そこで写真を撮ったり、それから雑談したり、
そういう時間を過ごしたわけですけれども、
その過ごした時間をテーマにした作品を今度発表したわけですけれども、
どういうふうに言っていいのかな、もう一回質問してもらおうかな。
分かりました。80代後半からですね、
絵画の川についてどんどん変化をしていく作品ということで作られたということなんですけど、
その横さんの長い芸術家人生にとって、
それがどういう位置づけの作品だったのかというところですね。
そうね、まず変化というのは時間を表しますよね。
とにかく変化する、生きているということは既に変化ですからね。
それでそこに、それぞれ久しぶりで会ったり、いろいろするんだけども、
やっぱり変化の集積というか、変化そのものなんですよね。
かつて小学生時代だったとか高校時代だった、
そういった人たちが何十年後かに、
70年から80年後に会うわけですけれども、
そこで感じるのは、やっぱり時間。
時間というのは変化の集積ですからね。
それをですね、絵に描けないかなと思って、
それで始めたわけです。
最初に同級生が集まって写真を撮ったのが、
何年ぐらいだったかな、60年代か70年代だと思うんですけれども、
この鉄橋の下の河原で十数人が集まって、
写真を舟山岸さんに撮ってもらって、
その写真を元にして、何か時間の変化が展開できないかなと思って、
始めたわけですよね。
だから何かテーマがあるとかね、
意味があるとかそういったものじゃなくて、
とりあえずまあ、描き始めましょうっていうので、
描き始めたわけです。
それがどういうふうに変化して、どんな絵になっていくかっていうのは、
描き上げないと全くわからない。
レンガの川っていうと、歌のレンガってありますね。
誰かの歌を次の人がそれを受け継いで、
また次々と渡していく。
それを絵で表してみようということで、
しかもレンガっていうのは何人も複数の人たちが作っていく歌ですけれども、
僕の場合は自分が一人ですね、一人が作っていく。
まず一枚描いて、
二枚目は一枚が描き終わらないと、
二枚目が描けないわけです。
二枚目が描けば今月は三枚目、それで四枚目って、
一つずつ描いていかないと作品が進化していかないわけですよね。
それをやってみようと思って。
実験でもあると同時に、お遊びでもあるわけですよね。
そういったことで始めたシリーズですけれども、
これは言葉で僕が今話しているわけですけれども、
実際は作品を見てもらうのが一番いいわけです。
だけどそれはちょっと不可能だから話をしなきゃいけないんだけれども、
言葉にすればするほど絵から離れていってしまうわけです。
絵に近づくんじゃなくて、絵から離れていって、
絵でないものになってしまうという意味では非常に矛盾しているわけですよね。
話すということ自体がね。
だから言葉にできないものを僕は絵にしているわけです。
その絵をさらにまた言葉にもう一度引き戻そうということで、
これはもうそのこと自体が不可能なことですね。
だから絵について語る、喋るということ自体が、
そもそも不可能なことですよね。
思考を排除した創作:アスリートとしての芸術家
すみません、そうすると恐縮ながらそのテーマから話が始まってしまったんですけど、
そうすると毎日キャンパスに向き合われて、
横尾さんご自身もどういうふうに変化しているかわからない中で描かれていたっていうことですかね。
そうですね。だから自分が何をしようとしているのかさえわからない。
描き上がってからこんな絵ができましたっていう。
そういう、なるようにしかなっていかない。
そこにイメージがあるとか、アイデアがあるとか、
テクニックがあるとか、表現があるとか、
そういったことは一切ないわけです。
とにかく描かないと絵になっていかない。
これはね、それをね、また今こうやって言葉に置き換えようとしている、
これほとんど不可能なことをやっているわけですよね。
だから皆さんにぜひこの場所に、場所っていうのは展覧会場に行って、
見ていただける、いただく。
そして自分でご覧になった時の気分でもいいし、
感性でもいいんだけども、そこでいろいろ感じ取ってもらう。
これが絵の役割でもあると思うんですけどね。
文学とか他のことだったら言葉に置き換えられるけども、
最も言葉に置き換えられないのが絵だと思うんですよね。
そうですね。
すみません、ちょっと音声コンテンツという形態上、
どうしても言葉で聞かざるを得ないっていう制服があって、
嬉しくないんですけど。
だから目の前にない絵をですね、
言葉で、僕の言葉を聞いている人に伝えようということ自体が、
そもそも不可能なことですよね。
その中でもう一点だけ伺ってもいいですか?
それで言うと、どんどん時間とともに変化していったと。
まさに連続で、私も鑑賞させていただいたんですけど、
突然そのあるモチーフが現れたりとか、
最後は思いもよらぬところに作品が変化していったというところが
わかったんですけど、
その変化について、
横尾さんご自身も何かその変化から気づきを得たりとか、
こんな風になったんだっていうような、
何か発見っていうのはありましたでしょうか?
これはね、本当に描いてみないとね、
頭で考えて、
この前の作品をこういう風なものを描いたから、
それをここで新たに変化をさせてみようとか、
そういうね、考えそのものをね、
絵を描いているときは、
頭の中から考え、あるいは言葉を全部排除しているんですよね。
排除して、極端に言うと、
頭を空っぽにして、真っ白にして、
何も考えられない状態で絵を描いていく。
そういう意味では、文章を描いたりする行為とは全く正反対。
むしろ、スポーツ選手というのか、
アスリートが瞬間的に何かことを起こしますね。
それに近いことをやっていると思うんですよね。
例えば、スポーツ、野球だったら野球に置き換えるとですね、
ピッチャーがボールを投げました。
投げる前まではどういう球を投げようかっていうことはあったかもしれない。
しかし、ボールが手から離れた瞬間、
思ったようにならない。
ボールが勝手に走ってしまう。
バッターはバッタイで、
多分ピッチャーがこういう球を投げてくるだろうって想定して、
それを待ち構えているところが、
予期せぬボールが飛んできた。
そこで合わせて打つなり、身を引くなりしますね。
それは本当に一種の瞬間芸。
0.00っていう瞬間ですよね。
その瞬間がスポーツっていう、
野球にかけらず他のスポーツも、
みんな瞬間だと思うんです。
それと同じ考え方で捉え方で、
僕は絵を描いているわけだから、
アーティストじゃなくって、
アスリートなんですよね。
やっていること自体が。
アーティストって言うと、
今日的な芸術を考えると、
コンセプシャルアートっていう言葉をご存知だと思いますけども、
つまり頭で考えて、それを言葉に置き換えて、
それを絵にするっていう、
それがコンセプシャルアート。
だけど僕は、
全く反コンセプシャルアートで、
考えないっていう、
言葉にもしないっていう、
コンセプシャルアートって言うと、
今日の最先端の芸術っていうのは、
コンセプシャルアートなんですよ。
僕は全くそれのね、
反対のことをやっているわけです。
考えない、
言葉にもしない、
それを瞬間的に絵を描こうとしている。
コンセプシャルアートっていうのは、
考えて考えて、
とことん考え抜いてですね、
それを言葉、
言語化にできるところまで考えて、
それで作品にする。
その方法と僕は、
全く正反対の方法を取っているわけですよね。
だからそこが、
他の作家とは全然、
結果としても、
絵を描く動機としても、
全く違うことをやっていると思いますね。
だから見る人がね、
何を描いているんだろう、
何を言わんとしているんだろう、
この絵の意味はっていう風に、
絵の見方が固定化されてしまっているんです。
されてしまってますよね。
それはコンセプシャルアートを見ている習慣が、
そういう風な問いかけてしまうんです。
これは何ですか、
意味は何ですか、
ここに書いてあるのは何でしょうか、
とにかく自分で感じ取るっていうことじゃなくて、
とことん問い詰めて、
作家なりあるいは評論家に問い詰めていくわけです。
その人たちは問われれば答えるわけです。
僕は問われれば答えられないんですよね。
そこが根本的に違うなと思いますね。
だけど僕がやっているのも現代美術、
コンセプシャルアーティストのも現代美術、
同じフィールドでやっているんだけど、
全くやっていることが異なっているわけですよね。
その結果が今度の作品で、
さっきもお話ししましたように、
まず1点描く。
1点描かないと2点目が浮かばないんですよね。
それで2点目を描く。
今度3点目はどういう絵を描くのかは、
2点目を描いている最初には全くわからない。
描き終わってホッとした時に浮かんでくるのが3点目なんです。
その次は4点目5点目というふうに、
ずっと点数を増やしていって、
今回は60数点描いたと思うんですけども、
そういうふうにきて、
これで終わったわけじゃないです。
未完で終わっているわけです。
常に僕の作品というのは、
全て未完なんですよね。
終わっていないんです。
終わっていないから、
何をしようとしている。
それも自分ではわからない。
だからそれを見る人は、
分かろうとすることをまず頭から捨てて、
排除して、感じ取る。
作品の前に立って、
作品から感じ取る感じ。
それがその人の作品なんですよ。
僕の作品じゃない。
その人が感じ取ることによって、
その人の作品ができるんです。
Aさんが見ればAさんの作品、
Bさんが見ればBさんの作品です。
共通していないんですよ。
そういうことで僕はやっているので、
コンセプチャルアートは共通しているんですよ。
各作家がこういうふうに描いたんだ、
こういうふうに見てほしいって要求してくるんです。
そうすると見る側もその通りに見て感じる。
僕は全くその反対。
ある意味では何も考えない、
ぼんやりした状態で感じ取ってくれれば、
それは僕の作品がぼんやりしたものでいいわけです。
そこに何でもかんでも意味づけたい人が、
性格的に意味づけたい人がいるとすると、
その人はしきりにいろんな書かれているものに対して、
意味を求めていく。
それはその人の見方だけれども、
その人の見方は僕からどんどん離れていった見方で、
何にもわからなかったっていう。
横尾さんの絵をじっと見てて、
何にもわからなかった、
あるいは気持ちよかった、あるいは気持ち悪かった。
あれでいいんですよね。
あるいは見てる間にお腹が空いたとか、
あるいは見てるうちにどこか行きたくなった、
とか感じる。
そのことがその人の行動であり、
僕の絵を感じ取ってくれた瞬間でもあると思うんですよね。
そうですね。
無意識と「飽きる美学」:変化を促す遊びの精神
アーティストではなくアスリートっていうのは、
本当におしゃれ通りだなと思いましたし、
私は結構感傷して、
やっぱり衝動にもっと忠実にいようというふうに思いました。
僕自身がね、
何でここにこんなものを描いたのか、
何でこんな色使いしたのか、
僕自身わからないんです。
衝動でやってしまうから、
非常に能部と的にやっちゃうんですよね。
だからそこに仮に帽子が描いてあった、
靴が描いてあった。
確かに帽子であり靴である。
だけど帽子の意味するもの、
靴の意味するものは、
僕自身が持ってないわけです。
なんとなく靴のような形をした絵を描いた。
帽子のような形をした帽子を描いた。
それは帽子に見えるけど帽子じゃないかもしれない。
靴を描いたけど靴じゃないかもわかんない。
もっと別物かも。
それは見る側がいろいろ感じる。
そこに描いた靴を通して、
その人が自分の子供のことを思うかもわかんない。
あるいは自分のご主人のことを思うかもわかんない。
それはそれでいいんですよね。
そういう意味では非常に幅広い領域で
僕の絵は見てもらえると思います。
コンセプチュアルアートっていうのは
できるだけ見る範囲を狭めていって、
うんと狭めて見るわけ。
僕らは無限に広がっていくわけですね。
だから無限に見てもらえばいいわけです。
ちょうどこの後、横尾さんの金冠本である
飽きる美学についてのお話を伺いたいなと思って
ちょっと先取りしちゃうんですけど、
飽きる美学に夢日記について書かれていらっしゃって、
ずっとその夢を日記に50年以上記録されていると。
やっぱり夢とか無意識っていうのは
横尾さんご自身の創作活動に
影響されているというふうにお考えになりますか?
そうです。夢を見てこの夢を絵にするっていうようなことは
なくはないですけども、滅多にないですよね。
夢っていう無意識の経験、体験、
だからこれは目が覚めると
下手すると瞬時に忘れていくんです。
忘れてもいいんですよ。
思い出すことは全然ないと思う。
絵を描くときは頭で描いたり
言葉に置き換えて僕は描いてないので
自分の中から描きたいものが出てくるわけです。
それが要するに無意識だと思うんですよね。
僕は描きたいものを描いたんじゃないんです。
仮に猫を描きました。
これは僕は猫を描きたくて猫を描いたんじゃないんです。
僕の中の猫という無意識が
キャンバスの中で形をとったということで
いいんです。
これは猫かって言われたとき僕も答えようがない。
猫かもしれないけど犬かもしれない。
犬かも分からないけどコカ・コーラの瓶かも分からない。
何だっていいんです。
だからみんな、いろんな見る人が
いろんな日常生活の中で全て意味を求めて
なぜ?という質問を投げかける。
そういう生活を僕は排除してもらいたいんです。
いちいち何でこうした、あれは何だ、これは何だっていうことで
朝から晩までそのことでいっぱいで生活している方が
ずいぶんたくさんいると思うんです。
それを言い聞かせてもらうと
一回シャラにしたですね。
何で自分がここにいるのか
それさえも分からないぐらいの存在に自分がなったときは
自分は宇宙のようなものと大きく自分の中で関わっていくわけですね。
それを繰り返していきたいわけです。
僕はそれをずっと子供の頃から繰り返してきたので
絵を描くこと自体も実は飽きちゃってるわけです。
ずっと描き続けているから飽きちゃったんです。
食べるものと同じですね。
目の前にあるリンゴを食べます。
毎日リンゴを食べてからすぐ飽きますよね。
飽きてリンゴをやめて、例えばアンパンに変えました。
すると非常に新鮮です。
しばらくアンパンを食べているとまたアンパンも飽きてくる。
そういうふうに一つのことにこだわると
いつかどんどん飽きてくるんですよ。
飽きて次のものに移る。
次のものに移るっていうのは変化なんですよ。
だから飽きるっていうことは変化なんですよね。
僕は飽きてきたっていうのは
飽きるぐらいにそのことに執着して
そのことを繰り返したために自分は飽きてしまった。
飽きると何をするかっていうと
次のことをやる。
次のことを言うっていうのが変化なんですよね。
次のことでまたしばらくすると
またやりすぎて飽きちゃう。
そしたらまた次へ行く。
どんどん飽きれば次のところに行く。
それ変化です。
変化変化変化の繰り返しですよね。
だから朝から晩まで我々は
変化の大海の中にいると思っていいと思うんです。
朝から晩まで同じことにこだわって
これ以外のことは興味ありません。
これ以外のことはしませんっていうことは
変化を求めてない人ですよね。
それは生きてないっていうことでも
言えると思うんです。
生きてれば変化するんです。
僕がこの取材を受けている
15分20分前の僕と今とは完全に違うわけです。
肉体もどんどん見えないけど
変化してるわけです。
15分前より僕は今15分で老化してるわけです。
これからまた15分喋るとすると
また今度ミラーでそこでまた僕は老化するわけです。
どんどん飽きていく。
人間は飽きることがそもそも生きてるっていうことでもあると思うんですよね。
生きている限りもう飽きっていう感情は絶対に。
自分が飽きるっていうことは
物に対してざんまいになることなんですよ。
だからもう飽きるぐらい一つのことに夢中になって
ざんまいになる。
このざんまいって何かって遊びなんですよ。
意味がないんですよ。
だからそれを繰り返すっていうことが生きてることで
だから飽きるっていうことはある意味では
飽きるぐらい遊んできたっていうわけです。
だからそこで新たな構造に移す。
それはまたそのうちに飽きます。
だからそういうふうにどんどん変化していく。
その変化は意味を求めると遊びができない。
意味を求めないから全部それが遊びになっていくわけですよね。
まさに今日飽きる美学を中心としたインタビューなんですけど
そこでは3歳から88歳まで絵を描いているから飽きて当然って書かれていたりとか
飽きてからが実は本番なんだっていうふうに書かれていたと思うんですけど
やっぱりその飽きという感情は悪いことではなくて
むしろ次に自分を進めてくれる。
つまり飽きるっていうことは
飽きるぐらいそのことに夢中になって熱中したから飽きるんですよ。
一つずつぴょんぴょん違うことやってると飽きないわけです。
一つのことに熱中した。
その熱中っていうのはざんまいみたいなもんですよ。
熱中しないと飽きない。
熱中っていうことは子供があることに熱中しますよね。
ざんまいになっていく。
あれはなんでそういうことができるかって言ったら
彼はそこに意味を求めたり結果を求めてない。
単に遊んでるわけです。
その遊びを我々は大人が全員忘れてしまってるわけです。
だからお仕事って言っててなんでお仕事するんだって
意味を求める。
意味なしでお仕事するのが一番いいんですよ。
ところが皆意味を求める。
意味を求めないとできない。
そういう人間性ができてしまってるような気がするんです。
現代の人たちは。
まさにそうだなと思いまして。
現代社会への批判と「考えない力」の追求
多分とかく頭でっかちになってるのかなという感じがする。
頭でっかちですね。つまり関連的で。
とにかく知識そのものを吸収しようとする。
そんなものいらないんですよ知識なんか。
何にも知らなくていいんですよ。
1たす1は2かもしれないけども
1たす1は100だって5でも6でも何だっていいんですよ。
それをそこに結果を求める。
正しい答えを求めようとする。
正しい答えなんかないんですよ。
1たす1は2だけれども
1たす1は芸術の世界は3であり5であり100でもあるわけです。
予報さまの目からご覧になって
特に現代、最近になって頭でっかちの傾向っていうのは
強くなってるなっていうふうにお感じになりますか?
世間を見てると
やっぱり学問本位になってしまって
それで物事を白黒善悪つけすぎるんですよ。
いいことと悪いことと分別するんです。
それは西洋の近代主義的なところから来てるかもしれないけども
そんなもの分別することないんですよ。
もっと無分別でもっとそれがぐちゃぐちゃになっちゃって
ほんとにとした幕の内弁当でいいんですよ。
ちゃんとしたおにぎりではなくて
幕の内弁当でぐちゃぐちゃになって
そういうことを我々の日常生活の中でやっていかないと
みんな白黒で分別する。
特に知識を主導にしている知識人、インテリ
インテリはみんな物を分別したくなる。
いいこと、悪いこと、正しいこと、間違ってること
美しいこと、醜いこと、全部分けるわけ。
安心するわけです。どっちを取るかっていう
安心するわけですよね。
善も悪も分けることないです。
善の中に悪があって、悪の中に善があるんだから
それぐちゃぐちゃになってるのは我々が人間がそうなんですよ。
その人間をいくつかに分析していこうとするより
僕は無分別でいいんですよね。
芸術が求めているのは無分別なんですよ。
ところが今の流行りのコンセプチャルアートは
そこに意味を求めようとする。
知識人がやったことと同じことをやろうとする。
学校で教えるのは知識ばっかりですよ。
知識っていうのはある一つの教わったことは
枠の中に放り込むわけです。
そうすると枠の中でしか物が考えられなくなるんです。
ところが知識がなければ枠の外、
これは大自然、宇宙まで行っちゃうくらい枠がないから
自由奔放に何だっていいんです。
だけど知識を得ちゃうと自由奔放、
何でもよく生きることができなくなるんです。
自分が経験して覚えたり、感覚的にそれを取り入れたことだけを
その中のものを活用してそれを利用して生きていこうとするから
非常に狭い世界。
知識人というのは本当に狭い世界の中で
ぎゅうぎゅう詰めの中で生きているわけですよ。
だから自分が学んだ知識でないものがその中に入り込むと排除するんですよ。
本当は彼が学んだ知識より宇宙はもっと遥かに広大無限じゃないですか。
そこから来るインスピレーション、それをキャッチしないとダメ。
それはまた直感でありったりね。
どこから来たか分かんない。大自然から来たかも分かんない。
もしかしたら神仏から来たかも分かんない。悪魔から来たかも分かんない。
死者から、死んだ人間から来たかも分かんない。
それぐらい自由奔放っていうのが無限なんですよ。
知識はそれの反対のことをやっちゃうんですよ。
だから芸術は知識じゃないんですよ。僕もやろうとしてるのは。
ところが一方で今流行りの芸術はみんな知識なんですよ。コンセプシャルっていう。
だから僕は全く反対のことをやってるわけです。
特にここ数年だとAIというものが社会にかなり影響を与えていて、
でも正しい知識がとにかく溢れている世の中になっているので、
どんどん人々が頭でっかちになっているんだろうなというのは感じますね。
頭でっかちは限界ないんですよ。
本3万冊読みましたっていう知能巨人は言いましたけれども、
3万冊より4万冊のが知能巨人よりもっとすごいのか。
5万はもっとすごいのか。だから今おっしゃってる限界がないんです。
そうですね。確かに。
でもそれで言うとやっぱり現代人がそれこそ身体勢であり衝動であり
感情というのを取り戻すための何かをしなければいけないってことなんですかね。
やっぱり身体勢、今おっしゃった身体勢っていうのはものすごく重要だと思います。
だから僕がアスリートって言ったのは身体勢。
だから野球のピッチャーが別に一流の大学出てなくてもいいんです。
中卒でもいいんです。身体勢が大学生以上であればいいわけでしょ。
だからそれを狭い枠を決めてそこで学ばせようとしちゃうから
そういうことになっちゃうわけ。
なるほど。
たぶんこの聞いている人も含めて意味の方に延長している人たちは多いんだろうなという感じがするんですけど、
そういった人たちに向けては、横尾さんとしては何か…
一言。考えるな。考えない力を身につける。
世間は考える知識を身につけすぎたんですよ。
考えない知識っていうのは非常に重要なんです。
僕はかつて若い頃に座禅をしました。
お寺で1年間くらい座禅をしたんですけれども、
禅が求めている究極のものは何かというと考えるなということなんです。
だから経典も何もないんです。何も教えられない。
ただ座っているだけです。
座っていると次から次いろんな物事が雑念として巨大化してくるわけです。
子供のことが出てきたり、友達のことが出たり、
どこか旅行に行ったことが出たり、食べ物が出たり、いろんなことが出たり。
それは全部知識と経験なんですよ。
それを一つずつ全部目の前に現れたら、それを全部流していくんです。
そうしたら何にも来なくなった時が悟りなんですよ。
何にも来なくなったということは無になった時ですよね。
それは悟りです。
その悟りまで10年、20年、30年かかるんですよ。
1時間ぐらいでなりませんからね。
だから物を考えないという、
これは禅の教えというのは面白いなと思います。
一回やってみるといいと思うけど、
大抵学禅として帰ってくると思います。
考えないことの苦しさ。
でもそういう経験をしていると、
僕なんかの年になると考えること自体がバカバカしくなってくるんですよ。
もう考えることは死ぬことしかないんですよ。
そうすると辞めたってことになるわけですよね。
そういう意味ではある程度年を取るということは大事だと思いますね。
本当は年を取らなくたって、
若い時にそういう老年になって経験する経験を
若くても同じ経験を得られると思うんですよ。
だけど勉強しすぎてしまっているからできない。
今まで学んだことを全部今度は捨てる生き方をしなきゃいけない。
例えば50代までいろんなものを学びました。
51歳から100歳まで今まで学んだものを
順番に捨てていく。
最後ゼロになった時にその人は悟りになるんですけどね。
横尾忠則の死生観:生はシミュレーション、死が本番
だから学んだことをいかに捨てるか。
学んだ上に学んだものを積み重ねてしまっているから
おかしくなっているわけです。
横尾さんも今の年齢と以前の年齢だと
それに対する考え方、そしてご自身の考えない力、
考えない知識というのはどんどん上手くなっていっているという感じはありますか?
それはね、もほっときょは年とともにそうなるんです。
つまり身体勢っておっしゃいましたけど
年をとるのは一番感じるのは身体なんですよ。
頭はね、まだ年をとりにくいです。
頭は30歳、50歳、60歳かもわかんないけど
肉体に関しては日々年をとっている。
さっきの15分前と今と僕はだいぶ老化したんですよ。
そういうふうにどんどん老化していくことによって
僕の中に積み重ねられたものが少しずつ外れていくわけです。
いい意味でアルツファイマー化していくわけです。
アルツファイマーというのは一つの病名で
これは良くないということになっているけど
意識的なアルツファイマーをやるということもいいんじゃないかと。
確かに捨てるという意味では
それも悪い面ばかりじゃないということですね。
捨てるということはすごく重要でね。
今断捨離という言葉があるけれども
あれもそうですけれども
自分が習得したものをある年齢がくると
今度はそれを捨てていく。
その作業をね、自分の一生の後半は
その作業をやるべきだと思うんです。
そうすると年齢を重ねるとともに
どんどん自然とそういう状態になっていくんですね。
自然となるんですよ。
なるんだけども大半の人がやばいと思って
昔の若い方に戻ろうとするんですよ。
だから自分が年を取れば取ったふうに
それに従うというのが
それを自然体だと思う60歳の状態
全然違うんですよ。
それを自然体だと思えばいいんです。
ところが自然体は若いところに設定しているから
年を取ると若くなろうというので
ジョッキングをしたりランニングをしたり
アスレチックをやってみたり
サプリメントを飲んで若くなりたい
そんなことをすることはないんですよ。
いくらサプリメントをたくさん取っても
その人は必ず死にます。
死ぬんだから。
早いか遅いかだけの話で。
だからそれをあまりにも考えていない。
死ということはそういう意味では
考えるべきだと思います。
若い頃から。
まさに飽きる美学の一つのテーマで
死というものがありまして
横尾さんが今何に関心事が高いかということを問われて
死というふうにお答えになっているというのも書いてあるんですけど
死というものはどういうものとして捉えていますか。
結構広い質問なんですけど
死は何かということですね。
これは難しいです。
死なないとわからないかもしれない。
だけど
生は永遠じゃないわけです。
だから永遠の終着は死であるということの認識が
必要でないと
大抵の知識人は
生の最後は無駄と思っているんです。
だから虚無になるということは忘れてしまいたい。
とんでもない。
生が終わったら
その次から死がその人に働きかける。
これは生よりももっとすごいものなんですよ。
死に出会う。
それをないもののように
ナッシングなんて言っちゃってはダメなんですよ。
これからが本番。
生なんていうのは
死に対するシュミレーションなんですよ。
ところが
生きている人は死がシュミレーションだと思っているわけです。
そうじゃないんです。
死んだらわかります。
生きていた時あれが今のためのシュミレーションだったのか
もっと死について学んでおけばよかったと
思うかもしれない。
生が練習で死の方が本番。
そうそう。
だから僕は
自分が死んだと仮定して
現世のこの世界を
極力この世界を見るようにしている。
生きている人間として見ているのではなく
死んだ人間としてこの世界を見るという
そういう視点を
持つということは
生きることの意味も
わかってくると思います。
すごく詳しく伺いたいんですけど
死んだ人間として
この世を見るというのは
生きた人間として見るのと
どのあたりが一番違うことなんですか?
生きている人間はね
自我とか
煩悩とか
執着とか
物質欲、名誉欲、
知恵欲、財産
そういうものに対する
欲望に縛られている
煩悩と言います。
それを生きている人間は
大半持っています。
死んだ人間はそれを持っていたら
生きられないんです。
それをゼロにしないと
断捨離にしないと
死の世界に行けないんです。
こちらの人間は
それを山ほど抱えている
だから苦しいんです。
死んだ人間は
それを抱えたまま死ぬと
永遠に苦しいんです。
死と同時に
それを捨てることができる人間とっては
その人間は
死は
天国であり
極楽園だと思います。
横尾さんご自身も
そういう心境というか
考え方になっているという
自覚はお持ちということですか。
横尾さんご自身も
そういうお考えを持っている
ということですか。
考えなのかね。
分からない。
本能だと思う。
本能というのは
あるいはDNAかも分からない。
僕が本来持っている
根性みたいなものに
気づいた。
それに
出会った
ということかなと思うんです。
出会うまでは
やっぱり
アリが欲しいこれが欲しい
アリが食べたいこれが欲しい
そういう
本能の世界で生きていた。
それでいいんですよ。
徹底して
本能を追求すればいいんです。
そうするといつか飽きます。
本能を追求して飽きる。
でもそれを
おのずから飽きるということですよね。
おのずから飽きちゃう。
飽きたときは
俺は何か
妙なものに
こだわって囚われていたな
今の方は
何にもないけど楽だな
ということです。
めちゃくちゃ現代人に
必要な態度だなと思いました。
現代人は反対生きていますからね。
そうですよね。
見事に反対生きていますからね。
そしてそれが
加速している感じもするんですよね。
それはね
メディアがね
独学の利点と「なぜ」の探求がもたらすもの
ラジオとは言いません。
テレビとは言いませんけれども
やっぱり
メディアが
煽っていますよね。
それを
知識
という難しい
概念で煽っているわけです。
だからみんな
これは知識だから
これを身に付けなきゃいけない
と言って
僕から見ると
おかしな方へ行っているわけです。
いやー
ちょっとテーマを変えるんですけど
横尾さんの最新刊
未完で生まれて未完で生きて未完で死ぬ
辞典が
6月下旬に復刊されるんですけど
今Xのポストを拝見すると
それを読み直していらっしゃるという風に
拝見しました。
自分で
過去の自分を
一度
検証してみようと思って
読んでいるわけです。
そこに書かれているのは
60年代70年代
80年代の
若い自分ですよね。
今よりも
物分かりがいいことを言っていたり
あるいはその反対のことも言っている。
今の方がこの時期よりも
偉いかなという部分と
あの頃の方が
今より偉かったなという
それをもう一回検証しているわけですよね。
60年代から80年代というと
デザイナーをされていた時期と
画家になられてからという
両方が入っていると思うんですけど
改めてその時代という
横尾さんにとってはどういう時代だったという風に
今振り返りますか。
僕はずっと
子供の頃から
独学できたから
勉強が大嫌いだったので
趣味は
本を読まないことが趣味だった。
本を読まないことが
だから読書は趣味だったけど
僕は本が怖かった。苦手だったの。
言葉がダメだったわけ。
だから子供の頃は
人と話ができなかったんですよ。
両親もね
この子は口下手で
何にも知らんし
何にもものをよいわんこや
という風に言われて
育ってきたから
僕もそうだと思っちゃったんですよね。
だからそのことが逆に良かった。
余計なことを学ばなかった。
だからさっきおっしゃった
身体
川へ行って魚とったり
野山へ行って虫をとったり
そんなことばっかりでしてた。
その同じ頃に
僕の友達はみんな本を読んでた。
僕は本は本当に読まなかった。
見事に読まなかった。
江戸川南風を3冊読んで
南生一郎を3冊読み出した。
45歳まで本を読まなかったんです。
45歳になって
画派に転校してから
美術評論家が
君は美術を独学してから
勉強しなきゃダメだって
余計なこと言われて
じゃあ勉強しましょうって言うので
美術の画集を見るようになった。
そういうことが書いて良かった。
やっぱりそれが
本を読まなかった
テキストを読まなかったっていうものが
デザイナーであり
画家である一郎さんに
かなり影響を与えたってことですかね。
結果としてはね
想像力が限定されないから
勉強だけしてれば
勉強した分の枠の中でしか
想像できないんですよ。
勉強してないから
全部が僕の味方になるわけです。
大自然も宇宙も
さっき言ったように
死んだ人もひっくるめて
全部がインスピレーションの源泉になる。
勉強してれば
した分だけしかが
ここからしかインスピレーションが浮かんでこない。
そういう意味では
勉強してなくて良かったなと思って。
この本で書かれている
主人公は本当に自分かなって
思ってしまったっていう風に
Xでも書かれていたと思うんですけど
結構やっぱり発見ありましたか。
改めて自分の人生を読んで
発見っていうのは結構ありましたか。
自分でありながら他人に見えたりね。
そういうことを
一回何十年も時間をとって
もう一回過去の自分を見てみるっていうのは
僕にとっては
もう一回新たな学びをしているのかなと思って。
でもそれ自体もあんまり考えない。
確かに。
それも意味をそこに求めちゃいけないってことですかね。
そうするとどうしても意味を求めるからね。
でも僕は子供の頃から意味を求めない生き方してきたから
少なくとも勉強した人よりは意味を求めない。
勉強すればするほど意味を求める。
なぜっていうことを質問するんですよ。
なぜなぜを質問を繰り返したら
最終的にどうなると思います。
なぜなぜを繰り返すと
どこに行き着くんですかね。
繰り返すと
やっぱりこれはなんでなんとかっていうと
なぜの答えが出る。
答えが出たらまたなぜが生まれてくる。
じゃあこの辺はなぜなぜなぜってずっと
なぜを探求していくと
最終的に核を作っちゃったんですよ。
最終的に核を作ったら
実験してみたくなるわけです。
科学者は。
その実験されたら困るから
今世界がギリギリのところで食い止めてるわけです。
あれはなぜなぜの質問の結果
今アメリカとイラクが
質問の結果こうなったとは
あの二人は気がついてないですよ。
でもそこから出てきたんですよ。
意味を探求し続けた結果
核が出てきた。
AIもそうかもしれないですね。
AOもそうでしょうね。
それを効率性であり意味というのを
追求し続けた結果が出てきて
AIはAIとして放っておけばいいんだけど
それをいじるのが人間でしょ。
だからね
AIの純粋性を人間が
おかしな方向に持っていくかもしれない。
僕は自分がAIだと思ってるんです。
自分のやってることがAIだ。
僕は最初に
私は何ですかって教えてくださいって
AIに聞いたんですよ。
そうしたら答えが返ってきたんですよ。
答えがなかったんですよ。
僕がどっかで喋ったり書いたりしたことばっかり集めて
これがあなたですね。
冗談じゃない。これは僕が全部言ったことじゃないですか。
あなたより僕の方が上じゃないですか。
そうしたらAIはごめんなさいって。
確かに。
そうですよね。自分では考えることはできない。
収集してくることしかできない。
それだったら僕はAIだったわけでしょ。
確かに。
意味を求め続けた結果核を生み出したっていうのは
その通りですね。
確かに。
「洗脳」による画家転身と受け身の人生
そんな中で意味を聞くような質問で申し訳ないんですけど
60年代から80年代で言うとデザイナーをされていて
その画家宣言をされて画家に転身されたってことなんですけど
本当は弁言別に言うとね
画家宣言したのはメディアが宣言したんですよ。
僕は画家に転校したんですよ。
宣言してないんですよ。
失礼しました。
だけどメディアが宣言っていう言葉を使い始めて
それで宣言になって
それになって転校しただけですよ。
明日から画家ですみたいに宣言したわけでは全くないってことですね。
それはメディア的な言葉遣いってことですね。
宣言って自主的でしょ。
僕は自分が画家になりたいと思ってなったんじゃないんだもん。
ピカソの展覧会見てきてたら
突然僕の内部からわけのわからない力がガーッと突き上げて
僕を洗脳してしまったんですよ。
デザインは終わった。
デザインはアートだっていうのが
僕の中から強烈な印象が起こったんです。
僕が決めたもんじゃないです。
僕の中の何者かが決めたんです。
だから僕はそれにしたかっただけです。
抵抗もしないんです。
やっぱりピカソの展覧会を見たことによって
何か横尾さん当時中にあったものは?
何もない。ピカソでなくったってよかった。
セザンヌでもよかったし
横山大観でもよかったかもわからない。
誰でもいい。
あるいは富士アベヌを歩いていて
富士アベヌで突然衝撃が起こったかもわからない。
それがたまたまモマの会場の中だって。
だってピカソの絵を中に入って
15分間しか見てないんですよ。
最初デッサンしか見てない。
そこで僕がいきなり15点のデッサンを見て
画家になるぞ。ピカソみたいに画家になるぞって
普通ないじゃないですか。
わからない。あるいはピカソでなくてもよかった。
そうですね。確かにその意味で
理屈づけで考えて
15点の絵画を見て画家になろうとは
普通は思わないわけですもんね。
でもメディアはね
僕がピカソ展を見てピカソに衝撃を受けて
それで画家になったって
みんな意味を求めて
僕とその意味を結びつけるんですよ。
ここ大きな違いですね。
すごく違いますね。
確かにな。
そうするとみんな納得するわけですよ。
僕が洗脳を衝撃を受けた
何者かの力によって
僕が画家に転向させられた
いったって誰が信用しますかよな。
そんな神秘的なオカリティックなことを
言うのはやめてくださいって言われるのに決まってる。
実際はそうなんです。
僕でも分からない。
何でそうなったのか。
だから僕はピカソで殴ったってよかった。
何だってマイケル・ジャクソンであって
よかったかも分からない。
たまたまもうまだやってる。
だからあれがフィルム・ウエストかどうか行って
マイケル・ジャクソン見てて
それでそこでなったかも分からない。
たまたまその時間ですよ。
でもその前にされていたデザインという仕事は
かなりその意味を重視する仕事ですよね。
そうおっしゃる通りですね。
意味を
商品を
売りつけなきゃいけない。
消費者に。
この商品は何ですかっていう
意味を説明しなきゃいけない。
それを宣伝すれば
デザイナーも意味のことが分からないとできない。
それでも
意味、意味、意味
っていうことで
嫌になってたのかも分からない。
そこから先は分からない。
考えない。
そっか。
意味の世界に生きていたと思うんですけど
当時それまでは。
ピカソーがどう作用したか分からないんですけど
そこからもう
自ら画家の方に
変わっていったってことなんですかね。
強制的にね。
だから僕は
洗脳っていう言葉が一番いいかなと思うわけ。
何者かに
洗脳っていうのは
自分ではない
別の力
もしかしたら神物の力かも分からない。
悪魔の力かも分からない。
自分じゃないものの
だからそれに洗脳されたの。
朝原翔吾ですよ。
洗脳で。
90年代だとやっぱりそうですよね。
そこっていうのは
葛藤とか春春とかがなく
強制的にそっちに行ったっていう感覚だったんですが。
行かざるを得ない。
行かないと生きていけない。
そうすると不思議なもので
僕の周辺の人間が
全部
僕に洗脳されたんですよ。
僕がもう画家になるって言ったら
デザインで収入を得てたのが
デザインじゃなくて
絵でやるって言ったら
一番心配するのは
僕なんだけど
何にも心配してた。
でもうちは絵を描く場所がないね。
じゃあ絵を描く場所を探さなきゃって。
僕は探さないで
うちの神様が清浄寺のお屋敷全部訪ねて
お宅
絵のスペースありますかって
ずっと訪ねて
一軒に出会って
そこは
ご主人が死んだ後で
貸してあげますって。
だからうちの神様は僕に洗脳されてるわけ。
で、このことをね
それから何十年か経って話しても
うちの神様は忘れてるんですよ。
そんなことしたかどうかも覚えてない。
そうなんですね。
だから洗脳されてるの覚えてない。
自分が探したって
私そんな探した記憶はないんだけど
でも忘れてるだけ。
だからそういう風に僕に関わった人たち
みんなやってくれた。
やってくれたけどみんな忘れてるんですよ。
そこが面白いなと思って。
面白いですね。だから本当に
神仏の力の可能性がありますよね。
まあ抽象的に考えれば
そうですよね。
なんでこうなったのか。
なんかその分かりやすいストーリー
意味を求めようと思うと
横尾さんが情熱を持って
画家に転身したから
周りが影響されたみたいな
ストーリー付けはできるとは思うんですけど
それよりもなんかもっと
強制的にというか
気づいたらそうなってしまったみたいな
思いました。
そうですね。
だから僕はそれを描いてきて
それでまず
昔関わってた
画廊へ行って
画廊のオーナーに
絵描きたいんですよって言ったら
画廊のオーナーが
何の説明もしてないのに
展覧会やりましょうっていうのを
僕昨日までデザインやってて
絵を描くってどんな絵が浮かぶかも知らない
一流のギャラリーですよ。
そこが展覧会やりましょうと
そしたら横に
読売新聞か日経の人がいて
すいません、今のお話を
記事にしていいですか?
って言ったら
オーナーが記事にしてちょうだい
書いてちょうだい書いてちょうだいって言って
2日か3日後に記事になっちゃった
それが出始めです。
だからその画廊の人も
洗脳されてる
展覧会やりましょうって
そんなこと普通展覧会やるためには
作家のアトリエ行って
作品見て
考えて考えてやるかやらないか
って決めるのに
いきなりやりましょうって
僕の絵なんか見てもいいないのに
そういうことで周辺がね
どんどん変わってしまった
最初はアトリエはないから
どこで描いていいかわからないから
うちの彼さん見つけるまで
時間がかかったから
それでしょうがないから
美術館に電話して
絵を描きたいんだけども
ロビーをお貸しします
その代わりに
お客さんを集めて
公開制作にしてください
いやー絵描くのに
人が見られたら
僕は描けないなと思ったけど
画廊が
絵描く場所が欲しいために
しょうがない
じゃあ描かせてください
それが公開制作の
富山でやったんです
第1回です
それからしばらく
ずっと公開制作
やっぱりその場所を
貸してくれたっていうのも
強制的にそうなったような
感じがありますよね
そうね
公開制作っていう言葉がね
僕が多分
発祥の地だと思うんだけど
今は公開制作っていう言葉が
当たり前になっちゃったんですよ
だから最初から
人前で絵を描きたいっていう人も
出てきたんですけど
僕は人前で描きたくなかったんですよ
そこから始まったわけなんですね
なるほど
だから僕は全て
最近出した
ちょっと前に出した
運命に従うっていう本も出して
あれは
僕は全て受け身なんですよ
はいはい
能動的に行動をしたことは
全部受け身
全部受け身で来たんですよね
その後の人生も
今日まで全部受け身です
そうか
でも来るものに対して
もしかしたら衝動なのか
進退戦なのかもしれないんですけど
それに対して
意味を求めずに
委ねるっていうのは
それはずっと一貫していたってことですよね
一貫してました
子供の頃から一貫
両親の考えに全部委ねてた
それが多分
人生および作品を形で作ったんだろうな
10代で作ったんですよ
10代に
作られて
僕は郵便屋さんになりたかったんですよ
はいはい
ところが学校の先生が
未来に行けっていう
それでガリベンっていうのが
させられて
試験受けに行ったら
明日試験だっていう前夜に
先生が
試験受けないで
郷地へ帰りなさい
帰ってくるわけですよ
考えてみたら
一年間ガリベンさせられて
劣等生がある程度優等生になって
試験受けるとこまで行ったのに
受けさせてくれなかった
それで帰ってきた
帰ってきてどうしていいか分かんないと
先生のとこ行ったら
印刷屋さんへ行きなさい
そこが印刷屋さん
そうこうしているうちに
もう何にもしないうちに
神戸新聞に入っちゃったんですよ
神戸新聞が入った時は
デザイナーじゃないですよ
何でか分かんないけど入ったんです
入った以上絵を描かされて
その後日本デザインセンターに
日本デザインセンターに
だんだんデザイン的に
人間になってしまったんです
それも受け身だったってことですね
言われた通り
その前に
結婚が流行るんですよ
僕結婚なんかしたいと思ってなかった
そうしたら
同じ会社の中にいる女の子が
僕の先輩を通して
あの人
あの人って僕の名前も知らない
あの人紹介してちょうだいって言われて
それがうちの神様だったんですよ
僕はお金持ってないから
デートができなかったんです
喫茶店も行けなかったんです
そうしたら彼女が
自分の稼いだお金を貯金してて
その貯金でアパートを借りて
知り合って1週間ですよ
手も握ったことないのにね
アパート借りて
今日からここで住みましょうって
で僕はさ
そこへ強引に
拉致された
拉致された
だから結婚したいと思ってないし
何にも思ってない
そうなってしまったわけ
そのままデザイン専東京行きて
東京行きたくなかったので
大阪の会社が僕が入った途端に
この会社が東京で新社を作ったから
東京行きます
あなた東京一緒に行きますかって
しょうがないから行きます
でデザインセンターでしょ
ずっとその後全部
すべて寺山を知った
唐十郎を知った
三島さんを知った
全部受け身
寺山さんも唐十郎さんも三島由紀夫も
全部受け身なわけなんですね
僕が寺山に会いたいなんて言わないもん
向こうが電話かけてて
一緒に仕事しないっていうことから
唐君もそうだし
菱形さんもみんなそうだ
いやーもう皆さん
何にもしてない
何にもしないけれども
超有名人ばっかりなんですよ
そうですよね
現代史に残る方々ばっかりだと思うんですけど
三島由紀夫はじめね
超有名人
全く無名の僕が周辺に来る人
超有名人
そうしているうちに大島投さんが来て
僕を映画の主役にしてしまった
主役になった途端に
バーっともっと人気が出ちゃうみたいな
何にもしない
映画スターなんてなりたくなかった
郵便屋さんになりたかった
いやーすごい人生ですね
だからそのまま
ずっと金西まで来てしまった
そのあたりの60年代か80年代も
運命への全幅の信頼と未来への姿勢
それはそれで一本どこかで
伺いたいなと思うんですけど
だってこの本だって
彼が出したいという形で
おのずからですね
僕が出したいとは言わない
そうですね
今日は時間が来ちゃったんで
最後の質問にしますけど
そうすると基本全部受け身で
人生と作品が形作られたってことなんですけど
この収録時点では
ドレスが89歳で
配信時点では90歳を迎えられます
ドレスは次の作品作りっていうのは
何か展望があるのか
それももうおのずからだと
考えてらっしゃるのか
ないですね
さっきの玄関の川か
煉瓦の川
まず1点描いて
1点描いているうちに
次の作品のイメージが浮かぶ
それが描き終わったら浮かぶ
どこへ僕が自分が連れて行かれるのか分からない
だから大抵の人は連れて行かれることに
みんな恐れを抱くんですよ
どうなるか分からない
運命に任せたら大変なことになる
僕は運命に任せたら
考えなくても
僕はスタンバイしてくれるから
崖から落とされるかも分からない
それはそれでもいいじゃないか
だから崖から落とされてなかったわけよ
今まで
落とせるのを上に上げてくれたかも分からない
だから何一つ運命に任せて
自分がダメージを受けたこと
全くない
全部運命に任せて
そのために
今日まで来れた
だから僕はみんなに運命に任せなさい
努力しなくていいよって
運命に任せた結果
結構人生面白いなっていう感じはありますか?
人生の人は怖い
そんなことできない
僕は何が起こるか分からないことが
期待を持った
自立として
次誰が来てどこに連れて行くか分からない
これを僕は期待やってる
他の人はみんな恐れない
横山ご自身は
委ねて良かったなっていう
感触をお持ちですか?
良かったものがあるのは
これが僕の人生
その価値判断すら
これが人生だから
どうしていいか分からない
任せとけばいい
明日どういう仕事が来るか分からない
明後日どういう風に来るか分からない
今日の結果これを聞いた人が
また面白いことを発想して
その人がまた依頼してくれるか分からない
そういう風にして
どんどん増えていったんじゃないかなと思うわけ
ありがとうございます
個人的に
作品を見た時にも
衝動の大切さっていうのを
結構感じ取ったんですけど
今日も生き方を根本から見直されるような
見た目だったんですか?
結局生き方なんですよ
絵じゃないんです
絵はたまたま生き方のための手段ですよ
そうですね
ありがとうございました
今日はこの辺りで一旦
締めくっていきたいと思います
どうもありがとうございました
横尾さん今日はありがとうございました
非常にご試算に富んだインタビューでした
横尾さんのインタビュー
ここまでを聞いていただきましてありがとうございました
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