改めて、土門さんにとっての書くとは、どういう行為なのか?
私にとっては、わからないことを分かろうとする行為。
その時に、あ、私、書いてたから死なないで済んだんだなって思って、
あ、なるほど、死にたくなったら書けばいいんやっていうことを学習したきっかけだったんです。
文章を書くってことは、それは何かの手段で、それによって誰かに評価を得るとか、やっぱりそこをみんな前提としてるってことなんですかね?
全ての自分の人生の出来事がですね、何か人に見せるために集約させられるっていうのはあるじゃないですか、何かコンテンツ化するというか、っていうのはあるよなぁと。
短期的に合理的って言うんですかね、コスパみたいなこと言われますけど、実はそれって長期的には、いや何かあなたの人生相当何か痩せてません?みたいな風になるってことなんでしょうね。
なぜならば、やっぱりそうやってすごい効率性を求めてしまうから、そうか人生って高速道路じゃないんだな、下道なんだなとかね、いろんな人生に起きること全て、ちゃんと受け入れられるというか、なんでこんな目に遭わないといけないんだろうっていうこともあると思うけど、
でもその中で自分が何を感じて何を考えているのかをずっと書き続けることで、そこに生きる意味ができていくみたいな。
こんにちは、パーソナリティーの野村隆文です。本日のゲストは文筆家のドモン・ランさんです。
ドモンさんといえば、2023年に出版された死ぬまで生きる日記が反響を呼びましたが、今年3月には新刊書籍、本当のことを書く練習を出版されました。
今日はですね、この本をテーマに、書くとは一体どういう行為なのか、そして書くことと密接につながっている生きるとは何かについて議論を展開していきました。
これはですね、ぜひお時間があるときにじっくりと聞いていただきたいインタビューです。それでは本編をどうぞ。
それでは今日のゲストは文筆家のドモン・ランさんです。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
では最初にですね、プロフィールをご紹介させていただきます。
1985年広島県生まれ、同社大学文学部を卒業されます。
小説、短歌、エッセイなどの文芸作品の創作と、インタビュー記事、ブックライティングなどのクライアントワークの双方を仕事とされています。
エッセイ集、死ぬまで生きる日記が第1回生きる本大賞を受賞。
今年3月には新刊書籍、本当のことを書く練習を出版されました。
ということで、本当のことを書く練習はすごく面白く読ませていただきました。
ありがとうございます。
これタイトルの通りなんですけど、本当のことを書く練習なんですよね。
本当にそうですね。
ちょっと情報量何も足してないですけど。
だからちょっとこの後詳しく伺うんですけど、いかに本当のことを書くのが難しいというか、
そこに一定のハードルがあるかという話と、
これも読んでいくとわかるんですけど、書くということは生きるということそのものに繋がっているんだということですね。
この本からも伝わりましたし、おそらくドモンさんの深いところにそういうお考えがあるんじゃないかなというふうに思っていまして、
今日はちょっとそのあたりを深掘っていきたいなと思っております。
まず最初になんですけど、本当のことを書く練習、今回、つまり文筆に関する論を出されたということで、
改めてドモンさんにとっての書くとはどういう行為なのか。
もちろん書くっていろんな意味が入っている言葉で、単にその言葉を綴るって意味もあれば、
自分の中身を出すって意味もあるし、歴史を記録するとか、いろいろあると思うんですけど、
どういう行為なのか、そのあたりから伺っていってもいいですか?
書くとはどういうことかっていうと、私にとっては分からないことを分かろうとする行為っていうのが、おそらく書くということなんだろうなというふうに思ってるんですね。
私は今、その文筆家っていう肩書きで、物を書く仕事をしてるんですけど、もともと書き始めたのが10歳ぐらいの時から。
もともと、起死年齢が子供の頃からあって、死にたいなっていう気持ちが、毎日のように発作的に起こるみたいなことが、ずっとあったんですよ。
それを最初に一番、一番最初に自覚したのが、10歳ぐらい、小学校4年生と5年生ぐらいの時に、もうちょっと無理だなみたいな。
その時に、小学校4年生の算数の授業で、私が風邪をひいて2、3日休んでたんですね。
算数の授業はちょっと前に進んでて、その時に2、3日ぶりに学校に行って授業を受けた時に、算数の授業でヘクタールとRっていう単位が出てた。
それを見た時に、これ何だろうなと思って。公式はこうですよ。こういうふうな問題が出たら、こういうふうに公式を使って答えを出すんだよっていうことは理解できたけども、
ヘクタールとRって、一体誰が何のためにどういう時に使うんだろうっていうのが、身体的にわかんなかったんですね。
で、その時、すごい不安に襲われて、頑張って覚えなきゃと思って、正解を出さなきゃと思ったんですけど、
なんか私って人生、まだ10年ぐらいしか生きてないけど、なんかずっとそんな感じだなみたいな。
なんていうか、みんなの正解、みんながいいと言ってたりとか、みんなに受け入れられることとか、世の中の正解みたいなものをいつも探して、
こういうふうに振る舞ったらいいんだな、こういう時はこういう発言をすれば、みんなにおかしいと思われないんだなみたいな感じで、正解を探すように生きてたんだけど、
なんかそれがやっぱり、その算数の授業で浮かび上がってきたんですね。
私、いつもこうだなと思って、で、ちょっともうしんどいなと思って、死んでしまいたいと思った時に、この窓から飛び降りたら、4階建ての4階にあったので、死んでるかなとかって思って、
でも、それをやっぱりやっちゃだめだって思う自分も同時にいて、で、その時に自分をこの机から立たせないようにするにはどうするかって考えた時に、文章を書き始めていたんですね。
で、その時、書いてたのが、もし自分はここから立ち上がって、みんなの椅子とか机とか押しのけて、窓の3に足をかけて飛び降りるっていうことをしたら、どんな感じかなってのを全部文章にして書いたんですよ。
それって、まだやっていないけれども、自分がわかることを書いていく。
で、その時に、ずっと書いていたらチャイムが鳴って、算数授業終わったんですね。
で、その時に、私、書いてたから死なないで済んだんだなって思って、なるほど、死にたくなったら書けばいいんやっていうことを学習したきっかけだったんです、それが。
で、その時、自分が一体何をしてたかっていうと、やっぱり世の中がわかんない。正解って何なんだろう?答えって何なんだろう?どうすればみんなに受け入れられるのか?どうやって生きていければいいんだろう?っていうことがわかんないっていうのが不安で、
その不安に飲まれそうになったのが、死にたいという気持ちになってたんだけど、でも、そのわかんない中でも、わかることを書いていけばいいんだなっていうことがわかって、自分のことを書いていけばいいんだ。
自分がわかることを言葉にして書いていけば、それをやってる間は生きていけるし、で、それを書き終わった後、ちょっと前よりもわかるようになってたりとか、輪郭がとらえられるようになっているっていうことを学習して、
そこから、なんか文章を書くこと自体が、自分にとってのちょっとインフラ的な役割を持つようになったなっていうふうに思いますね。
現体験は、じゃあそこだったってことなんですね。
そうですね、はい。
10歳の時からってことは、もうそれ以来一貫して、何かそういうような感情になると、書くっていうことをやってきたってことなんですか?
そうですね、だから、もう10歳ぐらいからほぼ毎日日記をずっと書いているのと、やっぱり心が揺らいだりとか、不安だなとか、もやもやするなとかいうときって、なんていうか、ちょっと自分の輪郭がぼやけるみたいな感じ、他者に飲み込まれそう、社会に飲み込まれそうになって、
あれ一体自分は何が好きで、何をしたくて、何が嫌いなんだっけみたいなことが、なんかわかんなくなるときって、すごく不安になるんですけど、それを一回立ち止まって、自分に問いかけるように、今何でもやもやしてるのかとか、今何でこんなに不安になってるのかっていうことを全部言葉にしていくと、
だんだんこう、世界とか社会、私の外部と私の内側の間に、ちょっと輪郭が、境界線みたいなものが描けるようになってきて、自分っていうものが少しこう、なんて言ったらいいのかな、確立されるというか、そのときようやく足場が固まって、安心してその場所にいられるみたいな感覚を、毎日毎日繰り返し、なんかそれをやることで、安心して眠れるみたいなことをやってました。
実は私も20年ぐらい日記を書く、しかも誰にも見せない日記を書く習慣があって、毎日ではないんですけど、やっぱりちょっとその、今ストレスが溜まってるなとか、この状況をちょっと記録しておきたいなみたいなときに、本当に誰にも見せない日記を書いたりしてるんですけど、その輪郭ができる、そして境界線を作るっていうのは確かにそうだなって感じがしましたね。
大平 なんかそれをしないと、ちょっと自分と外の世界が混じっちゃう感じというか、なんかぼやけてしまうというか、自分自身が。で、結局わかんなくなる。自分のことがわからなくなって、割と社会とか他社に飲み込まれそうになるみたいなことは、結構あるんですよね。それを取り戻すため、自分を取り戻すために毎日書いてるみたいな。
なるほど。大平 はい。
野村さんの場合、もう毎日なんですね。
大平 毎日ですね。
これはもう何ですか、自分に化してるものなんですか?それとももう自然と歯を磨くようになっちゃうみたいな。
大平 まさに歯を磨くみたいな感じと、あと排泄に近い。だから自分の中に、たぶんそうですね、自分の中にある感情とか、自分の中にある思いみたいなものをばーっと発揮出すことで、なんかこうだんだんこうわかってくるんでしょうね。
これが他人のことなのか、自分のことなのか、えり分けることができるようになったりとか、で、それをずっと吐いてる中で、あ、自分ってこう思ってたんだっていうことに、なんか改めて自覚するみたいな行為をすると、本当に自分でなんかこう、一人の無菌室みたいな部屋を作ってあげると、安心して眠れるっていう、そうルーティンになってます。
じゃあ、やるのは寝る前ってことですね。
大平 寝る前に、はい。1日分の。
ああ、その日何かあったかってことですね。
書く内容っていうのはずっと決めてるものなんですか?それとも浮かんだものをそのままっていう感じなんですか?
大平 ああ、そうです。浮かんだものをそのまま。だから、出来事とかほとんど書かないです。
ああ、そうですか。はいはい。
大平 何食べたとか、どこ行ったとか、ほとんど書かずに、今あるものを全部出すみたいな感じです、いつも。
なるほど、面白いですね。
大平 どんなふうに書いてますか?
私は、そういうふうに感情を書くこともあれば、もうちょっと何かこの抽象化した概念っていうんですかね、起きたことを書くこともあるんですけど、そこから、じゃあ今大事なものはこの3つなんだみたいな話とか。
あとその、この、例えば今2026年6月なんですけど、6月時点でのこのテーマに対する自分のストック性のある見解みたいな感じで書くことが多くて。
で、例えばその2、3年前のそれを見返したりするんですけど、なんか大事な部分変わってないなと思うこともあれば、
あ、青いねみたいな、ああそうそう、当時はこんなんで悩んでたねみたいなふうに思うこともあるんですけど、ちょっと何かこうストック性を意識して、あのもやもやしたものをそのまま書くっていうよりも、ちょっとストック性を意識して書くっていうのが私の特徴なんですけど。
大平 見解を。
そうですね、見解を書いておくみたいな。
大平 自分が、自分が今何を見て、どう思ってるのかどう分かろうとしてるかってことを、ちゃんとなんか書き留めておくみたいな感じですよね。
私は、あの頭の中身を整理するのもちろん大事なんですけど、なんかそのともすると消失してしまう、その時の考えを残しておきたいみたいな動機が結構強くて。
で、それでそうですね、じゃあ今はポッドキャストのビジネスをやってるんですけど、今のこうSNSと、なんかアテンションエコノミーは嫌だなと思ってる、実は何でだろうみたいなことを書いてるっていうような感じですかね。
大平 なるほど、なるほど、いや面白いですね。
面白いですね。
どうさん見返すことってあるんですか?その毎日書いてる日記を。
大平 もう全部捨ててます。
あ、そうなんですね。
大平 でも一応なんか1年で1冊なんで、書いて1年書き終わったら捨てるんですけど、書いたものを読み返すっていうのはほとんどしないですね。だから読み返すことは目的じゃないっていうことですよね、書くことまでが。
だから読むことというよりは、書くことが私の日記における目的みたいなところですね。
なるほど、それも違うところって。
大平 そうですね、残してらっしゃるところですよね。
残してます、残してます。まあ恥ずかしくてあんまほんと昔なつは読めないですけど。
でもどこかには残ってますね。
大平 ああ、そうですか。
そっか、じゃあどもさんもう書いたら終了なわけなんですね。
大平 書いたら終了だし、なぜ捨てるかっていうと、それが他人の目に触れないようにする。だから他人の目にもし触れたらどうしようっていうリスクとかそういうものがあると、書くもの変わってくると思うんですよ。
これは誰にも見せないぞって思ってるから、やっぱりこう何でも書ける場所として機能するんだけど、もしかしたら誰かに読めるかもなとかって思うと、やっぱり書くものが変わってきてしまうので、それは私の本意ではないから、だから捨てて、で、いつも隠してる。日記を誰にも読まれないように隠してます。
ああ、そうなんですね。でもそうかもな。今は自分で管理してるんですけど、そして、例えば私の場合はウェブ上とか、自分のGoogleドライブの中にそういう文章が忍ばれるんですけど、今はもうパスワードもかかってるし、基本誰もログインできないんですけど、じゃあ自分が死んだ後に何かの弾みでそれが発見されるとかあるなと思ってるんですよね。
大平 私もそれが心の恋ですね。死ぬ時に日記って絶対思うなって。
思いますよね。そうそう。で、まあね、自分で四季を予感できたらそれ処分するんですけど、突然死する可能性もあるじゃないですか。
大平 そうですね、確かに確かに。
そうしたらそうですね、自分の絶対見られたくないものがどこかに残ってるなっていうのはありますね。
大平 でもやっぱ見せないんですね、見せてないってことですね。
見せてないですね、それに関しては。
大平 誰かに見せる予定はあるんですか。
それはないですね、全く。
大平 再編集して誰かに見せようかなとか。
断片的にピックアップして、あの人様に見せる文章にするってことはするかもしれないんですけど、
素材そのものは多分絶対見せないかなって感じはしますね。
なので、それでいうとどものさんのこの本の中に書かれていた、誰にも読ませない文章と、まああと誰かに読ませる文章。
まあその区分けで書かれていたっていうのもすごい興味深いなと思ったんですけど、やっぱりこう誰にも読ませないっていうところがやっぱりすごい大事なんですかね、本当のことを書こうと思ったら。
大平 誰にも読ませない文章って、書いてる人実はあんまりないのかもなって、この本を出してから気がついたことなんですよ。
わりとこれ普通のことかなと思ってたんですけど、この本出してから、誰にも見せない文章って実は書いたことない、今書いてないですっていう方が結構いらっしゃってですね、
やっぱりなんていうか、今SNSがあるので、人の目に触れるものを、なんていうか、結構簡単にね気軽に投稿できるじゃないですか、で、せっかく書いたんだったら誰かに読んでもらおうとかっていう気持ちのすごい自然なことで、逆に結構誰にも読ませない文章書くって、かなり贅沢な行為なのかもしれないって思いましたね。
そうか、少ないんですね、意外にやってる人は。
なんか、結構ちょっとなんていうか、うん、それは感じました。
へー、面白いですね。
誰にも読ませないんだったら別に書く必要なくないかなとかっていう、そういう、なんていうか、そういうこともあるんだなと思ったのは結構自分でも意外だったですね。
でもやっぱりそれはあれなんでしょうね、その文章を書くってことは、それは何かの手段、で、目的はそれによって誰かに評価を得るとか、やっぱそこをみんな前提としてるってことなんですかね。
おそらくそうだと思いますよね、でも本当にやっぱこうスマホが普及されてから思うんですけど、やっぱ全ての自分の人生の出来事がですね、なんか人に見せるために集約させられるっていうのはあるじゃないですか。
例えばケーキを食べました、写真を撮って後でストーリーにあげようとか、あれじゃないですか。
そうですね、ありましたありました、はい。
あれっていうのはやっぱすごい侵入してきてるなと思って、こうやっぱ何かコンテンツ化するというか、っていうのはあるよなと思いまして、
で、やっぱ誰にも見せない文章っていうのはコンテンツ化絶対させないものというか、
そうですね、はい。
コンテンツ化させる前の段階、つまり自分が本当はどう思ってるのかっていうことをつかむためにやるもので、
その後にコンテンツが生まれると思っているので、本当に水路の掃除みたいな言葉が通ってくるための、
あの水路にこびりついたゴミを落とすためにやる作業みたいな、
で、その後に出てくるものを人に読んでいただくためには、なんかどういうふうにすればいいのかなっていうふうに、こう、遂行の作業が入ってくるみたいな感じですよね。
確かにそうですよね、野間さん水路の掃除っていうふうに表現されてますもんね。
はい。
そっか、だからそれはもう掃除だから、そこで出された文章っていうのはもうそもそもその場で、そのままいつか捨てるし、誰にも見せないってことなんですね。
トイレで水流すのと一緒みたいな感じです。
ただ、やっぱりその出てきたものは、やっぱり書きながらその時読むじゃないですか、
で、読む中で、その書いて読む、書いて読むってこの繰り返しですよね、文章を書くっていうのは。
で、その一段流れっていうのは、やっぱり自分を受け入り続けることなんですよね。
で、書いて読む、書いて読むって時に、これを書いたらあかんなみたいなあるじゃないですか、これね、ちょっと醜い感情とか、汚い言葉とかが出てきた時に、
それでも書くっていうことを自分に許すっていうことで、ここではもうすべて何でも言っていいんだっていう場所を作ってあげることで、
どんどんどんどん言葉が出やすくなってきて、で、その中の一つに、たぶん本当のことっていうのが出てくると思うんですね。
だから、その本当のことを引き継いだすために、邪魔な石ころとか、コケじゃないな、ヘドロみたいなものをバーっと掃除してあげる感覚で、
まずは誰にも見せない文章を書く。で、その中でおそらく、これは誰かに読んでもらうべきだっていうものがたぶん出てくるはずなので、
それがつかめたら、じゃあこれを人に読ませるっていうね、次のフェーズに入っていくみたいな感じで。
タイトルがその本当のことを書く練習じゃないですか、だからやっぱりその本当のことを書くって、一定のこうなんでしょうね、技術であるとか、慣れであるとか、
そういったものが必要なんだろうなっていうふうに感じたんですよね。で、その本当のことが書けない、その妨げてる要因ってどのあたりにあるっていうふうにお考えになりますか。
まずはですね、結構2つ分かれると思うんですけど、書くのが苦手ですっていう方って、何が苦手なのかっていうと、
本当に書くのが本当に苦手な人と、読まれるのが苦手な人っていう2つあるんだと思うんですね。
で、まずその読まれるのが苦手っていうのはちょっとわかりやすくって、書いたときにこれを誰かに読まれます、何かこう例えば批判的なことを言われたりとか、
大したことないねって無視されたりとかっていうのが怖いっていう、確かな評価が怖いというタイプの人と、本当に書くのが苦手っていう方は、
突き詰めていけば、自分の汚い部分を見るのが怖いとか、なんか本当のなんていうか、本当の自分を見るのが怖いとかっていう、
だからその自分と出会うのが怖いっていうタイプの、大きく言うと2つに分かれるのかなみたいなことは思ってて、
ただ両方に言えることは、やっぱり評価っていうものが入る、ジャッジされるということに対してのやっぱり恐怖っていうものが、
おそらく書くっていうことを留めてるような気がしますね。
他の人に思える文章は、当然その他者からの評価と不可分というか、それに対してどう向き合ったらいいかって書かれてるんですけど、文章の中では。
じゃあ自分だけの文章というのをまずちょっと伺うと、自分だけなんですけど、やっぱり鏡の自分ですかね、もう一人の自分がやっぱり評価しちゃうみたいなところが、結構ハードルになったりするんですかね。
それはありますね。やっぱり書いても、なんていうか、まずは、こんな醜いこと考えてるんだっていうのを見たくないとか、
あとは私って才能ないなとか、自分の能力ってここまでなんだな、大したことないなっていうのを目の当たりにするとか、
なんかそういう受け入れがたい自分っていうものがやっぱりあると、書くのが怖いですよね。書くとそれが全てやっぱり目の当たりにしてしまうことになるので、
なんかそれをやっぱり曖昧にしておきたいとか、見ないでおきたいっていう気持ちがあるのは、私自身もそういうのはありますね。
でもそれでもやっぱり、自己理解というか、そして次に進めるためには、一旦そういう部分を直視して、そういう部分も含めて書いたほうがいいってことなんですかね。
そうですね。というかもうやっぱ、自分自身を完全に受け入れる修行なのと思うんですよ、生きることって。
なるほど。
ずっとやっていくことなのと思うんですよ。自分を受け入れる、自分を許し続けることをずっとやっていく作業だと思う、修行だと思ってて、
それの修行のやり方の一つとして、文章を書くっていうことがあると思うんですね。
その自分が書く文章を全てちゃんと読めと、受け入れろという修行で、それをするとどうなるかっていうと、私はその先に自由があると思ってるんですよ。
自由とは一体何かっていうと、自分を完全に許し切ることだと私は思っていて、
あなたは何の役に立たなくても、どんなに醜くても、ここにいてもいいっていうことを、自分で自分にOKを出すことが、私は自由だと思っているので、
なんかそのための人生との修行なのかもなって、だから一生、私は多分書き続けると思うし、
自分を受け入れるために、どんなに許しても、どんなに許しても、まだまだ許せない部分が出てくると思うので、
それの繰り返しなのかなと思いますね。
そうですね。自己嫌悪に陥ることはありますもんね。
ありますね。
日常的に。
もう本当に、なんかいろんな問題がやっぱり、歳をとるごとにいろんな問題にぶち当たって、
私って本当に未熟やなと思ったり、本当に浅はかだなって思うことがたくさんあるんですけど、
でもまあそれを全部、でもそれが私だからっていう、この心と体を、唯一の心と体を持って、
それを体験した結果、得たその感覚とか考えっていうのは、
いいも悪いもない、ただただそれがあるんだということを、
自分で受け入れていくっていうことなんだろうな、みたいなことは思います。
そういうことですね。
あと結構その本書で、ちょっとさらっとした一文なんですけど、私が印象に残ったのが、
そのそれっぽい言葉を人が選んでしまうっていうことを書かれていて、
つまりどっかで聞いたことがあったりとか、なんか綺麗な感じでまとめてしまうっていうのは、
これは誰に見られない文章であっても、やっぱそれが起きてしまうと。
でもたぶんそこから一歩進まないと、自分の本当のコアって言うんですかね、
それが浮き彫りになっていかないっていうことが書かれてたと思うんですけど、
そのなんですかね、それっぽい言葉の罠を避けるためには、どうしたらいいかっていうのをぜひ聞きたいなと思うんですけど。
体を使うことでしょうね。
体を使うこと。
体を使うことな気がする。
私インタビューもよくやっているので、やっぱりその人の人に問いをぶつけて、
その方から答えをいただくみたいなことをたくさんしてきたんですけど、
この人の言葉って本当に自分の肉体通ってきてるなっていう人の言葉ってやっぱ強いんですよね。
でもそれってやっぱり苦労しない、苦労っていうか結構労力がいることじゃないですか、
自分の体でその場所に行って、動いて、何かに触って、味わって、
その結果出てきた言葉って、まず肉体がありき、身体、心身がありきなんですよね。
そこのそれに合う言葉はどれかなって選んで出しているから強いんですけど、
でも本当に結構よくあるのが、言葉が先にある。
自分の心身を使って感じたことを言葉に変換するのではなくて、
すでにある言葉を借りてくるっていうことって、本当によくあると思うんですよ。
それってちょっとサボってるってことなので、それを自覚したら、やっぱり、
ああ、体動かさないとあかんなと思って、机の前でこねくり回してるだけじゃあかんなと思って、
外に出かけて、やったことないことやってみたりとか、実際に行って食べてみたりとか、
なんかそこで自分の感覚というものを一回感じ切るみたいなことをやると、
借りてきた言葉っていうのではなくて、自分で獲得できるんじゃないかなと思いますね。
ちょっとその話が広がりますけど、今、それこそ例えば何かの作品を見たときに、
じゃあ流行りの映画を自分がどう感じたかっていうと、
SNS上にその作品の感想があふれてるじゃないですか。
めっちゃありますよね。
めっちゃありますよね。
先にそれを見ちゃうと、たぶんその感想に持ってかれるんですよね。
そうなんですよ。
たぶんこれっていろんなところで起きていて、どこかに観光に行くもたぶんそうだし、
何かを体験したときに、他者の言葉っていうのが自分の言葉のようにやっちゃうっていうのを、
あまりにも我々は日常に入りすぎていて、
そうなんですよね。
ですよね。ニュースに対して何かを感じるとかも、結構予想行きの言葉になっちゃいがちだなと思うんですよね。
やっぱそれを意識して回収しなきゃいけないなっていうのは、かねがね思いますね。
ほんとそうですね。例えば映画見て、
あれ?この映画ってちょっとどうなんやろうってなったときに、やっぱ見ちゃいますよね。
見ちゃいます。そう、見ちゃいます。
そう、答え合わせみたいな感じで見ちゃいますよね。
やっぱそうやんなって思ったりとか、やっぱそうやんなって思ったりとか、
あと、こういうふうにつぶやかなくてよかったとか思ったりとかあるじゃないですか。
そうです、あります。
全然わかってないふうに見えちゃってたわとか、そういうのってやっぱり他者の評価ですよね。
他者の評価を気にして、こんなふうに感想を言うと、
なんかこう、全然この人映画見てないやんみたいなふうに思えるかなとか、
なんかそういうのって、すごくやっぱもったいないことで、
でも映画館でちゃんと映画を見て、感じ取ったのは私なので、
1回外を見るんじゃなくて、それこそ正解を探しに行くんじゃなくて、
自分の中に矢印を向けて耳を傾けるっていう、
その部分はやっぱり誰にも見せない部分でやって、
で、そこで出たものを外に出すかどうかは後で選べばいいので、
なんかそういうちょっと1回自分1人で対話するっていう時間はすごい大事だなと思いますね。
そうですよね。
いやー、だから何かを感じるとか、何かに感想を持つことすら、
我々は他者に委ねつつあるなっていう怖さもあるんですよね。
ほんとそうですよね。
なんかもうAIが出てきて、さらにそこを加速していってるので、
なんかちょっとキーワードを入れるだけでそれっぽい文章を書いて、
で、それを読んで納得して、
あ、じゃあこれで私はこの言葉を借りようってなったら、
やっぱりそこで感じた自分の心と体っていうのは、
ずーっと言語さえないまま残ってしまう。
それってすごく、そして消えてしまうんですよね。
それってすごくもったいないことだし、
生きる意味って何なんだろうなみたいな気持ちになってきますね。
そうですね、そっか。
だからそこにやっぱその罠を返しようと思ったら、やっぱ身体勢ってことですね。
うん、確かに。
ちょっとごめんなさい、ノウハウっぽい話になっちゃうんですけど、
ドモンさんも毎日寝る前に誰にも読ませない文章を書いてるって話じゃないですか。
はいはい。
これってどうなんですか?
まずそもそもって言うと、
習慣化した方がいいよっていうふうに読者の皆さんには言いますか?
そうですね。
まあ人それぞれって感じですか?
あ、どうでしょうね。
まあそうですね、私あの手で書いてるんですよ、日記を。
なんで手で書いてるかっていうと、
自分の筆跡を見るためなんですよ。
で、カードの癖じゃないですか、筆跡って。
つまりその言葉も受け入れるし、
自分のカードの癖も全部受け入れるっていうことを日記を通してやってる。
もう使えた時とかもうひらがなばっかりになったり、
読めないような字になったりするっていうこと自体も全部自分なので、
それも毎回毎回受け入れていくみたいなことをするんですね。
で、それを毎日毎日やっていくとどうなるかっていうと、
自分が自分に心を開いてくるんですよ、だんだん。
だから例えば友達に、仲のいい友達で、
いつもなんか愚痴とかを聞いてくれる、
どんな秘密を守ってくれる友達がいたときに、
その子と信頼関係が構築されていくと、
何でも言えるようになるじゃないですか。
それと同じように、
自分と自分の関係性もやっぱり一丁一石ではできないもので、
毎日毎日繰り返すことで、
あれ、この人は何を言っても怒んないぞって、
自分が自分に思えるようになってきたら、
やっぱりそれこそ信じてきた安全性みたいなものが出来上がってきて、
何でも出てくるようになる。
めちゃくちゃ言葉が出てくるようになる。
そうなると、そこから本当のことをずっと引き出すことができれば、
いいものを書けるので、
習慣化することの理由はそこですね。
自分との信頼関係の構築には時間がかかるということですね。
じゃあ、例えばそれが人によっては毎日じゃなかったにしても、
定期的にやっていくと、
その信頼関係がどんどん結べていくってことなんですかね。
そうですね、はい、と思います。
これってどうなんですかね。
ドモンさんは習慣化されてると思うんですけど、
やりたいんです、習慣化したいんですって方がいたとしたら、
どうやったらうまくできますよっていうふうにお伝えしてますか。
なんか書きやすいペンを用意して、
あと書きやすいノート、何でもいいので用意して、
書いてるのが気持ちいい、身体的に気持ちがいいっていう状態にしてあげると、
おそらくそれ自体が快楽となって、
習慣化されるんじゃないかなっていうのは思います。
形から入るというよりは、体から入るみたいなこと。
書くということ自体が気持ちがいい。
だから、言葉をうまく出そうとしなくて全然よくって、
文字をただ書くだけでも、本当に絵を書くように、
それも表現のひとつですね。
文字を書くこと自体が表現なので、
それを繰り返すことで、
ここでは何を表してもいいんだっていうことを、
自分に許可し続けるっていうことをするといいなと思うので、
ちょっとまずは書きやすいペンとか用意したらどうですかねとは言ってますね。
結構大事ですね。
書きやすいペンであり、ちょっと気分が上がるノートっていうかね、
気分が上がる文房具を用意するってことですかね。
そこら辺からでもそうですよね。
人間ってやっぱり気分の生き物なんで。
気分の生き物ですね。
そうですそうです。
その辺からやっていくっていうのはありですよね。
そうですそうです。
そのペンひとつ選ぶのも、ノートひとつ選ぶのも全部自己対話じゃないですか。
どう?って、このペンどう?っていうのを聞きながらやっぱりそれを買うので、
そこから始めてあげると、すごく自分を理解するための第一歩になるような気がしますね。
そういうことですね。
ちょっとじゃあ次、誰かに読まれる文章ってところに話を一つしたいんですけど、
今まさに水路の掃除っていう表現をしていただいており、
まずは自分と対話をして、全部出して、なんなら綺麗にしていくと。
多分そこからいろんなものが見えてくるんで、それを誰かが見てもいい、
誰かに届ける文章に加工していくって話なのかなと思うんですけど、
ドモンさんがその文章を書くとき、ちょっとそのいろんな文章書かれてるんで、
じゃあ一旦ちょっと自分の著者である文章ですね、エッセイとかにしましょうか。
書くときに何から着想していくというか、その文章の中でのその価値の中心っていうんですかね。
真実だったり、笑えるだったり、いろいろあると思うんですけど、
その文章をどう届けたいかっていうのって、
ドモンさんの場合はどういうところからその起点として書いていきますか。
問いですね。
問いですか。
問いです。
これって何だろう、さっき見解とおっしゃってましたよね、
ご自身が誰にも見せない日記を書くときに、何かに対しての見解っていうのは、
すごくよくわかるなと思って聞いてたんですけど、
私、文章を書くのって、わかんないことをわかる行為だっていうふうに言ってたじゃないですか、
なので、やっぱり問いが一番最初の起点としてあるんですよ。
だから、例えばエッセイ書いてくださいって言われて、
じゃあ、ポッドキャストというテーマで1本エッセイ書いてください、2000字お願いしますって言われたときに、
ポッドキャストかーってなって、
なんで最近ポッドキャスト流行ってんだろうとか、
あとはその文章を読むのと音声で聞くのって何が違うんやろうか、
ポッドキャストが書籍化されたら何か機能変わるのかなとか、
例えば、問いがいろいろ湧いてきますよね。
その問いの中で自分が一番興味があるものを1個、その一番最初スタートにおいて、
それを書きながら考えたりとか、わかんなかったら外に行くっていうことをやってますね。
うーん、なるほど。
そこからじゃあ、問いがスタート地点にあると、
自然とこう繋がっていくっていう、展開できるって感じなんですか?
そうですね、そうそう。
なので、やっぱりその書くって結構、やっぱり考えるプロセスというか、
わかんないことをわかるためには、わかるところじゃ書き続けるしかないじゃないですか。
で、わかることを書いていって、ここまでしか書けへんなってなったら、
じゃあ調べに行かないといけない、誰かに話を聞きに行かないといけない、
体験しないといけないっていう、次のステップが見えてくるので、
で、そのステップを踏むと、またわかることが増えて書いていくみたいな。
で、それをやっていくと、やっぱり2000字がそれで、なんていうか歩みのように書けて、
最終的には自分の結論として、なるほど、ポッドキャストの魅力っていうのは、
こういうことだなっていう、今の自分の見解をオチに持ってくるみたいなことをすると、
それだとどうなるかっていうと、まず文章を書きやすくなりますし、
あと同じ問いを持っている読者が興味を持って読んでくれるので、
なんていうか、それが世の中に出る意味の一つになるみたいな感じですね。
その問いが1個あって、その自分なりの答えを書き進めている最中、
で、最後たぶんここにたどり着きましたっていうのが、
ひとまとめのエッセイなのかなって感じがするんですけど、
その最中っていうのは、割とこうなんですかね、
あんまり読者のことは気にせずに、自分なりのロジックをこう書いていくっていう感じですか?
そうです、そうです、はい。
まずはもう、なんていうか、それこそ一人で書くみたいな感じですね。
自分なりに、ああでもない、こうでもないっていうのをとにかく書いていく。
もう構成とかあんま考えないです。
考えない、わーって書いて、
で、とりあえず書き溜めたなってなった時に、
じゃあ次、第2段階行きましょうってなった時に、ようやく始めて、他者の目が入って、
これ、私のことを全く知らない人とか、ポッドキャストあんまり聞いてない人でも、
読んでもわかるかなとか、
どういうふうに第1文を持ってくると、
あって思ってもらえるかなみたいな感じで、
頭を使って構成していくみたいな感じです。
そっか、じゃあ書法第1項に関しては、
問いがあり、自分なりのその見解とかルートがあり、
一旦の着地がありってことですね。
で、それを一旦眺めて、で、順番書いたりとか、
あとここダソくだなーみたいなのもあったりとか、
いらんなーとかありますからね。
ありますよね。
結構、そうですね、普通に多分一方通行で文章書いていくと、
その時にはすごいそっちに意識持ってかれて、
文量として多くなったんだけど、
客観的に見ると、全部いらんわみたいな、
箇所って結構ありますよね。
ありますあります。
バランスが結構一時的に悪いと思うんですよね、最初に書いた文章って。
ただなんか私、これはある編集者さんに言われたんですけど、
例えばその出来上がった文章が、
一つの木とか花とかの植物だったときに、
木としましょうか、一本の木だったときに、
とにかく葉っぱを判もさせてくれって言われたんですよ。
そうじゃないと枯れないからっていう話をされて、
最初からなんかこれいらないかもなーとかって思って、
書かないということだけはしないでくれみたいなことを言われたことがあって、
とにかく出せるものを一回全部出す。
で、その後客観視して、
あ、この葉っぱはいらないなっていうふうにちょきちょきちょきちょきやっていく。
だから怖いのは、書くことがないことが一番怖いっていうことを、
まあそのときに学んで、
あ、なるほどなと。
じゃあ書工の段階では、
例えば2000字って言われてても、
3000でも4000でもいいから、
とにかく書くんだと。
なんか素材をとにかく出すんやっていう心意気でやると、
なんかこう後からこうね、
いかようにでも葉っぱはカットできるんだなーみたいな感じですよね。
いやーこれはちょっと耳が痛いんですけど、
書いていく中で、
まあ多分ここは使わないだろうなと思って。
ありますよね。
あの、さぼることがよくあるなと思いますね。
ありますよね。
ただやっぱそれは編集者さんとか本番読者が読んだときに、
ここが面白いんじゃんっていうことってやっぱあり得るじゃないですか。
あり得ますね、はい。
なんか自分にとってはすごく当たり前のことで、
別に面白みもないと思ってることが、
他者から見たときに、
えーそうなんだ、そんなふうに考えるんだねっていう、
面白い可能性を秘めてることがあるので、
そう思うと、もったいないですよね。
それを自分で最初に捨てちゃうって。
だから一回全部書庫ではのびのびと、
もういらないもの、いらないかもしんないと全部書いてあげて、
それを一回客観視してあげるみたいな、
そういうプロセスのほうがいいかなと思います。
使わないと思ってもさぼらないと。
一旦葉を茂らせると。
そうですね、葉をのびのびと。
茂らせて。
うーん、いや耳が痛いわこれ。
自分の著書を書いたときにですね、
結構一方通行だったんですよ。
最初に構成をしっかり作って。
そうなんですか。
そんなずれずに、
それの構成を埋めていくっていう感じでやっていったんですよ。
まあちょっと私の場合はそのポッドキャストの制作っていう、
その方法論だったんで、
エッセイよりももうちょっとその葉を茂らせる、
必要がなかったっていうのはあるんですけど、
でもなんかそうですね、
で書いてる最中に、
なんか手が止まって、
あ、いらんなと思ったらもうそこ、
もう書かないみたいなのはよくあったんですよね。
ありますよね。
はい。
そうそう、まあ明らかにいらんとこもあるんですけど、
なんかちょっとね、
あの一回疑ってみるといいのかもしれないですね。
そうですね、うーん。
あとあの、やっぱりアウトプットするためには、
さっきその書くことがないのは怖いっていうふうにおっしゃいましたけど、
一定蓄積というか、
あの何かを見るであり、
あとはその見たものを熟成させるっていうんですかね。
時間とともに置いておくっていう作業が必要かなと思っていて、
でまあ本書だと確か生きる考える書くっていうふうに書かれていたと思うんですけど、
その何かをこう見て、
で、置いて、
でその書くっていう、
そのサイクルについてはどういうふうな捉え方をされてますか。
やっぱ物書きをなりわいにするとですね、
ずーっと書くので文章を。
やっぱ枯渇するんですよね、
ずーっと書き続けてると。
なので、最初やっぱり独立してすぐの頃は、
とにかく書かないとと思って書きすぎちゃって、
すっからかいになっちゃったんですよ。
これはやっぱり続かないなと思って、
でやっぱり結局書くって何なのかって言ったら、
わかんないことをわかる行為だし、
あとはやっぱ体を通して感じることが先にあるべきなので、
やっぱその部分をサボっちゃってたなと。
つまり書く時間を作るためには、
書かない時間を同じぐらい取らないと、
書き続けられないということに気がついてですね。
なので、まずはやっぱり心と体を持って世の中を感じるということ、
摩擦に触れるみたいなことですよね。
なんかそれを私は生きると言っている。
つまり他者と出会うとか、世界に触れる、
自分の外側に出ることが私にとっての生きること。
で、そうすると必ず自分は摩擦が起きるので、
何かを感じるはずだし、
そこから思考が始まるんですよね。
で、その時に自分が外に出る前と出た後では、
何が変わったかなっていうのを内省する、
観察するっていうのが私にとっては考えるっていうことなんですね。
なので体験する、生きるということをして、
内省する、考えるということをして、
そうすると自然と書くということが生まれてくる。
この循環みたいな。
摩擦って面白いですね。
そっか、だからよく例えば、人に会いに行きましょう。
人と会話をしましょうとか、どっかに足を運びましょうとか、
あとは単純なコンテンツのインプットもそうだと思うんですよね。
本を読みましょうとか、映画を見ましょうとかっていうのはよく聞くし、
多分私も含めていろんな人がやってる作業なんですけど、
それはすなわち何かって言ったら、
摩擦を起こす作業なんですか?
今もここで摩擦が起きていますよね。
やっぱり相互作用が起きているので、
この摩擦っていうことだと思うんですよね、生きるって。
で、それがやっぱり、なんて言ったらいいのかな?
さっきわかんなくなる。
自分と他者がぐちゃぐちゃになってしまうとか、
なんていうか社会に飲み込まれてしまう、
非閉式って飲み込まれてしまうってやっぱあると思うんですよ。
つまり摩擦が大きすぎるとか、
内省の時間がなさすぎて、
ずっと摩擦状態で麻痺してきちゃうみたいなことあるじゃないですか。
なんかそういうふうにやっぱり、
世界に出て何か働きかけたり働きかけられるということは、
摩擦を受けるということなんだ、
全てにおいてそうなんだろうなというふうに思いますね。
具体的には、やっぱりドモンさんがされている摩擦をする作業というのは、
やっぱり人と話すとか、何が多いんですか?
体を使う。
体を使う。
体を使う。
えっと、やっぱ頭ばっかりなるんで、書いてると。
はいはいはい。
で、なんかこう、わかってるの気になるんですね。
いえいえいえ。
で、そういうときに、
いやちょっと、たとえばスリランカカレー屋さんがあると、
あ、スリランカカレーね、あんな感じでしょっていうのが頭じゃないですか。
はい。
いや、1回入ってみようか。
大事ですね。
1回そのドアを開けて、どんな店員さんがいて、
一口目は何なのかっていうことを、
1回体を通してみないと、やっぱりわかんないんだっていうことを、
ずーっと自分に聞かせているので、
なんかなるべく、こう動くように、
動くというか、実際に行くとか、会うとか、
うーん、なんかわかって気にならないみたいなことですかね。
足を運ぶってことですね。
そうですね。
そうそう、みんながSNSであげてるから、
ああ、こんな感じね、じゃなくて、
ちゃんといてパンケーキ食べるとか、そういう感じのことだと思います。
で、あれですよね、だからたぶんスリランカカレー屋さん、
まあ別にスリランカカレー屋さんは悪く言うつもりはないですけど、
じゃあなんか、思ったよりもおいしくなかったなとか。
ありますよね。
ありますよね。
あります、あります。
で、パンケーキだったら、並んだ割にはこれかみたいな。
そうそうそうそう。
でもそれも含めてってことですよね。
そうですよ、それもめっちゃ摩擦じゃないですか。
摩擦ですね、はい。
並んだのに、みたいになって。
でもその摩擦をやっぱり、なかったことにしないということ。
せっかく並んだんだから、おいしいと思わないで、
え、今正直どう思ってるって自分に聞くというか、
いまいちやんなっていうこととかって、
結構大事だなと思うんですよね。
なんかそれがどんなネガティブな反応であり、ポジティブな反応であれ、
それやっぱり自分の体を通して感じたっていう、
すごく価値のあることだと思うので、
それ自体はやっぱり書き留めていくっていうことなのかなと思いますね。
そうですね、だからまあ結構人間って、
そのまず頭でわかってるような感じになると、
まあめんどくさいなと思っていかないし、
まあ、期待を超えなかった、ちょっとがっかり感というのも味わいたくないから。
ありますよね。
ありますよね。
それでますます奥になるんですけど、
がっかりしたらがっかりしたで、
そのがっかりっていうものを含めて、
自分と対応すればいいっていうことなんですよね。
そうですね、だからあまりにはやっぱり合理的になりすぎてしまうと、
結局家から出ないのが一番正解になるんですよね。
もうスマホがあればいいわけじゃないですか。
わざわざどっかに並びに行ったりとか、
暑い中出かけたりとかして、
何かいいことあんのっていう話じゃないですか。
まさにまさに本当にそうです。
でもそれって生きてる意味あんのかなってやっぱなるんですよね。
せっかく体があって心があるのに、
それを使わないで摩擦をずっと避け続けるって、
なんか自分として生まれてきた意味って何なんだろうみたいなことを思うと、
やっぱり心と体を通してこの世界を感じることなんだろうなっていうのは思いますね。
そうですね。
これ何かだから多分いろんなところで起きてると思うんですけど、
その短期的に合理的って言うんですかね。
要はコスパみたいなことが言われますけど、
コスパよく生きすぎようと思うと、
実はそれって長期的には、
いや何かあなたの人生相当何か痩せてませんみたいな風になるってことなんでしょうね。
そう思います。
で、やっぱり外にいて摩擦を受けることで、
自分の形がわかるじゃないですか。
ここぶつかるんだとか、
私の肘ここにあるんやとか、
なんかそういうのってやっぱり自分自身を確かめる作業のような気がするので、
やっぱ外に出ることで人と会って、
何か傷ついたり傷つけられたりすることで、
自分自身をわかっていく、他人の輪郭をわかっていくっていう、
なんかそれの繰り返しなのかなとは思います。
内省とおっしゃったじゃないですか、
じゃあその世界と摩擦を自分として体験すると、
人と喋りでもいいし、何かをどこかに行くでもいいですけど、
何らか自分として受け取るじゃないですか。
で、それを人に読まれる文章にするには、
やっぱりなんていうか熟成というか、
一定の時間が必要なんですかね、やっぱりそこは。
そうですね。だからなんかその、生きる、考える、書くとするといいですよって言ってたんですけど、
書いてると、やっぱわかんないことがまた出てきますよね。
で、わかんないとじゃあどうすればいいってなったら、
外に出ましょうって言ってたじゃないですか、生きるですよね。
生きるですね。
っていうふうにこう、やっぱり循環をしていくものだと思うんですよね。
で、考えてもやっぱりわかんなかったら、もう一回生きるに戻らなあかんかったりするので、
なんか無理矢理書くというよりは、やっぱりその自分自身が生きて考える中で、
出てくる言葉をこう、つかんでいくっていうことをしないと、
やっぱりどこか、やっぱり借りてこようみたいな気持ちになっちゃうと、
だからそういう、なんていうかせっかちな状態になると、
せっかくのね、出てきそうな言葉が、そのまま消えてしまうので、
そこはなんとか踏ん張らないとなと思いますね。
そうですね。これも私の反省なんですけど、私もたぶん仕事からアウトプット量がめっちゃ多いと思うんですよ。
文章というよりも、喋って伝える機会が職業柄かなり多いんですけど、
そうすると、やっぱ取っ手出しみたいな状態になることがすごい多くて、
何かインプットは常に、これも職業柄仕入れてるつもりではいるんですけど、
そんなに自分の中で熟成されないまま、それが言葉として出ていくみたいなことがよくあるんですよね。
だから一定、たぶんこの考える、生きる考える核の考えるを意識して、たぶんウェイト増やさないといけないなっていう思いがあるんですけど、
結構ドモンさんは、インプットでもアウトプットでもない、それを考えるだけの時間っていうのも結構持ってるものですか?
私、結構ずっと考えてるかもしれないですね。
そうですか。
あーでもない、こうでもない、つって、ずっと何か問いがやっぱあるんですね。
最近の私の問いは、どうやったら遊び上手になるんだろうっていうことがずっと私の中で問いとしてあってですね。
いい問いですね。
なんていうか、死にたいっていう気持ちと、死ぬまで生きにきて、前作で向き合い切って、
あーなんか消えないんだな、この気持ち、それでやっぱ生きていかないといけないんだなーって答えが出ました。
じゃあ次どうする?ってなった時に、どうやって生きていこうかっていうことにやっぱ問いがちょっと変わってきてですね、
なんかこう遊ぶとかっていうのってどうやってやるんやろうなーみたいなことをやっぱ考えるんですよ。
じゃあこれで何かエッセイ書こうかなーみたいなときに、ずーっと考えてますね、遊ぶ、ずっとここにある。
だから遊び上手な人に会ったら、あーっと思って、ちょっと話聞いたりとか、何が面白いんですか、それみたいな話聞いたりとか、
今この瞬間に遊べへんかなーとかって、ちょっといきなり遊びだしたりとかっていうので、ずーっとやっぱりいくつかの問いがずっとあるみたいな感じ。
だからずっと連動させてるみたいな感じですかね、生きると考えるを。
なるほど、いくつか別に意識するしないは別にして、自分の中でそのテーマが常に別に答えが出ないテーマが持ってるっていう感じなんですか。
ありますあります。あります?
うん、多分あるような気がします。
なんとなくずっと考えておきたいテーマってありますよね。
ありますね、なんでより具体的に近いのもあれば、もっと多分抽象的なものまでいろいろあって、具体的なものはまあそのちっちゃい会社を運営してるんで、
事業どうしようかみたいな話が多分具体であるんですけど、抽象度高いので言うと、まあ多分そのあれですね、よく生きるとは何かみたいな。
あー面白いですね。
多分そういうやつが常に自分の頭の中にはあるイメージですね。
めちゃくちゃよくわかります。私はその、結構この対話中にもよく出てきたんですけど、それって生きる意味ってあんの?とか、生きる意味ってなんなの?っていう言葉結構出したと思うんですよ。
で、それが大テーマなんですね。
あーなるほど。
なんで生きないといけないのかとか、生きる意味ってなんだろう?っていうことがもうずーっと青草今もずっとあるんですよ。
で、その大テーマから、こうなんていうか小テーマがいくつかある。
そのうちの質が遊ぶ、上手になるでどうすればいいのかなとか、あるいはそのなんだろうな、例えば、働くってなんだろうなとかっていう小テーマがいくつかあるみたいな感覚で、
なんかやっぱ大きなテーマが一個あると、なんていうか、枝葉のようにやっぱちっちゃい鳥も生まれるから、それがこう人生、こう生活してる中で時々、あ、これってあの答えに結びつきそうやなみたいなことに出会ったりはしますね。
そっか、だからまあそうですよね。そういうフィルターというか、鳥の箱っていうんですかね、いくつか用意しておくと、まあいろんなものが見聞きして、で、まあ人間なんでキャッチしようと思わないと、それって残んないわけじゃないですか。
はい、そうですね。
その箱にこう格納できるって感じなんですかね。
本当にそうだと思います。
なるほど、遊び上手はいいテーマですね。
よく生きるにも必要なテーマですね。
必要なテーマですよね。
ちなみにこれ差し支えなきゃいけないんですけど、暫定的な答えはあるんですか、今のところ遊び上手になるにはどうしたらいいか。
でもね、その摩擦をいかに受け入れるかということなのかなと思ったりとか、あとはこの本当のことを書く練習の担当編集の昆野さんという方が、昆野さんも遊び上手だなって私から見てて思うんですけど、
昆野さんにもちょっとお話聞いて、なんかこうついでを作るみたいな。
私結構、なんていうんだろう、目的の睡眠をために最短距離で生きたいタイプなんですよ。
でも、なんかそれをやっぱり自分の頭で、やっぱりよくないなと。
ながらば、やっぱりそうやってすごい効率性を求めてしまうから、結局摩擦を嫌ってしまうんですね。
私が一番、やっぱり書くために必要な摩擦というものをなくしてしまうから、その摩擦を受け入れるということと、あと昆野さんが聞いたのは、ついでを作る、寄り道をするとか。
例えば、今日ここに来るんだったら、ちょっとここにも行ってみようかなとか、みたいなふうにするのが遊びですって昆野さんに言われて、めっちゃ勉強になる、なるほどね、みたいな。
めっちゃいいですね。
なんか、やっぱり視点をいただくじゃないですか。
そうか、人生って高速道路じゃないんだ、下道なんだなとかね。
その通りですね、本当に。
いや、そうだわ。
下道をいかに楽しむかで、高速道路でもうすぐここに行こうとかっていうのって、なんも面白くないな、みたいな気持ちに、みたいなことをやっぱり教わりますね。
そうですね。だから早く行けるのかもしれないですけど、本当に意味あるの、それみたいなことになるってことですね。
高速道路に乗らないといけない時もあるけども、人生そればっかじゃない。
そうですね。
たまには下道降りなあかんとか。
いいですね、いい答えだわ、それ。確かにな、ついでにあるですね。
ちょっと駆け下り迫ってきたんですけど、それこそ誰にも読ませない文章と誰かに読ませる文章っていうのは書いているということを本書でも綴られていて、
誰にも読ませない文章は水路を掃除するんだというお話なんですけど、
誰かに読ませる文章の喜びというか、人がつまり自分の文章を見るわけなんですけど、
その職業を続けている、動機っていうとちょっと抽象度が高まりますけど、どこに喜びを見出しているか、その辺っていかがですか?
そうですね、文章を書いて、それを人に読んでもらって、例えばご感想をいただきますよね。
その時にいつも思うのが、これ私の本のことを話しているようで、その人自身のこと話してるなって思うことがほとんどなんですよ。
なんかその本当のことを書く練習を読んで、こういうふうに思いましたっていう時って、その本のことじゃなくて、その人自身のことをしゃべってるんですよね。
私はこれを短歌を読んだ時に一番よく感じたことなんですけど、短歌って本当一行の作品なので、余白がめちゃくちゃあるじゃないですか。
で、人はその短歌を読んだ時に、この短歌を読んで、こういうことを思いましたっていうふうにお話する時って、この短歌のことを言ってるようで、この余白のことを言ってるんですね。
この余白に自分の人生体験を全部投影して、それを言ってくれてるって思ってて、
私はそれを短歌を書いた時に、その経験をして、なるほど、なんか文章を書いて読んでもらうって、その人のことを聞けるんだなと思ったんですよ。つまり対話がそこで生じている。
私が一方通行で伝えてるように見えて、向こうからもちゃんと反射して帰ってくるっていうことを学んだ時に、
一人で書く文章、誰にも読ませない文章は自己対話だけど、やっぱり誰かに読ませる文章っていうのは対話になるんだなっていうふうに思って、
これってすごく自分を超える作業みたいな、なんかそれをやっていかないと、人と一緒にいる意味ってこういうことなんだろうなみたいなことは思いました。
それはあれですか、やっぱりその感想として、何らかアウトプットすると、私はこう読みましたっていただくっていう、その時に結構喜びを感じるってことですか?
それに限らずですか?
うん、それに限らずですかね。なんか、いや本当のことってさ、みたいな、俺はこう思うんだよね、みたいな、なんかその時に、ああ、書いてよかったな、みたいな感じですかね。
でも確かに、あ、どうも。
どうもさんってこういうことが言いたかったんでしょって言って、私じゃなくてその人がなんていうか捉えたものなので、なんかその時に、ああ、なんか対話が始まってるなーみたいな、しかもその本にすることで、私がその場にいなくても、なんかこう一斉に対話がしていただけるっていうのは、やっぱすごいことだなと思います。
そのフィードバックは、つまり誰がどうもさんの文章を読んで何かを感じたっていうものは、まあ直接もらえたら嬉しいんですけど、そうじゃなかったとしても、それを想像すると結構喜びが感じるってことですか?
そうですね、うん、確かに。まあそれもそうですね、SNS見たりとかもそうだし、別にそのフィードバックが確実になかったとしても、なんていうか、まあ、なんて言ったらいいのかな、その自分が書いた文章って自分が生きた奇跡みたいなものじゃないですか。
はい、まさに。
それを人に読んでいただけるということで、なんか、ああ、生きてんなーって感じ、みたいな、生きてる実感、みたいなものはやっぱあります。
なんか例えばエツランスPBSとか見たときに、生きてんなーって感じは、それがなんか多いからどうとかじゃなくて、ああ、摩擦が起きてんなーみたいな感じはありますね。
摩擦ですね、そこもやっぱり。まあでもそうですね、なんか直接的に、まあ私の場合はなんですけど、自分がポッドキャストを発信して、まあ直接的には感想をいただくこともあれば、全然その、まあほとんどの場合っていうか、たぶん9割9分、そのままこう受け取られて、で、こちら側としたらどう受け取られたかわかんないまま終わるんですけど、まあでもその方の人生の何かに作用してるかもしれないな、みたいな想像っていうのは働くんですよね。
まああの、影響を与えたいほど別にそんな強いつもりではないですけど、ちょっと何か作用してるかもな、みたいな。
そのリスナーの方にとっても摩擦が絶対にね、感じられてるはずなので。
そうですね、たぶん私が言う作用ってのはドモンさんで言う摩擦ってことなんだろうなと思ったんですけど、まあそれを想像すると、まあ発信した意味あるかなっていうのが個人的に思ってることではあるんですよね。
でもそうですね、確かに単価の感想っていうのは、その人自身の人生を投影してますよね、そこには。
確かにそうだと思いますね。やっぱりポッドキャストも余白がたくさんたっぷりあるものだと思いますし、
なんかそれを聞くことで、私あれが好きなんだよね、このポッドキャスト番組大好きなんだよねっていう時って、やっぱ自分のこと語ってるなーっていうことはよく思うので、
なんかそのきっかけになれた喜び、みたいな。その人が自分自身を語るためのきっかけとして、この本とか私の文章が機能したっていう喜びはすごい感じますね。
生きてる実感っていうふうにおっしゃったじゃないですか、でまあやっぱりこの書くっていうのは、生きるということの密接にドモンさんはつながっていらっしゃると。
前作のその死ぬまで生きる日記でも、結構やっぱそこを問いとして探求されていたと、配読しながら思ったんですけど、
今の時点で自分として生きることは何を指すのかというところの、まあこれ日々変わってるとは思うんですけど、
今の時点でこうなんじゃないかっていう仮説だったり、暫定的な答えだったり、そのあたりを最後に聞いてもいいですか?
そうですね。自分という謎を解き明かす、みたいな感じじゃないですかね。
確かにそうですね。
そう、やっぱ問いがあるんですよね。で、亡くなる日が来るのかなーって感じなんですけど、
なんていうか、やっぱりずっと、自分がこの世に生まれてきたとはどういうことなんだろうなっていうのは、ついて回る問いだと思うんですよ。
一人一人に。それを意識するかしないかは別にして、なんかそれを、なんていうか、ずっと解こうとしている、分かろうとしているっていうことなんじゃないかなと思って。
で、なんかそう思うと、いろんな人生に起きることすべて、なんかちゃんと受け入れられるというか、なんでこんな目に遭わないといけないんだろうっていうこともあると思うけど、
でもその中で自分が何を感じて何を考えているのかをずっと書き続けることで、なんかこう、そこに生きる意味ができていくみたいな。
あーなるほどね、自分のことを分かるために私は生きてるのねって思うと、なんかいろんなことを受け入れられるような気がするので、
なんかそのための時間であり、いつかは自分自身を完全に受け入れたい、それはなんていうか、やっぱり自由になりたいみたいなことのような気がしますね。
前作だと、そして後継者という通り、その既死念慮をずっと持っていらっしゃったと。
で、それというのは、ある意味こう付き合っていくものということが全体とらえられてますよね。
やっぱりこの問いがあり、自分という謎を解きたいなっていうのがあれば、やっぱりこうなんでしょうね、既死念慮ともうまくこう付き合っていけるなっていう、そういう実感があるってことですかね。
そうですね、そうそう、まだまだ溶けてないじゃんっていうことですね。
なんか、今41になるんですけど、もうすぐ、まあ41歳のドモン・ラン、もう出会ったことがないので、なってみないとわかんないとかね、50代、60代どうなんだろうなって、やっぱりそこもすごい見てみたい気がするので、
怖いですけど、摩擦を受けることは傷つくことでもあるので、やっぱりしんどいなと思いつつも、その摩擦の中でなんとか輪郭をちゃんととらえつつ、なるほど、自分という人間はこういう人間なのかっていうこと。
で、それは自分を知るということは、世界を知るということでもあるので、なるほど、世界というのは私にとってこういう場所なのかっていうことを確認し続けることが、なんか私にとっての一つの愛のような気もします。
自分に対しての愛であり、世界に対しての愛であり、なんかそれをし続けること、本当に修行のようにし続けることのような気がするんですけど、今喋りながら生きることを修行と捉えてることが、遊びが足りてないって思うんですよ。
遊びがやっぱり足りてないわって、今思いました。
ちょっと真面目になりすぎましたか?
いや、真面目になりすぎちゃうんですよね、すぐに。だからその、遊びが欲しいなーって思って、なんかこう遊ぶ自分ってどうなんだろうっていうところに行くとまた欠けるものが変わってくるので。
そうですね。でもなんか僭越ならなんですけど、私もたぶん近くて。
修行型?
修行型。あの、すき詰めしちゃうタイプ。あの、なんでしょうね、こう、なんだろうかって考えてしまって。
そうですよね。
私の場合、その、鬼神練理はないんですけど、でも、その、なんなんだろうなと思って、で、何かに近づきたくて、で、そこに対して向かおうとするタイプなんですよね。
で、えっと、すっごい理性では、いや、でもたぶん1,2割ぐらい、もうたぶん適当さを持った方がいいんじゃないかってことを、すごい思っていて、で、その1,2割ぐらい適当さを持った方がいいんじゃないかと思ってる時点で結構真面目じゃないですか。
真面目なんですよ、遊びが必要なんじゃないかと思う時点で。
そうって思う時点で真面目なんですよね。でもまあ、それもまあ付き合っていかなきゃいけないんだろうなっていうのは、結構思うところではありますね。
ほんとそうですね。どんどんなんか、うん、変わっていけたらいいなと思います。いろんな自分に出会えていきたいなって。
今はまだこんな風に頭でっかちで、なんか修行、修行みたいな感じになっちゃってるけど、ちょっとね、その、遊びも、なんていうか、うん、あれも台徳していくものだと思うので、
台徳していった時に、ちょっと40代、50代のドモンランが変わってくると、また見える世界も変わってくるんだろうな、それが見てみたいなっていうことは思ってます。
いやー、ありがとうございます。結構いろんなことを開示していただいたインタビューだったんですけど。
でもそうですね、本当のことを書く練習、今すごいですね、本当に、あの、10判もかなり重ねてますよね。
そうですね、はい。
これたぶんその、自分を理解するっていうこと、たぶん読んでいただくと、結構それリスナーさんとってはできると思いますし、
はいはい。
またこう、世界との距離って言うんですかね、世界とどう向き合うかっていうところも、かなりヒントになる本なんじゃないかなと思いましたので、
はいはい、ありがとうございます。
皆さんもぜひ読んでいただければなと思いました。
はい。
はい、ということで、非常に面白いインタビューを。
いやー、楽しかったです。
楽しかったです。
ありがとうございました。
でもなんか、いろいろ交換できた感じがしましたね。
本当に本当に。
摩擦が発生して。
摩擦が発生しましたね、はい。
はい、ということで、この後レシピ食っていきたいと思います。
はい。
レポンさん、今日はありがとうございました。
ありがとうございました。
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