1. 志賀十五の壺【10分言語学】
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2021-11-26 09:53

#391 「先生が好きな生徒」の曖昧性(DOM) from Radiotalk

関連トーク
「「好き」と「愛してる」のちがい、教えます」
https://radiotalk.jp/talk/521892

参考文献
『明解言語学辞典』 (斎藤純男ほか編、三省堂)

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#落ち着きある #ひとり語り #豆知識 #雑学 #教育
00:00
始まりました。志賀十五の壺。 皆さんいかがお過ごしでしょうか。志賀十五です。
先生が好きな生徒といった場合、 これには2つの解釈がありますよね。
先生のことが好きな生徒なのか、 逆に先生が生徒のことを好きっていう意味なのか。
先生が好きな生徒っていうのは、 こういう2つの解釈があり得ると思います。
この原因はですね、 この好きっていう、
これは形容動詞ですね、伝統的にはね。 が、主語も目的語も両方が出てくるっていうことなんですね。
先生が生徒が好き。 普通はどっちかが和で出てくることが多いと思うんですけど、
一応主語も目的語も両方がで出てきてしまうと。 そうなってしまうと、どっちが主語でどっちが目的語がっていうのが、
衝突してしまうっていうことなんですね。 さらに言うと、
こういう、何て言うんですか、 二義性っていうか曖昧性っていうのは、
目的語が人間の時に起こりますね。 例えば、
先生が好きなラーメンとか言った場合は、解釈は一通りしかありえません。 この場合は主語が先生で目的語がラーメンっていう解釈しか成り立たないんですね。
これは当然といえば当然で、好きっていうものの主語になるのは、
普通人間しかありえないんじゃないかな。せめて動物とか、そういう有生物と言われるものしかありえないと思います。
そうね。 犬が好きなドッグフードとか言えるから、やっぱり人間以外にも有生物だったら主語になれるんですけど、
無生物である場合は、 好きという形容動詞の主語にはなり得ないんですね。
なのでさっき言ったように、先生が生徒が好きっていうのは、どっちがどっちのことを好きなんだっていうのがわかんないんですけど、
先生がラーメンが好きと言うと、解釈は一通りに限られるということです。
こういう二義性というか曖昧性を解消するのに、ことがっていう風に目的語の方を変えると、解釈は一通りに決まります。
先生が生徒のことが好き、 あるいは先生のことが生徒が好きと言えば、目的語はことがのついている名詞っていう風に限定されるんですよね。
03:12
こういう工夫をしながら、我々普段曖昧性っていうのを実は解消してるんですね。
日本語においては、こういう曖昧性っていうのはあんまり起こりません。
なぜなら主語は普通がっていうのでマークされて、目的語はをっていうものでマークされるので、
好きみたいなごく限られた述語の場合の時だけ、両方がっていうのが現れるんですね。
ただそういう風に主語も目的語も両方同じようにがで表してしまうと、どっちがどっちのこと好きなんだっていうことになるので、
先生が生徒のことが好きだ、みたいに目的語の方をことが、とかいう風に別語の表し方をするっていうことなんですけど、
こういう風に目的語が何かしら別語の方法で表される仕組みのことを、言語学では DOM っていう風に言いますね。
ディファレンシャルオブジェクトマーキングの略で DOM とよく言われます。
さっきも言ったように日本語の場合は普通がとをっていう風に全く違う形を使うので、
混同は置きづらいんですけど、 例えばねスラブ系の言語で、ロシア語とかポーランド語とかスロベニア語みたいな言語で、
人間名詞あるいは動物名詞が目的語になる時だけ、 日本語で言うをみたいなものがつきます。
例えば目的語が無生物の場合は、 男、机、見た、みたいな言い方をするんですね。
この場合主語にも目的語にも何もつきません。 ただ目的語が人間名詞になると、
男、少年を、見た、みたいに、この少年っていう目的語の方にをみたいなのが現れるんですね。
これはなぜかというと、さっきも言ったように、どっちが主語か分からなくなっちゃうからなんですね。
名詞が2つ出てくるような他動詞の場合、どっちかが主語でどっちかが目的語になるわけなんですけど、
片方の名詞が無生物であったら、そっちが目的語って解釈されるのが普通です。
なぜかというと、主語っていうのは普通、人間とか有生物であるからなんですね。
ただ、名詞がぽんぽんと2つ出てきた時に、両方人間だったら、どっちが主語でどっちが目的語か分からないので、
スラブ系の言語では、目的語の方にをみたいなものが出てくるんですね。
06:07
この仕組みは、さっきお話しした日本語の好きだと似てますよね。
先生が生徒のことが好きだみたいに、どっちが目的語か分からないので、主語も目的語も、
両方人間名詞の場合は、目的語をちょっと特別な形にすると。これがDOMという仕組みなんですね。
ただ、すべての言語でこのDOMっていう仕組みがあるわけではないですね。
英語みたいな言語だったら、動詞に対するその位置によって主語が目的語、
つまり動詞の前だったら主語、後だったら目的語っていうふうにはっきりしているので、
両方人間名詞であっても問題ないんですけど、
語順によって主語や目的語を表しているわけではない場合は、
どっちが主語でどっちが目的語かっていう曖昧性を解消するために、DOMという現象が現れることがあります。
今お話ししたスラブ系の言語の場合は、目的語が人間名詞あるいは動物名詞みたいな生き物の名詞の場合に、
目的語にをみたいなものがついたわけなんですけど、
もうちょっと別の基準で違った目的語の表し方をすることがあります。
それは定か不定かみたいなもので、英語でいうザとアの違いみたいなものですね。
例えばトルコ語とかモンゴル語みたいな言語では、目的語が定の時にをみたいなものが出てくるんですね。
目的語が不定の時は何もつきません。
例えば日本語風に言うと、男本読む、こういった場合はその本っていうのは別に特定の本を指しているわけではないんですね。
男本を読むみたいな言い方になると、これは特定の本を指しているということになります。
これもなかなか面白いですよね。
日本語の場合も目的語を表す体格と言われるね、をっていうのは出てきたり出てこなかったりするんですけど、
今飯食った、今飯を食った、
多分意味の違いはあるんでしょうけど、母語ってわかんないんでね、調べたらいろいろ面白いことあると思うんですけど、
この飯食ったと飯を食ったの違いがモンゴル語やトルコ語のDOMの仕組みと同じかって言われるとね、
つまり定か不定かでをが出てくるか出てこないかっていう問題でもないように感じるので、
09:04
日本語の場合はまた別個の仕組みでをが出たり出なかったりするんじゃないかなと思います。
というわけで、今日のトークは主語か目的語かどっちかよくわかんないときに、その曖昧性を解消する仕組みとしてDOMというものがあると。
日本語にもことがみたいなものがあるぞっていうことで、それとよく似た現象がスラブ系の言語とか、
あるいはちょっと違いますけど、トルコ語とかモンゴル語でも目的語をちょっと違ったねやり方で表示する仕組みがあるぞっていうお話でした。
最後まで聞いてくださってありがとうございました。また次回のトークでお会いいたしましょう。
お相手はシガ15でした。
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