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こんにちは、志賀十五です。 今日も志賀十五の壺をやっていこうと思います。
今日のトークのテーマは、 体言止めっていうことになっています。
これっていつ習うんですかね?中学の時かな? 詩の技法みたいな感じで
擬人法とか比喩表現とかと、そういうのと並んで習うんですかね?
まあ、いずれにせよ小学校か中学校で習っているものだと思います。 体言止め。
簡単に言えば、名詞で文が終わるみたいなものですよね。 例えば、普通の文章だと
佐藤のホームランが流れを変えた とこうなるところを、体言止めを用いると
流れを変える佐藤のホームラン、みたいな、こういった言い方になります。 実際、
野球中継なんかだとこういった言い方をするし、 今言ったように詩とかね、そういう文学的なものでも見られるものですよね。
なのでちょっと 特殊な意味合いを帯びるというか、
読んでいてちょっとオッと思わせるようなものがあるんですよね。 というのも普通、日本語の文は
体言というよりは要言で終わることが多いからです。 多いからですね。
今言ったもので言うと佐藤の ホームランが流れを変えたっていう風な
要言というかその動詞ですね。この場合で終わるのが普通であったりとか、 あるいはホームランだとこうだと言った場合も、これは要言で終わっているんですよね。
というのもだっていうのは助動詞というもので、 活用するものが要言の一つの定義なので、
ホームランだ、ホームランだったみたいに 過去形があったりするので、こういったふうに要言で終わるのが デフォルトなんですよね。
一方体言止めのつまり名詞で終わる文は、何か普通とは違うという意味で 聞き手を引きつけるものがあります。
流れを変える佐藤のホームランみたいなね。 この意味を言えと言われると結構難しいですよね。
時々体言止めの効果として、余剰要因を表すとかあるんですけど、 まあそうなのかもしれないですけど、その意味は置いておいて、体言止めっていうのは、
日本語の表現においては特殊で、一種の強調表現みたいなものと 考えていいものだと思います。
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ただ、この体言止めというのは単に文学的な表現だというのには、 ちょっと物足りないっていうかね、
日本語の歴史をダイナミックに変えた、 そういった原動力でありました。
というわけで今日のトークは、この体言止めというのが、 いかに日本語の歴史を変えたかっていうのをお話ししていこうと思います。
これはね、相当面白いんじゃないかなと個人的には思ってます。 これもまた中学の時に習った動詞の活用っていうのを思い返してほしいんですけど、
未然、連用、終始、連体、 仮定、命令っていうような活用形があるんですよね。
ちょっと今回、動詞に話を絞りますけど、 動詞の終始形と連体形っていうのは、
全部形が同じなんですよね。 読むっていうのは、文末に出る時も読むだし、
体言を修飾する、つまり連体形も読む人っていうので、 同じ形が出てきます。
なので、現代日本語においては、終始形も連体形も形が一緒なので、 区別する必要はないといえばないんですよね。
ただ、古文においては、この区別はありました。
読むは、もともと余談動詞と言われるもので、 余談動詞には終始形と連体形の区別ないんですが、
例えば、現代語の 落ちるに対応する 落つという単語は、終始形落つで 連体形落つる だし、
もうちょっと 分かりやすいもので言うと、 ら行変格活用の ありですね。
現代語で言う あるに対応する ありは、終始形あり 連体形ある ですよね。ある人 っていう風になるので。
つまり、これは 古文の時代にあった 終始形と連体形の区別が 現代語ではなくなって しまっている ということなんですが、
これはなぜかというと、 連体形が 終始形の役割まで 分取ってしまったから ということなんですね。
つまり、連体形が 終始形の役割も 担うようになってしまった ということです。
これはなぜ 起こったかというと、これこそ 対言止めの ためなんですね。
連体形は 読んで 字のごとくというか 対言に つらなる形なので、
ある人や あるところ みたいに 後ろに 名詞が来る時に 使う形も あります。
連体形は それ自体で 対言としても 使われていました。つまり 名詞として 使われていました。
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このようなことを 順帯法と 言います。
例えば 高き山あるを 見たり 高い山があるのを 見たときに 高き山あるを と言います。
ここで あるという 連体形が そのまま 対言として 用いられて 格助詞の をが くっつくように なっています。
このように 対言の 特性を持つ 連体形が 文末でも 使われ 始めました。
つまり 終止形として 使われるように なりました。
一番 有名なのは 源氏物語の 若紫のところで 出てくる 雀の子を イヌキが 逃しつる というのが あります。
これは 言語学を 勉強している 人間だったら みんな 知っているような 文です。
これは 現代語風に 言うと 雀の子を イヌキが 逃しちゃった という 感じです。
この文末が 逃しつる という形に なっています。
つるとは 官僚の助動詞 つの 連体形です。
そのため 終止形で 言うと 雀の子を イヌキが 逃しつる という 連体形が 使われています。
すでに 源氏物語でも 連体形が 文末で 使われる 用法が 観察されます。
このように 連体形で 文が終わる というのは 一種の 対言止め ということです。
先ほど 言ったように 連体形は 対言と 同じ 機能を 持っている ということです。
すると 連体形が 文末で 使われるのが 普通に なって しまいます。
現代語では 終止形も 連体形も 同じ 例えば ある という形が 使われています。
今 話したように 対言止めは 日本語の 動詞の 活用の パターンを 大きく 変えた 言動力と なりました。
連体形と 終止形の 区別を なくして しまった ということです。
それだけでは なく 連体形が 終止形の 役割を 担うようになった 結果です。
主語を 表す 表示として 「が」が 使われるように なります。
これは どういうこと でしょうか。
昔の 日本語では 「が」は 名詞に しか つけませんでした。
「君がよ」「我が子」などに 残っています。
しかし 名詞を 修飾するための 表示として 「が」が ありました。
しかし 今 文末で 連体形が 使われるように なると いうことです。
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つまり 体言で 文が 終わるように なると その体言に 続く形として 持ち入られていた 「が」が 主語を 表すように なりました。
さっき 言ったものが そうですね。
雀の子を イヌキが 逃がしつる という 感じで 主語も 表すように なりました。
このように 体言止めは 動詞の 活用を 変えたり 格助詞の 体形を 変えたり します。
日本語の 大きな流れに 関わっている もの なんですね。
というわけで 今日の トークは ここまで ということで 最後まで 聞いてくださって ありがとうございました。
では また お会いいたしましょう。
ごきげんよう。