自然と生きるを考える 自然資本論
この番組は森で働くことを愛する高橋と奥田が、マーケティングやデザイン視点を持ちながら、森、海、里など自然資本を巡る話を面白おかしくしていく番組です。
はい、高橋です。はい、奥田です。よろしくお願いします。 よろしくお願いします。
今日はですね、私が新潟に戻ってきてですね、友人がカフェをやっているんですけれども、
そこで昨年9周年のパーティーが行われていて、なんと気軽に参加をさせていただいたんですけど、その時の話が面白すぎてですね、
今日ぜひゲストに参加していただきたいというふうに思って、今日はお呼びしております。
30年間アラスカにずっと通われ続けて写真を撮られている山田さんを今日はお迎えして話ができればというふうに思います。山田さんよろしくお願い致します。
よろしくお願いします。 よろしくお願いします。山田博行です。写真家です。
はい、ラジオで写真家の方々をお呼びするという、なかなか難しさもあるなと思いつつ、
なかなかここの場では伝えられないことは、インスタグラムとか追って見ていただきながら、皆さんにも感じていただきたいなというふうに思うんですけど、
今日山田さんをお呼びしたのは、アラスカのところは結構、なかなか行くことないので、
行きたいですよね。行きたいけど、なかなか行けないですね。行けない。
行けないし、その氷河っていうもののスケール感とか全くわからないこともあるし、氷河が溶けているみたいな話とか、環境問題的なところの視点も気になるところではあるんですけれども、
その周年パーティーに参加したときに聞いた話の中で、氷河の話もすごく面白かったんですけど、
アラスカという大自然の中で生きているというか、過ごしているアラスカの方々の精神性みたいな話もめちゃくちゃ面白くて、
その辺の話をちょっと伺えるというふうに思っています。
楽しみです、めちゃくちゃ。
山田さんすいません、自己紹介をまずはしていただきつつ話ができればと思うので、よろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
今53歳になろうとしていまして、僕は今写真家なんですけども、写真だけではなく映像の制作だったりとか、
あとは広告の仕事から自分のアート表現までのちょっと幅を設けながら活動をしています。
長岡にある長岡造形大学というところで、学生たちに教えたりもしています。
基本的にはカメラというものを通して、ものを見て撮ったものに対して何か編集をしながら、
人の意識とか心に訴えかけるものを作ればっていうのが、制作のスタンスの根幹としてある感じですね。
羨ましいですね。大学の先生をしながら自分の活動もめちゃくちゃちゃんとやってるっていうの、最高ですね。
そうですね、やっぱり自分が今動いている状況とかを伝えていくのが一番若い世代にとってはいいのかなと思っていて、
昔撮った金塚みたいな話がしたくないなと思っていて、
今どう考えてとか、過去にどういうものの経緯があって、今どうここにたどり着いて、どう悩んでるかも含めて、
学生と同じ目線で対話をして繰り広げていくのが僕も好きなんで、そういったことを意識的にやってますね。
じゃあ、もしかしたらアラスカに行かれてるタイミングは、学校が休みのタイミングだからそこに合わせて行ってるみたいなところもあるんですか、3月とかは。
これもありますね。基本的に1月ぐらいで授業は終わるので、2月、3月はいろんな会議とか書類の制作なんかはあるんですけど、それは大学に行かなくてもできちゃうので。
簡単に言うとオンラインミーティングだったりとか、あとはメール環境があれば自分でできるかなというところで、ある程度時代的にも行動の自由度が広がってきたなというところはありますよね。
じゃあ、その辺はもうアラスカに行きつつ、海外でそういうのをやってっていうふうな形なんですね。
30年間であってますかね、アラスカにずっと通われてっていうふうなのと、まだあと過ごしてるのが何年かあったっていうふうに確か伺ってたのかと思うんですけど。
そうですね。30年通ったと言えば確かに30年ぐらいちょうど経ったかなっていう感じですね。
自分の中ではそんなに何十年とか、10年20年単位で意図的にアラスカに行ってたっていう意識はそれほどないんですけど、
やっぱり通ってるうちに興味が出てきたりとか、興味の対象はちょっとスライドしていったりとか、もうちょっと深く行ってみたいとかっていうことが自然的に出てきた形ですよね。
最初は1回だけ行く予定だったんで。
そうなんですね。
スノーボーダーとしてのアラスカへの憧れから行き始め、1回目を行ったっていうのを読んだので、そこからどんどん別の形に興味が変わっていくってことなんですね。
そうですね。最初は僕も新潟県出身で、
冬のスポーツとしてスノーボードカルチャーがちょうど日本に入ってきて盛り上がってるときにスノーボードを始めてまして、
それで大学3年生、東京で学生生活してたんですけど、3年生の春休み、冬休みにニセコにこもったんですよね。
ニセコってやっぱり当時は珍しい大きなスキリゾートなんですけども、
白馬とか野沢五線とか湯沢とかに比べると決して華やかではなかった。
だけどその雪質とか山の地形とかを理解してる人たちだけが集まってるような、ちょっとマニアックな感じの場所だったんですね。
そこでそういった、ある意味スノーボードのディープな部分に入りたいなっていうところもあって、旅館でバイトしながら過ごしたのが最初のニセコの生活。
そしてそこで知り合った人とか、すでにアラスカにアパックしてるようなスノーボードが数人いて、アラスカへの興味が湧いたっていう。
やっぱり雪質とかバックカントリー的カルチャーの最高峰はそこにあるんじゃないかみたいな。
うん、そうでしたね。今のわかりやすい言葉で言うと、確かにバックカントリーっていう文化が根付いたスキー場っていう感覚でしたね。
ニセコがってことですか。
そうですね。
アラスカで滑られている方は、アラスカは特にスキー場とかではないってことですよね、そもそも。
スキーゾーンは2軒、3軒、3つぐらいあるかもしれないですね。
ちょっと待ってください。
1、2、1、2、2、僕が知る限り3つですかね。
少ない。
3つもだいぶ離れてますけども。
すごいな。
何百キロ単位で離れてるようなところですけども。
そこに滑りに行くわけでは、もともとつもりはなく、山手のバックカントリーをすでにやっている方々と一緒に最初入られてたって感じですか。
違いますね。最初やっぱり限られた人たちしか行けない聖地というふうな、メディアにもそう出てたし、行ってる人たちはやっぱりそういうふうな意識で。
いわゆるトップエンドのバックカントリーローボーダースキーやのみが行ってた時代ですね。90年代の中盤くらい。
その時には、僕が伊勢堀にこもった時に仲良くなった友達が数人いて。
アラスカにちょっと来年、しばらく住んでバックカントリー攻めていくのってどうかななんて話を、22歳くらいの時に同い年の電車で話をしてたんですよ。
選ばれたものだけが行けるって雑誌に書いてあったんだけど、選ばれてないけど行ったらどうなっちゃうんだろうなと思って。
選ばれてない5人が3ヶ月行ったっていう感じですよね。
めちゃくちゃ楽しそうですね。
分からないことだらけで、僕も初めての海外旅行だったんで。
そうなんですね。初めての海外旅行がアラスカなんです。
それで、全部山登りをするわけでかなりリスクがあるなと思っていて。
一軒スキー場があるエリアがあったんで、そこの元の村に滞在して、コンドミニアムを借りて3ヶ月生活し始めたというのが最初のきっかけですね。
そこから何年かは、最初の年はスノーボードをしつつ生活もしつつっていうふうな形だったと思うんですけれども。
何年かはそういうことで通われてた感じなんですか?
僕はもう大学で写真を専攻していて、当時からやっぱり写真で撮っていきたいなっていうのがすごくあったし。
あとはそのバックカントリーとかスノーボードカルチャーにもだいぶ傾倒していってたので。
当時ってインターネットがまだなくて、雑誌のメディアがすごく勢いをつけてたので。
雑誌の仕事なんかで世界中の雪山とかに行けたらいいだろうなということで。
いいですね。最高ですね。
そこを目指してましたね。
写真による表現で大好きなスノーボーダーたちと冬を過ごせたらいいよねということで。
最初のアラスカで撮ってきた写真を編集部に持ち込んで、特集ページを確約してもらったりとか、売り込みをして。
それを最初のやっぱり数年間で意図的にやっていって。
その中でやっぱりスノーボード雑誌とか山関係の雑誌から写真の仕事をいただくきっかけになったというのがありましたね。
めっちゃいいですね。
なるほど。
それで行きたいなアラスカは。
そういうので。
当時バックカントリーとかそういうことをしながら写真を撮られている方ってところが少なかったっていうことなんですか?
そうですね。
まだまだスキー場の取材みたいなものが多くて。
バックカントリーっていうかなり限定されたようなコアなカルチャーでしたよね。
そうですよね。JRが私をスキーに連れてみたいな。
そういうのが流行っている時代というか。
裏側ではね、湯沢でダンサーたちが踊っているCMが流れていたような時代でしたし。
スノーボードカルチャーもバックカントリーっていうよりはどっちかっていうと、いわゆる空を飛んでいくっていうか、雪を離れて何回転できるかとか。
トリックも成長していた時代だったので、その延長線上でやっぱり98年にスノーボードが初のオリンピック種目になっていったみたいなところがありましたね。
スノーボードカルチャーのメインストリームはどっちかっていうと、やっぱり飛んで回ってっていう方向でしたよね。
ですからまだ、そういうブームの中で、パウダーだとか地形だとかバックカントリーだっていうのは、やっぱりある意味マイノリティというか、好きな人の世界だったと思いますね。
日本の中だと、そうですね。スノーボードが入ってきたのも30年前っていうのは、ちょうど入ったぐらいのタイミングになるんですよね。
2010年ぐらいまでは特にそれがどんどんブームになっていったような気がしますね。
その氷河の方に意識が向いた、その写真とかを撮り始めたっていうのが十数年前っておっしゃってましたっけ?
そうですね。今まで、やっぱりアラスカでの滑りでアクセスするのって、ヘリコプターがやっぱり一番便利で、
やっぱり歩いていくには遠すぎるでしょってこととか、歩いていく良さもあると思うんですけど、
なかなかやっぱりヘリコプターアクセスできるところって、ヘリコプターではないとチェックリティできなかったとか、
効率的な天気条件がどんどん変わるときの、まさに今日の今だっていう瞬間にそこに行けるかどうかっていうのは、ヘリの力に合わせるものはないなと思っていて、
そういったものでヘリコプターでアラスカの三角地域の尖った山のピークに着陸すると、下にやっぱり氷河帯が見えるんですよね。
あれが氷河だとか、青びかりして見えるところもいっぱいありましたし、氷河という水面の中に雪山が恐ろしく注い立っているような光景をずっと見てきて、
僕はだいたい2012年ぐらいまで、ずっとエクストリーム式スノーボーディングの世界の相撲者たちとチームを組んで、写真を収めたりとか動画を撮っていた活動を冬にしてたんですね。
限られた世界というか、ある意味アラスカに集ってくる人たちって世界でも変わってる人たちが多いので、いろんな人たちの人脈ができたりとか、国をまたいで友達になっていく友人関係ができたりとかしていて、
あとは実際事故なんかもね、結構ありましたよね。危険な事故とかも。そういったものを2012年ぐらいまでやっていったときに、今まではトップアスリートたちをできたけれども、
ちょっと一回ここでその活動を休憩して、写真家としての自分自身はどんなものを撮りたいんだろうなっていうふうに、一回こう自問してた時期があったんですね。
で、ある時興味本位で、一人でアラスカをまた親しみに戻りながら旅をしていたときに、今まで遠くから見ていた美しい氷河の近くで見たいなと思ったんですよ。
遠くから見えててすごく綺麗な、青く輝く宝石のようなね、石じゃないけど、氷の塊が近くに行ったらどんな様子をしてるのかなと思って、刹那木をチャーターして、
着陸してそこでテントを張りながら、一週間ぐらい旅をして、近づけるような氷河のところを覗いてみたりとかして、写真を撮って始めたんですね。
特にガイドとかもおらず一人で?
いないですね。
できるんですね。覗いてみますなら。
結構危険なところってどういうところが危険なのかってなんとなくそこまでの産学経験で分かってたんで、今まで人について行ったりとかチーム単位で活動していたところを一回離れて、自分自身と向き合いたいっていうのも出てきたと思っていて、
そこで一人で旅っていうことで、比較的安全な領域で氷河部隊の中に入ってたっていう形ですね。
それ刹那でポイントCDするっていうかは、どこにおろしてくれみたいなのってどういう風にやられてるんですか?
なんかいろいろ現地で情報を収集していて、出会った人間とか知人とかに、あの辺に氷河があるぞみたいな話とか、そこだったら比較的地面が平坦でフラットだから、まあまあ安全だろうっていうところとか、そんな情報を収集しながら行ったんですよね。
アラスカの天気ってすごく当てにならないので、あの、刹那でこうおろしてもらって、じゃあ何日の何時頃迎えに来てねっていう約束はできないんですよ。
大体1週間後ぐらいによろしく。
飛べるタイミングで。
そうですね、飛べたり、まあ天気の関係とかもありますし、あと曇りだと基本的には白い雪山と曇ってる真っ空があって、あの、外だと雪の雪面の境目なくなっちゃうような状態、ホワイトアルト状態。
嵐でもないんだけど要するに白対白みたいな感じで、で、まあランディングできない、着陸できない、着陸、危険っていうような。
だからある程度視界が確保されて、あの、吹雪じゃない時に迎えに来てっていうような意味合いで、大体来週ぐらいで、この辺にいるよっていう。
孤独。
そんなような感じですよね。
そしたらまあ結構近くに庄下があって、さらに近いところに寄って行った時に、初めて庄下の障壁の目の前に立つことができて。
そこでやっぱり衝撃的で、それはやっぱり、どうやってこの氷の巨大な塊が強烈な青の光を放ちながら、ここに突然と鎮座してるのかっていうことに衝撃を受けて。
さらにその氷河がめちゃくちゃ綺麗で、つるつるで、で、まあ透き通っているような、2メートルぐらい奥まで透明なんですけど、その後はずっと青い空間に消えていくような氷の塊なんですよね。
その様子を写真で撮ったりして、1週間を過ごしたっていうのが最初の氷河のプロジェクトの初面との行動はそんなような感じでしたね。
そこの時の衝撃というか、美しさが印象的すぎて、そこから通うことになっていく。
そうですね。そこからまあ違うところはどうなんだろうなとか、違うエリアにも氷河が見えてたところがあるけど、あの辺の近くに行ったらどんな感じになるんだろうなということで、2年目も行きました。
そしたらまあまた違う様相の美しいものが見れて、なんかこれも最初の氷河のプロジェクトも最初の1年ぐらいで終わる予定だったんですけれども、
まあそれもまあある意味衝撃的な経験で、いろいろな氷河帯を巡ってみたいなっていう衝動に引っ張られたんですね。
写真の方は当時からフィルムで撮ってたんですけど、
ジャパンフォトアワードっていう写真のショーが今でもあるんですけど、そこに撮ってきた写真を応募したことがあって、
そういうコンペって僕初めて応募したんですけど、応募した時にそれで賞をいただくことになって、
それで氷河の写真だけが10点ぐらい組写真のように出したら、結構評判評価されたっていうのもあって、
それでまあちょっとこれは力を入れて制作に時間をかけてみたいなっていうのもありましたね。
なるほど。
自分の興味と外部からの評価とか両方とも交わってっていうふうな形で続くことになったんですね。
そうですね。
その2年目もまた違う氷河帯に行かれているっていうふうなお話だったと思うんですけど、
イメージは行ったことがないし、近くで見たことがないので全く想像もつかないんですけど、
氷河が、氷河帯によってその表情が違うのかっていうのはどういう感覚なんですか?
例えばどんなところから喋ったらいいかと。
例えば今目の前の氷河の氷の塊ってどっからここにつながってきたんだっけっていうふうに、
今度目を上の方に向けると、あの山のあそこの奥の、あの骨からこれは流れてきてるのかってなると線が引けるわけですよね。
一つの地平線というか、遠くに見える山岳の稜線からここまでのルートか。
そうすると例えば左からも流れ込んでるっていうことは、
あそことあそこの氷の川が途中で合流して、ここまでのこんな長い道のりを動いてきてるんだとか、
その氷とか氷河っていうのは今までの初年度とか、最初の2年目とかのプロジェクトって、
僕は氷のただ美しいものとして認識してたんだけど、
3年目からそういうふうなものとか、いろいろ氷河帯の様相とか周りの地形を見ると、
地形との兼ね合いだったりとか、そこにどんな時間が流れてたのかとか、
なんかその氷が、氷に似た過去の歴史とか出来事みたいなところまで意識が飛んでっちゃうような、
地球のもうこれ僕たちの一生とかの時間じゃなくて、何千年単位でこの氷とか、
元々は氷河って山の上に積もった万年雪が何百年も何千年も圧縮されて氷の塊になって、
そこからズルズルと低い方に引っ張られて、ここまで動いてきてるの?
動いてきてる途中で巨大な岩を巻き込んだり削ったりして、
だからこの氷河帯の横に巨大な岩が残されてるのか、
なんかその周りにある岩とか、大きい岩屑の塊とかいうものが、
これ目の前の青い氷が動きながら運んできたというわけか、
僕は全く氷河とか、地球の気象学とか知性学とかに全く興味がなかったんですけど、
一つの氷の塊を巡るたびにそこへの興味が湧いてきて、
そして今度は違う氷河帯とかに行くと、
過去ここまで、1800年代後半にはここまでが氷河がありました、
みたいな看板とかが立ってたりとか、
氷河の交代している様子っていうこともあんまり言葉では知ってたんですけど、
如実にそれを自分の視覚的な体験として見ることはなかったんだけど、
ここ真っ只中の森の中だけど、ここに氷があって、
今から僕が3時間かけて山を登って見に行こうとしている氷河っていうのは、
もう歩いて3時間分交代しちゃったっていうことなんだとか、
そういった意味での時間による氷河の位置だったりとか、
大きさの変化に気づかされるっていう風になってきたわけですよね。
本当にそれこそ僕らが見ていないので、イメージが難しいんですよね。
そうなんですよ。