ワークショップをやっていくんですけど、人の手ですね。
なんかちょこっと崩れちゃっている斜面にしがらって言って、その辺の枝をたくさん拾ってきて、横に詰め直して、斜面と横に詰んだ枝の隙間に落ち葉をたくさんたくさん詰めて、ぎゅうぎゅうに詰めて。
でもそれをずっと作っていくと、斜面の崩れが止まったりとか、その水も流れなくなってしまっているところにはやっぱり原因があって、それはもうヘドロ化してしまったみたいなものを全部、手とかスコップぐらいは使いますけど、人の手でそれを取り除いていくみたいな作業をしているって感じですね。
なるほど。それで、山から水が海に流れる。それまでは、地下浸透したり、様々なところを流れていた水が、ちゃんと川を、小川を作り始めたみたいな感じなんですね。
もともとは流れていたけど、なんだかの理由で、この流れが止まってしまっているところを再生しているみたいな、そんな動きですね。
確かに。それが一つの地域の古文を、みんなで自治していくっていう中で、人の手を入れてやっていこうよっていうことですよね、古文。
そうですそうです。はい。
それが多分、斎藤公平さんとかもそういう、みんなのメモリみたいなのを、会員費をもらって管理を、会員費をもらってみんなで使うみたいなことを多分やっていると思うんですけど。
うんうん。はい。
そこがお金を返した古文だし、返さない場合はみんなで手を入れるみたいなことで、まあそうですよね。
土地への愛着みたいなのをどう持つのかっていうことと、土地の巡りと自分の命の接続をどう考えるのかみたいなことが大事なんだろうなと思いますね、それは。
そういうのを見ている中で、古文の可能性と難しさっていうのはどう見えてるんですかね。
新しくデザインをすることはできるかもしれないけれども、私たちが既存の社会のシステムに慣れすぎていて、新しいデザインに移行するのがハードルが高いなみたいな、そういう壁を感じたりもしますかね。
なんか本当はその古文の領域をうまく私たちが使えるようになると、例えばその民間ではやりにくいように思える教育とか福祉の世界の話って、やっぱり民間ではどうしてもやりにくいところがあると思っていて、
そういうところもちゃんと自分たちで作り直すみたいなことができていくんじゃないかなって思ったりもするんです。行政とかにお任せするんではなく。
それはありますよね。行政にお任せしすぎなんだと僕は感じますけど、その、だから行政に直接お願いしすぎてるというよりは精神的依存をしすぎてるっていう感じがしますけどね、同じ住民やろって思うんですけど、中の人って。
それはそうです。でも確かにその古文的な話って結構前から出てると思いますけど、日本はそもそも古文というか共有地の考え方が割と草刈り場とか含めてあった場所だと思うんですけど、
なんかそれが一時盛り上がるのは想像つくけど、それが根付くっていう部分が想像しづらいっていうのが感覚としてありますよね。
ある。なんだろうね、やっぱりどうしても外からというか非日常な感じがさ、どうしてもまだあるよね。古文が大切っていう風な感じの話はやっぱり上がってきているものの、関わり方としては非日常的な関わり方っていうか。
なんかその地元に、さっき増村さんが言ってくれたんだけど、やっぱり地元の人たちがその暮らしの中でそれをこうやっていくっていうところがもちろん一番大事だと思うし、それが当たり前になってこないといけないんだろうなとは思うけど、なんかまだまだその外から見たら非日常的なツアーとかも組まれて、
それを体験する場がもちろん絶対必要だとは思うし、始めの一歩としては絶対いいんだけど、なかなかこの日常の方に組み込まれていくのに時間がかかるんだろうなっていう感覚はあるよね。
そうですね。ボランティア、スーパーボランティアの畑山さんみたいな感じで、俺の道をこれだからっていう。
かっこよすぎるよね。
でもそうなんだよね。僕も今初めて、36年生きてきて初めて階段板を受け取ってるんですけど、2ヶ月に1回くらい草刈りみたいなのがありますけど、どっちかというと住宅街っぽい、古い住宅街っぽいエリアなので、
その場所の草を一生懸命みんなでっていうよりは時間を共にするような感覚の方が強いなって気がしてて、あんまりみんな、例えば小川が流れていて、洋水路が流れていて、
そのこの脇に草が生えているから、ここ草刈り分担してやりましょうっていう話なんですけど、その中でもこんなの除草剤撒いちゃってほしいよねみたいな話をおじさんたちがしてるときに、除草剤、この洋水路どこ行くんだ。
魚死ぬんじゃうみたいな思うんですけど、やっぱりそこのリテラシーも足りなさそうだなとは思うんですけど、確かにな、そこをどうやって共有地にしていくのかっていうところには、なんかすっげー溝を感じるというか、深い谷を感じるところがあるんですけど、
単純にやっぱり何度もこの議論はしてますけど、みんなの暮らしが全部外部化している割には忙しすぎるっていう謎の状態の塩梅の話な気もしますよね、
どれぐらい地域とか暮らしに時間を使って自分の自己実現とか、遊びみたいな時間に使うのか、仕事に使うのかみたいなことが、
昔は環境整備と自分たちの田畑とその命みたいなのが全部一緒方だったからわかりやすかったと思うんですよね。
それがなくなったら死ぬみたいな感じだもんね。
水が枯れたらやばいっていうのがあるし、養老先生が言うように自分の体は食べたものでできているのだから、田畑や畑っていうのは自分の体と思えてしかるべきじゃないかみたいな話にハッとすると思うんですけど、果たして田畑見て体やなって思えるかみたいな。
とか山見て自分の身体を作っている水を育んでくれているなーみたいな気持ちをそこに抱けるかみたいな。むしろ抱けなくなっているからこそ、そこをどう取り戻すのかみたいな。
取り戻すというか、取り戻すでも常にないんですよね。獲得するかのと近いぐらい。
最初からない状態ですね。
一度も経験したことのない水が枯れたらやばいみたいなことがあるから。
まあそうですよね。それはもしかしたら小さな村に希望があるっていう気もちょっとしますよね。
私、10月頭とか毎日、毎晩公民館にいましたね、そういえば。
お祭りがあって、お祭りの準備とか、踊ったりもするのでその練習とか。
子どもたちもやるので、その子どもたちのお世話というかね、いろいろあったりとか。
でもなんかそういう村の中の、そういうみんなで集まるみたいなこととかも、
一つのコモンズっていうか、別にそこに自然資本というか自然資源が何かあるわけじゃないですけど、
すごく重要なような気がしていて、みんなで顔を合わせて。
そうですよね。それがなんか最高の娯楽になるとめっちゃいいんでしょうね。
それこそ原因と結果じゃないですけど、そこが竹田信玄が土木工事をするために、
川の護岸工事の土を固めるために祭りを開いて、みんなでみこしを担いで、そこをルートに入れたみたいなのが、
天才デザイナーっていうのがあるけど、それはみこしを作って、みこしを担いで練り歩くことに、
みんなの本能的な喜びがあって、結果的に土木工事完了しましたので、すごいと思うんですけど。
だからそれが一致しない世界がいいのか、一致する世界がいいのかっていうのは常に悩むところじゃないですか。
結果として環境は良くなっているけど、原因というかそこの仕掛けは知らされてないみたいなことが、
果たしてカルチャーを育めるのかみたいなのはずっと議論としてあると思っていて、
環境に良いから買うじゃなくて、デザインが良いから売れるっていう、だからデザイン先行ですよね、天才は。
めちゃめちゃ理解なんですけど、それだったらもうデザインにパクられたら終わりやんって思うから、
デザインも良いし環境にも良いから売れるっていうカルチャーが育まれないと持続せないという、
いたちごっこだなって感じはするんですけど、お祭りみたいなものとかが、
そうやって集まることが喜びにどうやったらできるのかみたいな、そこの本気度が大事ですよね、多分。
そうだね。
定例会議大嫌いだから。
そうだよね。どれだけ本気で楽しんでる人がそこにいるかだよね。
結局そのお祭りのために集まってきたメンバーの忘年会が一番楽しいですからね、結局。忘年会いろいろあるけど。
そうですね。そういうのが、古文を取り戻すって時に、最初にやるべきはもしかしたらチーム作りじゃないかみたいなのありそうですよね。
この川を復活させましょうみたいな話じゃなくて、忘年会をまず5回やって、そろそろちょっと森に行かないかっていうのとか、それが大事だなと思うし。
そうね。みんなそれぞれやれることが違うチームの中でね、人の役割が与えられてみたいなのができるときっとそういう話も進んでいくんだろうね。
そうですね。
実家に帰ってきてすごい、うちの両親と話したりしてて思ったんですけど、うち実家がいろんな人と繋がり育て家業をやっているから、いろんなお客さんがいて繋がりが多いので、
お客さんたちが例えば作った野菜とかをたくさんうちに持ってくるみたいな事情が発生をよくしていって、野菜は買わなくても結構野菜はたくさん得られるみたいな状態になるんですけど、
うちの母親がかぼちゃからかぼちゃのプリンを作るのが割と得意で、かぼちゃは俺が作るからかぼちゃのプリンを作ってくれっていう、そういうやり取りが発生をしてて、
やっぱりそういうのって、自分が持ってる技術を別にお金を返さずに人にもらうものはもらって、そのもらったものから返すものをその技術を通して返すみたいなことが自然と起こってて結構面白いなって思ってたんだけど、
そういうのがきっとコモンズの中とかでも生まれてくるといいチームになってくるんだろうね、きっと。
そうだね。そういうのはめっちゃありますね。会社でもありますしね、実際。
そうですね。
何か増村さんがそのコモンとかゼロ次産業にそこが面白いなと感じるのは、もうちょっと深掘りするとどういう理由があるんですか。
何か戻っていく動きですかね。今、七次産業っていうのもあるんですよね。
農業を起点として食料とかバイオ燃料とかっていうのを生み出すような産業のことを確か七次産業って言うんだと思うんですけど、
何かそっちに手を伸ばすよりも原点回帰じゃないけれども、もともと持っていたけど失ってしまっている方を戻す方が本来的というか、
こっちの方が私は楽しいと感じるなぁみたいな、そんな感じですかね。
なるほど。その面白さっていうのは、人との繋がりがないと成り立たないみたいなところなんですかね。
地域の中にいると、例えば子供の靴がちっちゃくなった時に、誰にあげるかって全部あるんです、ルートが私。
長女の服がちっちゃくなったらこの子に行くみたいな、一番末っ子の男の子がちっちゃくなったらこの人にあげるみたいな、全部ルートができてたりとか、
あとご近所さん、産源で田んぼを借りるみたいな、何かそういう繋がりがすごい好きで、
自分だけではちょっとやりきれないかもしれないけど、みんなで来れる人来てやったらいいんじゃないぐらいのそういう緩い、別に行けなくても来られたりはしないというか、
行ける時に行くみたいな、何かそういう繋がりがすごく楽しくて、いるんですよね。それは今地域の中で実感していることかな。
なるほど。じゃあ割と実体験が伴っているからこそリアリティを持って顧問的なこととか、でもゼロ持参業って言われた時にお金を返したり返さなかったりするけども、
それこそ別の仕事、仕事だな、仕事みたいなの重要な気はすごいしますね、どう説明したかあれですけど、自分の暮らしの豊かさを担保するときに働いて金銭をもらう仕事以外に、
薪を取りに行ってエネルギーを得るみたいなことを単純に考えると、その分稼ぎを増やして木こりというか薪屋さんから薪を買えばいいじゃないかっていう議論に対して、そこに技術とか喜びとか楽しみとか、
自分で割った薪で火を入れるとちょっと使い過ぎなんじゃない?って思うみたいな、家族がバンバン燃やすのを見て、結構大変だよみたいなのを思う、お金を返してるんだけど苦労も含めて身体も含めて使ってるからこそ感じる豊かさ、
薪をたくさん使える豊かさではなくて、薪をちょっと渋る豊かさみたいなのは、ゼロ持参業っていうか仕事と捉えても良さそうだなっていう、全部効率的に考えない方が良かろうにっていうのは思うし、
そういう人を見るとちょっと寂しい気持ちになりますよね、全部効率とかで考え、こっちの方が良くない、じゃあこっちにこうした方が無駄がないよねみたいな次に、無駄はないけどさって思う、面白いのかいみたいな、無駄が面白いんじゃないのか、人生をっていう
でもそういうのはあるかもしれないですよね、無駄とか美意識によって里山は維持されてきたような気もちょっとしますよね
おーなるほど
自然の祭典と合わせてあったような気がして、そういうのは子供的には嫌だったかもしれないですけど、大変っていうのはあるから、全部を楽しみで埋めるのは難しいですけど、その経験が余白として持ってるかどうかっていうのが、さっきの災害的何かが起こった時に生きられる実感を得られるっていうのが大事ですよねきっとね
コモンズ論は今結構進化してるんですか?僕も数年前まではちょこちょこ見てたんですけど、最近あんまり見てないなと思った時にコモンは進化しているんですか?
コモンを例えば、流域もそうですけどコモンズもそうで、何か例えばトークイベントをやろうと思うと誰呼んだらいいの?みたいな感じの空白の領域なんですよね
なるほど
だと思っていて、でも進化はあると思いますよ
今コモンズ的に面白いなと思って見ているのが、例えば秋田県の五条目町みたいなすごいローカルな町の中で、誰か何でもない普通の主婦のおばちゃんが何かをきっかけに変容して
例えばなんだろう、子供向けの塾を開いてみるとか、わかんない、コーヒースタンドを始めてみるとか、なんかわかんないけど何かがきっかけでただの、ただのって言ったら失礼か
普通の主婦が地域を動かす人になっていくみたいな、そういう変容ってどこでも誰でもあり得ると思っていて、なんかそういうのの積み重ねなんじゃないかなって思うとたくさん生まれてるんじゃないかなとも思いますね
なるほど、じゃあ結構僕らというか見え方がちょっと違いそうですよね、そのコモンの捉え方というかが、もっと地域全体の中で生まれる子飽きないとか、そういう自然をどう維持していくかだけじゃなくて
地域の軒先をどう使うかとか空き家をどう使うかみたいなのも含めてコモンズ論として見立てた方が良いのかしらと今思いましたが、そんなイメージですかね
良いかもしれない、そんなイメージがあります
そうですよね、確かにな、もうちょっと面白がれるといいですね、そういうことをさっきの巻き割るみたいな話とか、ちょっとコーヒー入れてみようみたいなこととか、まずは確かになんか儲かんないけどやってるみたいな状態って結構楽しいですよね
楽しいからじゃないとやれないもんね、その状態って
確かに確かに
その固形って結構イメージつくな、そういう、そこでどうやって食ってるんですかみたいなこと聞くのは物質だからやめろ
でもなんかそのコモンとかも、昔って地域を守らないといけないから俺やってんだみたいなとか、その地域の山守らないととか川守らないとみたいな感覚ですごい、結構義務感とかって強かったんじゃないかなって思うんですけど
最近いうそのコモン論みたいなところって、どっちかというとこうみんなでそれを楽しもうよみたいな文脈になってるのかなって気もするんですけど、その辺でどうなんですかね
どうでしょうね、どう思いますか
今のおじいちゃん世代とか親の世代ぐらいまでは結構やっぱりその過去あったものを守っていかないといけないっていう意識がすごく強くなっているというか
だから地域に残っているみたいな方がすごく多かったりすると思うんですけど
今って新しい移住者を迎えて、新しく来た人たちと一緒にその地域守っていくみたいな形になる中で、それをどう楽しんで一緒に楽しんでいくのかみたいな文脈に変わっていってるんじゃないかなっていう気は個人的には結構していて
守らなきゃいけないという義務感的なところももちろんあるんですけど、それよりもどうそこの自然資源を楽しめるのかとか、自然を楽しめるのかっていう感じで地域が作られていっているんじゃないかなって気はしてるんですけど
義務からゴラックじゃないんですけど、さっき稼げなくてもやるコーヒースタンドとかの話とかも結構そういう感じなんじゃないかなって思うんですけど
たしかに、こうしなければいけないみたいなそういうことじゃなくて、例えば普通にうちは犬が2頭いるんですけど、散歩に森の中に入っていくんですよね
両手も引っ張られた状態で行くんですけど、近所のおじちゃんでキノコ博士みたいな人がいて、いつも会うと教えてくれるんです。これは食べられるよとか、これはダメだよ、絶対ダメだよみたいな
その見分け方を教えてもらって、なんだらその日摘んだキノコを全部くれるみたいな、なんかそういうなんていうのかな
おじちゃんにとっては普通の毎日の暮らしなんでしょうけど、すごい嬉しいなと思って楽しいし、このキノコはダメみたいなのを食べられると思ってたのにみたいな
なんかそういう見分けをつけられていくことの楽しさみたいなのもすごいあるなと思って
そうですね、いやそうだよね、それ多分前回の話にも通じますけど、自分たちの生きる命みたいなところをどう使っていくのかみたいなのが
価値観的に多分成長するみたいなとか、たくさん稼ぐみたいなところの中で、社会が醸成されている中で、それでみんなが幸福そうだったらいいんだけれどみたいな話と
そうでもなさそうだなっていう違和感とか、自然が荒れていってしまうしっぺ返しがき始めてるよねみたいな話とか、そこの手をつないでいくのが個人個人の興味関心だろうし、そういうとこなんだろうなっていう気はしますよね
コモンもそうなんだと思うんですけど、新しい言葉に対して人々が盛り上がり静まりっていう3年ぐらいのサイクルをすごい感じますけど、それをちゃんと話さないで当たり前にしていくみたいなことを本当はできたらいいなってすごい思いますけどね
それをねちょっとグリーンズさんにお願いしたいなって
はい、頑張ります
でも一つあるとしたら結構、最近やっぱりテーマとして新体制って言葉が増えてきてるような気はするんですけど、新体制というのは何なのかっていうことが、新体制も一種の便利ワードになりつつあって、便利ワード気をつけろっていうのがある、常に考えないといけないと思うんですけど
サステナブル的なやつで
で、なんかこの間お医者さんの稲葉先生にお話聞いたときに元軽井沢病院長の新体制って何ですかってアホみたいな質問をしたんですけど、そしたら個別制ですというふうにぶんと言っていただいたんで、もうそれだけでありがとうございましたっていう感じなんですけど
それで稲葉先生は新体制っていうのは各個人個人が何を感じるのかっていうことに、頭ではなくて体で考えることを突き詰めていくことであるということで、頭で考えているのと体で考えていることをどう見分けたらいいんですかっていう話を聞いたら
べき論である論で考えているときはだいたい頭で考えていて、これ嫌だなとか違和感があるなとかこれ楽しいなっていうことは体で考えているからそれを大事にしようねみたいな話だったんですが
で、それを聞きながらも僕が思う新体制の中で、もう一つはそれこそ肌呼吸みたいなものだなっていう感じがしていまして、もうすでにYouTubeでいろんな現実は目の当たりにできるんですけど
そこからじゃあ体を動かす人たちがどれぐらいいるのかみたいなところが、目耳頭だけで見ているとなんかそこにダイブできないみたいなのがありそうな気がして、僕は週末縄文人というYouTuberが大好きですけど、それを見た人たちがどんだけ霧揉みで火起こそうとしてるのかみたいなのが気になってるんですけど
でも週末縄文人のお二人のビルドに行き、それを見たらどうしてもやりたくなると思うには絶対にある、それは肌呼吸なんじゃないかっていう、肌で呼吸をする
だから例えば海外の子どもたちの労働環境に対して声を上げて活動し始める人たちはだいたい現地で見て衝撃を受けているじゃないですか、でも僕らは事実として海外の子どもたちの劣悪な労働環境のことは知ってるけど誰も次の日には忘れられるっていうのは頭だこれはっていう感じで肌で感じたら
何かをした方がいいだろうって思えそうだなっていうのがあって、だから頭の知恵も大事なんですけど、どんだけ肌呼吸をみんなと共有するかみたいなのが重要なんだろうな、その顧問に関してはそうだと思うんですけど
顧問的フィールドについて頭の議論をしてると多分みんないろんなことが思い浮かんじゃうんですけど まずは顧問にだいぶしてみようのがすごい大事な
本能的に訴えかけられない感じなんだろうね、きっとね。
実際に体験して、さっき増村さんが言ってくれた、キノコの種類見分けられるようになったのが楽しいみたいなのとさ、
生きる、自分がサバイブするための術を少しずつ身につけていっているのが楽しいというか、それもたぶん生きるための本能的な考え方だと思うんだけど、