理想と現実のギャップ
富井しわす 整わぬ日々 第一話
整わぬ45歳。45歳という数字を口にすると、なんだか小さなため息が出る。
20代の頃に思い描いてた、理想の45歳の自分と、
今朝、洗面台で出会った現実の自分。朝起きても、会社のトイレでも、寝る前の歯磨きでも、
小じわとシミが浮き出た顔面の皮膚を睨みながら、鏡が時々嘘をついてくれればいいのに、と思う。
20代の私は、華奢な自分の体を見るたびに、明確な理想を抱いていた。
胸板は厚く、肩幅は広く、 下半身は安定感に満ちた、
バスケ部やサッカー部のような筋肉と、 背丈のバランスの取れたかっこいい体。
つまぶき里氏や、竹の内豊かのような体に、 密かな憧れを抱いていた。
あれから20年が経ち、45歳の今、 体は間違いなく大きくなった。
しかしそれは、私が切望していた大きさとは、 根本的に違う種類のものだった。
胸板も肩幅も大きくなった。 しかし、下腹と脇腹という、
私が全く想定していなかった部位も、 豊かな成長を遂げていた。
まるで、チャットGPTに、 体を大きくして、というプロンプトを入力したら、
いかにも、見よ、これが最適解である、 というドヤ顔で、
見当違いな画像を育成されたような結果である。
ちゃんと気をつけてこなかったのは、 自己責任だが、正直少し傷つく。
大社という生命の基本システムも、 20代とは全く異なる法則で機能している。
変わりゆく生活スタイル
かつては、少しの運動で簡単に元の体重に戻れたものが、 今では脂肪が石のように頑固に居座り続ける。
私の腹周りの脂肪は、石の上にも3年どころが、 20年もズーズーしく居座り続けているのだ。
服装も変わった。
今の会社に入ってからは、 毎朝部屋のクローゼットを開けて取り出すのは、
変わらず2つ。
ホロシャツとスウェットパンツ。
会社が服装に緩いことをいいことに、 この潔いまでのシンプルさと、
着心地の良さに着地した、 効率化というズボラさだ。
20代の頃に憧れていた、 雑誌に出てくるようなイケオジの、
大人のミニマリズムは、20年の月日をかけて、 想像とは違う方向にミニマムになったようだ。
朝食もミニマムにルーティン化されている。
プロテイン、バナナ、そしてサプリメント。
寝ぼけた頭は何も考えなくても、 手足が勝手に動き、口は機械的に咀嚼する。
まるでプログラムされたロボットのようだ。
でも、でも実際に20代の頃に憧れていたのは、
新聞を読みながらトーストを片手にコーヒーを味わう、 大人の朝食だった。
今思い起こせば、20代の頃の朝食の方が充実していた。
コンビニで前夜に調達したおにぎりか菓子パン、 そして甘いコーヒー牛乳。
おにぎりなら、ツナマヨか梅干しに濃いめの緑茶。
パンなら丸ごとソーセージが入ったものか、ふわふわの卵サンド。
そしてコーヒー牛乳の幸せな甘ったるさで目を覚ましていた。
だからこそ描いていた大人の朝食だったが、
今思えば、なんて贅沢な幸せな朝食だったことか。
ここカリフォルニアにはそんな繊細な食文化は存在しない。
24時間営業でいつでもそこそこにおいしい軽食が買えるコンビニ自体が、
この大陸では幻想なのだ。
奇跡のような美食の国から、プロテインとバナナが朝を支配する合理主義の国へと移住して、
進化を遂げた45歳の食生活は、
日本に住んでいる家族や友人たちに話しても理解されない。
そして最も予想外だったのが、
今私がアメリカに住んでいるという事実である。
20代の私に、45歳でアメリカに住んでいるよ、と伝えたら、
それは俺じゃないだろう、と笑い飛ばされることだろう。
当時の人生設計には、海外移住という選択肢は全く描かれてなかった。
人生設計って天気予報に似ている。
明日の天候すら正確に予測できないこの世界で、
10年後、20年後の人生を完璧に見通すなんて、神様でもない限り不可能だ。
少しの選択肢のずれが、バタフライエフェクトのように、
受け入れる心の余裕
いや、オケアが儲かり的にコロコロこらがって、今この場所で根を張っているのだ。
興味深いことに、こうした予期せん展開に対する私の反応も変化している。
20代の頃なら、計画からの逸脱は、世界の終わりに等しい大事件だった。
こうなるはずだった、こうあるべきだった、という理想の呪縛があまりにも強かった。
でも現実は、川の流れのように、偶然や失敗に押し流されて、
気がついたらこんな遠く、アメリカ大陸まで流されていた。
アメリカでの生活は、日本では眠っていた自分の一面を呼び覚ましてくれた。
言語の壁に立ち向かい、全身を使ってコミュニケーションを図る自分。
文化の違いに戸惑いながらも、柔軟性という新しい筋肉を鍛えている自分。
そして面白いことに、冒頭の効率的な朝食とシンプルな服装にたどり着いた。
これが私とユーナの整う45歳の現実である、
20代の私が追い求めていた、整った理想の大人像には、確かに到達できなかった。
でもその代わりに、思いがけない人生を辿った。
そこで私は、福選びという日々の小さな悩みからも解放され、
外見よりも中身を大切にできる心の余裕、というか余計なことはできるだけ考えない、
それが毎日の生活で起こる予測不可能なストレスを受け入れる心のクッションになっていた。
45歳になった今、私はようやく理解した。
人生は解決できない問題だらけなのだということを。
20代の私は、すべてを解決し、すべてを整理し、一貫した自分になることが大人になることだと思っていた。
でも本当の大人になるということは、解決できない問題を抱えたまま生きることを受け入れることだった。
数々の理不尽な出来事への怒りは、たぶん一生消えない。
あの時の屈辱は、何度思い返しても胸が苦しくなる。
しかし、それでいいのだ。
すべてを許す必要はない。すべてを解決する必要もない。
ただ、それと一緒に生きていけばいいのだ。
明日もまた、理想と現実の間で揺れ動くだろう。
計画を立てては挫折し、決意を固めては迷い、前進したと思えば後退する。
そして時には、理不尽な出来事に遭遇して、やり場のない怒りを抱えることもあるだろう。
それでもいいのだ。もうそれが人生なのだから、今日という日も矛盾に満ち、理不尽に満ちていた。
そして明日という日もきっと同じだろう。
それでもいいのだ。もうそれが人生なのだから、四十五歳になろうとする今、私は完璧ではない。
ただすことすら目指さずに、ただ整わぬ日々を続けていこう。
それでもいいのだ。もうそれが人生なのだからとここに思う。
富士和の整わぬ日々 第一回 整わぬ四十五歳をお送りしました。
はい、ここまでお聞きくださりありがとうございました。
第一回ということで、少し緊張しながらも、整わぬ四十五歳というテーマでお送りしました。
録音を終えて改めて思うのは、年齢って数字よりも、その時々の気持ちによって重さが変わるものだなということです。
若い頃に思い描いていた理想の大人には、今の自分はちっとも届いていないけど、
でもだからこそ、こうして整わないままの自分について話すことに意味があるのかなと思っています。
聞いてくださっている皆さんも、日々の中ではこんなはずじゃなかったとか思う瞬間がきっとあるはずだと思います。
それでもそう思える感性そのものが、ちゃんと今を生きている証なのかもしれません。
この番組では、そんなちょっとしたズレや取りこぼしを、声にしていきたいなと思っています。
整わないからこそ話せること、整えようとしないことで見えてくるもの、そんなことをぼちぼちと一緒に味わっていけたらなと思っています。
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ではまた、整わぬ日々のどこかでお耳にかかれますように。
現場からは以上です。
トミーシェバスでした。