はい、こんにちは。深層心理ラジオの時間で、前回もお伝えしたと思うんですけど、
デイヴィッド・セジウィックのイントロダクション・トゥ・ユンギニアン・サイコセラピーという本の話題を、今回はしていこうかなというふうに思っています。
はい。
で、どうですかね、なんかこう、いきなりですけど、なんか、こう、この本読んで最初とかでどんな印象とかってありますか?
そうですね、あれか、ちなみに、2回目なんであれですけど、僕が、一応アイさんって名前で。
ああ、アイさんはそうですね、アイさんはどう。で、私が一応マイさんということで、やらせていただいておりますけれども、はい。
まあ本読んだ最初の印象。
そう、やっぱり、タイトルがセラピューティック・リレーションシップっていうのが、本のタイトルというか副題に入ってるのもあって、まあセラピューティック・リレーションシップは治療的な関係性みたいなふうに訳してると思うんですけど、
やっぱりこう、クライエント、そうですね、まあ病院とかだったら多分患者とか言われたりしますけど、カウンセリング場面だったら多分クライエントってそういう、
カウンセリングとか心理療法を受ける人ってそう言いますけど、まあそういうクライエントと、また治療者と言われるような、まあ、カウンセラーだったり、医師だったりとか。
その2人が面接室っていう中で関わっていく。
それがどういうふうに治療的になるのかみたいなのを、詳しくって言うのかな、まあちょっとこう、政治フィクサーなりに言う、心理学の視点から書いてってところで、
まああの、まあ非常に面白かったなと思うのと、
あとやっぱりこう、この本はあんまり原型とか、夢とか、
もちろんそのトピックとして簡単には出てくるんだけど、そういう有名な心理学といえばみたいな概念みたいなのが、かなり少ない方の本だなっていうふうに思って。
うんうんうんうん。
で。
そうっすよね。
まあ、だからなんかこう、ちょっとね、まあ最初感じるのって、こう読んでみて、あれ、ユングハってちょっと思ってるのと違うかもしれないみたいな。
そんな印象が、最初の方のイントロダクションとかあるんじゃないかなっていうふうに思うんですよね。
うんうんうん。
さっきアイさんが言ってくれたように、こう治療、副題にね、治療的関係性っていうか、治療関係っていうのがあるんだけど、
まあどうしてもユングハの心理療法っていうと、まあ夢分析とか、原型とか、箱庭とか、まあそういうイメージを持たれることが多いと思うんだけど、
でもね、この本はまあ最初からこれをちょっと否定してくるっていうか、まあちょっと否定してくるわけじゃないけど、あの、中心はそこじゃないんだよ。
ユングハの心理療法の革新は夢でもなく原型でもなく治療関係であると、まあ結構初めの方に書いてあるんですよね。
うん。
うん。まあ、自分なんかはそこが結構、あの、まあびっくりしたというか、うん。
まあそこがそもそもこの本を選ぶ、まあなんでこの本を読もうかなって思ったところにまあ繋がってくるっていうところでもあるんですけど、
やっぱりね、この副題がこう、ユングハの本とかを見ると結構題名とかが、あの、なんだろうな、象徴的な感じなんだけど、まあ治療関係が副題にあって、
まあ読んでいくと、ユングハの心理療法の革新は治療関係だという立場で、まあ書かれていると。
で、結構こう、まあ日本のユングハの学会とか行って、まあ感じるようなことだったり、この日本の文脈でも結構この本って、まあ意味があるんじゃないかなって思って、まあ読みたいなって思ったんですよね。
最近の本とかでも、ユングハの心理療法の未来とかで、あの河合俊夫先生がまあ書かれてたことなんですけど、まあ国際的な学会とか、まあ国際分析心理学会とか、まあたまにあると思うんですけど、
あの結構海外の方は、こう、定員関係とかセラピストの素朴な感情が扱われるという傾向が非常に多いと、でもその一方でこう日本の学会だったりとか、あるいはギリギリの実践をまああの中心に添えている方っていうのはだいぶ様子が違っていて、
まあ個人の魂、まあ個人を超えた魂であるとか、まあイメージであるとか、まあ日本だったらまあ心の個想を見出してくるっていうような特徴があるっていう、まあそういうな趣旨のことがね、書かれていたんですけれども、まあ別にどれが正しいとか正しくないっていう話じゃないんですけど、
この本の中にも書いてあるんですけど、セジウィック自身の言い方を借りると、ユング派には複数の言語があって、まあバランスの取れたユング派の実践で、まあ他の言語にも通じているっていうような話題が出てくるんですけど、
だとしたら、まあやっぱりこう日本にいても、その日本の一つの文脈っていうんじゃなくて、まあいろいろな言語を知っておくっていうことには意味があるんじゃないかなっていうふうに思ったんですよね。まあそれが結構こう、まあこの本をね、読んでいこうってきっかけだったりしたんですけど。
まあ確かにこう、例えば僕なんかは野球が好きなんであれですけど、ストレートを打つのがうまいバッターとか、フォークボールを打つのがうまいバッターとか、ボール玉を見逃すのがうまいバッターとか、いろいろ得意とか、まあその場面によって必要な能力みたいなのがあったりして。
カウンセリングでもそうですね、こう、自分の人生のテーマについて語ったほうがいいタイミングもあれば、もうちょっと現実的な話をしたほうがいいときもあるし、ちょっとネガティブな話ばっかりじゃないときも。
じゃないほうがいいなって思うときもあったりして、まあ言語、要はその場面場面によって使うツールが違うって中で、政治行くっていう人は比較的こう、まあそれ全部バランスよく使うのがいいというか、まあスタンダードになってきてる中でも、まあ治療関係っていうのをよりこう、押し出してるっていう、押し出してるというかまあ、
今回取り上げてるっていう感じですね。
うーん、そうでしたね。
うーん、まあなかなかこう実践をしていく中で、深い原型的なものだったりとか、魂だったりとか、そういったものってすごく大事なことだけれども、
でもその前にこう、クライアント等の出会いがあって、そこでこう生まれる関係性みたいなものって、まあ日々こう、巻き込まれていく感覚だったりとか、
まあリアルに体験して、困り感を持っている人もいたりするのかなっていうふうにもう感じるんですよね。
まあちょっとこう、話はずれるかもしれないんですけど、ここ数年現場、印象の現場とか出ていく中で、公認心理師をとって、実践の場に来る方が非常に増えてきて、
なんていうのかな、まあ全ての方じゃないんですけど、正直に言うとこう、関係論的な理論の基盤を持たないまま臨床に出てるっていう印象がね、あったりして。
この目の前の人との間で何が起きてるのかっていう、そういうことを考えるための言葉、どこで手に入れるのかっていうことを考えると、そういう関係性の理論に触れたりだったりとか、
またその中で自分の反応をどう扱うのかとか、そういうことを支えるような理論があまり渡されてないんじゃないかっていうか、
まあ、印象心理師の資格って矢でも結構広く理論、学ばざるを得なかったりするけど、そこがなかなかこう、あまり持ってないまま臨床に出てる方が多くて、
そういった方にもシジックの本っていうのは、関係性っていうのも結構真正面から書いてるんで、ユング派っていう領域だけじゃなくて、結構こう、心理療法の地道な作業として書いてくれてる。
ユング派の本なんだけど、神秘化せずに、結構地道な作業、繰り返しな内容もあったりするけど、それだけ地道な作業としてあるんだなっていうか、そういったのもこの本では結構知れるのかなっていうのが印象としてありますね。
このラジオ、誰が聞いてるかわかんないんであれですけど、もともと30〜40年くらい前くらいに立ってきて、印象心理師っていうのができて、最近公認師にして資格ができて、
一時的なものだったんですけど、公認師にして、テキスト、教科書とかを読んで座学だけで取れちゃうみたいな時代が4年間だけあって、
ここでいう関係性っていうのは、理論とかもあるんだけど、実際に人と人とが会ってみて、会うこととか会い続けることに意味とか治療効果があるんだみたいなところの話が治療の関係だと思うんですけど、
そこを学ぶ機会とか、教科書では学んできたけど、実際にどういうものなのかわからないで現場に出ざるを得なくなった人みたいなのがだいぶ一時的に増えたって話ですよね、公認師にしても。
そういう人にとっては、例えばユングの有名なアニマーとかアニムスとかシャドウとかセルフとかっていうのも、体験的な象徴とか原型とかではなく、いわゆる記号的だったりとか、お医者さんの診断に近いみたいな感じですよね。
炎症があるからみたいな。そういうのでなかなか表しにくいみたいなのは、治療関係みたいなのがありそうです。
あとは治療関係でいうと、相互的な感情のやりとりについての価値っていうのを見出したのがユングだという。
ユングっていう人なんだっていうのが、ステジュイックがユングを捉えてるというか、その先駆者なんだみたいなふうに語るわけですよね。
なかなかどこからが自分の感情でとか、ここに境界を設けるっていうのはなかなか難しかったりするんだけれども、そもそも相互的な感情のやりとりがあるんだっていうのも、
ユングは相当早い時代から見出しているっていうふうにステジュイが書かれてるんですけど、一番最初の文章とかって1951年のやつだったんですよ。ちょっと調べたらね。
ユングの?
そうそう、ユングの引用が。1951年がそんなに早いのかっていうとですね、いろいろ調べてみると、そうでもなくて。
結構49年にミニコットが逆転員における憎しみとかっていうのを出してたりとか、ハイマンって人が逆転員についてとか、マーガレットリトルっていうのが、
51年に逆転員についての論文が出てたりして、どちらかというと1951年そういうのが同時に議論されていたっていうような、そういった時代だったのかなっていう感じなんですよね。
ただ、1951年の時に誰もいなかったっていうことじゃなくて、また違う言葉で20年以上前に、1929年のユングの言葉で、2つの人格が出会うのは2つの化学物質を混ぜるようなものだと。
もし結合が起これば両者とも変容するっていう言葉もイントロダクションでは引用してるんですけど。
ユングっていうのは、そういった逆転員に一番最初に注目したという人というよりかは、治療の中の相互作用にかなりプロンティアとして関心を持ち続けてきた人だっていうような捉え方なんじゃないのかなっていうのが、
今回読み返してみて思ったところなんですよね。
逆転員っていう一つのことというよりかは、この相互作用に関心を持って、そこのユングの尊厳性があるっていうふうにセリフは言ってるんではないかと。
なるほどね。
松本さんの、松本拓也さんのナナメロンみたいな。
ああ本ね、キョブット大学の本。今、法授だか准教授されてらっしゃる。
精神病理学とかの専門の先生さん。
なんかそういった上下だとか、水平だとか、そういったところでもところのものを見てたりするんですけど。
ちょっと話は違うかもしれないけど、権威的なところからっていうんじゃなくて、ある意味水平的な患者と治療者も同じように、
この治療という場の中で変容するような関係性というか、そういったことが治療の中で一緒に変化していったりとか、そういったことが治療の中で起きてくるみたいな。
そういったところに注目したっていうところもまた、ユングの先継性だし、それが心理療法の中の核の部分というか、そういった部分なんじゃないかっていうのが溢れられてるってことですよね。
そうですね。
この本の結局のところはそういう治療関係だったり、患者と治療者がどう関係していくかとか、そういうところにウェイトを置いた本であって、
そういう意味ではユング心理学っていうよりかは、ユングの心理療法とかそういう思想とか理論とか、ユング心理学に理論があるかっていうのは色々あるんですけど、
そういう学問とかそういう本じゃなくて、本当に心理師向けというか実践的なユングの考えの本っていうところがすごい特徴的ですよね。
学術的な文脈ではないとも話はありましたけれども、その一方で第四学派みたいなものとして、そういった関係性に注目したものが、ポストユング派の思想の第四学派に加えられてもいいんじゃないかっていうところもあります。
そういったようなことも書いてありますよね。
自己心理学とか、自己心理学、その看守観世の風景としての関係論的な視点に傾倒するユング派の中の第四学派みたいな、断定的な言い方じゃないんだけど、そういう一つの形でもあるのかなって。
そこに位置づけられるのは、セイジック自身がその系譜に位置づけられる人なんかなっていうところですかね。
第四学派も説明しておいたほうがいいのかわからないですけど。
でもイントロダクションじゃなくて、もうちょっと後の部分にあった気がしますけど。
アンドリュー・サミュエルズっていうポストユンギアンの人がいて、その人が各ユング派のことをまとめた本みたいなのは、ユングとポストユンギアンだっけ、タイトルは。
そうですね。ユングとポストユンギアンっていう本ですね。
っていうので、三つ学派を挙げたんですよね。古典派って言われる、いわゆるユングの考えに近い人たちと、原型派っていう原型がどう現れるかとか感じられるかみたいなところにすごい重点を置いた人たちと、
あと発達学派っていう、クライアントさんとかの幼少期に対象関係だったり、精神分析との接点があるっていうか精神分析っぽいところも含んだ学派のその三つがあって、
今回このセージウィッグさんが自分なのかな、その考えをこの三つの学派、スクールに加えて第四の学派なんだみたいなことを、もしくは本文で。
そうですね。それがセージウィッグ自身の学派中よりユング派の言語って一番最初に言ったけど、そういうふうに捉える方がいいんではないかというような提案もありましたけどね。
このセージウィッグのあれは、精神分析というか自己心理学で有名な古風党。古風党もセージウィッグも多分アメリカの人かな。
なんかちょっと広くアメリカ的なのかもしれないですけど、そういうさっき出た感主感性、人と人との間のものだったりとか、あと共感とか古風党の流れで言うと。
この本にも共感のテーマが出てきたりするので、そういう関係性、要はそういうところを大事にウェイトを置いたのがこの第四の学派の言語だっていうのは。
有無心理学を勉強されている方だったら今の3つの学科とかはご存知かなと思いますし、逆にこれ聞いてる人が有無心理学って本当に何でも勉強すると、そんなにいろいろあるのねみたいな感じかなと。
初めて知る人もいるかもしれないですね。
複数の言語があるということですよね。
その中でもこの本は治療、関係性というのにフォーカスを当てている本なんかなというふうに思います。
全然関係ない話しますけど、結構家族と関わることが臨床場面で多いんですけど、
家族の関係もドライだなって感じるケースが増えてきたような気がしてて。
10年くらい前とかは子供が悩めば付き合ってくれる親がいた。
そんな印象があるんですけど、うまく付き合いないにしてもそこにいてくれるとか、そういう親がいたと思うんですけど、今はもっとドライというか。
そもそも子供たちも悩むことができない子とか、悩みを持ち込む先のない子とか。
それから関係がすぐ切られてしまうんじゃないかなっていう不安を持ってるような子。
そういうケースにあることが増えてきたなって気がするんですけど。
私の場所だけかもしれないですけどね。
わかんないですけど。
でもね、そういった人はもしかしたら昔からそういう家族がいたのか、増えたのかっていうのはよくわかんないけど。
日本が経済的に余裕がなくなってきたのも関係があるのかもしれないですけど。
ただそういった要因は一旦脇に置いても、やっぱり人が親密な関係を求めること自体は変わらないようにも思うんですよね。
ただそれを求めるからこそこじれて関係を作ろうとする。
まさにその場所で自分の不安が投影されて、相手の返信が少し遅いとか。
何気ない一言があって、それだけのことに関係が切られるんじゃないかって。
すごい不安になって、臨床ではそういう問いが頻発して。
この人は現実の相手の行動を見ているのか、それとも投影された自分の不安を見ているのか。
なかなかそういう区別ってできないと思うんですけど。
何が言いたいかというとですね。
心理療法って変な装置で、毎週決まった時間に同じ人が現実に居続けていて、
投影が飛び交っても消えないし、不安をぶつけても関係性が一方的に切られるとか、なかなかない。
もしかしたらその人にとって初めての切られない関係の関係とか、そういう体験になるかもしれない。
セジュイックの言っている治療的関係性っていうのが、時間をかけて歴史を持つ関係、そのものが器になる。
そんなような言葉。治療的関係性の文脈で言ってたかなと思うんですけど。
そういった、何だろうな、いつ切られるかわからない。
そういった関係、そういった体験をしているような人にとって、
このセジュイックの本っていうのは、ある意味器になる方法というかね。
そういったものを知れる一つの地道な実践の本なんじゃないかなというふうに思うんですよね。
なんかちょっとまとまらないですけど。
確かにでも、特に若い人とかLINEとかSNSでブロックとか、そういう親関係じゃない家族関係じゃないですけど、
切られるがすごいよくある世の中になってきましたよね。
そういう、なんだろう、禁じられなかったらブロックとか。
ブロックとか。
リムールっていうのかな。リムーブなのか。リムーブから来てるのかわかんないですけど。
リムールとかよく聞いたりしますけど。
カウンセリングとか心理療法って、実践してる人はわかると思うんですけど、利用する人的に一つ多分意外かもしれないのは、
いわゆる出禁とかないですよね、ほぼ。
ほぼないね。
だからいっぱい応用したら。
例外はあるけど。
いわゆる飲食店とかサービス用で言われるのは出禁ってないので、いくらクレームを治療者に行ったり、
悪対応ついても、いいから来ないでくださいっていうのは基本的には言われないので、
そういう意味では、切られる心配は確かに少ないはず。
その辺はどうなんだろうな。
特に日本人とかは、日本人って言ったらちょっとわかんないけど、割と本音と建前がある文化だから。
あんまりぶつけてくる人もそんなにいないかもしれないけどね。
むしろ言いたいことが言えるように治療者になるっていうこと自体が進展だったりするパターンが多いと思うんですけど。
言いたいこと言ったほうがいいというか、言いたいほうがいいというか、なんだろう。
そういうふうに言いたいこと言っても、あっちから来ないでくださいとか言われないと基本的には思うので、
そういうので、さっき言った関係性みたいな、今の時代ではちょっと作りにくい関係性みたいなのを治療者と一緒に作っていくみたいなのができる場所にはなっています。
作りにくいんだけれども、そういった関係性を求めているんじゃないかなっていうのが感じるところなんですけどね。
そういった関係性のあり方っていうのが、一つこの本で書かれていることなんですけど、
ただ何かこう簡単にテクニックとして、簡単に実現できるのかというと、
実はこれをセラピスト側がするときには非常に難しいというか、
セジュリックの言うことでは、この治療者は投影を浴びながら中立に立っているんじゃなくて、巻き込まれて揺さぶられるようなね、
関与した逆転医というような概念もだいぶ先の話ですけど、出てくると思うんですけど、
なんかちょっと遠いところにいて見守っているというわけじゃなくて、同じ船に乗っているみたいな、
そういった当事者的な関与の仕方っていうのがあって、
すごく水平のイメージっていう話をしましたけど、松本さんの文言句で、
同じ高さで同じ嵐の中にいて、嵐の中に実は治療者を上の方から見ているというよりかは、
横にいるっていうような、そんな関係性なんかなっていうふうにも思えるんですけど、
治療者としてはすごく逃げられないので、すごくきつい方法でもあるかなと思うんですけど、
だからあれですよね、お金もらってやるというか、普通の人間関係ではちょっと違うというか、
友達にそんなのやったらちょっと難しかったり、お金払わない場所もありますけど、
そういう普通の友達とか家族とだとなかなか難しいことを、
例えばだけど、週1回1時間カウンセラーと会っていく中でやっていくみたいなところが、
カウンセリングっていう、サービスって言い方は良くないかもしれないけど、支援のところですね。
確かに。親密さと専門性が混じっているような、逆説的な関係であり続けるっていうことですよね。
水平だって言うけど、水平だって言うとも言い切ることは多分できない。
水平でもなく垂直でもなく、漁業派的には第三の何かみたいなね。
そういった関係性でもあるのかなと思うんですけども、どうでしょうね。
全てをまとめみたいなのは難しいですけど。
イントロダクションとしては、まとめてか、かなり短く言っちゃうと、要は関係性についての本ですよ。
そうですね。
治療関係が確信だっていうのを宣言した。っていうのがこの本です。
でもその上で、決して原型とか無意識とか、そういったものを無視したわけじゃなくて、
治療関係が確信だっていうその上で、どうやって原型とか無意識を、
漁業派の理論をどう語り直すのかっていう、そういったところも非常に関心のある面白い部分なのかなというふうに思います。
今日はこんな感じであれですかね。
次が、本的には一旦ユングの大事な概念とかについての説明の章に入るんですね。
紹介とかですね。
それについて話していく回に、このラジオもなるかなと思います。
もしかしたら違うかもしれないですけど。
今回よりはもうちょっとユングっぽい話になるかなというふうに思います。
興味がある方はぜひ聞いていただけるとありがたいなと思います。
じゃあ今日はこの辺で。
また次回に。
またね。
終わりに。