1. 美想空間鯛島の『リノベの時間』
  2. 【前編】株式会社アトリエいろ..
【前編】株式会社アトリエいろは一級建築士事務所 代表取締役 千葉健司さん
2026-03-05 28:40

【前編】株式会社アトリエいろは一級建築士事務所 代表取締役 千葉健司さん

spotify youtube


ゲストは、株式会社アトリエいろは一級建築士事務所 代表取締役 千葉健司さん

一級建築士 山梨県甲斐市出身。韮崎高時代、陸上の400メートル障害で国体3位になるなど活躍し、東洋大に進学。
京都建築大学校を出て山梨にUターン、平成19年に1級建築士取得。
現在は自身がリノベーションを手がけたアメリカヤの4階に事務所を構え
住宅や店舗などの物件探しや資金計画、設計から施工までを手がけている。
 

感想

まだ感想はありません。最初の1件を書きましょう!

サマリー

本日のゲストは、株式会社アトリエいろは代表取締役の千葉健司さん。山梨県出身で、元々は陸上競技で国体入賞経験を持つアスリートだったが、幼少期の体験から建築に興味を持ち、一級建築士となる。独立後、リノベーションを手がけた「アメリカ屋」の再生を通じて、地域活性化に貢献するまでの経緯を語る。特に、廃業した建物を借り受け、資金調達から設計、テナント誘致までを一貫して行い、地域に新たな賑わいを取り戻したプロジェクトは、多くの人々の心を動かした。

オープニングとゲスト紹介
はい、えー、こんばんもリノベの時間をやっていきたいなというふうに思っております。
えーっと、今日は山梨から初めてですね、ゲストの方に来ていただいております。
建築とまちづくりの話を聞きたいなというふうに思っております。
というところで、タイトルコールいきたいと思います。
リノベの時間!
この番組は、建築土木学生向け就活総合サービス、近距離の提供でお送りします。
はい、えー、こんばんは。大阪と宮崎でリノベーションをやってます。美想空間大島です。
こんばんは。アシスタントの三浦です。よろしくお願いします。
今、シンガポールで行って。
あー、それもね。そろそろね。
そうですよ。もう言い出していいんじゃないかなと思うけど、まだまだね。これからやりかかりなんで。
いろんなところでリノベーションをやってる人いますが、
今日は僕ら見に行ってね、本町に行ったまちづくり、建築やその話をね、ぜひ来てくださいということで、
半年くらいですかね、前にオファーして、きょうが決まった感じなんで、いろいろ話を聞きたいなというふうに思います。
はい。この番組は全国のリノベーションとまちづくりで活躍する多彩なクリエイターや事業家をゲストにお招きし、トークセッションでお送りします。
はい、じゃあ早速行きましょうか。
はい、では早速本日のゲストをご紹介したいと思います。株式会社アトリエイロハ一級建築士事務所代表取締役千葉賢治さんです。
こんばんは。
こんばんは。よろしくお願いします。
なんかあの、千葉さんが耳を、このヘッドホンをつけると緊張すると、つけてらっしゃるんですけど、これつけてなかったら周りの音楽ってこれ聞こえてるんですか?
全然聞こえてこないですね。
なるほどなるほど。ですよね。なんで、どんな感じなんかなと思いながら。
自然に会話してるような感じです。
ただただテンションが高いだけには見えてないですか?
そして僕がこうやってやってるのが、やりながらずれそうかなと思いながら。
その以前、お邪魔させていただきました。山梨で。
にらさきのね。
いやー本当にすごかったなーがあって、もっといろいろ聞きたいなと思って、とりあえずオファーを出して、まあまあいろいろ都合もありつつで今日になったんで、いろいろ聞いていきたいなと思ってますので、まずはちょっとね、ご紹介の方からお願いします。
いきたいと思います。一級建築士山梨県海市出身。にらさき校時代、陸上の400メートル障害で国体3位になるなど活躍し、東洋大に進学。京都建築大学校を出て山梨にUターン。平成19年に一級建築士取得。
現在は自身がリノベーションを手掛けたアメリカ屋の4階に事務所を構え、住宅や店舗などの物件探しや資金計画、設計から施工までを手掛けているということですね。
あの、にらさき氏と読むのがまず難しいですよね。
千葉健司氏の経歴と建築への目覚め
そうですね。にらって結構珍しい感じではありますよね。
あれって食べ物のにらとイコールなんですか?
えっと、にらとイコールだと思います。にらってでもカタカナですよね。
たしかに。通常は多分カタカナでにらにらですよね。
はい。
でも難しいし、パッとね今書けないなと。あの宮崎の日南の帯も書けないけど、読めるけど書けない。にらも多分読めるけど書けないイメージなんですけど。
これ、あれなんですね。隣ですか?出身元々は。
あ、そうです。あの、にらさき氏の隣ですね。隣町になりますね。
で、私が高校時代ににらさき高校出身だったんで、半分地元みたいな町なんですよね。
てことは移住したというか、隣に行ったみたいな感じ。
地元でも地元ですかね。
はい。もうほんとすぐ隣で電車一本で行ける町なんで、電車通でにらさき高校に通ってました。
なんか、にらさきになんで行ったんかみたいな話もおいおいちょっとお伺いしたいなと思うんですけど、
僕らが行った、ちょっとにらさきの感想からちょっと行きたい、お伝えしたいなという。
ぜひお願いします。
勝手に一方的になんですけど、人口が3万人足らずぐらいですかね。
あ、そうです。
3万弱ぐらいの町の規模感のエリアと、まずちょっと皆さん聞いてる方想像いただきたいんですけど、
出会う方、出会う方がめっちゃ元気なんですよ。
で、町歩いてる人がほんまに元気で、なんか楽しそうやったっていうのが、まず我々の印象なんですよ。
っていうのも、あんまりちょっと言いにくいんですけど、その後実はとある都市に寄って帰ったんですよ。
それも商店街です。元、すごい大きい商店が栄えた時代があって、それが衰退していって、
40万人切ったぐらいの都市に今なっているっていう商店街に帰りに寄って帰って、
本当にとんよりしてたんですよね、そこが。
で、あの時行ったメンバー全員の共通言語が、全然目がちゃうなぁ、やったんですよ。
で、それを牽引している千葉さんが、どういう感じでやったら、なんかあんな感じになるのかな。
3万人足らずなんで、結構うちでも限られるはずだけど、なんか全然その感じがなかったんで、
ぜひお話を届けたいな、聞きたいな、の感じで、今日に至っているなんですけど、
そもそもニラサキに関わるきっかけはどこからなんですか。
そうですね、私が独立起業して、初め違う町でやってたんですけど、
やっぱりニラサキ氏は仲間も、同級生仲間も多かったりとか。
高校の中で。
そうですそうです。で、育ってもらったっていうところで、どうせ町づくりするなら恩返ししたいなと思って、
ニラサキ氏を選んだわけですよね。
スタンスとしては、もともとは陸上一本みたいな話なんで、
どっちかというと建築をどうこうっていうのは後からですか。
そうです、だけど実は私小学校の文集に将来大工さんになりたいって書いてて、
中学校の文集には将来一級建築師になりたいって書いてたんで、
陸上から建築への転身と独立
もともと早くに自分にやりたいことを見つけたんですよ。
それはなんでなんですか。
私ね、4人兄弟なんですけど、
1番目に何番目ですか。
上から2番目で、兄兄妹、兄自分妹妹で、
で、まとめられたんですよ兄と部屋を。
妹も妹で部屋まとめられてて、
小学校4年の時に自分の部屋を増築して作ってくれたんですよ。
それが嬉しすぎて、学校から帰ってきては大工さんの仕事を目の前でずっと見てたんですよ。
大工さん嫌がるかもしれないですけど。
嫌でしょうね。
今思えばすごい嫌だと思うんですけど、
当時もう面白すぎて嬉しすぎて、それ見てて建築を興味を持ちました。
それが建築のきっかけです。
それ中学ですか、小学校ですか。
小学校ですね、小4の時に部屋を作ってもらった。
大工さんかっこいいなあ。
かっこいいなあ、憧れましたね。
建築を知って、中学になったらそれをさらに設計するっていうものがあるぞを知ったのが中学で一級建築士を目指す。
はい、その通りでございます。
ところが当時は陸上にズッポシャンボールみたいな。
だから学生時代は、何でしたっけ競技。
400mと400ハードルをやってまして。
めっちゃしんどい。
一番しんどいやつ。
一番しんどいやつで、
それこそタメセイ大さんが私の二校上なんですよね。
山梨インターハイが、私が高校1年の時に山梨インターハイがあって、
そこでタメセイさんが会場で日本高校新記録出したんですよ。
そこにやっぱり心を打たれて、自分も400mやるんだって。
そこから400mハードルも始めて、
高校3年の時には全国大会で3位になって、
山梨県の高校新記録も受立して、
それが400ハードルなんで。
建築もどっか行ってますよね、その時。
リノベーションへの関心とアメリカ屋との出会い
そうなんです。もう完全に建築どっか行っちゃってて。
東洋大学って陸上すごい強いんですよ。
400mのこの間、中島ジョセフ、日本新記録出した子も東洋大出身だったりとか、
桐生選手とかも東洋大出身だったり、すごい強いんですよ。
そこに私行ったんです。
で、ちょっといろいろ自分が思ってたところと違う部分もあって、
ちょっと右右を曲折しながら、また建築の道に戻って行って、
京都の古き良き建物っていうものに興味を持って、
京都の専門学校の方に進み直して、
そこで勉強してまた地元に誘担したっていう流れです。
京都で学校出て、京都で働いてらっしゃったんですか?
京都ではね、学校出て、そのまますぐ戻ってしまいましたね。
で、近隣の市で働いてて、
で、どこでみらさきに合流するんですか?
まちづくりをどうせするならっていう言語がさっきあったんですけど、
まちづくりっていうイメージもあったってことですか?建築と。
戻りました。山梨に戻りました。
で、地元のハウスメーカーとか設計事務所で経験を積みまして、
アメリカ屋の歴史と再生プロジェクトの始まり
で、29の時に独立したんですよ。
で、29で独立した時は、みらさきじゃなくて、
全然私たちは無縁の場所で設計事務所を作ったんですよね。
それは山梨県の中の地元でもない、みらさきでもない、全然違うところ?
全然違うところで。
それは、そこの辞めた会社が外部委託的に設計の仕事をくれてたんで、
そこの会社の近くに事務所を作ってたんですよね。
だけどやっぱり自分の仕事をどんどん増やしていかなきゃいけないじゃないですか。
っていう中で、拠点をどこにするかって考えた時に、
仲間も多かったりとか、自分の育ってくれたにらさき氏に事務所を構えまして、
そこで設計の事務所を始めたわけです。
それは完全に設計の事務所ですか?
そうです。本当に一番初めは、私01で立ち上げてるんで、
一人で設計事務所を立ち上げました、その時は。
どんな案件をやってたんですか?個人宅とか店舗とか。
そうですね、小型店舗とか住宅が主ですね。
あれ、設計施工になっていったってことですか?
はい、その通りです。
最初は設計だけをやっていったところから、今は設計施工ですよね。
これどんな感じのグラデーションをやってるんですか?
これは、これも昔からの仲間が。
聞くこと多いな。
ありがとうございます。色々興味持っていただいて。
もともと一緒にずっと会社員時代からずっとやってた仲間が、
一級施工管理技師を持っていて、工事寄りの人間になったんですね。
ある時にその人が、一緒にやろうみたいなことになって、
私設計だけやったんですけど、設計施工の会社にしていこうということで、
施工部門を立ち上げてですね。
そこからもう、今から15年前ぐらいになるんですけど、
設計施工としてスタートを切ってます。
もともと設計から始まって、その設計はリノベーション、新築も関係なく色々やっていたですか?
そうですね。両方やってましたけど、
でも私もリノベーションっていうのは、立ち上げるきっかけにもなったことで、
やっぱり会社員時代から新築とかを立てている中で、
日本のスクアップ&ビルドの周期があまりにも短いじゃないですか。
アメリカ屋再生プロジェクトの実現
それにすごく違和感を感じてて、リノベーションはもともとすごく興味があって、
会社員時代にも結構リノベーション担当させてもらったんで、
自分は建築幅広いですけど、
作るよりも直す側の建築士になりたいなと、建築士事務所を作りたいなって思いで立ち上げてます。
もともとそうしたらリノベーションっていうところに思いがあって、
設計も割とそっち寄りをやりながらやっていっていて、
地元の友達とジョインして施工をやりだし、
設計施工のリノベーションになった。
その時は個人宅とか店舗とかのリノベーションをずっとやっていっていたんですよね。
この時は、町っていう概念はもともと持ってたのか、
今から言語したら町っていう思いがあったのかな、みたいな感じなんかで言うとどっちなんですかね。
町に恩返ししたいなって思いで新崎を選んだっていうのはあるんですけど、
ただ町づくりなんていうのは全く考えてもいなくて、
建物単位でしかその当時は考えられてなかった。
ですよね。
で、アメリカに建物が全ての始まりになった。
本当に自分の人生が変わるぐらいの出会いでしたね。
あれは今から遡ることで言うと一番最初に、
あれやってから何年経ちますか今。
あそこが建ったのは1967年なんですよ。
今から59年前に建って、
オーナーが亡くなってシャッターが閉まって15年空白の時間がありまして、
シャッター閉まる前には私も新崎高校時代にあそこで食事したこととかもあるんですよ。
アメリカ屋のグランドオープンと地域への波及
もともとあれアメリカ屋の建物、検索してもらったらアメリカ屋って独特な建物が出てくる。
あれは元は何屋さんやったんですか。
元は1階が食堂とお土産屋さん、2階がカフェ、3階がオーナーさん家族の住居、4階が旅館だったんですよね。
すごいすごいビルですね。
すごいんですよ。
本当に結構ぶっ飛んだ名物おじさんがオーナーさんで。
アメリカ屋って書いてますからね。
ピンク色のアメ車とかでオープンカーとかを走らせて。
アメリカが好き。
そうですね。
ふっと疑問に思ったんですけど、オーナーさんがアメリカが好きで、そこも分かりました。ピンクのオープンカーで。それも面白い分かりました。
その旅館はオーナーさんが運営されていた。
その通りです。
カフェはオーナーさんが。
カフェはオーナーさんの息子が。
カフェはオーナーさんが運営してて、1階の食堂とお土産屋さんはオーナーさんが運営されてましたね。
そのお土産屋さんって何のお土産屋さんやったんですか。
アメリカ屋がある新崎市の商店街ですね。駅前の商店街が。
昔はすごい賑やかだったんですよ。
何で賑やかだったんですか。
観光ってことですね。お土産ってこと。何の観光があったんですか。その様子は見えなかったよね。
浦の山ぐらいですか。
宿場町だったんですよね、当時。
宿場町で。
通過店みたいな。
そうなんですよ、通過店で。隣に北斗市とかあるんですけど、必ず新崎で一旦宿泊して行くみたいな通過店だったんですね。
昔歩いて旅をしていただろうの時代の宿場町の流れが残ってて、車手段になったが、それの名残が多分その時代が最後ぐらいってことですかね。
そうですね。
昔の写真見せてもらうと、鎮土屋さんがいたりとか、金畑でものすごい笹の道路にはみ出した笹があったりとか、すごい写真があるんですけど、今じゃちょっと想像できないじゃないですかね。
当時、高校時代って人口何人ぐらいだったんですかね。
人口どれぐらいだったんですかね。そのところはあんまり意識してなかったけど、3万5000とかだったんでしょうかね。
ほな、あんまり極端な人口現象があったとかっていうわけじゃないんですかね。
そうですね。ちょっと学生時代のなんともちょっとあれでしたけどね。
で、その、ごめんなさい。話戻すと、アメリカ大好きオーナーさんがお店をたたんで15年の空白があって、で、どこで知り合うんですか。
で、私がちょうど宮崎に事務所を構えたタイミングで、当時、高校時代にきらびやかだったアメリカ屋が、もう本当にシャッターが閉まり、手すりもまっちゃっちゃに錆び、モルタルも剥がれ落ち、すごく寂しく思ったんですよね。
で、それこそリノベーションの仕事をしてるじゃないですか。ここを再生して何か発信できないかなって思ったんですよね。
それって何年ですか、2000?
えっと2017年にそこを気にかけるようになって、宮崎市の会う人会う人に、アメリカ屋再生したら嬉しくないですかってみんなに話してたんですよ。
今後の展望とエンディング
そしたら、亡くなったオーナーの息子が今所有権があって、オーナーの息子さんに会うことができたんですよ。
どんどん紹介してもらってつながっていって。
何歳くらい?
今、73、74くらいですかね。
で、そのオーナーさんは15年間ずっとほっときっぱなしで、もうすっごい困ってたんですよ。
自分の娘にそんなふうな遺産を残したくないし、とはいえ鉄筋コンクリートの5階建てなんで取り壊しに運全万かかるし、70過ぎなのに取り壊す費用をアルバイトしながらコツコツコツと貯めてたんですよ。
すごい話ですね。
すごい話なんですよ。
本当に困ってるオーナーさんと借りたい私とマッチングがあったっていう。
それね、その2017年なんで、リノベーションっていう言葉はわりと認知がされだして、わりとちょろちょろこうなっていった年代くらいだと思うんですよ。
で、この建物を再生したら面白いじゃないかっていう発想っていうのは、それを起点に今やってらっしゃるようなマッチに波及してみたいな、そんなのを考えていたのか、
シンプルにこれやったらおもろいよねっていうだけの話かで言うと、どっち期限がスタート?
もう完全に後者の方ですね。
おもろいやろって。
やったらすごい面白いことになるんじゃないかなと思いまして、でもうワクワクしましたね。
貸していただけることになった。10年間借りたんですよ、オーナーさんから。
定借で借りた。
定借で借りて、でオーナーさんは本当に大丈夫なの?そんなことしてってすごい心配してくれて、めちゃくちゃ人がいい人なんですよ。
大丈夫なのってすごい心配してくれたけど、大丈夫ですって過去の作品で見せながら説得して、で貸してくれて、でもうそっからすぐ工事スタートしたんだけど、ワクワクしかなかったですね。
それ、借りて設計して企画してリーシングしてみたいなところが一番最初の企画ですかね。
その通りです。
サブリース事業ですよね。シンプルにオーナーさんから建物を借りて困ってるんで、一般的に借りよりも多少安い金額で借りて、そこの改装の投資は千葉さんの方で資金調達をして行う。
それ事業計画を書いて、どんな資金計画ですか。銀行からの借りで。
銀行から丸々借りて、うちで全部リノベーションしてきれいにして、同時に入居者さん呼びかけながら。
最初銀行の自社案件って一発目ですよね。最初って結構ハードル高くなかったですか。
そうですね。思い返せば高かったとは思いますね。なんかよくやったねって結構みんなに言われるんですよ。なんかすごく不安とかなかったのとか。
結構。
ハードル不完勝タイプですね。
そうですね。だけどなんかもうそれよりもワクワクがバサってしまったっていう。
さっき千葉さん来られて、このラジオの前にスタジオでタクローがラジオやっているんですよっていうのを言って、撮りに行っていいですかって言って。
撮ってる後ろ姿、マジでおっかけの二人よりも背伸びして。多分あの感じなんでしょうね。
好奇心の塊が、熱量がグワって動いて、多分いろんな人がそこに巻き込まれていって。
だから銀行も最初話に持って行った時、多分普通に考えたら自社事業で古いビルを、いやいやいやそんな出えへんよ、が多分なんか何かなと思うんですけど、
それを突破するぐらいの、いやいやこれめちゃくちゃ面白くてねって、相当目キラキラさせながらやったんじゃないですかね。
そうだったのかもしれないですね、本当に。
最初何社ぐらいのテナントが入る計画やったんですか。
それもですね、借りることができて、工事期間5ヶ月間だったんですよね。
スタート切った時は何にも決まってなかったというか、私の事務所アトリエイロハが4階に事務所を持ってくるってことしか決まってなくて、他ノープランのまま進んでったんだけど、
このワクワクをSNSでストーリーズとかどんどんどんどん発信してたら買いたいっていう人がどんどん集まってきて、
同時に声かけもして、この人来てくれたら嬉しいなみたいな人を集めて呼びかけていったら、工事期間の5ヶ月で見事全部入居者が決まって、
花々しく2018年の4月にグランドオープンできたんです。
それ普通に人口3万人足らずの街で、たぶん想像するに、今結構いろんな新しいチャレンジが生まれてワクワクする感じですけど、
当時はたぶん、さびれた宿場町の跡地やったと思うんですけど、そこにみんな乗っかってきましたっすよね。
たぶんビルのポテンシャルとか、あの外観とかなくないですかよ。
あのポテンシャルだったり、あそこの歴史があって、そういう名物おじさんであったり、街で本当に知らない人がいないくらいのシンボリックな建物があったんですよね。
でもうこの15年間使われてなくても、アメリカどうなるのどうなるのみたいな。
みんなそんな感じ。
そんなんだったんで、そこが工事に取り掛かったよってなった時に、すごいもうそこで話題になって。
それもう山梨県内でもすごく話題になって、普通はなんか新しいお店がオープンすると取材に来るじゃないですか。
山梨県内で民放放送が3曲あるんですよね。それが工事中からもう3回ずつ、それぞれ3回ずつ入ってきて、山梨の若手クリエイターたちがこんなことをしてるんだみたいな。
だから工事中から3回ずつ入ってくれて、さらに特番ができて、帰ってきたアメリカやみたいな番組までできちゃって。
だからもうそこの時点で結構思ってた以上の。
その時はこの街を何とかしたいなっていう思いは心の中にはもちろんあったでしょうけど、
それを頭で計画してアメリカやを仕掛けたわけじゃなくて、やっていった結果、なんとなくそういうことになっていっているが今ですよね。
その通りです。本当にアメリカやをやってる時も結局それまでと一緒で、建物単位でしかあんまり考えられてなかったんですよね。
ただリノベーション愛はやっぱり私もすごくあるんで、リノベーションの魅力とか可能性みたいのをいかに発信していけるかみたいなことにメラメラしてましたね。
たぶん最後ね、終わりになったら音楽流れてくるが僕らの耳には流れてるんですけど。
熱量を持ってね、いやいやその感じなんだろうなと。
だからアメリカやの今立ち上がりのところまでの話が聞けたので、これ次回は建物をやった結果街が良くなっていくのかとか、
その辺の具体的な街をやるためにこの建物をやったとか、これいろんな全国の事例がたくさんある中で千葉さんがどうやって考えていったのかなっていう街づくりのところの話が聞きたいなと思うので、
次回はそれでいきたいなと思います。
番組へのリクエスト質問感想など皆様からのメールもお待ちしております。
アーカイブはYouTube、スタンドFM、ポッドキャストではリスニーで配信しております。
これまでのゲストの方々のアーカイブも残しているので、ぜひぜひご視聴ください。
はい、そうね。
周りにお伺いした時に、周りにいらっしゃるお店の方とかもすごいみんなキラキラして張りましたもんね。
いやね、ほんまに目がね、たぶんね、その後に行った商店街が衝撃的すぎるくらい衝撃的に。
もうね、心がザワザワしましょうね。
最後に入ったね、うどん屋さんでね、そりゃこの街スタレルはやったのが対照的やったので、その続きの話はぜひ次回また聞きたいなということで。
本日は以上で終わりたいと思います。ありがとうございました。
28:40

コメント

スクロール