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はい、今日のテーマは、「正しさの向こう側へ」ということを話していきます。
そのまあそうですね。何か悪いことをしてしまった人がいたとして、例えば人を殺してしまったっていう人がいたときに、
あの人は早く殺した方がいいとか罰した方がいいっていう、確かにすごいそれって正しいと思うんですよ。
正しさ、法律とか人間が決めたルールの中で元とするんだったら、それは確かに正しいなって思うんですよ。
ただ、その人殺しを別に推奨してるわけじゃなくて、ただ単に正しさを掲げるっていう行為に対してなんですけど、
正しさっていうのを掲げて何かをしていく、正しさっていうものだけを先行させて何かをしていくっていうことっていうのは、
徹底的な排除っていうものしか生まれないような気がするというか、その先にはきっと何もないような気がしたんですよね、僕は。
もちろん正しいんですよ、多分。罪には罰をっていうか、それってすごい正しいと思うんですよ。
ただ、それだけに正しさだけ、本当にそれだけは持ってきてしまうと、僕は快楽しか残らないんじゃないかなって思うんですよ。
もちろん社会っていう幻想を維持するというか、みんなが平和にっていうか、ある程度暮らしやすいようにするっていうのはある程度ルールが必要だし、
決まりも必要だと思います。ただ、そこに対して何かをしてしまった、何か間違いをしてしまったっていうことに対して、
そのルールだけを押し付けるっていうのは何ていうのかな、それだと何も生まないような気がするというか、
前に僕が話したと思うんですけど、プルートっていうアトムの映画を見に行ったときに、憎しみからは何も生まれないっていう言葉がすごい繰り返されてて、
すごい重要な言葉だなとは思ったんですけど、僕の中での解釈をするんだったら、憎しみだけでは何も生まれないっていうことだと思うんですよね。
その憎しみだけが先行してしまう。このこととも僕通ずるなと思ってて、その正しさだけが先行する、正しさだけを自分の中で掲げてしまうっていうのは、
そこにはきっと何も残らないのかなって僕は思うんですよ。例えばだからその憎しみとかの裏側というか、その正しさの裏側には何があるんだろうっていうのを、
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改めて僕たちは考えなきゃいけないなって思ったんですよね。どうしてそこまでして正しさを振りかざすんだろうというか、
正しさだけで人って裁くことってできるのかなっていうか、そもそも人が人を裁くことなんてできるのかっていうことに関してもそうなんですよね。
だからそのなんかやっぱり二言論的な考え方では難しいなって思うんですよ。人に対してっていうか、例えば今回の権利と正しい間違ってるっていうのをそのまま天秤にかけると思うんですよ。
もちろんね。ただこっちは絶対に正しいから何を言ってもいいし何をしてもいいっていうことには僕はならないと思うんですよね。
その怖いからとか、僕もそう思ったら怖いからだと思うんですね。例えばその人殺しをした人に対して僕も殺されてしまうんじゃないかっていう怖さももちろんあると思うし、
なんかその鏡的な意味合いで何かそのルールを守らないといけない自分っていうのを投影してしまっている可能性もあると思うんですよね。
だけど例えばじゃあ何かそういうルールを破りたいっていうのもあると思うんですよね。そのルール破りたいのになんでこんな僕たちが守ってるのにあいつだけルール破っていいんだよみたいな、
そういう怒りももちろんあると思うんですよね。だからその法律とかもちろんルールっていうのを正しさを繰りかざすというのはもちろん時には有効な手立てかもしれないけど、
でもだからといって何を言ってもいいし何をしてもいいっていうことには僕はならないのかなと思うんですよ。もちろんその怒りっていうのがあるのはもちろんわかります。
その人の命、人の時間を奪うってことにはそれだけの代償を伴えっていうのはもちろんわかる。もちろんその言い分もわかる。
わかるけど、その正しさの中にもう一個僕たちは考えないといけないというか、一つの方向からだけで物を言うのはちょっと違うのかなって思ったんですよ。
それこそ憎しみしか生まれないというか、本当にその先には何もないような気がする。
だからいろんな方向からやっぱり見なきゃいけないし、だからってやっぱ間違ってるものはやっぱり間違ってると思うけど、ただ僕たちはもうそこにもう終わりなのかなって思うんですよね。
二言論的な考え方っていうか、もう良い悪いとかじゃないっていうか、もちろん償うべきものは償う必要もあると思うし、その人がいろいろ考えてこれから生きていかないといけないと思うんだけど、
他者というか、何かを言うとか何かをするっていうのはやっぱりガチでその人と関わることがあるというか、関わる人だけに許されることなのかなって思うんですよね。
責任がちゃんとあるのかっていうか、じゃないとあまりにも鋭いし軽くなりすぎちゃう。
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言葉っていうものが、あと思いとかっていうものが、本来そんな軽いものだったのかっていうのもあるし、だからこそそういうのはもう終わりなのかなって思うんですよね。
だから正義を振りかざす向こう側に僕たちは立たないといけない。正しさに代わりに何があるんだよって思うと思うんですけど、僕の中で正義の向こう側にあるってなるとしたら、やっぱり善っていうことなのかなって思ったんですよね。
やっぱ正義って何かルールとか外のものに対してこれって守らなきゃいけないよねって従ってると思うんですけど、やっぱ善っていうのは何か内側的なものというか内側の中のものに対して何か従ってるというか、自分はこう思うんだっていう、もちろんゴッツになってしまってる場合もあると思うんですよね。
その正義っていうものが善になってしまう時もあるし、その善っていうものが正義になってしまうということもあると思うんですよね。もちろんこれって多分その大きくバサッと切り分けられてるからじゃないと思うんですね。自分にとっては正義だな、自分にとっては善だなって思ってるものがきっとそこにあるっていうか、ちょっとグラデーションのように深まっているような気がするというか。
だからこそ、そこは自分の中で区別しなきゃいけないところだと思うんです。善と正しさっていうのはどういうものかっていうか。ただじゃあこの善っていうのは、その正しさのっていうものとはちょっと違う方向性な気が僕はしてるんですよね。正しさを振りかざすっていうよりかは、例えば善をもって何かを言う、善をもって何か行動するっていうのは全然違うような気がするんですよね。
その、なんか正しさって一方通行の強さになりすぎてしまうような気がするというか、その正しさって鋭すぎるんですよね。その強いし、でも前提なんていうか、一方通行じゃないっていうかお互いにウィンウィンだよねっていう価値観だと思うんですよね。
お互い様じゃないけど、自分もこう思うけどあなたもこう思ってたんだよねみたいな、そういう二方向からの視点っていうのが必ずあると思うんですよね。善っていうものに対しては。
だからっていうけど、でも善っていうものもそもそも人によって変わるじゃないですかっていうか、それこそ善を振りかざすことになるんじゃないですかっていうことになるかもしれないですけど。
でもやっぱその善をじゃあ語る上でというか、じゃあ善を例えば主軸にしていくんであるとやっぱりある程度教養というかある程度その人間として。
そのある程度自分自身を変えてみるというか、こういうふうにしていったらいいんだなっていうその人に対しての思いとかっていうのも大必要になってくるのかなと思うんですよ。もちろん善をそう深めていくに関しても例えば年月というか、そのある程度知識も必要だし年も必要ある程度人を見るということも必要だと思います。
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だからこそその与えられた知識とか与えられたものっていうものだけで考えるんじゃなくて、例えばお互いにじゃあよくしていくというかお互いにこういうふうにその善として生きていくお互いにウィンウィンとして生きていく正しさをかざして自分だけが気持ちよくなって終わりっていうのじゃなくて、
例えばじゃあお互いにお互いのその同じフィールドに立ってっていうか、その高いところから遠く離れたところから正しさを振りかざすのってすごい簡単なんですよね。
だってルールの守られてるんだもん。でもやっぱそこはもう終わりなんですよね多分。もう終わってるんですよ。その二言論的な正しい間違ってるじゃなくて。だからもちろん人が間違うこともあると僕たちだって僕も間違うし僕たちも間違うことも往々にあると思うんですよ。
だからこそその間違ってしまったときにじゃあ僕たちはその人に向けて僕に対して僕たちに向けてどういったことができるかなとかそのどういった目線でその向き合ったらいいんだろうっていうかそのねそういうなんていうか正しいだけじゃない世界で僕たちは生きてるっていうことを改めて僕たちは考えていかないといけないのかなっていうのをちょっと思ったっていうはいすいません。
熱くなりすぎました。はい今日この頃でした。じゃあ最後に一言言って終わろうと思います。今、正しさの向こう側へ行こうとしていると僕は思っています。
まあ禅でもなかなか難しいと思うけど一人一人がその禅っていうものに対して考えていったときに何か大きく変わっていくのかなと思った今日この頃でした。はいじゃあ今日はここまで聞いてくださりありがとうございます。それじゃあまたね。