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自分に潜る時間と、心の声を取り戻すこと。
人は忙しさの中で自分を見失う。予定、通話、会話、責任、関係性、立場。
日常の表面がそれらで埋め尽くされていくうちに、心の底に沈んでいる本当の自分の声は、だんだんと聞こえなくなっていく。
僕が適応障害になった前後の頃、僕は自分が何を感じているのかさえ、わからなくなってしまったことがあった。
疲れた、と口では言うのに、何に疲れているのかを説明できない。
大丈夫です、と笑いながら、どこか心が置き去りになっている気がした。
社会との距離を自分のペースで息をしながら生きていく。
その中で私は散歩を自分に潜る時間として大切にしている。
潜るというのは考えることではない。むしろ考えすぎることを手放す行為だ。
文字がない世界で電子機器もなく、あるのは体と自然だけ。
その中でただ、呼吸に、風に、自然の声に耳を澄ませていく。
心が沈んでいくようでいて、実はそのさらに下にある光を探している。
自分に潜るということは誰かと行うことはできない。
孤独でもあり、そこの見えない壺へ一人で入っていくような感覚だ。
そこがあるはずなのに、どこまでも続いていくような静かな壺。
けれど、自分に潜る手段は体だけではない。
ノートを開き、ただ思うままに書く。
これもまた、自分へ潜ることだと思う。
誰にでも見せる言葉たち、そこには理屈も形もいらない。
ただ、今を記すだけでいい。
苦しいなら苦しい、嬉しいなら嬉しい。
書くだけで心が呼吸をする。
言葉を置くたびに、見えなかった気持ちが形になって浮かび上がる。
自分に潜る時間は生きるための休息であり、
次に歩き出すための準備でもある。
何もしない恐れず、ただ自分と一緒にいてみる。
それができたとき、人はようやく他人にも優しくなれる。
静けさの中でこそ、本当の声は聞こえる。
はい、少し補足していきたいと思います。
私たちの心って忙しさの中ですぐに表面の方へ引きずり出されてしまっているなっていうことを感じていて、
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やるべきことだったり、返事を待っている通知だったり、
積み上げられていく社会での役割とか、自分自身での仮面っていうことがあって、
それらは生活に必要ではあるんですけど、
心の深いところにある本当の自分からはどんどん遠ざかっていくのかなって思ったりします。
自分に潜るという行為は感情を整理するためのというよりは、
その感情の流れを邪魔せずにそのまま見つめる時間なのかなとも思ったりします。
その中で自分がその散歩を行うことで、その呼吸に気づいていく。
電子機器とかから離れて、ただ自然と同じリズムで存在するってこと?
これらって思考を止めるっていうよりかは、余計な情報の頬杖から退避するための大切な避難場所のようなもので、
心が沈んでいくように感じても、実はその静かさの…
なんていうか、静けさだったり深さの先に光があるようなものなのかなとも思ったりします。
そこはその自分の感情や本音が静かに沈んでいて待っている場所。
そこに触れると、「あ、自分ってこう感じてたんだな。」とか、
忘れかけてた感覚がふっと戻ってくるような感覚になると思います。
そして書くことっていうのもまた大きな力にもなるのかなとも思っていて、
その書くっていう行為はその心の呼吸のようなものだと思っていて、
言葉を紙に書くだけで、心が少しずつ動き出していくのかなぁとも思います。
その理由も説明もいらないし、
その、なんか正しくなきゃとか、こうでなきゃいけないっていう必要もないのかなとも思います。
ただただなんというか、今の自分を書くだけで、
その心は深く息をしてくれるのかなとも思っています。
で、なんというか、自分に潜る時間を持てる人っていうのは、
自分のペースを分かったり、自分の気持ちに気づいたり、
そうしたことでなんというか、
人にも優しくなれる余白が生まれてくるのかなとも感じたりします。
何もしない時間はサボりとか弱さとか、なんかズルとかじゃなくて、
その心の底に沈んだ光を拾いに行くための大切な旅なのかなというふうに思います。
最後に一言。
なんというか、たまには静けさえ潜ってもいいのかなと思った、
今日この頃でした。
そこに本当のあなたが息をしていると私は思ったりします。
今日はここまでです。
それじゃ、またね。