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#111自分の定点カメラを外す。一人では悟れない
2026-03-24 07:57

#111自分の定点カメラを外す。一人では悟れない

眼科の待ち時間、

一冊の本との出会いから、

「自分」とは何かを

静かに考える時間が始まります。
世界を見ている“自分”という視点。

まるでカメラのように、

常に中心にいるその存在。
けれど、

そのカメラを握り続けていると、

どこか息苦しさも生まれてしまう。
もしかしたら、

ときどきその視点を外し、

自分を手放す瞬間が必要なのかもしれません。
それは、

自我や執着をゆるめ、

他者や関係性の中に

溶けていくような感覚。
ただし、

自分を捨てたままで終わるのではなく、

また自分へと戻ってくることも大切。
その往復の中で、

「私」という存在は

少しずつ変わっていくのかもしれません。
誰かを想うとき、

何かに深く集中しているとき、
私たちはすでに

“自分を超えた場所”に

触れているのかもしれない。
そんな体感を手がかりに、

悟りや人との関係性について

やさしく見つめていくお話です。


画像拝借元



画像拝借元
⁠Unsplash⁠の⁠Devin Avery⁠が撮影した写真
https://unsplash.com/ja/%E5%86%99%E7%9C%9F/%E9%BB%92%E3%81%84%E3%82%AB%E3%83%A1%E3%83%A9%E3%81%AE%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%BA%E3%82%92%E6%8C%81%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E4%BA%BA-VBBs_SWsdwU

BGM拝借元
ベルガマスク組曲 第3曲 「月の光」
BGM:Kamatamago (https://kamatamago.com)
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00:06
今日のテーマは、「自分の定点カメラを外す」ということについてお話ししていこうと思います。
今日、眼科の定期検査の日だったんですけど、そこの眼科さんすごくて、壁一面に読んでいい本があるんですよ。
なので、僕が通うのをやめるまでは読み終わらないことを祈ってるんですけど、
その中で今日読んでいたのは、トルストイの人生論という本だったんですけど、
言い回しが難しくて、内容全然わからなかったんですけど、
たぶん一生の生命の矛盾というところを僕が読んで考えていたのが、
例えば僕たちはこの世界を見るときに、目で視覚的情報を頭の中に入れていると思うんですけど、
頭の中に僕がいて、カメラ越しに見ているようなイメージなんですよ、世界を。
カメラを構えている僕っていうのを一回違うところを見ないと、
カメラの定点を外さないと苦しいなっていうのを僕は思ったんですよね。
ずっとカメラに張りっぱなしでずっとその世界を見ているっていうのは苦しいなというか、
ちょっとそれだけだと身がもたないというか、ずっとそこを見るだけの精神は人間にはもしかしたらないのかなっていうのをちょっと思ったんですよ。
むしろブッダさんが言ってた悟るっていうのはそういうことなのかなと思って、
どうしても頭の中でカメラ越しに見ている自分っていうのがいるときは僕が僕がみたいになってしまっているような気がしたんですよ。
そのカメラから僕を一回外してあげるってことをしないと悟るっていうのは僕は難しいのかなって思ったんですよね。
だからこの悟るっていう行為っていうのが例えば自分を捨てるとか執着を捨てるっていうふうに言われていると思うんですけど、
そこのカメラを構えている僕っていうのを一回消してあげないと、
消し捨てっていうよりかはそれだけが世界じゃないんだよっていうのを僕が多分体感としてわからないとっていうか、
そのカメラを構えている席から一回立ってどこかの世界に行ったり来たりしないといけないような気がしたんですよね。
一回例えばそのカメラの席から離れたとしてもまた戻ってこれるというかちゃんと、
だけどそこを自分を盾にしないというか、自分が自分がってならないようにするっていうか、
03:00
頭だけで生きるんじゃなくてというか、体全身というかその身体っていうものを伴ってその中から一回自分を捨てるというよりかは、
一回身体全体で生きられるかどうかっていうことなのかなって思ったんですね。
その頭の中だけじゃなくてというか、だからなんていうのかな、
頭じゃなくて多分身体、体に戻るっていう意味なのかなって思ったんですね。
そのカメラ越しだけじゃなくてというか、もっともっとこう、
そのカメラだけ見てるんじゃなくてもっと下に降りてきて、
自分の体をこうなんていうのかな、
視察にしに行くというか視察しに行くような感じ?
その上からカメラだけ見てても世界のことはわからないというか、
だから自分の体を確認しに行って感じるとかっていう時になんか視察をしてるような気がするんですよね。
その時って、なんか僕がコーヒー飲んでるとかって思わないじゃないですか。
なんかどうですか、皆さん。
うわぁ僕がこんな美味しいの食べてるとかっていう、
僕っていうそのなんていうか嗜好がっていうか自我が出てくる時ってありますか。
なんかその楽しいこととか集中してる時って、
その私が私がっていう自我というか、
その定点カメラで見てない気がするんですよね、世界っていうの。
だから多分ちょっと気が楽になるというか、
そのカメラからもう見なくていいんだみたいなっていうイメージなのかなって思ったんですよね。
だからなんていうのかな、
なんか例えば母親が子供のことを思う時とか、
何か子供のために自分を顧みないというか、
自己犠牲というわけではなくてなんですけど、
その自分以上に大切な何かをそのカメラに映した時というか、
映したというよりかはそのカメラを構えている席から外に出た瞬間というか、
尊敬の意味で悟るような気がするというか、
だけどまた自分に戻ってくるっていう、
なんかこの繰り返し繰り返しが必要な気がしたんですよね。
悟るを悟るじゃないですけど、
なんていうのかな、
この悟りっていうのが多分みんなが言うのは、
多分一人ではできないんですよね。
なんでもいいんですけど、人でも物でも心でも関係性というか、
何かに自分を見出すことができた時に、
例えば悟ると思うんですよね。
悟るというよりかはなんか自分がそのカメラの席からいなくなるっていうような感覚だと思うんですけど、
なんかその時は自我なんてないっていうか、自分なんていないっていうか、
その関係性の中で溶け合っているような感じがするんですよね。
空間とか、なんかその風のような自分っていうか、
なんか自分自分というよりかはその場の一体感というか、
その溶け合っているような感覚なのかなって思ったんですよね。
だけどまた自分の身体というか、自分の体に戻ってくる。
06:01
だけど体の感覚は戻るような感じというか、
ってことなのかなって思ったんですよね。
だからこそなんか自分自身を縦にしない、
その精神性の部分を縦にしないっていうことというか、
まぁ何言ってんだって感じなんですけど、
なんか、
そう、悟るっていうのはまず一人では無理だなっていうことと、
あとその自分がこの世界を見ているカメラ、
私が私がって座って見ている自分っていうのを
一回ドアを開けて外に出ていく。
例えば自分の体に降りて行ったり、
自分の体を視察しに行ったりするっていう行為がないと、
多分苦しくなっちゃうよなっていうのと、
多分悟りっていうのはそこの近くにあるような気がするというか、
身体性を伴わない悟りは悟りではないような気がするというか、
そんな気がする。
頭だけじゃできないようなことだと思うんですよね。
おそらく。
だから何て言うのかな、
ゲームを操っている自分に気づくみたいな感じなんですかね。
メタ的に言うと、
自分で動かしていると思うけど、
それは自分で動かしてないですみたいな感じなのかなと思うんですよね。
だからこそ、
自分で思っているこの体を動かしている私がいるけど、
そこから窓から出ない、
ドアから出なきゃいけないような気がする。
その定点カメラをずらさないといけない、
いけないというよりかは、
ずらした方が行きやすくなるような気がしたんですよね。
僕はですけど、
いろんな行きやすさの方法とか、
幸せっていうのがあると思うんですけど、
僕はそう感じたなっていう、
今日、眼科の待合室で待ってて、
感じた今日この頃でした。
今日もここまで聞いてくださりありがとうございます。
それじゃあ、またね。
07:57

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