【補足版】リスナーリクエスト 映画『#ファニーゲーム 』これもジャンルシフトなのか……?
2026-09-05 23:06

【補足版】リスナーリクエスト 映画『#ファニーゲーム 』これもジャンルシフトなのか……?

おまけ版

#ファニーゲーム です。


まずは本編をお聞き下さい。


まこが眠すぎて本編で語りきれなかったドパガキ説、何いってんだこいつってなった人はこちらを聞いて下さい……。


ーーーーー


podcasterの まこ(@_macobana)が、語り足りないアレコレを一人語りするポッドキャスト番組、『#よもやまこばなし 』(#まこばな )にて展開された映画談義がついに専門チャンネルに。

語りたい映画なんて尽きることない!

エピソードの公開は毎週or隔週となります。


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サマリー

本放送で語りきれなかった映画『ファニーゲーム』について、パーソナリティが「ドパガキ説」を提唱する補足版。加害者ポールとペーターの行動は、現代のSNS文化やショート動画に慣れ親しんだ「ドパガキ世代」の消費行動と共通しており、退屈や無関心から他者の人生を軽々しく消費してしまう様を描いていると分析。監督自身も観客への告発として意図したとされるこの作品が、現代の私たちにこそ突き刺さる理由を解説する。

はじめに:『ファニーゲーム』への反省と「ドパガキ説」の提唱
この番組は、話題の新作、横幻の名作、謎を聞き作からぶっ飛びB級映画まで、あらゆるフィルムを倫理、宗教、歴史に陰謀、多様な視点から切りまくる映画専門チャンネルです。お相手は、パーソナリティのマコと誰もおりません。よろしくお願いいたします。
はい、ということでね、今日はですね、何がやりたいかというと、ちょっとファニーゲームが眠すぎて、ちゃんと語れなかったなっていう僕個人のですね、非常に残念だったなという反省にも込めまして、一人でね、本当に語りたかったことを一度ぶっ通しで皆さんにお伝えしたいなという、そういう反省会でございます。
したがってですね、オープニングに関しても、特に語ることはございません。
強いて言えば、大変申し訳ありませんでした。ということで、ファニーゲームをね、せっかくリクエストしていただいたところで、自分が意図したところがうまく伝わらなかったんじゃないのかっていうふうに思うと、ちょっとね、申し訳なさの方がかかってしまったので、今日はちょっと一つね、僕の方からお話を一人でもう一度改めてお伝えしたいなというふうに思う次第でございます。
ということで、早速ですかね、私の説をご紹介いたします。
映画ファニーゲーム 事実上のポール&ペータードパガキ説
ということでね、もう前回語ったままなんですけれども、本当はこういうふうに伝えたかったっていうのをね、頭からちょっとザーッといきたいと思います。
映画『ファニーゲーム』の概要と従来の解釈
実際ね、暴力映画を見終わった後、心のどこかでスッキリしたっていうふうに感じるっていうのはみんなあると思うんですね、なんだかんだで。
悪人が成敗されたり、理不尽な暴力に晒された被害者が、最後には反撃して勝っていく。
その瞬間になんかこう、ほっとするというか、ああ、よかったなあなんていうふうに言いながら、劇場を後にしたり、あるいはソファーでね、そのまま寝たりとか、もろもろするわけなんですよ。
1997年にオーストリアで公開された、ミハイル・ハネケ監督のファニーゲームなんですけれども、そういうスッキリ感っていうものを完全に排除した形の映画となっています。
裕福で強要のある一家が、古藩の別荘で素性のわからない二人の若者、ポールとペーターによって徹底的かつ理不尽に試みつけられて、そして最後には全員殺されてしまうと。
実際紹介しましたけれども、カンヌでは観客の3分の1が席を立ったと。他にも、批評家のジャック・リベットは非常に下劣な作品であるというふうにまで切り捨てたと言われています。
2007年には、監督自身がアメリカを舞台にしてセリフリメイクを完全にセリフ一言一個同じ形で撮り直していると。
よく言われるのが、観客への告発であり、暴力を見に来た観客自身のその欲求そのものを断罪する作品であるというものです。
これは羽毛自身もほぼそのまま公言しているということもあり、この読み筋っていうものが、いわゆる定説一般論、むしろ監督の意図であるというふうに確定しているような状況です。
「ドパガキ説」の核心:現代SNS世代との接続
そういった中で、僕が提唱したいのは、この映画の加害者2人が、時代設定こそ1997年であるにもかかわらず、
令和のスマホの通知とともに育ち、気に入らないものは何でも即座にスワイプで消し去るということになりきってしまった、いわゆるネットスラングでいうところのドパ書きそのものなんじゃないのかという説でございます。
この映画が本当に刺さるべきなのは、その当時の観客だけではなくて、今この瞬間に例えば動画アプリで何でもないショート動画をシュシュシュシュやっている我々なんじゃないのかと。
その映画自体も、そういった我々のインスタントな快楽の得方を見越したように、最後までむしろ消させないというか、付き合わせるそんな構造を仕込んでいるのではないかということです。
これをですね、令和のドパ書きこそこの作品を見るべきだというふうな説として展開していくということです。
こういうふうにね、頭すっきりしたところでガッツリ話したかったんですけれども、いかんせん収録がね、だいたいいつも9時以降から12時手前まで進むこともあり、非常に精細を書いたのでね、じゃあちょっと本題に入っていきましょう。
加害者と被害者の対比構造と、その現代的意味合い
この映画の恐ろしさっていうのは、まず被害者と加害者の対比構造から来ていると。被害者の商売家っていうのは、後半に別荘を持っている。
別荘に向かって進んでいく車の中でもオペラを聴きながら、シンガーが誰なのか当てるみたいなね、そんなことをやっている。非常に裕福で強要のある、そんな過程です。
対する加害者のポールとペーターっていうのは、一切、通常の名前も本当のところは何もわからない、何者でもない若者として設定されていると。
この対比っていうのが、そのまま主張する私たちに跳ね返ってくる構造になっているんじゃないのかっていうふうに、まずのっけを持ったわけですね。
若者がどう見られているかっていう視点が、若者自身に突きつけられているわけです。
ただね、そういう僕の読みです。その若者ってこう見られてるよねっていう、そういう読み方をしようと思ったんですけれども、よくよく見ていくと、そのポールとペーターの服装っていうのが白いポロシャツに白いショートパンツに白い手袋。
なんかこう、なんていうのかな、すっきりしてるというか、テニスとかあるいはゴルフとか、非常に強要人だって親しむような、そんな紳士的なスポーツとかやってますよっていうふうな、割と小切れな形なんですよね。
つまり、この二人って何者でもない若者であるにも関わらず、同時に被害者一家と服装すら見分けがつかない、同じ階級に属する若者のように描かれている。
そんな中で、彼らを良気的な行為に突き動かしているのが、やっぱり隠しさみたいなもの、若者から見た裕福な家庭に対する、なんていうのかな、屈辱だったり、妬み、そねみみたいな、そういうものではなくて、むしろ全然欲求は何もない、むしろ恵まれているにも関わらず行き場がない退屈みたいなものに突き動かされているように見えてくる。
この対比構造っていうのは、ある種持たざる者が持てるものを、いわゆるジョーカー的な、そういう完全懲悪的な物語には一切ならずに、自分たちと見分けのつかない他者、そしてなおかつ同じような境遇にありながらも、
退屈をもたやました何者かというのが、理由もなく人を壊していくっていう、最も居心地の悪さを感じるような、そんな犯罪が繰り広げられていると。
地位が違うから怖いっていうよりは、地位も何もかも基本的には何ら大差はない。
だから別に恨まれるような、そんな悪意を向けられるような動機も一切ないにも関わらず壊してくるっていうところが、非常にこの作品の恐怖を煽っているんじゃないのかなというふうに思うわけです。
SNS誹謗中傷との類似性:加害者の無自覚さと動機の希薄さ
そこが、いわばこの令和の私たちにとって、令和に生きる私たちにとって全然一言じゃないよねと。
SNSの誹謗中傷っていうのは、発信者情報開示請求で身元が明らかになると、大抵の場合、表紙抜けするくらい普通の人が出てくると言われています。
ある刑事場への書き込みが原因で開示請求を受けたみたいなね、そんな事例では、正体が明らかになると、ごく普通の会社員だったりだとか、男女の差も別に特になくですね、それぞれに何ら一般的な社会生活を送っている人だったりすると。
実際、プロレスラーの木村花さんの誹謗中傷事件でも、開示請求の結果が特定されたのは、20代の男性、30代の男性。
これといって特別なところがない、何か不満みたいなものを生活の中で大きく変えていたというものすごい背景が描かれるみたいなことは全然なかったと。
この事件というのは、当初、侮辱罪の過量が非常に低かったというところが問題視されて、その後厳罰化されるようなきっかけの一つにもなっているんですけれども。
このSNSなどを通じた誹謗中傷の加害経験がある人っていうのの52.7%っていうのが、自分の投稿が誹謗中傷にあたると認識していなかったって回答している事例もあって。
つまりは加害側には、自分自身が行っている行為に対する悪意が付随していないっていうふうなケースが割とあるということなんですよね。
しかもそのきっかけっていうものが、ただの退屈だったりすると。
実際には実家でスマホいじって、規制中に実家でスマホいじって何となく投稿してしまった。
それが誹謗中傷になってしまったみたいなね。そんなことが全然あり得るわけなんです。
ポールとペーターが被害者一家と服装すら見分けがつかない。
同じ階級にいるであろう若者として描かれているのは、いわばそういう現実と非常に地続きで、
別に特別な意図がなくても生まれてしまうそういう悪意っていうものの、掴みどころのない恐怖っていうものを描いているのかなっていうふうに思いました。
加害者の丁寧な言葉遣いと、その空虚さ
かつね、この2人の気持ち悪いところは、序盤から異様に言葉遣いがちょっと丁寧な感じがする。
でもそれなのにもかかわらず、丁寧な言葉遣いのままじわじわと大人の神経をすごく逆撫でしてくるような感じなわけですよ。
そこには何かこう、礼儀正しい語彙を並べてるんだけれども、敬意も誠実さも基本的には宿っていない。
いわば形だけの丁寧さみたいなね、そんなものがずっと見てる間、もやもやむしゃくしゃするわけです。
家族にね、なぜこんなことをするんだみたいなふうに言われた時も、全然嘘800の背景を語ったりしていくと。
なおかつ、これで満足ですかみたいなことを聞いてくるみたいなね、別バージョンの方がいいでしょうかねみたいなことを言ってくると。
かわいそうな老いたちっていうものが、その暴力を説明するっていう、いわゆるホラー映画とかでよく描かれるような構図を正面から笑い飛ばしているっていうふうな状況なわけですよね。
実際そういう背景で何かしら人の感情を揺さぶろうとしてくるっていうふうな構図って、より現代においては非常にキッチュな形で出ていて。
例えばSNSとかで日頃消費されていくショート動画なんかだと、実はこんな背景がありましたみたいな感動の老いたちが明らかになるみたいなそんな動画皆さん見たことありませんかね。
実際ああいうのって結構多いわけですよ。
結局のところ、別にそこに並べられている事実っていうものが本当に事実かどうかなんていうのは誰も気にしていなくて、ただなんとなくいい話みたいな形で固まっていれば、そこでインスタントに感動したなっていうふうに。
あるいは納得納得みたいな感じで、その場の全く思考の段階を踏まない反応みたいな形で、ほーんって言って納得して自分の中で気持ちよくなってしまうっていうふうな。
そういう残念な状況が結構あったりするかなというふうに思うんですけれども、97年の時点でこれを先取りして皮肉っているようにも見えてくるわけですね。
要は中身がなくても形さえ守っていれば人の同情や共感というものを引き出せてしまう。
その空虚さみたいなものをこの若者たちは面白がってめちゃくちゃにいじくってくるわけですね。
リモコンによる操作と伏線回収の放棄:現代の消費文化との共通点
実際、97年時点ではスマホなんてないのにいったいどんなものを挿してそれを見せてたのかっていうと、
おそらくはヨーロッパのお茶の間にはもうすでにリモコンは行き渡っていて、気に入らない番組だったらすぐにザッピングして次に行くみたいな。
そういう文化はすでに定着していたと考えられるわけです。
この映画の加害者が後で実際にリモコンを使って物語そのものを都合のいいように消してしまうっていうふうな場面が出てくるけれども、
それも要するに観客たちに対するひとつの皮肉になっているのかなというふうに思います。
そのリモコンのシーンですけれども、実は僕がすごく気になったのはこのリモコンのシーンだけじゃなくて、
本作といえばこのリモコンのシーンなんだけど、それ以外にも何ていうのかな、
序盤にボートの中に落ちたナイフのシーン、これなんかは後で誰かがそれを使って反撃するんだろうなって観客はすごく見るし、
それにちょっと期待を寄せるわけなんだけれども、それは全くその伏線は回収されることなくあっさりナイフが湖に投げ捨てられて終わると。
この構図っていうのはまんま奥さんが銃を奪ってペーターを撃ってっていう反撃シーンがリモコンでなかったことにされてしまうのと、僕は全く同じに見えたわけですね。
この2つに共通しているのは、丁寧に積み上げてきたはずの展開っていうものを全く惜しくもなくドブに捨てるっていう、そういう姿勢なわけです。
これがまさしく見覚えのある感覚で、例えば動画アプリでタイムライン見てるときに途中まで見ていたにもかかわらず、ちょっとつまんねえなって思った瞬間に指一本で飛ばして次へ行くみたいな、
あの感覚とポールがリモコンで巻き戻したりだとか、ペーターがナイフをポイって適当に捨ててしまう感じ、根っこが非常に同じなんじゃないのかなっていうふうに僕は思うんです。
情報過多社会における注意力の低下と物語への執着の喪失
なぜここまで躊躇なく非常に大事な物語にとって大事なキーを消せるのか。
ここでヒントになるのが経済学者のハーバート・サイモンが1971年の論文で残した指摘なんですけれども、情報が消費するのは受け手の注意力なんですね。
情報が豊かになればなるほど注意力は貧しくなっていくと。
すなわち目の前に無数の刺激が溢れている状態に我々が置かれると、一つ一つの出来事に対して立ち止まって向き合う余裕そのものが失われてしまうということです。
実際僕らの世代も振り返ってみれば、若い時は一冊の本にものすごい時間をかけて向き合い続けることができたんだけれども、今や効率効率で重要な情報だったり、知りたいことについて非常にインスタントにAIと対話してそれで終わってしまうみたいなことがすごくあると思うんです。
実際は本を読んでいく中で、いろんな刺激を受けて他のものに興味が湧いたりだとか、一つの出来事に対してもう少し深く知りたいと思って他の情報に手を出すみたいなことが、もう少しですね、たくさんの思考の段階を踏んで行えていたはずなのにもかかわらず、いざ情報が非常に手に入りやすい現代になったら、そういう余裕がかえってなくなってしまっていて、なんとなく答えらしいものをパッと出して終わっているというふうな現状があるんじゃないのかなと思うんですね。
たぶん共感できる方はいるんじゃないのかと思います。ポールとペーターにとっての反撃シーン、あるいはナイフの伏線、家族の運命というものも、いわば無数にある情報の一つでしかないわけですよね。
だから惜しみなく消してしまうというふうな、そんな姿勢がそこから読み取れるのかなと。
彼らは全くですね、物語というものに執着をしていないわけですよね。
そこに深く関わろうともしない、深く理解しようともしない。だから彼らにとっては一つ一つの重要なそういう伏線というものは何の価値も持っていないと。
その姿勢っていうのがまさしく、令和のドパガキですね。非常に重なるんじゃないのかなというふうに思うわけです。
ショートリールブームと「ドパガキ」的感性
もちろんですね、これは本編の方でも話しましたが、世代間対立を僕は煽りたいわけではなくて、僕自身もドパガキそのものだと思うんですね。
ガキと呼ぶにはもうおじさんなんですけれども、いつの間にか僕らは非常に贅沢に時間を使って一つの情報に触れることができる少年時代を生きてきたはずなのにも関わらず、
いざこういう現代を迎えてしまったらなんとなく迎合してしまっているってところがあるのかなというふうに思うんです。
だからポールとペーターの姿勢に自分も重ねてしまったっていうふうなところもありますね。
まさにですね、この昨今のショートリールブームが体現しているような感性なんじゃないのかと。
TikTok、あるいはショート動画の世界、こういったところではコンテンツの良し悪しよりも、
短くて分かりやすくて非常にセンセーショナルな情報っていうものが非常に優先される傾向にあります。
じゃないとね、パッと誰かが指を止めて見てくれないからなんですよね。
そうすると、分かりやすさっていうものがとにかく優先される結果、
丁寧に展開を積み上げていくっていうふうなドラマ性っていうものは真っ先に切り捨てられていってしまうと。
ポールとペーターがやっていることっていうのもまさにこの感性を先取りしていて、
自分自身の身の上だったり、家族の人生運命だったり、そういったものは一切深く関与する対象ではなくて、
いつでも簡単に取り替え可能な消費して終わるようなコンテンツに過ぎないと。
だから彼らは一家を殺害した後、次の一家へと標的を当てて話が終わっていくわけですよ。
リキッドモダニティと加害者の態度
現代社会においては、あらゆる人と人との関与、そういうものが固い約束だったり、あるいは契約であったりってものではなくて、
いつでも解消できるような、そんな液体のような流動的かつ仮想的なものに変わっていくっていうふうに、
社会学者のバウマンが言っています。これはリキッドモダニティですね。
液体の現代、直訳するとそうなりますけれども、この2人のコミュニティに対する態度っていうものが、
まさしくリキッドモダニティを先取りしているような感じが非常にしますよね。
これだけ加害者の2人っていうものが、物語であったり、出来事であったり、あるいは家族であったり、
そういったものを本当に流動的で、全くつかみどころなく、何の価値も持たずに、好きに消費、消化していってしまうっていうふうな姿勢を体現しておきながら、
カメラワークによる観客への挑戦:消費文化への抵抗
一方で映画で用いられるカメラは正反対の態度を取ってくると。
例えばジョージが撃たれた、ゲオルグが撃たれた直後は、映画はカットを一切入れずに10分間ずっと、その悲劇をワンカットで繋ぎ続けていくと。
カットして次の展開に行くっていうのがホラー映画の常識ですよね。
叫び声がしたらバーンとカットが映って、その後でみたいな感じでポンポンポンポン切り替わっていくんですけど、それを一切許さない。
指先一つで日頃からスマホの動画をスワイプしている私たちに対して、羽毛のカメラっていうものはそれを一切許さずに、じーっとその悲劇を見させ続けるわけですよね。
これがまさしく監督がやりたかったことであって、それが現代にも完全に接続してくると。
スワイプ文化にどっぷり使っている僕らドパガキたちは、身体破壊だったり、淫算な暴力描写っていうものを深く考えずに、なんとなくそういうジャンルだからっていうことで普通に消費していっていると。
こういう映画群のことをトーチャーポルノっていうふうに呼ばれていて、2006年に批評家のデビッド・エーデルスタインっていう人がその名前をつけました。
例えば有名なところで言うと、ソーシリーズなんかは、第1作ソーは非常に練り込まれた脚本で大変なヒットをしたんですけれども、2以降はまさしくトーチャーポルノへと変貌していって、
インフレに次ぐインフレ、とにかくグロテスクで気味が悪く直接的な暴力描写っていうものを追求していった結果、とても見るで絶えないシリーズになってしまったと僕は思ったんですけれども、
実際時代がそれを求めていた時期があったということは事実かなというふうに思います。
そこには必要なものとして刺激だけが優先されていて、物語性っていうものは一切そこにはないと。これはまさしくポルノそのものなんじゃないのかなというふうに思うわけです。
ところがこの10分間、ゲオログの死を映した10分間だけはその消費の仕方は一切許されることがないと。
カメラが逃してくれない以上は僕らはそれを見つめるしかない。
そこで初めて自分が普段軽々しく消費しているホラー映画の人の死っていうものに対して正面から受け止めなければならないというふうな状況になるわけだ。
これが非常に居心地が悪い。それは何でかって言ったらやっぱり自分自身の軽々しさっていうものがそのまま画面越しに見えてくるからなんですね。
インスタンで後味悪くてお世辞にも洗練されているとは言えないようなそのカットっていうのはずっと続くわけですよ。
これって本当に耐えがたい10分間なんですけれども、羽生がわざわざこの10本を用意しているのはお前らが普段スワイプで消費しているのはこういう代物なんだよっていうことを本当にあらわにして僕らに突きつけているっていうことがわかるのかなというふうに思うわけです。
『ファニーゲーム』が現代に刺さる理由:観客批判を超えて
もちろん羽生自身がこのスマホ時代のことを指して僕らにこの作品を届けたわけではないんですけれども、
結局その97年からのこの地続きに現代があって、その間僕らの本質的なそういう刺激ばかりを求めて、いつの間にか美しいドラマをないがしろにしてきたっていう、そういう姿勢っていうものは実は変わっていないんじゃないのかっていうことが突きつけられているようで、余計に重くのしかかってくるわけなんですよね。
だからこそこの映画っていうのは単なる観客批判映画っていうものを超えて、令和のスワイプ世代にこそ刺さる作品だっていうふうに言えちゃうんじゃないのかなって思うわけですね。
ちょっと整理すると、ファニーゲームの加害者っていうのは格差への逆恨みだったり、育ちへの恨みみたいなものではなくて、ただの暇つぶしとして人を壊したりっていうふうなことができてしまう、そんな若者を描いた作品なんです。
ただこれは、地位の同一性だったり、因儀不礼な態度、そして嘘とわかっている自己開示、丁寧な前振りを雑に処理する、そういう様々な描写があったんですけれども、これら全てが令和のショートリールブームが生んだ歓声を30年近く先取りして思いっきり刺してきているんじゃないのかと。
日常的に他人の努力だったり、あるいは悲しみ、そういったものが、ただの一つのコンテンツ、ショートなコンテンツとして指先一つでスワイプして消されていく現代。
そういった中に、この映画を一滴落とすと、僕らのそういう残念な姿勢に対して、「いや、それってよろしくないんじゃないの?」っていうのを、もうこれ以上なく居心地悪い形で僕らに教えてくれるわけですよ。
この映画を本当に見るべきなのは、この令和のショートリールブームの中で、いつの間にか歓声がドバガキ化している僕らに対して、僕らそのものなんじゃないかなというふうに思うんですね。
結論:『ファニーゲーム』鑑賞の勧めと自己嫌悪
ポールとペーターっていうのは、97年の時点で、すでに我々がいじくっているタイムラインの操作感覚っていうものをリモコンで表現してくれていると。
だからですね、ぜひファニーゲームは見てくださいと。見てよくわからなかったら、よくわからなかったらいいんだと思います。
でもそのよくわからなさだったり、なんか落ち着かないなっていうふうに思う。
その歓声っていうのは、実は僕らの日常生活の態度そのものに対して感じる自分自身への嫌悪なんじゃないのかということを、実は僕は言いたかったという種明かしでございました。
前回の本編聴いていただいて、全くわけがわからないです。こいつ何言ってんだ。眠すぎだろっていうふうに思った方々。
そして何よりリクエストしてくださった星宿さん。こちらの早口で申し訳ないんですが、僕の補足版を聴いていただいてですね、そういうことだったのねってちょっとでも思っていただければ幸いでございます。
2度で踏みませて申し訳ないですが、本日僕からは以上となります。どうもありがとうございました。
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