レールフレンズイントーキョーバックナンバー 過去のエピソードをプレイバーク!
はい、ということで本日のテーマは、映画セッションから伺う変態達のセッションです。
そんなタイトルだったんですね、今回もね。
相変わらずね、あの…
あの…なんだろう、僕大泉洋になった気分なんですよ。
どこに行くのかがわからないまま、このポーターキャストを
ぷよーっていうところで聞かされて
終着点がわかんないままスタートするんですよね、毎回ね。
まあそうですね、そのぐらいの方がたぶん気持ちよく喋れるんじゃないかという
だから、決まってるとかえってね、そこに向かっていかないといけないっていうさ、あるじゃない。
最後ここに落とすのね、はいはいみたいな。
じゃあこの辺から、ちょっとお前まとめに入り始めたのこいつ。
じゃあこの辺でこういうエピソード挟んでこう…いらないの、そういう計画は。
いらない。もう相手が言ったことを素直に受け止めて
いやいやいやそんなことないよとかぶつけたりとかしてった先に何かが生まれるかもしれないよね。
それでいいんです。
だったら映画セッションでいいんじゃないですか。 楊 ダメです。
ダメですか? 楊 女お前だってエピソードタイトル映画セッションつったらね
映画セッションのセリフ全部文字起こしして、マコが読むのかなみたいな風にリスナーの皆さんが誤解しちゃうかもしれないじゃないですか。
いやもう本当にそれやったらP音が入りすぎてとんでもないことになっちゃうよこの映画ね。
楊 そうですね。そんなわけで今日はですね、また映画考察というか映画談議の回でございます。
大間と一緒に映画セッションについて語っていきたいと思います。
前回僕がエピソードのあらすじをお話ししたので今回は大間がやるんですか?
いやそこはもうマコちゃんの担当でいいんじゃないですか。
楊 はいわかりました。ということでね、前回やっぱり僕あらすじ喋るとこれも言っとかないとこれも言っとかないと結構長くなっちゃう嫌いがあるので、
楊 今日こそ短めにまとめたいと思います。 そうね3分測りますね。
怖いですね。いきますよ。
映画セッション、これはですね、若きミュージアンを目指すドラマーが超有名な音楽学校に入学してそこから始まっていく狂気の物語でございます。
主人公ニーマンは偉大なドラマーになることを夢見て音楽学院に入りますが、なかなか目が出そう。
ところがそこにですね、その大学の中でとても権力のある一人の男、名前をフレッチャーですね。
フレッチャー巨人の目に留まります。
フレッチャーからフレッチャーが仕切っているスタジオバンドに呼ばれたニーマンはとても喜ぶんですが、
そもそも実験を行った社会人質理学者の人は警察役の人たちに演技指導とかしてるから
それはまあそういう方向にだんだん走っていくよっていうふうな批判もあったりするんで何とも言えないんですけど
でも実際閉鎖空間である程度の力を持った人間というものが
周りから咎められない立ち位置にいたら、それはどこまでも行くよっていう話でもある
それはもう本当に何か心理学的には実証されていて、その名も役割遂行っていう名前がついて
例えばその患者さんと医者っていう関係性が一番わかりやすいんだけど
例えば入院してくる患者が、例えばね糖尿病の患者さんがいたとして
その糖尿病の患者さんがもう隠れてカップラーメンを食っていたと
それを見つけて医者は何て自分の体に不誠実な人なんだみたいなことを言い始めるんだけど
その医者の中ではその患者というものは入院してきている以上
ちゃんとその患者というロールをちゃんと真っ通すべき人であり
それをちゃんとやんない人っていうのをかなりレッテルを張ってきつく言ってしまうとか
あるいはその患者さんは患者さんの方で、医者とはこういう人間であるべきであり
そのロールから外れた人間をなんかちょっと変に思うとかっていうようなことがあって
まさにそれですよね
まあそうですね、またなんかハロー効果みたいなものもあるじゃないですか
社会的に認められた地位にある人は他の部分も全部良いものであるというふうに思ってしまうというかさ
フレンチャーさんもね、まさにすごい欠陥を残してる人だから
何しても許されるというか何しててもきっと彼がやる意地は正しいんだろうと
だから食らいつくのが正しいんだと思っちゃうじゃん
それも怖いよねっていう話かなっていうふうに思うんですよ
だから彼を評価しちゃダメだっていう
でも僕らって世代的にはある意味ああいう環境でもっていろんなことを要求されてきた世代でもあるじゃないですか
だから余計に認めたくないんだけど
かといって何のプレッシャーもないところでのびのびとやっていって
本当に自分は伸びたかって言われると
それもそれでちょっとわかんねえなとも思っちゃうふうにあるので
そうだね、特にそのTeensの時って自立、立診弁の方の立診弁だった
立する方ね、立診弁じゃなくてあの業人弁の
業人弁ね、学のなさがどんどん出てくる
とにかくちょっと話を戻しますが
ニーマンがその本当にある意味では自分自身の求める姿に到達したあのシーンをもって
でもそれってまさにフレッチャーがそれまでにしてきた経緯
その指導、まあ経緯はどうあれ
それはそのままフレッチャーの思惑通りの成果に結びついてしまってるわけで
そうだね
そうつまりそのニーマンの勝利だ
イエーイって思ってる人に一言申し上げるとすれば
もしこれがニーマンの勝利だとすればそれはフレッチャーが勝利したことになるんですよ
そうだね
そうつまりフレッチャーに打ち勝つことっていうのを
何かカタルシスを得るきっかけにしようとしてるんだとすれば
それはそのままフレッチャーに打ち勝つことはフレッチャーの勝利なので
だから結果的に絶対フレッチャーのことなんて認めたくないって見てる人は思うのにもかかわらず
ラストでニーマンが打ち勝つことによって
これフレッチャーの指導を認めることになっちゃうんですよ
確かにねもしそのフレッチャーの勝利じゃなくてニーマンオンリーの勝利っていうことを言いたいのであれば
1曲目から成功しなきゃダメなんですよ
そうだよね
曲が始まって違う曲だでもできましたニッコリっていう風にすれば
これはニーマンオンリーの勝利なんですよ
フレッチャーはびっくりはめられなかったがっかり
でフレッチャーは多分終始怒って終わってニーマンだけニッコリして終わるんだけども
彼は1回あそこで失敗して
で最後の最後の
なんかこう自分の寄り所であるものを捨てて
同じクレイジーな存在に変わって
だもんね
だからなんだろうなそのこれねさっきも言ったんだけど監督はさ
諦めないことは大事だよっていうことを伝えたかったって言ってるんだけど
でもこのなんだろうな
結果的にねそれを描きたくて作った映画なのかもしれないんだけど
でも結局この映画が最終的に行き着いた時点っていうのは
その逆境を跳ねのけて自分の力で諦めずに進んでいくみたいなことの重要性よりも
単純に狂気と狂気がぶつかり合った時により高次なものが生まれるっていう
常人が思い描いているものとは全然違うもののようなね
そんな気がしてしまって結局これ変態と変態のセッションなんですよ
そうだ
ここでちょっとタイトルのねタイトルの伏線回収になってくるんですけど
結局ここなんですよ
いやーなんかちょっとまこちゃんの手のひらで踊らされてるような気分が悪いな
そう思いませんっていうだからみんな見方間違ってんじゃないかなって思っちゃって
僕もそういう風に見たの1回目は純粋に
やっぱ若かったしニーマン頑張ってんな偉いなみたいな風に思って
よしニーマン頑張れそうだその調子だもうやってやれとかいう風に思って見てたんだけど
結局それってフレッチャーの指導によって育て上げられたもので
あそこでフレッチャーと一緒に曲を作り上げてしまったわけで
それはフレッチャーのまさにこう夢に描いていたそれそのものなわけで
これってなんか諦めない大切さとかじゃなくて結局もう狂気がぶつかり合うことによる
何ていうの化学反応を楽しんでるだけなのかなとか思っちゃって
なんだ俺感情移入してたけどニーマンお前ちげーなみたいな
お前俺じゃねーわみたいな感じになっちゃうわけですよ
なんかねもうちょっとなんだろうな
もうなんていうの置いてかれたなっていうニーマンに
がっかりだったね
だからまたなんかフレッチャーはフレッチャーでやっぱ絶対倒せない存在でもあるなっていう
気がしてしまったのよ
でもなんかその監督の作り方だったものっていうのが
そのちょっとマコちゃんが今言ってたインタビューはちょっと知らないんだけど
なんかもともとその演劇学校かなんかのにフレッチャーみたいな先生がいて
それをなんか題材にしたとかっていう話があったとかなかったとか
実際こう音楽じゃなかった?
音楽だっけ?
実際音楽学校に通っていてその時にものすごいプレッシャーにまみれた日々を送って
その苦しさみたいなものは映像作品に残したいっていうのはすごい思ってたらしいんですよね
実際このセッションを撮る前に
グランドピアノだっけ?
イライジャウッドが主演してる映画の脚本を書いてるのかなと思いましたけど
そのピアノのコンサートで一音間違えたら死ぬっていうサイコースリラーなんですよ
でもそれはもう完全なフィクションじゃん
わかりやすいフィクションだけど
そういう音楽に対する緊張感、失敗できないというプレッシャー
それに押しつぶされそうになる感覚みたいなものを
ドフィクションな設定によって描こうとしたわけだよね
一方でセッションはありえそうな世界でありえそうな人間たちが
ありえそうなプレッシャーを描くっていうような
ドフィクションからむしろノンフィクション側へと
ちょっとぎゅっと絞り込んでいって作った作品なのかなっていう風に思うので
ごめんね、すごいニヤニヤしてたんだけどさ
なぜかというとね、今僕の中に箱平さんがふって降臨してきて
その経緯がある人が今回このセッションっていう作品を作ったじゃない
もういいかなっていう風になっちゃうから
だいたいさもう序盤の成長曲線が早いと気持ち良くなれるじゃん
まあわかるわかる
その気持ち良くなった後に周りが追いついてきて
でさらに自分よりも上手くなっていくところなんてもうどうでもいいじゃん
もう嫌じゃんそんな見たくないじゃんみたいな感じでそこでやめちゃうことの方が多いね
だからそれで言うと本当にもう年単位で2年3年4年っていう風に
変わらず打ち込み続けられた何かって言われるとびっくりするほどないね
ああそうなんだ
びっくりするほどない本当に
映画は?映画制作は?
映画制作は結局やっぱ仲間たちがいたからできたことであって
自分の中から湧き起こる何かがあったわけではないんだよね
そこがやっぱちょっと難しいところでその興味関心はあってもやっぱりその自分の行動に移すのって
ある程度の何か起爆剤が必要じゃね
しかもそれは自分の中にないんだよね
友達との話の中でじゃあそういう話にするんだったらこういう展開も考えられるよねとか
だったらここでこういう風なセリフ入ってきた方がより深みますよねみたいなところも
制作における何かこうただの何ていうのかな会議とかじゃなくて
やり取りの中で生み出されていくものの楽しさみたいなものはすごく好きだから
そういう意味ではすごくものづくりをしたいけどじゃあ
一から自分で脚本を書きますかとか
こういう作品作りたいっていうのをゼロから考えますかって言われると
全然そういう欲求はないのよはっきり言って僕は
友達が出してきたものに対して
じゃあこういう風にやってみたら絶対面白いから一緒にやろうぜっていうような気持ちにはなれる
だから自分だけで完結するようなニーマン的なね
とにかく自分はこれがやりたくてしょうがないのに他のものはノイズなんだみたいな
そういう風になれるものは一切なかったね
書は?
書ね、これも難しいところなんですよ
書もさ、ある意味こうドラムみたいなところがあるじゃない
まあね、まあそうかもしれないな
書に関してね、どうなのかな、俺は真摯にピュアに向き合ってんのかな
ちゃんと知らないけど、まこちゃんの師匠と向き合って書を書いてさ
お互いににっこりみたいなことあるのかなって
いやーこれがないねやっぱり
逆に認められないからこそ続けられてるのかなって気がするんだよ
ある意味では僕が一番人生の中で時間を費やしている書っていう世界は
今までの人生って僕が一番伸び悩んでいるものなんだよね
だから続けてるっていうところがあるのかもしれない
でもなんか珍しいよね、その書でもさ
ある程度僕の完全な素人な判断っていうところだけどさ