生物学者であり、評論家でもある池田清彦さんの言葉に、人が自由に生きることと、他者とともに生きることについて、深く考えさせられました。
曰く、
「そこで私は、「善く生きるとは、あなたの欲望をもっとも上手に解放することだ」と述べ、「善く生きるとは原理的に言えば、個人の問題であるが、正しく生きるとは、自分の欲望と他人の欲望を調停することだ」という自分の考えを書いた。」
「人々の恣意性の権利(=自分の欲望を解放する自由)は、他人の恣意性の権利を不可避に侵害しない限り、保護されなければならない。ただし、恣意性の権利は能動的なものに限られる」
ここから私は思いました。
1、欲望を解放する
2、欲望を調停する
3、他人を動かす権利はない
1、欲望を解放する
私たちは、欲望という言葉を、どちらかというと、よくないものとして捉えてしまうことがあるのではないかと思います。
それは、なんとなく和を尊ぶ日本人気質な、気もします。欲張ってはいけない。わがままを言ってはいけない。周りに合わせなければいけない。
でも、自分が本当にやりたいこと、自分が面白いと思うこと、自分が実現したい世界というのは、ある意味では欲望なのだと思います。
私はそこから、どうしてもこれを成し遂げたい、どうしてもこれをやりたい、というパッションの源が出てくるのだと思います。
周りに合わせる社会性も大事ですが、それをやり過ぎて、自分が何をやりたいか、わからなくなってしまう、それが実は1番怖いことのような気がしました
実はそれが善く生きることの一丁目1番地ということは、とても勇気を頂ける話と思いました
2、欲望を調停する
自分も欲望を自由に出していいんだから、他人も出していいよね、ということが、欲望を調停するということかと思いました
時には、自分の欲望と全く違うタイプの欲望を他人が持っていて、全く理解不能だったとしても、それは否定できるものではないという認識だまずは大切なのかと思いました
その上で、自分の欲望と、他人の欲望が、もしかしたら、対立する関係になることもあるのかもしれない、そこを調停することが、正しく生きる秘訣というのも、とても腹落ちできました
それは必ずしも、自分の欲望を引っ込めろということではない点が重要だと思います
私はよく、自分軸と他人軸のベン図の話をしますが、会社との関係なり、人間関係にしても、必ず重ならないところがあるので、その重なりをどう上手く、自分も他人も否定せずに、ある意味、アウフヘーベンしながら、調停していくことが、とても大切なのだと思いました
3、他人を動かす権利はない
これは一見当たり前のように思えますが、例えば、親切をした時に、相手から、感謝の言葉が一つもなかった、というときに
自分は、「なんだ、せっかく親切にしてあげたのに、一言もないのかよ」と言ってないかということを、考えた時に
自分は、その他人を実は、自分の思うように動いて欲しい、または動かせようとしてるのかもしれない、ということに、はたと気付かされました
つまり、自分がこうしたいということや、相手がこうしたいということは認めていても、自分がこうして欲しい、という期待を持つだけでなく、相手がその期待どおりに行動するのが当然だと思ってしまうことがある。
それはつまり、受動的な恣意性を知らず知らずに発揮しているということなのかもしれません。
そこには、自分自身が持っているコモンセンスや、そこにあるバイアスに気がついていない可能性があるということなのかもしれないと思いました。
「普通そうするよね」みたいな「普通」ってなんだよ、ということに、必ず自分は染まっていると考えることが大事だと思います
「普通そうするよね」と思った時にこそ、自分は受動的な恣意性を発揮していないか、コモンセンスのバイアスに染まってないか、それを一歩引いて考える
それこそが多様性を考えるということだし、正しく生きるということにつながる
そんなことを教えて頂いた気がしました
実は、そのバイアスがあるところにこそ、イノベーションの種がある、とも言えるのかもしれないなと思いました
ということで一言で言えば
正しく生きるノベーション
そんな話をしています
参考
本:池田清彦『多様性バカ 矛盾と偽善が蔓延する日本への警告』扶桑社、2024年9月1日発行
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