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落語と演劇の異種格闘技ノベーション(1823回)
2026-04-22 18:13

落語と演劇の異種格闘技ノベーション(1823回)

演劇と落語のコラボレーションした「演劇×落語=演劇作品」の舞台 死神を、観させて頂き、新たなイノベーションの生まれる瞬間を目撃させていただきました


脚本演出の倉持裕さんと、俳優としても舞台に立つ立川流・真打の立川志の春さんの言葉に考えさせられました


曰く

「落語の国っていうのは優しいユートピアで、最後は『バカだけど、それが人間だもん♪』で終わる。でも、この台本を読んだとき、業を肯定しきらないヒリヒリした感じを受けましたね。」


「落語は最終的には人間を信じているけれど、演劇の場合は、その瞬間、人間がどっちに行くかわからない。いい奴だと言いながら転落するかもしれないし、自分の欲を優先するかもしれない。その危うさが、演劇ならではのリアルさだなと感じます。」


ここから私は、落語と演劇のコラボレーションについて、思いました


1、制限と拡張

2、型と自由

3、コアコンピタンスの往復運動


1、制限と拡張


落語は、基本的に一人で世界を立ち上げていく芸です

語り手一人の中に、登場人物も、情景も、時間の流れもすべてが宿る


その制限があるからこそ、観る側の想像力が引き出される


一方で演劇は、多数の人間が関わることで

視覚的にも身体的にも、想像を超えてくる


ここで面白いのは、制限と拡張という、まったく異なるアプローチが共存していることだと思います


落語は想像力の拡張であり、演劇は身体と空間の拡張になる


その違いがぶつかることで、まったく新しい感覚が立ち上がってきたのかもしれないなあと思いました


2、型と自由


落語には「型」があります

話し方、間、構造、すでに磨かれてきたフォーマットがある


それは安心感でもあり、入口の優しさでもある


一方で演劇は、その都度つくられる自由さがある

どこまでいくのか分からないワクワクや、予測不能な展開がある


演劇理論家のピーター・ブルックは『なにもない空間』の中で、「空間があって、誰かがそこを横切り、別の誰かがそれを見るだけで、それはすでに演劇である」と語っています


つまり演劇には、厳密な“型”がなくても成立するという前提がある

むしろ、何もないところから立ち上がる自由こそが本質でもある


型があることで磨かれてきた芸と

型がなくても成立してしまう芸


この対比こそが、とてもイノベーティブな気づきをいただいた気がしました


3、コアコンピタンスの往復運動


今回舞台を見て感じたことは

「混ぜる」ではなく「行き来する」という感覚でした


オープンイノベーションの世界では、混ぜることによって新たらしい価値を生み出すという方向性になりますが


圧倒的なコアコンピタンスを持っているものは、混ぜていくよりも


むしろ異種格闘技のように、各々が異種の良いところを取り入れて、また更なるアップデートをしていく感覚なのかもしれないと思いました


混ぜることで新しいことが生まれることも素敵ですが、混ざり合わないんだけれども、影響し合う、という各々は失われないコラボレーションの形というものも、とても面白いものになるという気がしました


岡本太郎さんが、ピカソを観て、アンチピカソと言い切ったように、しかし、そのエッセンスを強烈に影響を受けて更なる進化を遂げられたように


落語と演劇の異種格闘技をファイトして、さらにそこから、新たな落語、新たな演劇が生まれるワクワク感


一言で言うと

落語と演劇の異種格闘技ノベーション


そんなことを思いました


参考:舞台 死神 作・演出 倉持裕 原案/三遊亭圓朝「死神」より [企画・製作]スマートリバー/ヒロ・カンパニー H &Aプロデュース 出演:水野美紀 牧島輝 など https://www.h-and-a-planning-shinigami.com


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