政治理論家シャンタル・ムフの「闘技的多元主義」という考え方に、対立や融和のあり方について、とても考えさせられました。
ムフさんはこう述べます。
「敵対とは敵同士の闘いであり、闘技とは対抗者同士の闘いである。」
「民主政治の目的は、敵対を闘技へと転換することである。」
「よく機能する民主主義には、異なる政治的立場の活発な衝突が必要である。」
ここから私は思いました。
1、対立をなくそうとすることの危うさ
2、争いながら、関係が壊れない状態をつくる
3、対立は、イノベーションの宝庫かもしれない
1、対立をなくそうとすることの危うさ
対立というと、その対立軸を何とか一つにまとめられないだろうか、お互いを知る対話を繰り返すことで、一つの考えにまとまっていくよ、なんて私はついつい考えてしまうなあと思います
喧嘩した子供などをみても、仲直りしなきゃダメだよ、みたいに、そして、仲良くなれてよかったねーみたいにするだろうなあと思います
しかし、そこには落とし穴があって、表面的には仲直りをしたように見えても、片方は自分は我慢しなくちゃならないんだとか、押し付けられたみたいな、不満というのが、沸々と溜まっているみたいなこともあるかもしれません
そして、人間の価値観は、育った環境、経験、立場、さまざまな要因で違いがあって、それを無理やり変えるということは、本当に難しいし
それをやってしまうのは、ある意味その人が大切にしてきた価値観まで否定してしまうことにもなりかねないとも思います
それは、政治でも、企業でも、家庭でも、学校でも、あらゆるレベルですべてを一つにしようとすること
むしろ、対立を無理になくそうとすると、誰かの意見を押さえ込んだり、異論を言えなくしたりする、そんな危うさが生まれるのではないか、とも思います
だから実は、大切なのは、
対立をなくすことではなく、対立があることを前提にすること。
なのかもしれないなあと思いました
2、争いながら、関係が壊れない状態をつくる
ムフさんが示した「対抗者」という考え方は、そこに一つの新しいあり方を提示いただいているのかもしれないと思いました
それは、対立する相手を「敵」と見るか「対抗者」と見るかに大きな違いが生じるということです
敵とは、排除すべき相手。
対抗者とは、
「私はあなたの考えには反対する。しかし、あなたがその考えを主張する権利は認める」
という相手です。
つまり、
対立をなくして争わないことを目指すのではなく、争いながらも関係が壊れない状態に持っていく。
対立を関係の破壊にまで持ち込まないということが、実は、目指すべき真のゴールなのかもしれないなあと思いました
例えばラグビーのノーサイドの考え方のように、「対抗者」とは本気でゲームで戦っても、相手自身は否定しない。
むしろ、「対抗者」がいないと、ラグビーは成り立たなくなってしまう
対立をなくすことがゴールではなく、どう対立から壊れない状況を作るか。
それが、敵を対抗者に変えるという、ものすごいイノベーティブな考え方だなあと思いました
3、対立はイノベーションの宝庫かもしれない
世の中にはたくさんの対立軸があって、どちらが勝つのか・負けるのか、どちらが選ばれるのか・選ばれないのか、そこにゴールを持ってきているような気がします
しかし、考えてみると、対立軸というのは、ある意味、違いがあるもの同士ということになるので
対立している二つのものを、どちらか一方にするのではなく、違いを残したまま、新しく結び直したり、掛け合わせたりすることができれば
シュンペーターさんがイノベーションを、既存の要素を新しく組み合わせる「新結合」と捉えたように、その違いそのものが、新しい結合を生み出す種になるのかもしれないと思いました。
世の中に対立がたくさんあるということは、見方を変えれば、そこにはまだ解かれていない問いがたくさんある。
つまり、対立とは、イノベーションの宝庫なのかもしれない。
敵対から、対抗へ。
対抗から、新結合へ。
対立をなくすのではなく、対立は新しいものを生み出す宝庫であると捉え直す
一言でいうと、対立はなくさないノベーション。
そんな話をしています。
参考 シャンタル・ムフ「Deliberative Democracy or Agonistic Pluralism?」IHS Political Science Series, 2000.(引用部分は筆者訳)
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