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2024-05-30 08:01

#823 唐十郎さんのお母さんが双葉郡出身と知って思った話

5月4日に亡くなられた劇作家で演出家、俳優、小説家の唐十郎さん。新聞記事で母親の故郷である双葉郡に疎開していたと知りました。双葉郡のどこかなと思ったら富岡町らしいです。お母さんの故郷が本当に富岡町なのか知りたいですね。唐さんのお母さんって、どんな方かなと思ったら、同人誌に戯曲を書いたりする、当時としてはけっこう学のあった方のようです。

サマリー

唐十郎さんは亡くなりましたが、福島県の双葉郡出身です。現在、母親の出身地について調べています。

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はい、おはようございます。本日の放送は、2024年の5月30日、木曜日です。
本日は、第823回目のお話となりまーす。
このチャンネルは、福島県郡山市在住の特撮アニメ漫画大好き、親父のピョン吉が響きになったことを、だらだら話をしていくという番組です。
そんな親父の一言を聞きになりまして、もしもあなたの心に何かが残ってしまったら、ごめんなさい、悪意はなかったんです。
不幸にかもが、ご意見を持ってしまったら、ぜひ今後、ご悲劇なほどよろしくお願いいたします。
本日はショートバージョンです。
唐十郎さんの実体験
5月4日の日にですね、唐十郎さんが亡くなったというニュースが流れましたね。
アングラ演劇の騎士で、小説家としても活躍された劇作家で、演出家、そして俳優の唐十郎さんです。
唐十郎さんが行われました劇ってですね、実は一度だけしか見たことないんですよね。
1990年より前だと思うんですけどね、当時ですね、自分、衝撃場と呼ばれた新感覚の演劇に興味があったんですね。
その当時NHKがですね、若い人に人気の衝撃場の劇、劇団30までだとかね、キャラメルボックスだとか、有機解全自動シアターだとかね、
そういった演劇をですね、深夜に放送していたんですね。それをね、見るようになりましてね、これ面白いと思ったんですね。
それで当時は本屋さんでですね、演劇の作品がね、VHSのテープで売ってたんですね。
それを買って見まして、東京はいいな、こんな演劇がすぐ見えんだもんと思っていたんですね。
地方にはそんな劇団がないですしね、やってる人達いなかったですからね。
そんな時ですね、映画ファンの友人がですね、有名な劇団がね、福島県に来るんだけどね、見に行かないかという風に誘われたんですよ。
どんな劇団?と聞いたらですね、アングラの演劇だって言うんですよ。 自分の見たいのはですね、そんな70年代、60年代の劇じゃないんだよなぁと思いつつですね、見に行ったんですね。
福島市まで見に行ったと思うんですね。 テントでね、演劇してましたね。
これ珍しいなぁと思いましたし、観客と俳優の距離が非常に近い。それも珍しかったですね。
そしてテントの中でね、お香のような匂いも漂ってますしね。 なんかすごいもの見たぞ!と思った記憶があるんですよ。
思った記憶があるんだけども、何を見たのか全然覚えてないんですね。
とりあえずですね、劇ってですね、形にはまらなくてもいいんだよね。それを感じたのは覚えておりますね。
カラーさんのね、劇についての記憶って実はそれぐらいなんですね。 なんていう作品なのかね、ちょっと思い出したいんですが、ちょっと思い出せないんですよね。
あとはですね、息子さんの大鶴ギタンガさんが俳優として人気になってきまして、マルシアさんと結婚しましたね。
この人のお父さんかと思ったくらいですね。 で、亡くなった時の新聞を読んだわけですよ。
戦時中、幼少期ですね、福島県内に疎開した経験があり、福島県内の公演も数多く重ねた。
って書いてあるんですね。 で、福島への思いがですね、作品作りに影響を与えたと見る関係者もいると。
母親のね、カラーさんの母親の故郷とされるね、双葉郡に疎開していたって言うんですね。 新聞に書いてあるのはそこまでなんですね。
双葉郡と言ってもですね、広いですかね。どこだろうと思って調べたらですね、どうやら富岡町らしいんですよ。
富岡町ね。ということはですね、母親の出身地も富岡町ってことなのかな。ちょっとね、それを知りたいなと思うんですね。
1944年から1945年の夏までですね、富岡町で過ごしたらしいんですけどね。
ですもん当時は戦時中ですしね、どうで過ごしたなんてね、多分史上見つけるのは難しいでしょうかね。
またカラーさんもね、1940年生まれですからね。ですから3歳か4歳、その時の記憶ですからね。
ただ記憶って言っても本当にね、わずかなもんなんでしょうね。 でも富岡町にですね、現在もご親戚の方とかね、住んでいてもおかしくないわけですよね。
カラーさんの母親について
どういうか喋る方法ないかななんて思ってるわけですね。 それじゃあそのカラーさんのね、お母さんってどんな人なのかなと思って調べたんですよ。
そしたらですね、ちょっとびっくりしたんですが、同人誌にね、技曲を書くような人があったらしいんですね。
技曲ね。それでですね、映画監督、それからテレビのプロデューサーを務めた父親とね、結婚した形なんですね。
1930年代ね、その頃にですね、女性でね、技曲を書くっていうのね、かなりその当時ですね、学ね、
勉強された方なんじゃないかなという気がするんですね。
戦後ね、この富岡町からですね、もう東京に戻りましたね。 焼き野原になった東京ですね。そして婦人会の会長、それをされていたらしいんですよね。
やっぱり学校がないとやっぱりできないですよね、婦人会会長なんてね。 婦人会長をしていることもありましてね、情報通となりましたね。
自宅近くの長屋でね、暮らす男女の娼婦の方の話だとかね。 あるいは暴力団の日常の話だとかね。
またキツネ付きになった人の話だとかね。そういった話をですね、映画の活弁士のように軽妙にカラさんに語って話を聞かせたらしいんですよね。
そうなんですよね。カラさんの作品世界の基盤となったらしいんですよ。
カラさんがね、この劇を作ったり、また小説を書いたり、また大鶴ギターンさんがね、小説を書いたり、映画を作ったりとかしてますよね。
これはですね、カラさんのお母さんの血なのかななんてつい思ってしまいました。 最近ですね、富岡町周辺でですね、演劇、それは非常に活発になってきました。
富岡で演劇祭とかね、昨年もこれなってましたしね。 奈良半町とか大久保町、そこでもね、劇をやっています。
小田川町、南相馬市ですか、小田川町、小田川のですね、リュウ・ミリさんのね、存在が非常にね、きっかけとなってね、それで活発になってたなと思うんですけどね。
ですがもね、やっぱり昔から80年くらい前にですね、このように劇を書きたいというね、女性がね、双葉郡にいたってことですかね。
それも関係あるのかなと思いましたね。 というわけでですね、今回はですね、カラ・ジュウロさんのお母さんが知りたいなぁと
いう話でした。 どうにか本当にね、調べる方法ないでしょうかね。
はい、それではまた次回、よろしければぴょん吉のお宅の話をお付き合いくださいね。 本日もお聞き下さいまして誠にありがとうございました。
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