善人と悪人の基準
前回のエピソードで、人間が対人関係においては、いかに相手の都合に合う人間であるかを知ってもらうことに注力している。
それが人間関係なんだっていう話を、クラキの治療をつないでたんですけど。その話からなんですが、クラキは以前は、今もそうだろうけど、なんだかんだ人にどう見られるかっていうところに意識が半分以上は行ってしまってる。
だけど、そこを改めて、本当の意味で相手が喜ぶのはどういうことなのかっていうことを考えると、例えば料理を作って、クラキはイメージしてるのはお嫁さんがね、
シュートが嫁に料理作って、たくさん食べてくれて嬉しいよって、心の底からそんなことは思ってなくても、こうやって言ったらお嫁さんとしては嬉しいですよね。
でもこれは嘘ですよね、それはね。だし、正直なことなんて言ったら、社会の中で生きていけないですよ。その時の本音をポロッと言うこともできない。
となればですよ、今3パターン話したけれども。やっぱり人間ってどうやったって利己的な遺伝子を持ってる以上、その宿命に抗うことはできないんだなって考えてしまうんですが。
では早速本題ですが、次は善人や悪人の話なんですが、善悪なんていうのは、自分に都合のいい人が善人に見えるだろうし、あと多数決で多いものが正しい、そしてその正しいことをやってれば善人と呼ばれるだけの浅はかな基準なんでね。
とにかく言うつもりもないんですが、ただ、事故にあってて後期の知能障害だっけな、のが損失を受けてしまうっていう人が、もう理性を失って暴力ばっかり振るってたり、人が変わってしまう場合、
まあ、悪人になったようにしか見えないけど、でも事故にあったっていうそれだけの話なんですよね。逆に言うと、生まれつき明らかにこの人は悪人だろうと思うような人でも、この事故にあった人と同じで、脳のどっかに障害があったり、
まあ、そんなことはあり得るかどうかは置いといて、ネグレクトで問題があったり、それだけのことだと思うんですよ。一応ネグレクトとか小さい頃の人間関係のことで、脳に障害があるっていうね、
クラキはあまり信じてないけど、まあそういうことがあるんだとしたら、まあ遺伝にせよ、まあそういったもので、悪人に見えてるだけであって、うーん、悪人も何も単に脳に問題があるとしか思わないんですよね、クラキは。
前に悪人なんてそんなもんだと思いますよ。
自我と自意識
次の話なんですが、字があってて、最近たびたび話してきてもいきましたし、長い期間にわたって考えてるんですけど、
まあ、どう考えたって、ここに自分は存在してるという作家を抱いてしまうわけですけど、逆にですよ、すごい太ってしまってる人とか、自分の体を大事にしないたわらない、喧嘩ばかりしてる人、
タバコを吸う人なんかまさにそうだと思うけど、そういう人って、逆に自分の体、まあ自分のものであるっていう意識が逆にないのかなと思って。
クラキも小学生の時とかそうでしたよ、自分の体が自分だということを理解しづらかったです。
ちゃんと自分でいたわってあげないといけない、自分で管理しないといけないんだということは、子供だからなかなか理解できなかったわけですけど、大人であれば、それを自意識って持ちますからね、字がってありますからね。
やっぱりこの体、この頭は自分だって意識はあるわけですよ。
でもそれで簡単に太っちゃう人とかって、何なんだろう、自我がないのかな、欲はあるけど、あまりこの体でこれから生きていかなきゃいけないっていう自覚がないのかなと思ってしまうんですけど、どうなんでしょうかね。
さっき言ったかな、自分にとって都合のいい人は善人に見えて、そうでない人は悪人に見える。
でももっとね、なんか崇高な人間になりたいと思っている人は、もうちょっと客観的に捉えて、この人は自分にとって都合がいいわけじゃないけども、善人に見える、悪人に見えると。
もうちょっと高い視点でね、見たとしてもですよ。
でも結局自分にとって都合のいい人がどうか、好きか嫌いかがほぼ99%大事ですよね。
そういう人と関わるだろうし。
だからやっぱり切りごとにしか好きないし、この人は善人、悪人っていう判断を変えようとしたって。
あと倉木は、アイドルなんか応援してるとですね、状況によってすごい独占欲が出たり、ずいぶん偉そうにしてたり。
中にはいるんですよ。
善人が出る発言要因はあるかもしれないけど、環境次第で全然性格が変わるのを見てるからね。
善人か悪人かどうかなんていうのは、ただの一つの一時的な現象であって、普遍性はないと思ったほうがいいと思ってるんですよね。
それこそこの人の方言が気にくないとか、それで悪く見えてしまったり、そんなものだと思うんですよ、善人、悪人って。
あと動物として見るか人間として見るかによっては違いますよね。やっぱり理性的な生き物だし、人にいいことをしようとすればそれは善だろうし。
ただ動物として見ればですよ、人間として見たときに一見悪だとしても、
食肉恐縮である以上、それは生きていくために必要だということすらこともあるだろうし。
人間的に生きるというのは演技をしたり嘘をつくのが人間的に生きると思っているから、それを悪だとしてしまうと悪だろうし。
かといってそんな人間的な部分をなくしたら、そっちの方が知能の低い悪に見えてしまう可能性だったり。
人間的には他の動物を食べるのはどうなのかと言っても、人間を動物として見たらそれはやむを得ないことだし。
次の話ですが、クラケのこれ持論というか疑問点なんですけど、
世の中残虐な事件にあって亡くなる人もいますけども、それよりも、
例えば、戦争に行く兵士なんかは自分の意思で言っているけれども、
何も罪のない子供とかがやられるのは聞かなさが苦しいと。
こういう場合ですね、こういうことよく聞きますね。
本当に生き地獄を味わって拷問に遭うとかですよ。
そういう状況で死んでしまうと、
自分の意識が悪くなってしまうと、
自分の意識が悪くなってしまうと、
自分の意識が悪くなってしまうと、
自分の意識が悪くなってしまうと、
毒的な拷問に遭うとかですよ、
感銀されるとかよっぽど、そっちのほうが眼をつぶってはいけない、
直視しなきゃいけない事実だと思うんですけど。
では、これと似ている話で言うとですね、
似てはいないか、
まあアフリカの子供は子供
食べたくても食べれないんだからあんたは
そんな贅沢に言ってないでちゃんと全部食べなさいとか
あと行きたくても行けない人がいるんだから
最後の一周まで行きなさいとか言うけれども
子供だってねアフリカの子供だってそれお腹いっぱいになったら
食べるのやめるもう食べるのやめるだろうし
これ生理現象だからそこはね違うと思うんですよね
あんたはしっかり残さず食べなさいとか話がまた別だと思うんですよ
そこを一緒くたにしてはおかしいと思いますね
苦しみを受け入れる美徳
次はなんで人間ってのは多少問題があっても解決しないで
苦しみを受けられるのかこれはまあ
昭和時代から続くそれを美徳としてしまうだから
死ぬ間際にモルヒネを撃ってもいいのに撃たないとかがんで
それを美徳としてしまう苦しむこと
まあそれとかあとはですね
どうしても苦しみっていうのは
つきまとうものだということを本能的にわかってると思うんですよ
なのにここからは暗くて理解できないなと思うことなんだけど
より良くしようという思いもあるわけですよね
現代人はその問題が起きたら
ちょっと今回の話は矛盾してしまうけど
なんとかしようと
別に多少のことならねいちいち変化する必要ないと思うんですよ
でも本当に余計な変化を起こす人多いですよね
それで新たな問題が起きることにも気づかず
でも本能的にはやっぱりわかってるわけですよ
多少問題があっても大丈夫だと
なぜかというとそんな問題なくしたって別の問題が生まれるからですよね
あとはもう目の前のことでいっぱいで紛争してて毎日
小さいことにこだわってられないという場合もあるだろうし
でも僕だけは思ったことあります
なんて苦しみがある場合それをもっと合理化して
なるべくそういったものを減らすことはできないのかと思ったことあるけど
まあ無謀なことなんですね無駄なんですねそんなことしても
解消したと思い込むことしかできないんですよ
それがみんなわかってるんですね多分ね
あとは仏教心があるからとかあまり欲を持ちゃいけないとか
そういうのもあると思いますね
だけども良い思いをしたいっていう思いも
持たないと生きれないのもやっぱり人間なんですよ
僕だけは思うのが苦しさを減らすためには絶対犠牲が必要なんですね
時間が必要なわけですよ
そこでの苦しみを選ぶか
その1回の苦しみによって楽になることを選ぶか
で電車を撮ってる
っていう人が多いのかなっていう気もしますね
それではしたっけ