1. 哲学以前の違和感
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第5873回 虚無と日常のあいだ
2026-07-09 1:07:12

第5873回 虚無と日常のあいだ

規律って言っても、信念とかじゃない。 崩れないための“作業”みたいなもの。意味とか感情は、運用には入れてない。

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00:03
これから、倉木さんのラジオ収録が始まります。
NO ILLUSIONS TO LIVE BY
はい、今日朝撮っております。
まずですね、身体や顔に、老いが現れてから変化すること、切なさを感じている人って、あまりにも多いと思うんですよ。
で、相当苦しく感じている人もいるわけで、でもそれって若い時の勘違いの反動だと思ってるんですよ。
例えば、大学で数学勉強したくて、入って散々興味を持たされて、でも卒業したら研究者にもなれないし、仕事でも使えない。
これって蛇の生殺しだと思うんですね。
こんな風に5年後やらないなら、今やる意味があるのか、ということに、こういうことを生きてれば山ほどあるんですよね。
それに気づいてないわけですよ。
別に気づいてそれを嘆く必要はないんだけど、気づいてないんですよね。
だから、老いという比較的に分かりやすくなって初めて、若い時の状態が変わってしまうという、生き地獄に生まれていることに気づけない。
気づけてないことに気づくというか。
つまり老いの問題じゃなくて、若い時の構造の欠陥が露出しただけなんですね。
あと諸行無常もあれも、人生生きてたらいつか老いてしまうみたいな風にだいぶ間違った解釈されてますけど。
そうやってすごいよく、この言葉を、間違っているけど捉えているとも言えるし、逆にそう思い込みたい部分もあるのかなと思って。
老いてしまうから、そういう変化してしまうということを老いるということに縫い付けて、この言葉は都合よく捉えているとしか思えないんですよね。
特に若い時は、何でもできるという可能性の錯覚を生んでしまうし。
03:10
あとさっきの例え、解釈を変えると、若いからこそ切な的なんでしょうかね。
自分の感覚からしてみたら、5年後やらないこと、5年後辞めていることは今から始める意味がないと思っちゃうんですよ。
自分はもうちょっと逆に切な的になったほうがいいと思うけど、どっちがいいのか置いといて、この話においてはですよ。
5年後もやっていると勘違いしてしまう。必ずやっていると勘違いしてしまう。あるいは、そんな発想すら出てない。
でも年を取って初めて、若い時の状態がそのまま10年後も20年後もあるわけじゃない。
ということで今の例題は全く同じ構造なのがわかりますかね。
だから自分だけだと思っていたんですよ。
みんながこうやって、その若い時の状態が10年後も20年後も続かないことに違和感を感じているんだなと思ったんですね。
で、あればですよ。
じゃあ何で若い時にそういう風に、これやっても5年後やらないなら意味ないなとか、なぜそう思わないのか。
逆にそう思わないからこそ、年を取ってからその反動で人生の生き地獄を感じて辛くなっているんじゃないかという一つの仮説ですね。
親イコール諸行無常といって上品な哲学にしようとしているんでしょうね。
親の残酷さを綺麗に回収しようと思っているんでしょうね。
でも実は諸行無常という言葉ってもっともっと冷たい言葉なんですよね。
ただこの言葉が冷たいというよりも、この世界が現実で、それを深側を感じてしまったらとても辛く感じるというだけで、諸行無常自体が辛いものではないんですよね。
この世界、そしてこの世界を捉えるその諸行無常という言葉自体にだいぶ幻想を抱いているんですね。
あと人間って忌み付けをしたいわけです。
だから単に老けていくだけだと説明がつかないから無常という言葉でツツンになるんですよ。
では次の話です。
食事中うまく食べれなくて、そういう時って今うまく食べれたと思いたいわけですよ。
そしてそう思おうとすると実際に美味しく食べれた達成感みたいなのがあるんですよね。
06:02
でも思い込もうとすることに意識いってるのに美味しく食べれたと、そこに意識いってるのにうまく逆に食べれなくなってるわけですよ。
このことからわかるのは、味に快感、そして美味しいという感想になる、この順番じゃないんですね。
快感があって今美味しかったのだろうという順番なんですよ。
逆に味がいいから快感でなく、快感によって味の記憶が続くなんてこともあるのかもしれないです。
やっぱり快感が強いと味の記憶が後付けで作られるんでしょうね。
後付けで記憶が作られるって変な話だけど。
わかりますかね。美味しいと思い込もうとする自覚がある。
そしてそこに意識がいってるのに、実際は美味しく感じるという矛盾ですよね。
でもこういうパターンも考えられるんですよ。
意識が味でなく評価に向くことによって報酬系が動かないから快感が生まれないってことですね。
だから味の記憶も作れなくなるはずなんですよ。
もしくは達成感によって味が良かったって記憶してるっていうのと
集中できてないけれどもでも達成感を感じてしまうっていうですね。
こういうバグが起きるんですよ脳は。
結果的に美味しかったと思ってしまう。
この達成感ってさっき言ったように思い込みによって生まれた達成感ですよね。
結果的に味が良いから快感が出るんじゃなくて快感が出たから味が良かったと記憶される。
ということが人間の通常の回路だということが今日分かりましたね。
では次の話ですが自分は快感があると次の日同じ時間に快感がないと変化に弱いから
違和感だし禁断症状みたいになるんですよ小さなことであれ。
快感のパターンを固定しようと体はするから
その時間に快感が出ないと体は危険だと思って不安になるわけですね。
人間何でもそうだと思います。
09:00
食事しなかったらいつもよりお腹が空くような感じはするだろうし
そんなにお腹空いてなくても不安だし違和感だし落ち着かない姿が出るんですね。
快感の欠如によって。
さっきの話ちょっと難しかったんですけど
意識が評価に向くと快感って生まれないんですよ。
でも今うまく食べれたと思いたいと判断する部分と
美味しいという感覚を作る部分って脳内で別なんですよね。
だから集中してないけども快感はできる。
でもそもそもうまく食べれたと思い込みたいと意識することによって
意識が評価に向いてしまう。
これはもちろん味覚が弱くなるってこともあるんですよ。
相対されるけどもでもですね
達成感ということによって快感が生まれることによって美味しくは感じるから
結果的にプラスマイナスで言うと
美味しく感じれてるんでしょうね。
もちろんそれも今言ったように後付けのものなんですけど
もうちょっと簡単に言うとですね
味を感じる力が弱くなるんですね。
ちゃんとできてるかなと考えすぎると。
だから学校でテストを受けてるみたいな状況。
楽しむことではなくなってしまうんですね。
うまくいった気がするっていうこともたまに出てくるんですね。
思い込みなのは分かりながらも
なんかできた気がする。うれしい感じが出ることもある。
なんでこういうことが起きるかというと
別の回路が働いてるからですね。
そしてうまくいった気持ちが後から味の記憶を作るんですよ。
結論ですけど
こうやって考えすぎてるけど
考えすぎるというか
自分がしっかり味わえてるかとか
っていうことに評価しすぎたらあれだけど
なぜこうやって美味しく食べれるんだと思い込もうとして
評価してるけれども
12:00
結果的に美味しく感じられてるっていうのは
うまくいった気持ちが出るから
そしてそれが味の記憶を作るってことですね。
では次のお話
ポッドキャストの英語界って
キンドルみたいなものだと捉えてるんですよ。
意味なんて考えてないんですね。
もうストイックにできていて
それ自体ができていればいいという考え
今かなりきついのに
筋トレと同じことなら増やさないといけないと考えてしまうんですよ。
中途半端な感じがしてしまうんですね。
でも筋トレみたいなこともして
他のこともやれっていうのでいいはずじゃないですか。
一つ理由としてあげられるのは筋トレは
フクアを増やすことが大事。
だから英語も同じだろうっていう
非常に
誤った連鎖が起きてますけど
自分は価値のあることを
なるべく価値判断をしないようにしてるんですけど
多少でも意味があると思ってやってる
だからそれは増やしたくなる。
ただここで疑問なのは
英語イコール筋トレみたいなものと認識する前から意味を感じてた。
でも単純に筋トレにしては利用が少ないかなって考えちゃってるのかもしれないし
どうしても自分は軸が一本になってしまうんですよ。
生活してたらこれもやらなきゃいけない、これもやらなきゃいけないっていうよりも
どっかに焦点がいってしまって
バランスを崩してしまうんですね。
それを最大化しようとしてしまうんですよ。
ドラマ見ててそこから何か人生について考えさせられるっていう人は理解できないんですよ。
芸術って全て心を動かされたりするもの。
その奥には必ず楽しんだり酔いしれたりがあるものだとは思うんですけど
なぜそうやって哲学に走るのかわからない。
あとそこから何か教区を学ぼうとする
事後啓発もんでもないのにそうなってしまうのか理解できなくて
何か解釈するものでもないような気がしてて
ここではこういうことを伝えようとしてるとか
ここで主人公は自分の欲望が浮き彫りになってしまい
それが露呈していることに恥ずかしさを感じる
そういう描写だとかそんなこと解釈
別にいちいちする必要ないような
15:02
気がしてて芸術っていうものを考えると
芸術っていうのは結局感動するとか楽しむとか酔いしれるという
体験の延長だと思ってるんですね
芸術っていうのはさらに感情を動かすもの
感動させるものだと思ってるんですよ
実際に定義上そういうことだろうし
もちろん人生について考えさせられたっていうのは
実際に感情が動いただけで
後からそうやって言ってるだけという見方もできますよね
でもその一方で作品そのものを楽しむというより
そこに出てくる価値観とか生き方とか人間の矛盾とかを
材料として考えてるだけだろうと
なおかつ恐ろしいのはそれ自体は面白いと感じているだろう
それは芸術の役目じゃないと思うんですよ
もちろんそれぞれが芸術の楽しみ方であれどれでもいいという
捉え方を基本的にはされるだろうけど
では次
自分はなぜ今これをしたのかわからなくなるときあるんですよ
例えば窓を開けた
別に暑くてもある程度なら逆になれることができていいと思ってるし
でも無理してもしょうないと
少し思ってたことあるのも少し記憶あるんですよね
完全に二重人格というわけでもないんですよ
だから逆に不思議なんですよ
一つ考えられるのは自分は全ての行動を意識的にやってるつもりだけど
やっぱり暑いと感じたからそのまま開けてしまうという
なんとなくの気分で
なんてこともどうしても生じてくるのかもしれないというのが
一つの理由として挙げられる
前にも似たことを考えていたというのもあるし
なぜ開けたんだっけとなってしまう
理由はゼロではなくて
曖昧で
複数あって
あるいは記憶に残ってないだけというものはもちろんあります
あるスポーツ選手なんかは自分の行動には全て理由があると言ってるけど
やっぱり以前から思うんですよ
自分が思うほど明確な理由を持って行動してないんですよね
というか人間の行動を後から理由付けしてるだけだし
それで理由があったと感じてるだけだし
そもそも意思の力なんて
自分は一切ないと思ってるんですよ
医学的には脳の中に石をつかされる部分はあると説明されてるかもしれないけど
18:02
全て後付けの理由でしかないと思ってるんで意識っていうのは
では次
希望を持つ恋って都合が悪い時に嘘をついて
救われた時に一瞬になってその後絶望するのと同じものと思ってるんですね
同じ流れだなと思うんですよ
希望を持つっていうのは
現実が悲しい時に未来へ良い予想を置くことによって一時的に楽になるってもの
でも外れれば苦しい思いをする
だから一時的な救いと悲哀に後の絶望を生むことがあるってことですね
未来を保証されるかのように感じてしまってるし
でも自分は希望は叶ったらいいけど叶わなかったら絶望とかそういう仕組みのものじゃなくて
希望を持つこと自体がもうすでに苦しみを生んでると思ってるんです
なぜかというと現実とは違う虚像を見てしまってるから
でも虚像はないですよね
だからないことに気づいた瞬間どうなるかわかりますよね
しかもこの希望なんて一瞬の痛み止めにしかならないんですよね
つまり未来のことであります希望は未来に対する物語なんですよ
でも実際は今の苦しみを止めるための痛み止めでしかないんですよね
しかも都合の悪い現実を一瞬だけ見えなくする
もちろん応急処置にはなるかもしれないけど
そんな応急処置って生活しててそこまでの応急処置必要ですかね
だから希望は人生に1回2回あってもいいと思うんですけど日常で希望を持つってことは
痛み止め連発使いまくるようなものなんですよね
一瞬だけ楽になるけど現実は変わってない
嘘が吐かれた瞬間反動で絶望もきますよね
痛み止めを打ちまくるとどうなるかっていうと
薬物依存みたいな状態ですよだから希望も持ちすぎると
辛くなったらまたすぐ希望を持って
でもその反動でまた絶望が来てその分また強い希望を持って
という歯止めが効かなくなるんですよ
21:00
薬物依存症と全く同じ状態ですよ
怖いですね物語を描くっていうのは
では次の話ですが
将来のことが不安で親が何か緊急の時何かあった時にどうなるのか
っていうのと最近はですね
この家にあと何年いるかわからないけど
自分は本当に何秒なのかっていうのは
あとはその緊急のことで
このスマホからメールできたら多少この不安も和らぐというか
さっきの話しといて何を言ってるんだと思うけど
次より不安を和らげるというよりは
電話よりもメールできたらいいんじゃないかと思って
親に聞いてましたね
では次祖母が
自分に甘ったれるんじゃないって言ってきて
自分が笑顔で祖母に
親戚だし祖母なんだからバナに対して
それは甘いが出てしまうのもしょうがないだろうって言ってる空想をしてました
そういう実際に
甘ってられないとかそういう精神性の話と
祖母は失望してくれたとか受け入れてくれたとか安全な場所とかいう感覚がある
がどうしてもそういう反応として出てしまうっていうのはしょうがないことですよね
ただこれは空想でそういうことをしてました
昨日親と話してて隣の
バーチャルと話してて隣の人車買ったらしいよって言うんですよ
それは娘だって言うんですよ
その後にハイブリッドだと聞いたらしいんで
じゃあ娘のかいって新しい方って言うからね
古いのは違うだろうしって聞いたら
いや2台ともだって言うんですよ
ちょっとこの後は記憶ないんですよ
昨日から1時間以上思い出そうとしてるんですよ
徹夜で思い出そうとしてたんだけど思い出せない
多分ですねその後ですね
この話の核は覚えてですね
その後1台と言ったら言い出したんですよ
この話が本当に悔しいけど
こんな単純な話じゃなくてですね
でも1台と言い出したんですよね
最後ですね娘の方が
今の話からするとじゃあ娘の方が
車がハイブリッドなのかいと聞いたら
今度は両方だって言い出したんですよ
でいやあんた今こうやって言ってたから
こうやって今言ってるんだよってことを言ったら
うちの家はですね
24:02
そんなこと言ってないと言い出すんですよ
困りましたね
まあいつものことです
まあいつものことだし
でも慣れたとは言えば慣れてるし
100回以上繰り返されたら
まあ腹立ち
では次の話です
ドラマなんかだと
この作品素晴らしいって考える場合って
自分の考えをよくコマで表してくれて
っていう場合が多いような気がするんですよ
でもそれって自分の考えがそれと同等であるか
それ以下の深さ
いや中身しかないと認めてるようなもんだと思うんですよ
でもまあ
もちろんプロが作った芸術作品
だからまあ
同等であってもすごいんだけどただですね
何が言いたいかっていうと
だからもうすでに自分の考えと同じものが
もうすでにこの世界にはあると認めちゃってるもの
もしくはもうそれ以下だと認めてしまってるようなもの
だと思うんですよね
でも難しいですよね
この作品が素晴らしいなら
この作品は自分の考えを表してるんだから
自分の考えの価値も高いと
なってしまうケースもあるだろうし
そうだからこそ
おかしな話だと思ってて
ただですね
今のとは全く話が変わるケースもあって
この作品は自分が言葉にできなかったことを表現してくれたから素晴らしいっていう
これは純粋に素晴らしいと思ってる
では次の話
理不尽、都合の悪いこと
情けなさなどで絶望するときに
現実逃避してないつもりでも
君を絶望すること
新たな趣味を作ること
新たなことに興味を持つこと
この人に相談すれば打ち上げれば
この人の本読めば
みたいなことって全て
辛くなって遠くに行ってしまったら
現実変わりそうな気がする
って考えるのと同じ心理だと思ってるんですよ
現実逃避してるつもりがなくても
別のものに救い求めてるんですね
今の苦しさが超えられる
何かが向こうにあるのではないかと
いう錯覚に陥るんですよね
27:00
そうやって人間って
心が保つことができないまでも
一瞬でもそれによって防衛されればいいという
本能みたいなものなんですよね
たぶん猿でも同じことをするんじゃないですか
だから引っ越しするなんてことじゃないですか
芸能人でもいました
とりあえず海外に行くっていう人は
全く理解できないけど
離婚して子供連れて海外に行くって
何の解決になってるのかさっぱり分かんないけど
あと子供をいじめられてるから
子供を転校させるみたいなの
何の救いになってるのかさっぱり分かんないけど
新しいところでもまだいじめられるか
もしくはそういう中途半端な解決を選んでると
将来的にどうなるかって分かりますよね
普通なら
でも当人たちは分かんなくなってしまうんですよ
本を読んで改善するとか
相談して問題解決するなんてのは
この話では全くどうでもよくて
解決するかどうかの話じゃないんですね
その真理の動き自体の話なんですよ
何が言いたいか
一番大事なことは
遠くに行ったら何かあるような気がするっていう
このちょっと
キテレツすぎる行動と
誰かに相談すればとか
旅行を持ったらとか
新しい趣味を見つけたら
旅行をしたら
インドに行けば何とかなりそうとか
全部同じ構造だっていうことですね
では次
呼び子の先生がよく言いますね
分かりやすいものほど
理解したつもりになってしまい
問題というが
いや問題はそこじゃないでしょうと思うんですよ
理解できてそれが問題って
おかしな話じゃないですかと思うんですよ
でも呼び子の先生は言いますよね
分かりやすい説明を聞いただけで
自分で使えるレベルまで理解したとは勘違いする
ということをよく言うんですけど
分かりやすい説明聞いて
理解したらいいんじゃないのと
それ自体に問題ないでしょうと
いかにも
それ自体に問題があるような言い方をするけど
分かりやすい説明を聞いて理解しました
それはそれでもうおしまいでいいじゃないですか
と思うんですよ
あと自分ももちろん受験生だったので
勉強本について考えてきたので
分かるんですけど
説明が足りないのか分からないけど
例えばなるほどと思って理解して
翌日に説明できなければ意味ないとか
学校の先生も呼び子の先生もいるんだろうけど
いやそれは理解の仕方の問題とかじゃなくて
30:04
要はさっきの話って
分かりやすいからこそ問題がある
みたいな言い方するんですよ
分かりやすいからこそ
何か落ちてしまうのがあるみたいな
でもなるほどと思って翌日説明できないのは
単に記憶しないだけの話じゃないですか
何回もやればいい話であって
分かりやすいかどうかの話ではないですよね
分かりやすかろうが難しかろうが
翌日に説明
できないのは
単に記憶しないというだけの問題ですよね
理解したつもりになるのが問題だって言うけど
別に理解したつもりになって
何が悪いんだと思うんですよ
この話は別に呼び子の話じゃなくて
似ているようなことって
すごい日常であるなと思っていて
問題はそこなんじゃないんだよなみたいなこと
それの何が悪いんだよみたいなこと
ただあるんとか
そういうふうに思うんですよ
そういう場合は説明の仕方が悪いか
説明が足りないかで
誤解をさせる言い方をしてしまっている
自分がそういうときに思うのは
自分が誤解してしまっているというよりは
明らかに誤解しかされない
言い方をしていること自体に
問題しているんですね
分かりやすい説明だから浅いと思っている
小学生に分かりやすい説明
大人には向いていないと
思っているかもしれないですけど
多少周り苦毒になるかもしれないけど
分かりやすいに越したことないはずなんですよね
でもバカにしますよね
小学生向けの説明は
そうだと思ってしまいますよね
全然それでいいと思うんですよ
ただなぜそうならないかって
小学生に分かるほど
分かりやすく説明できる人が
世の中にあまりにも少ない
ということですよね
では次
自分の内側に触れてほしくない
知られてほしくないという人を
理解できないんですよ
別に罪深いことをしているわけでもないのに
でも結構いるじゃないですか
結構ドラマでそういう人出てきますよね
自分の内側
自分の考えとか恥ずかしさとか
周知の部分
大事にしているもの
だから自分の本棚見られるのが恥ずかしいとか
何食べたか知られるのが恥ずかしいとか
それも理解できないんですよ
それに関しては
そういう人もいるんだろうなとは分かるんです
誤解されるかもしれないという考えは分かる
評価されるかもしれないというのは
理解できないです
勝手な解釈されるかもしれないというのも
分かるようで分かんないようで
自分だけのものではなくなる気がするというのも
ちょっと理解できないです
面白い発想だなと思うけど
33:02
例えば日記読み生まれたくないっていう人
別に犯罪とか悪事書いてるわけじゃないですよね
これもちょっと理解できないかな
ちなみに自分はですね
自分のことを知られても何にも
失うものがないんで
失うものがないんじゃなくて
知られることによって
失われることがないと思ってるんで
ここですべてセキュラリに反映して
話してるんですよ
では次
食事中ですね
空想してるというより
迷路に入り込んでるような感じなんですね
相当集中してるからこそ
瞑想してる時と似てて
考えが出てきてまた
考えが出てきたよと思ってたら
そのまんま連鎖してる感じ
でも食事に集中してるつもり
だからこそ
考えが連鎖して
ということに気づかないですね
ここにあらずというのも違うんですよ
例えばこんな感じなんです
いつもこういう時思考が始まるなって考えて
でもこんなこと
今考えてるの自体が
ダメだよなと思って
でもまたいつもの感じだよと思って
またこれポッドキャストで話すんだよな
ポッドキャストでこんなこと話してたら
みんなに
みたいに連鎖してしまうんですよ
食事してるし周囲のことも
ある程度認識してる
思考がどんどん増加していくという感じ
ポッドキャストでこう話しそうだな
ポッドキャストならどう話すだろう
こう説明できるかもしれないなと
なってる感じ
いろいろ
自分はこういう考えが出てるなっていう
気づいた内容そのものが
次の思考の材料になってしまうんですよ
そこで終わりじゃなくて
内省が多い人とか文書を書く人
小説家でしょうね
創作する人
ポッドキャストや配信をする人に
よく見られるみたいなんですけど
確かに何だったかな
小説家みたいな
小説の才能はないんですけど
そういう何かどっか
素養があるみたいなことを
何かで分析してそうなった
何だったか忘れたけど
そんなことありましたね
そういうタイプの人間なんだな
と思ったことあるんですよ
例えば暑いなってなって
なぜ暑さを認識したんだろう
この暑さは面白いな
ポッドキャストで話せるな
そもそも観察したほうが何だろうみたいな
思考が次の思考を見るんですよ
思考そのものへの関心が強いんですよね
こうやって発信してる習慣があるから
っていうのもあるし
しかも考えが出てくるときに
気づいていて
いつものパターンだ
これはいけないんだと考えてもですね
考えのドラマにはまってる感じでもないですよ
考え辞めても
辞めなくても
36:03
同じみたいなことなんですよ
つまり
考えるのを辞めなきゃと考える
その辞めなきゃ
もうまた思考になるってことです
だから考え続けても思考の中
考えるの辞めようとしても思考の中
でもですね
瞑想中なんかも
思考と戦うことってあると思うんですけど
でもそれに近いかな
でもですね
よく瞑想中あるのが
例えば白い熊を考えるなと言われると
かえって意識してしまうみたいな
でもそれとは違うんですよね
こういう考えがあったらいけない
みたいな
白熊の話と違って
至ってリラックスしてるんですよ
ドラマより不要してる感じなんですね
食事に集中してるし
苦しんでもいない
考えを止めようとしたらどうなるかって分かってるんだけど
逆に
考えてしまうと分かってるんで
考えを止めようともしてない
でも気づくと考えが次々と繋がってる
だから流れに乗って漂ってる
とか浮遊してるって感じなんですね
でももちろんその後に結局
また考えてしまってたって罪悪感はあるんですよ
気づきが警告にならないんですね
そのまま思考の流れに位置づけられる
だから自分がいつも言ってる
夢の中でいるような感じなんですよ
考えに飲み込まれてるというよりは
考えの中で漂ってる感じ
雑念に巻き込まれてる感じじゃないんですよね
変なもので
さっきのちょっと気になってた部分なんですけど
同じ失敗を何回も繰り返されると慣れる反面
また同じことを繰り返しやがってとも
これは慣れによって衝撃は入るけど
まあ単純に
また勝手に意識が強くなる
それはそうですね
慣れるによるインパクト不快感は減るんだけれども
同じ失敗をしてきたこと自体に
慣れるんだけれども
だから最初の怒りというのは
予想外だったことへの反応
今はいつものことだとはなるけれども
繰り返しに堪えつつる怒りなんですよね
39:01
だから慣れてもやっぱり
その上にどんか
どんこうこん書いていける
される
理由にはならないっていうことですね
ではさっきの話に戻るんですけど
この作品
同じ考えですばらしい
自分の世界観を表してくれてる
自分の人生哲学が表れてる
っていうのは
既に既存の考えが
オリジナルではない
自分の考えだと思い込んでもいいはずなのに
少なくとも誰かが表現していくって考えだと
認めてしまって
しかも賞賛することによって
この作品の表現とかには価値があって
でも自分の考えをすでに表現してくれてる人がいて
オリジナルなものではなくなってしまったと認めてるわけですよね
だからすでに存在している考えに自分が乗っていることを認めて
同じだってことを認めて
その元になった作品を賞賛してる
これが嬉しいのであれば別だけどそんなことはないだろうし
もちろん同じ考えの人がいたっていうことなら分かるんですけど
同じ考えの人がいたからこの作品素晴らしいってなるかな
もちろん上手くて言葉にできなかった感覚を表してくれた
それでもあんまりだから賞賛するに値するかと思うんだけど
嬉しいですね嬉しいって感覚になったと思うんですよ
やっと自分の考えがわかったっていうこと
だからその作品自体には別に焦点渡らないと思う
ただ自分はですね
そうそうこれこれこの考えっていうのはあったけれども
それは希少性に対するあれなのか
まさか自分と同じ考えの人
プラスそれだけじゃないですよもちろん
自分の考えの
同じ考えの人がいたというよりも
自分と同じ人生哲学を表すものが現存してるっていう驚き
ちょっと分かんないですね
なんでなのか
次の話
これも金とか金の疑問というか疑念点だったんですけど
自分は何か考えに固定しないという理念もあって
42:00
ただ人生の意味はないと確信してたり虚無にいる
これはどう捉えたらいいのかと思ったんですね
まず一つ言えるのは固定というのは人生に意味は絶対にないとか
これは真理だとかいうことで観察なんですよね自分がやってるのは
とても意味があるようには見えない
虚無的に感じることが多いとか
だから結論でなくて観察なんですよね
なんだけど確信はしてる
これ難しいんだけど
観察してる途中という意味ではないんですよね
でも結論というわけでもない
絶対に意味はないと
断定してるわけじゃなくて
ただそれは真理化しないという意味でですね
それが真理だという思想を持ってるんじゃなくて
いちいち言う必要もないという感じ
いちいち当たり前すぎて言う必要もないというぐらいの感じ
だから絶対こうだとか
閉じてるって感覚ではないんですね
閉じる必要もないって感じ
普通はだから絶対なんて
絶対意味はないと思ってたらそれが信念になるんですよね
でも自分はそれを信念にしてない
信じる必要もないって感じなんですね
だから雨が降ってたとして
その雨が降ってるのかどうか
不安で
でも信じたいってならないじゃないですか
目の前で雨降ってたら
降ってるなーじゃ終わるじゃないですか
そんな感じ
ただですねもちろんわかってます
人生に意味はないと確信してることに気付いたら
それも固定になってしまう
ただですね
固定しないようにしてるって感覚なんですね感覚的には
だから絶対に意味はないってことは利用しないってことですね
レイヤーの違いなんですよね
運用するレイヤーは固定しないってことなんだと思います
日常生活で
立ち替えるけども
でも運用レイヤーとしては
特に固定しないっていうことなんでしょうかね
そうでしょうね
45:00
あとはですね
一つの例外としてなるべく何にも信じないけれども
でもできるだけ少なく
でもそういう前提で見るものはある
前提がある
だから
感覚的な問題だと思います多分
確信
っていうものを
ちょっとした例外として扱ってるかどうか大事なのかもしれない
もっとわかりやすくてですね
今日は雨が降ってる
今日は寒いっていう
見たもの言ってるだけ
でも今日雨しか
雨の日しか存在しない
絶対にずっと寒いと言い出したら
決めつけ行為ですよね
人生に意味がないっていうのも
観察したら意味が見当たらなかったっていうのと
絶対に意味がないっていうのと
思想になるのって違うんですよ
あとは観察だから
固定じゃないと言い切るのもそれはそれで
違うんですよね
Wi-Fiをオフにするとか
っていうのは
意味を採用するのかと
の例えでですね
相応しいと思ってて
だから
単に思想じゃないんですよね
単なる設定の問題
虚無にいるっていうのも
思想ではないんですよね
単なる状態
例えばバッテリーが
残量12%ですとか
そういう状態
だからまあ
存在してるって言ったほうがいいのかな
でもこうやって考えたら
そもそも固定しないことに何の意味があるんだと
なってしまうんですよね
でも今のこの話でなぜしてるかというと
自分ってものの特徴
表そうとした時に
いろいろ矛盾点が出てきたんで
どうそれを
紐解いていけばいいかっていう話なんですよね
別に固定しないようにしたいわけじゃないんですよ
あと次の疑問なんですけど
ルーティーンは固定じゃないかと
思うんですね
自分はルーティーンを例外なくやろうという姿勢があるんですよ
でも共鳴に飲み込まれないようにするっていう
手段
でも信念にはしてないんですよね
維持のために繰り返して
これが正しいとか思ってるわけじゃない
信念にはしてないんですよ
ただ機能として使ってる感じ
だから思想じゃなくて運用ですよね
そういうシステム
だから自分は
ルーティーン自体はだいぶ固いルーティーン
柔軟性はあまりない状態
でも修行僧も同じなんですよね
48:00
固いルーティーンなんです
修行僧と違うのは
自分は
修行僧は執着しないっていう思想がある
ことですね
現在5位にとってます
今小さいクモなんですけど出てきて
まず自分でやっつけれなくて悔しくて
親がフリスをガバッと持ち上げたら
ほこり立ってて
自分はほこりに敏感なんですよ
しばらく経ってから
階段のとこにいようと思って
でもそれで
大丈夫かなと不安になり
お手洗いに行こうとも行きたくなって
2階に早いけど行くかなと思って
したらクモがちょうど出てきてですね
それを理由に上に行ったわけじゃないけど
もしクモが出てなかったら
多分1階に行っても落ち着かなくて
2階にちょうど行けてよかっただろうなと思うはずだけど
ただそもそも2階に行くって決めてるから
その考えっておかしいんですけどね
反射的な後悔と思考系の後悔があると思うんですけど
反射的に判断してるわけだから
それも一つの判断ミスとはいえ
そんな悔やむ必要のあることじゃないとは思うんですね
反射的だからこそ
あの判断が失敗だったという証拠なんかないにしても
そうなんですよ
それは出しようがないわけですよね
思考系の後悔に対して
でも
もしこうしてればが出るわけですよね
逆に飛行系の後悔というのは
その判断が正しかったかという検証で出るわけですよね
今のAを選んでBにしてたらこんな問題あった
51:03
でも一足にしてでもそれがなくなった
でどちらも足られ場なんですけど
これ何が問題かって
Bにしてたらこんな問題があった
でも
まずBにしてたら
これがまず仮定ですよね
であるが問題があったとしたら
Aにしておいてよかったと思えたのにという二重の仮定があるんですよ
今回の例でいうと
雲結局見つかったんですけど
もし
1階にまだいてですよ
雲が出てこなかったら
2階に行ってて行けばよかったなと思えるけど
雲が出たせいで
やっぱり1階にいてよかったとなるわけですよ
でも今思ったけど
もし自分が1階にいることに決定していたらですよ
1階にいたら雲を見つけれなかった
と思うんですよね
この足られ場自体最初から意味がなかった
全体的に意味がなかったってことですよね
でもそんなことにも気づけないわけです
こうやって話してて気づいただけで
だからBなら問題があったという物語で安心してもですよ
その前提が変わればまた別の足られ場が始まってしまうっていう
なんでしょうね
自分の性格の問題なんでしょうか
では次の話です
自分がこうやって引きこもりになり
なってしまった選択への
その選択したことへの後悔と
発達障害だからこうなる宿命だったという
思いとありあったんですね
ただ宿命と思っているけれども本当なのかという
疑念からくる後悔もあったんですけど
でも人生って
事故だったり
っていうことは起こるわけですよね
不都合なことって起こり得るわけですよ
そういうことなんだと受け止めれば
運が悪いとは思うけれども
そう受け止めれば
受け入れるしかないという覚悟になるなと思ったんですよね
でも避けられなかったのか別の道もあったのではないか
54:00
っていう二つの後悔
それと引きこもりになった選択
選択したことへの後悔
二つの後悔や疑問があったんですよね
でも高校時代に予測不可能なことっていうのは人生
その時点であるわけだし
人生にはコントロールできない
偶然って含まれてますよね
そうですね
そうすると自分の選択のせいだった
っていう
もしくは逆に完全に宿命だった
どちらかではなくて
起こり得ることが起きたという受け止め方になるんですよね
運が悪かったと捉えてもいいし
そういう状況の中で単に起きたことだったと捉えてもいいんだけど
たられば追い続けるより起きた事実を受け入れるしかないなっていう
方向に行けばいいですけど
どうでしょうね
では次
話すことが昨日二つあってさらにもう一つ思い浮かんで
一つをメモしてる間にそれを忘れるってことが昨日二回ありましたね
思い出すのにまた30分とかかかるんですけど
でも二つなら間に合ったんですよ
三つ話すことがあってそれをメモ取らないといけない
これ忘れますよね当然
しょうないんですよ
これは空想の話なんですが
おじがダンススクールやってたんで
三年間進路で考えて
中途半端な気持ちじゃなくて就職ここでしようと思うと
自分は尊敬してると
でもそれよりも何よりも
羨ましく思ってるんだって言ってる空想をしてましたね
親も一緒にいて
あとは中学校の小物先生に
大会前に日曜も練習させてほしいって言ったら断られたんですよ
だから部長の言うことに賛同したり
協力してくれる気も失せてしまうほど
自分は不甲斐なかったでした
そうやって福見たっぷりに謝ってやればよかったなと思って
あとはですね
よく人に優しく自分で厳しくって言ってたんで
麻生先生その通りです
身が痛いですと言った後に
ただやっぱり部長という立場上
それは厳しくするのも当然だし
それはどの程度厳しくするかの揺れっていうのはあるけども
別にそこは
特に人生哲学とかそういう話じゃなくて
たまたまのものであって
57:02
っていうことを言ってやればよかったなと思ってるんですよね
あとですねこれも空想
自分がもし司会者だったら
曲聴くときにこんなように聴くだろうなと
聴いてあげるだろうなって
これ何とも説明しようと思ったけど難しいんですけど
あとですねうちの親が
昼間もし寝てたとしてですよ
許せないけども寝て
今のでも生理的なものだからしょうがない
と思ったんですね
でもそもそも親
うちの親今までやってきた無責任な行動って
普通じゃないわけですよ
だから普通じゃないことをしてる親に
普通の感覚から言うとなんて考えるのも
バカバカしいなと思ってきたんですね
あとですね最近メモしたら全部
完璧にメモしたり
データとして残したりしてるんですけど
例外は作れないんですよ
でもこの前話しましたね
例外を作らないという姿勢が自分にとって大事で
ただそもそも完璧主義による脅迫観念みたいなものでもあるんですよね
例外を認めてもよかったのではないか
柔軟にやってれば
楽になれるんじゃないかとか
そんな考えはないんですけど
ただ
不要なものが多いなとは思いますね
他のものも
何のやる意味があるのかとか考えてしまうんですよ
では次
虚無の中に居続けてるけど
しかし生活してて
もちろんそこにペースはあるんですけど
なんとも難しい話なんですが
いつも難しい話ばかりですね
生活してると
多少は意味を感じながら生きてるんですよね
でも虚無に
立ち返るんですね
たまに
そうするとそこに居続けたくなるんですよ
なぜかというと
1:00:01
自分は基本的に
変化…基本的にじゃない
完全に変化しないことに意味を感じてるからですね
虚無を理解すると全ての意味を感じれなくなるんですよ
その時にとりあえず変化しないようにしようとして
するんですね
でも変化しないことにも壁となることあるんですよ
それは変化せざるを得ない時
あるからですね
これに本質的な意味はないんだと
変化しないことに
変化しないということを使ってるだけなんだと
自覚するんですね
つまり虚無に立ち戻るんですよ
まず順番としては虚無を理解すると
意味を感じて
多少は感じてる
意味っていうのは目の前にあること
生活の一つですね
虚無に
たまには立ち返る
もちろん通想天王のように虚無は流れてるんだけど
本当の意味で虚無に立ち返る
変化しないことに多少の意味を感じてる
だから言い続けたくなる
ただ変化しないことが絶対的に正しい
それが人生の本質だなんてことは思ってない
なぜなら変化しないことが障害にある場合もあるからですね
というか一つの道具でしかないんですね
だから必要なら変化する
もちろん変化した後もそれを本質化はしない
だから変化しないことに意味を感じてるけど
それを絶対視はしない
壁にぶつかったら
今は使ってるだけなんだと
一度手放す
そして本質的な意味はないんだと
理解する
虚無の地点に戻るんですね
だから虚無から生まれた運用ルールなんですよね
では次Aの可能性があるBの可能性があるという場合
正解が分からないというより正解がないに等しい場合
多いのではないかと思うんですよ
だから答え探し
答えを探すというよりも
物語の中の答え探しみたいな
あるいは答えを作ってしまってる
でも見えないことにしてしまってるような気がするんですね
わざわざない答えを作ってる
結果的に見えないように
自分たちでしてるようなところがあるような気がしてて
1:03:01
Aを選んだ世界しか経験できなかったり
Bを選んだ世界はその時経験できなかったり
タイムマシンが存在しないので
Bだったらどうだったかって検証書がないから
そういう意味では絶対に正解なんてありえないんですよね
でも答えがないのを人間が嫌うから
Aが正解なのかBが正解なのかと
考えること自体が
単に安心したいから自分を納得させたいから
ということなんですけど結構そういう場合ないですかね
AがいいのかBがいいのかという議論をしてるけども
明らかに答えなんてなくて
でもその作業自体の意味を感じてるみたいな感じ
でも答えは絶対ないのも分かってる感じ
ってあると思うんですよ
答えのない場所に答えをただ配置してるだけ
ということですねもちろんそれは答えではないんですよ
本当の意味で
だから納得できる物語を構築してる作業なんですよね
その選ぶ段階から
だから自分も高校生の時に
本当は答えがないのなんて分かってたんでしょうね
人間にシミはなんかないし
どの道が自分に正解か分かんない
でもこの道に進んでよかったと思いたいから
悩んでたのかもしれないです
でもそれはなんとなく分かってたんですよ
こうやって本気で悩んだら
また中学生の時の後悔は繰り返せなくて済む
真剣に悩んだ分
それで間違っても後悔しないっていう
物語があったんですよね
だから
ひぐもりならなければどうなってたかとか
別の仕事
仕事をしてたらどうなってたか
宗教を続けてたら
それはないか
こうした問題は検証できないですよね
10年後に20年後になっても
どちらが正しかったかという不確定さが残るわけです
その不確定さに兼ねて
あれは間違いだった
あれは避けられなかった
あれでよかったんだ
運が悪かったんだ
あれが正解だったか間違いだったか
あれは宿命だったかみたいに
落ち着きたいんですよね
落ち着きたくなるんですよね
あと勝手に
事後じゃなくて事前の話だったら
勝手にこれが答えだと
思い込んでしまおうとするところもありますよね
1:06:01
その正解の進路を探してたって言いましたけど
正解なんてあることがないのも分かってるから
単に将来の安心を探してたのかもしれないですね
では次
YouTubeのことで問題はなかったんですけど
メール来てて
昨日不安に思ってたこと
またそれで振り返して不安に思ってましたね
しかも2通も来てたんですよ
何かとYouTubeはありますね
YouTube使えなくなったらどうかとか
いろいろ不安に思ってました
ポッドキャスト配信のことで問題が出てくるので
そんな不安に駆られてました
01:07:12

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