今回は、亀井勝一郎さんの『大和古寺風物詩』
奈良大和の古寺巡礼を巡り、亀井が深く感じた名文を読むことで、
仏像や古寺をみる深みに連れて行ってもらえます。
もちろんそれは、仏教の深みに歩むことでもあります。
■本書は、青空文庫にあります。
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感想
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サマリー
本エピソードでは、亀井勝一郎氏の『大和古寺風物詩』を紐解きながら、聖徳太子の「和をもって尊しとなす」という言葉に込められた深い意味を探求します。聖徳太子の生涯が悲劇に満ちていたこと、そしてその言葉が単なる平和主義ではなく、現実の困難に立ち向かうための「超政治的な和」であったことが語られます。また、現代社会における罪や絶望、そしてそれらに向き合うことの重要性についても考察し、文学や芸術が持つべき役割について言及しています。
聖徳太子と「和をもって尊しとなす」の深層
次は、ちょっと変わって、聖徳太子の話に移っていきたいんですよ。
やっぱり法隆寺を理解するというか、法隆寺に触れていくということとか、仏像に触れていくということに関して、聖徳太子に触れていかざるを得なくて。
聖徳太子は、これだけで亀井さんは一冊の本を書いているぐらいなんですけれども、ここでもいくつか書いてくださっていると。
聖徳太子がどう生きたかってことは、ちょっとね、僕ね、今回うまく扱える感覚がしなくて。
ちょっとね、その生涯に触れた後の文章をちょっと読んでいくのがいいなと思って。
ちょっとその生涯触れた後の亀井さんの文章を読んでいきますね。
はい。
愛しの生涯を書き終えた後の僕の感想を端的に言うならば、恐ろしいの一期に尽きる。恐怖の念は今もなお続いている。
僕は、大志の生涯に何の解決も悟りも求めなかった。ただ、悲劇に耐えられた姿だけをできる限り如実に描きたいと念じたのである。
って言うんですよ。
これすごいですね。すごい。
聖徳太子の生涯を知らないんですけど、こんなに悲劇に耐えられた人たちなんですか?
うん。
それでね、その悲劇に対して、いろんな意味を乗せることができるんだろうけども、僕は大志の生涯に何の解決も悟りも求めなかったって言うんですよ。
描けると思う?何らか。ただ悲劇を描くだけじゃなくて。
うん。
でもね、描いてみると、描けないってことに気づいたんだと思うんですよ、亀井さん。
で、悲劇に耐えた姿を如実に描いた方が、よっぽど読者に力強く働くってことがわかってるんですよね、亀井さんは。
うん。
だからそうしてるんだと思うんですよ。
こういう時に僕はなんかこう、批評家としての精神を学んでるんですよ、亀井さんになんか。
批評家だけじゃなくて本当はそうなんですよね。
人の人生を見る時に、端的に何か言えるもんじゃないわけですしね。
これ続き読むと、悲劇からの誕生。これたぶんニーチェのね、悲劇の誕生って言葉を取ってるんじゃないかなと思うんですけどね。
悲劇からの誕生という言葉を借りるならば、大使の信仰とはまさにそれであった。
のみならず、この時代前後の天皇の迫大な信仰は、すべて偉大な悲劇を母体として得ることを改めて痛感したのである。
僕は大使の遺徳を美しく伝えようとしたが、結果として現れたところは壊滅の歴史であった。
清掃な殉教の歴史であった。
信仰はなぜ、海洋に果てのない血を呼ぶのか。
僕の恐怖感もこの点に発している。
言説をもって解明できぬ。
深淵を長く伺えば、深淵もまた汝を伺うであろうということが恐ろしいのである。
人間の業の深さが恐ろしいって。
人間の財業の深さが、人間を産む不条理が恐ろしいって言ってるんですよね。
今もイラン情勢とかもありますしね。
亀井さんは戦時中に書いてたっていうのと、全然違うんだろうけども。
今も感じますよね。
続き読むとね。
和をもって尊しとなす。
とは、周知のごとく十七条憲法の冒頭の言葉である。
僕は戦争中、この言葉を奉仕で生きてきたと言っていい。
これすごいんだよな。
僕は戦争中、この言葉を奉仕で生きてきたと言っていい。
この言葉を捧げて生きてきたと言うんですよ。
このごとく大使の和をもって尊しとなすって言葉を。
太平洋戦争が始まった時、ある雑誌から各語を問われた時、僕は和をもって尊しとなすをもって回答とした。
戦争を二年目にして、再び同じ問いが発せられた時、再びこの言葉をもって答えとした。
三度問われても、やはり同じように答えたであろう。
一国の敗北は必ずしも外敵のために敗れるのではない。真の敵は常に内部にある。
国内同族の相国大敗が致命傷となることは歴史の常識と言ってよい。
大使の言葉も切実な体験に発していることは前にも述べた通りである。
和をもって尊しとなすとは、国家に対する最大の危険信号であった。
しかし和は政治的な平和だけを意味しているのでは無論ない。
大使の念じ給える和とは、超政治的な和。
超というのは政治的なものを超えた和という意味ですね。
大使の念じ給える和とは、超政治的な和。
苦境に反であったと思う。
逼境するところ、つまりは行き着くところに反であったと思う。
僕はこの一期に宿る深い夢を思い続けた。
それは万民の、すべての人の、民の、万民の祈りを奇跡として打ち立てられるべき無形の理想国に違いなかった。
世間苔、唯仏是真。
これ聖徳たちの有名な言葉なんですけどね。
世間はすべて仮で、ただ仏の教えこそ真実なのだ。
世間苔、唯仏是真と言われた時の真の国、浄土であり天主国であったと申しても良いであろう。
和とは菩薩の見果てぬ夢だ。
だが大使にとって和は超政治的観念であるとはゆえ、
それは政治という現実の中の最も厄介な現実のただ中に実証されねばならぬものであった。
日本は地上の悪を回避せる悲願に求められるべきではなく、
地上の賛美そのもののうちに念ぜられる、いわば誓願なのだ。
和をもって尊しと成すとは、憲法の条文となる前に、まず端的な祈りであり、
仏の前、民の前に、言い継ぎ、語り継ぐべき誓願であったろう。
この現実性を牛沼うまいとしたところに、大使の異常な努力があったように思われる。
小次巡礼の本の中でも、これを大事に拝読してるんですけど。
「和」の真意と現代への示唆
これちょっとすごいこと書いてましたね。
和をもって尊しと成すときの和は、
九行二半であったと思う。和とは菩薩の見果ての夢だ。
二半は、地上の悪を回避せる、悲願に求められる武器ではなく、
地上の賛美そのもののうちに念ぜられる、いわば誓願なのだ。
和をもって尊しと成すとは、憲法の条文となる前に、まず端的な祈りであり、
って言うんですよね。
やっと最初に恐ろしいっていう表現をされたことが、
今の文章をもって伝わってきて、
インタビューで和をもって尊しと成すというのを、戦時中に答えることの恐ろしさ、怖さは、
和が国が勝つみたいな、そういう答えを僕は希望して、
インタビューしてるんじゃないかなって僕は想像ですけど、
その戦火の空気の中で、和をもって尊しと成すっていう回答をすることの覚悟と怖さ、
であっただろうなって想像するし、
それで最初に恐ろしいっていう表現をされたのかなとか、そういうふうに思ってきました。
真の敵は常に内部にある。
自分のうちにあるってことなんですよね。
これやっぱり亀井さんも、大平洋戦争中にこういう文章を書いてるからまた力強いんですよね。
今の僕らがこういう文章を書けない。
これ続き読むとね、ここからさらにすごくなってくるんですよ。
一切衆生はことごとく仏となるはずだが、しかしことごとく仏となる時は来ない。
人間の名望は無限、地獄は永遠である。
しかもそのゆえにこそ、誓願は絶えず、菩薩の夢は永遠なのではないか。
これが大師の追求された大乗の、大乗仏教の大乗の急所であったと僕は信じている。
一番大事なところであったと僕は信じている。
大師がクゼ菩薩として、あれね、クゼ菩薩って大師として、あれ作られてるから聖徳大師としてね。
大師がクゼ菩薩として仰がれるゆえんは、救いや解決を現世に与え給う宝ではない。
現世の懇命に身を投じ、救いも解決もなく、ただ不安に身を横たえられたその写真ゆえに、捨て身ゆえにこそ、菩薩として仰がるるのである。
死ぬまで地獄と対決し、忍耐した、その救いのない深い勇気の姿が、憂い苦しむ姿が、すなわち、後世の僕らにとっては生き生きとした救いとなるのではなかろうか。
和をもって尊しとなしという思想が、大師の心に何らの安心をもたらさなかったということが肝心だ。
むしろ時代の深出から出た真銀の言葉であった、埋め木の言葉であった。大切なのはその解釈ではない。
それを発言された和のあらゆる表情陰影を如実に想像する宗教的想像力である。
僕は大師時代の歴史を書きながら、書かる想像力のいかに軽視難であるかを痛感した。
ああ、本当にこれすごい文章なんだよな。
一切衆生は悲痛仏性を、ことごとく仏性を持っていると言われるけれども、しかしことごとく仏となるときは来ない。
人間の名門は無限、地獄は永遠である。
だからさっき和とは菩薩の見果ての夢だって言うんですよね。
いやーすごい。すごいなぁ。
救いがあるって確信できれば仏はいらないんですよね。
救いはない。人間はもうどうしようもないっていうところになって、初めて仏が現れるわけですよね。
人間はいつか救われるんじゃないんですかって。
地獄は永遠なわけないですよねって。だって救われますもんねって。
普通だと思っちゃうかもしれないんだけども。
人間の名門は無限、地獄は永遠であるって言うんですよ。
そのゆえに聖願なんですって。
だから全てを救うっていう誓いは達成できないから誓いなんですよ。聖願なんですよ。
達成できたら聖願いらないんですよ。
達成できない誓いをそれでもなお引き受け続けるっていう存在が菩薩なわけで、その姿に僕らは心を打たれるわけですよね。
だからそうなんです。
魅力菩薩が56億7千万年後に現れて完全な救済が来るんじゃないんですかって仏教の話であると思うんですけれどもね。
それさえもね、56億7千万年ってもうほとんど無限に近い話なんですよね。
だから救いって到達点っていうよりかは、こういう風に関わり続ける運動そのもののことを言ってるんだと思うんですよ。
この菩薩大事なのはね。
だから太子もね、まさに菩薩のように僕らに救いや解決を現世に与えたものだからじゃなくて、
それでもなお祈り続けたっていうところの姿に苦しみ続けたっていう姿に僕らは救いを感じるんだ。
これイースの姿も同じですね。
ちょっと続けましょうかね。
時代に傷つく勇気と再生への道
太子の生涯をたどりつつ、僕は今の世に生きていく上での勇気を深く示唆された。
仏教教義や憲法論といったものではない。
時代に真っ向からぶつかって、時代に深く傷つくということだ。
時代の深出で生々しく刻印され、その証拠をして、傷跡をして、聖根たらしめよ。聖なる傷たらしめよ。
これが太子の示唆されし最大の教訓であった。
戦争に深く傷ついた人間は、平和にも同様に傷つくであろう。
常に適当な距離を保っている傍観者ほど憎むべきものはない。
自由の名の下に様々な批評が出てきた。
他人の財下を列挙することも自由だ。あらゆる誹謗の声を放つことも可能だ。
しかし何人が深出に埋めいているだろうか。
その埋めきに僕は真の再生の声を聞きたい。
って書いてるんですね。
あー、駄目だ。なんか閉じたくなる気持ちわかります?
わかりますよ。刺さっちゃう。
いやーもうこれほんとにいいなー。
傍観してね。他人事のようにね。
いくらでもいいえ。
そうなんですよ。
内側に引き受けて目の前の一個一個で和を持って唐突となすっていうのを
足元からやるって。やってるかって自分に問い続けるって。
一日の中でも何回かやっぱり揺さぶられるシーンとかありますからね。
今の私はどうだっただろうかみたいな。
いやーほんとにここの文章一番好きかも。なんかこれほんとに。
大使の生涯をたどりつつ、僕は今のように生きていく上での勇気を深く示唆されたって。
勇気を与えられたって。
時代に真っ向からぶつかって、時代に深く傷つくということだ。
時代の不可手で生々しく刻印され、その証言をして生根たらしめよ。
これが大使の示唆されし最大の教訓であったって。
いやこのように生きたいですね。ほんとに。
言葉にならないなほんとに。
ちょっと続きを見ますか。
敗れた者は一切の重荷を背負わされる。
この重荷の逃避については弁解しても始まらぬ。
罰せられることに正真横浴としているよりは、
いっそ世界のあらゆる罪を自発的に引き受けた方が良い。
侵略、残虐、殺人、圧勢、強奪、
地上の罪過をことごとく背負って、
日本は世界一の悪者となり、
この自覚において再生の道を求めるがいい。
こうした不定の決意を僕は欲する。
大使の改憲された大乗とは、かかる勇気をもたらすものではなかったろうか。
日本人がもし偉大な民族であるならば、偉大な悲劇に耐えられるはずだ。
絶望と文学・芸術の役割
これ、すごいっすね本当に。
聖人の言葉だな。
僕このラジオでずっと扱ってきているものの一つにやっぱり、
罪っていう問題があると思ってて。
カラマゾフの教題とか、
ヤイゲムニオシサのナムアミダブツの時にも書かれてあって、
こういう罪をことごとく背負うっていうことにしか、
もう、希望はないって感じがしますね。
第二次世界大戦後以降、80年かけて、それでもなお戦争続くっていうことに対してね、
本当は、なんかハーバーマスとかは、
メトロポリタン法が必要なんだ、世界市民法が必要なんだ、みたいな話とかね。
あとそれに似た動きとしても、世界連邦運動ってものがあったりしてね、
我々の今の国際法とかも、やっぱりあくまで国家基準っていう単位でしか、
既属意識が作られてないし、
本当はこの世界を一つの世界市民っていうものがないと。
それが、今なお結局ないわけじゃないですか。
これ実現のために何が必要なんだろうって考えたときに、
もうね、徹底的に絶望しかないんだと思うんですよ、やっぱ。
なんか、もっと地獄が必要みたいなんですよね。
ってことになってくる。やっぱり。
僕らが見るべき、感じるべきことは、もっと地獄なんだな、絶望なんだなってね、
なんかつくづく感じてるんですよね。
なんか今自分が文学とか芸術を愛してね、生きていてね、
なんか多くの時間をそれに費やしていて、
本当にいいんだろうかって思うときがあるんですよ。
で、いや、文学と芸術こそ命を懸けるに値するものだろうって、
僕は本当は思ってるんですけど。
でもね、そうなってきたときに、今に必要な文学や芸術って何かっていうと、
地獄と絶望を感じさせてくれる文学なんだと思ってて、最近。
もっと地獄を見ないといけないなって本当に思ってて。
なんかね、そうじゃない文学芸術もたくさんありますよ。
文学や芸術にもいろんな価値があるから。
でも、本当の芸術ってのは人間に見るべきものを見させ、目覚めさせるために存在するのが芸術なんじゃないんですかね。
現代アートってともすると外人遊びだったり、前衛的化っていうところに行っちゃいがちなんですよ。
そういうのはね、本当にくだらないですね。
なんか自分が抱いたことのないベクトルの向きだから、今すごく刺激をもらっている感じです。
言ってね、偉そうに言って自分が全然そういうことを見ようとしてないってところもあるから。
そんなこと言えないんですけどね。
だからこそ、もっと時代に深く傷つくっていうことをしないといけないなって、こういう文章なんか染みてくるんですよね。
矢はですね、自分が実に矢はな人間だなってことを感じますね。
どんどん炙り出されてくる感じ。
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