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2026-02-28 27:19

#96 小林秀雄が捉えたゴッホの絵の本質 / 小林秀雄『ゴッホの手紙』朗読解説その4

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今回は、小林秀雄さんの『ゴッホの手紙』。

小林秀雄さんはゴッホの「烏のいる麦畑」という絵に感動しました。
彼はゴッホの絵から何を感じたのか。この本から感動が伝わってきます。
ゴッホの関連の本を何冊も読んできましたが、この本が最も良い本かもしれません。
いや、ゴッホだけに限らず、芸術批評においても、この本を外すことはできないほど、芸術批評の魅力が詰まった本だと感じています。

サマリー

本エピソードでは、小林秀雄がゴッホの「寝室」や「椅子」の絵に感動した理由を深掘りします。小林は、単なる絵画技法や様式ではなく、ゴッホが休息や眠りといった、自身が得られなかったものを求め続けた精神性に着目します。ゴッホの絵は、日常の属性を超えた「実在の力」を表現しており、それは「農夫は農夫であらねばならぬ」という言葉にも通じる、自己を捧げる「無視」の精神から生まれていると解説されます。この精神が、ゴッホの絵の本質を捉える鍵であると論じられています。

ゴッホの「寝室」と小林秀雄の解釈
ある分の時にね、部屋の中の椅子とかね、寝室とか描いてるんですよ。
で、そのことについて触れていくようになるんですね。
その天気の悪い日とかは、やっぱりアトリエの寝室とか椅子とかを描いてて、その話に入っていきます。
ちょっと読んでみますね。
はい。
今度の絵は極めて単純な僕の寝室だ。ここでは色彩だけが物を言う。
色彩の単純化が物にいよいよ大きな様式を与える。
つまり誰にも共通な休息と眠りとを暗示しようというのだ。
一言で言えば、この絵を見る者は頭を、いやむしろ想像を休ませねばならぬ。
明日いっぱい、またこれを描こうと思うが、この着想がいかに単純であるかを理解したまえ。
って言うんですね。
でね、ここについて小林寺夫さんの文章が。
絵画鑑賞家は、ゴッホによって描かれた寝室や椅子を、彼が残した生物画中の一品と考えるであろう。
そこに前人未到の様式が探られ、完成されているのを見るだろう。
しかし、書館集を読む人は、休息と眠りこそゴッホが求めてついに得られなかったものであることを思わずに、
これらの絵を見ることはできないのである。
そういう人によってしか表現できぬ休息と眠りとは何か。
それが、これらの生物画の真様式の真の意味ではないのか。
そしてまた、こういう考えがゴッホ自身の念頭に全くなかったと言えるであろうか。
って続くんですよ。
いいですね。
その絵画鑑賞家たちは、
彼が残した生物画、椅子とか寝室かっていうのを一品と言うであろうと。
そこがいいですよね。
でもなぜ一品と言うかっていうと、
そこには全人未踏の様式が探られ、完成されているのを見るだろうと。
その様式でもって言うだろうと。
この様式っていうのは技法とか流派とかそういうことのことですよ。
これはこれで面白いんですけどね。
筆触分割っていう塗り方に変わったりとか、面白いですよ確かに。
流派っていうのは、絵画でいう様式っていうのはこういう流派のことで、
印象主義とか自然主義とか、そういうことのことを言ってるんですけどね。
そういうものを見て、一品だって言うだろうと。
しかし、書館集を読む人は、急速と眠りこそ、
ゴッホが求めて遂に得られなかったものであることを思わずに、
これらの絵を見ることはできないのである。
そういう人によってしか表現できぬ急速と眠りとは何か。
それが、これら生物らの信用式の真の意味ではないのか。
真に問うのはそっちだろうって。
休みを求めても得られなかったっていう人が、
本当の意味での急速ってものを描ける。
飢えた人だけが描けるパンっていうものがあるでしょう。
孤独な人だけが描けるぬくもりっていうものがあるでしょう。
そういうことが言いたいんですよ。
うんですよね。
「単純さ」と「良心」の本質
本当に本質をつかんで伝えてくれますね。
ねえ。
しんきゅうさん。
いいですね。このへん。
ちょっと続き読んでいきますね。
これこそ、いたずらな想像に苦しまぬ。
労働者の急速と眠りにふさわしい寝室と椅子だ。
それを理解するためには、単純率直な感覚を要する。
おそらく彼は、ひたすらそう信じて描いたであろう。
しかし彼は、この着想が、いかに単純なものであるかを理解したまえ。
と、付言しなければならなかった。
補足しなければならなかったってことですね。
四分五裂した現代には、もうめちゃくちゃな現代には、
それは一つの逆説として現れることを感じていたに違いない。
って言うんですよ。
逆説。
絵を見るだけだと、単に椅子ですねって思っちゃうから、
単純に見るだけじゃダメじゃないですかって思っちゃうかもしれない。
そうじゃないんだって。逆なんだって。
いうことですね。
むしろ単純、率直単純な感覚を持って、
絵を眺める必要があるんだって。
そうしたら、単なる椅子に終わらぬ何かを感じるだろうって。
もうちょっと読んでいきますね。
明らかにこれは、バレーショーを喰らう人々って、
これバレーショーを喰らう人々って、初期の代表作で、
農夫の絵を描いてた時に生まれた絵なんですよ。
これは明らかに、
バレーショーを喰らう人々の着想の継続であって、
着想の単純さを理解するとは、
すなわち彼の変わらぬ良心の持続を理解することだ。
だが、このことは、はっきりとは極め難い深さを持った問題になるようである。
言ってるんですね。
だから、ゴッホ自体も、
見るものも単純なもので持って見ていかないといけないって、
頭を働かせずに見なければならないって言うんですけれども、
描くものもまた単純な思いで描かねばならないと。
その単純というのは、言葉を変えると良心なんだって。
この問題が実に深いから、ここから入っていくんですけれども、
このことっていうのは、ずっと彼にとっては変わらないんだって小橋寺さんは言ってるんですね。
絵の描き方が変わっていった、絵の技法が変わっていった、
印象派のことを取り入れていって変わっていったということがあるけれども、
大事なのはそこじゃなくて、
彼が絵に向き合ったこの単純さ、この良心、
これはずっと変わってないし、ということなんですよね。
そこを見逃してはいけないから、
小橋寺さんはそのことについて触れていってるんですね。
「無視」の精神と芸術的表現
ちょっと読んでいきますね。
ちょっとだけ飛ばして読みますが、
ただ、後歩は彼の根本になった視覚上の革新だけを動かせぬ現代の予見として率直に受け入れた。
これちょっとどういうことかというと、
後歩は確かに印象派が描いていた描き方のようなものを取り入れていったんだけれども、
それはね、多分小橋寺さんが言いたいのは、
そういう描き方っていうのは否定しようのない現実の前提としてある。
単なる空気のように、生きる糧のように、当たり前のようにそれを受け入れて、
その上で自分自身の表現を追求した人だから、
そこは当たり前のものとして受け入れたんです、ということが言いたいんですよ。
大事なのはそこじゃないんです。
しかし、予見を受け入れるに際し、彼のうちにあってこれに応じたものは、
決して単なる原始人の素朴ではなかった。
それは彼の無視の精神であった。
ボリナージュ炭鉱時代以来、鍛錬に鍛錬を重ねてきた宗教的無視であった。
小橋寺さん、この無視っていう言葉を何回も言うんですよ。講演でも言っている。
私を無くすの無視です。
知り知欲がないっていう感じの言葉ですけれども、
ここで言っている無視というのは、
ずっとさっきから読んできた、事故を召して捧げる精神そのもののことですね。
ちょっと読むと、
不変的なもの、究極的なものに疲れた精神は、
そういう精神が照らし出すものにしか問題にしていない。
ファグニルもゾラもモネも同じ光に照らし出されて現れてくる。
ゴッホの言う着装の単純さを理解するとは、こういう精神を理解することだ。
こういう精神には着装は常に単純たらざる得ないということを理解することである。
言うんですよ。
ただあるって言葉が今浮かんでて。
ただあるっていう境地で書くと、
椅子もただある椅子を書くし、
ただあるものを着装、題材として選んで着装して手に入っていくのかなとか。
そうなんですよね。
余計なことを削ぎ落とされた、ただある椅子。
でもそのただあるってことはとてつもないことなんだっていうことになってくるわけですよね。
これちょっと、次の文章がすごい文章なんですけど、
これ全部小林寺さんの言葉ですけどね。
無限性の意志によって様式を円突する努力で、ゴッホの頭はいつも緊張している。
これはほとんど彼自身にもどうにもならぬ形勢のように見える、傾向に見える。
休息も眠りも許さず、彼を限り立てる名付けがたい力と思われる。
だから無限性の意志によって様式を円突する努力で、ゴッホの頭はいつも緊張している。
無限性をどうにかして描き出したいって。
そういうことを円突する努力で、彼の頭はいつも緊張していたんだって。
見えない無限性を見えるものとして何とか描き出そうとすると。
でもそれが借り立てる名付けがたい力と思われると。
描かずにはいられない抗いようのない衝動が、彼を突き動かす巨大な力、恐ろしい力が働いてくるんだって。
そういうことを言ってるんですよね。
「実在の力」としての椅子
大変ですよ。さっきから何回も言ってますけどね。さらに良くなってくるんですけどね。
これを踏まえた上で、小林秀夫さんが言うんですよ。
あ、でもね、俺ここの秘訣も好きなんだな。
新手法が試されたのではない。同じ着想が太陽に焼かれたのである。って言葉があるんですよ。
これね、さっき言ったことなんですけどね。
種をまく人だったかな。有名な代表作があって、そこに太陽が描かれてるんですよ。
そのことを言ってて、新手法が試されたのではない。同じ着想が太陽に焼かれたのである。
っていうのは、つまりこの太陽の絵も、明らかに絵の描き方が変わってる。
それは新手法が試されたってことじゃないんだって。そっちに目を行くのはやめてくれって。
同じ着想が太陽に焼かれたのであるってこと言ってんですよ。
でね、ここからが面白いんですよ。小林秀夫さん。読みますね。
ここには急速と眠りとが暗示されている。と作者は言うが、むしろそんなものさえない。
って言い始めるんですよ。小林秀夫さんが。面白くないですか。
これ、もう一度読んでいきますね。
ここには急速と眠りとが暗示されている。と作者は言うが、むしろそんなものさえない。
このうちの寝室や椅子はどんな観念の欠片も暗示してはいない。と言った方がいいかもしれない。
画面から直接来るものは、何かを暗示するというような曖昧な力ではない。
それは疑いようのない椅子という実在の力なのであって、
ごっほは今こそ椅子は椅子でなければならぬと言えたはずだ。
百姓は百姓でなければならぬ、と言うかつての彼の兵庫の背後には、
半ば伝説化された未礼がいた。
当時の百姓の上に漂っていた文学的雰囲気はもはやないのである。
椅子は、画家の行師に耐えられず、日常生活のうちで与えられたあらゆるその属性を脱し、
その純粋な色と形と構造等をあらわにし、画面の中で新しい生を受けているようだ。
都会人のあるいは百姓の、いや誰の私有物となることも感じえない椅子という性格が現れてくるようだ。
そしてそれは、この画家の無視な視覚が探し求めた様式そのもののように見える。
すっごくないですか、もうこれちょっと、すっごいなあ。
わし、秀夫さんを当時の御本のとこに連れてって、教えてあげたい、御本に。
ほんとそうだよね。
俺、喜んだと思う。
御本は難しい人だからわかんないけど、喜ぶと思うなあ。
御本ってね、ほんとの裁判面ね、芸術評論家たちが評価してくれ始めたんですよ。
それはもう御本、嬉しかったんですよ。
ようやく自分の家をいいって言ってくれる人が出てきたって。
そういう芸術評論家たちが出てきたって。
だけどね、言いたいこといっぱいあるって。
そういうことじゃないって、いっぱい言うんですよ。
それはやっぱりね、そういう流派とかそういうことのことを言うと多分そういう風に言うんだと思うんですよ。
でも彼が本当に描きたかったことはそういうことじゃないだろうって。
なんかね、批評家がやるべきことってね、本当にね、本人さえも気づいてないけれども大事にしていたこと。
っていうことをね、ちゃんと言葉にしていくことなんですよね。
批評家が今回やって伸びてくれてるって感じ。
へー、教えてあげたい。
いやー、これはすごいなー。
ここにね、もう一回ね、農夫は農夫であらねばならぬ。
百姓は百姓であらねばならぬって一緒の言葉です。
訳し方が違うだけで。
って言葉がね、またここに返ってくるっていうね。
僕ね、最初パーって読んでるとね、やっぱり小林秀夫さんの言葉って難しいから。
農夫は農夫であらねばならぬってどういう意味だろうなーってよくわかんないなって僕思ってたんですよ、実は。
読み飛ばしてたんですよ、普通に。
何回も出てきて、ここの文章が何書かれてあるかわかんないけどすごすぎるから。
すごすぎるってことはわかるから。
これ農夫は農夫であらねばならぬってどういうことだってこれを理解しないと、これわかんねーと思って、もう一回これ読み直して。
あーそういうことかって2回3回読んでくると意味わかってくるから。
でまたここに戻ってきて、うわーこれはすごいって。
そういう読書体験をしてたんですけどね。
これちょっともう一回読んでみていいですか。
そうですね、もう一回読むと思った。
ここには休息と眠りとが暗示されている。
と作者は言うが、むしろそんなものさえない。
このうちに、このうちの寝室や椅子は、どんな観念の欠片も暗示してはいない。
と言った方がいいかもしれない。
画面から、絵からってことですね。
画面から直接くるものは、何かを暗示するというような曖昧な力ではない。
それは疑いのない椅子という実在の力なのであって、
ゴホは今こそ椅子は椅子でなければならぬと言えたはずだ。
百姓は百姓でなければならぬ、というかつての彼の兵庫の背景には、
半ば伝説化された未礼がいた。
当時の百姓絵の上に漂っていた文学的雰囲気はもはやないのである。
椅子は、画家の行使に耐えられず、
日常生活のうちで与えられたあらゆる属性をもたし、
その純粋な色と形と構造等をアルバニーし、
画面の中で新しい生を受けているようだ。
都会人の、あるいは百姓の、いや誰の主流物となることもがんじえない椅子という性格が現れてくるようだ。
そしてそれは、この画家の無視な視覚が探し求めた様式そのもののように見える。
これね、椅子、その休息と眠りを暗示させているって、
そんな暗示するという曖昧な力ではない。
それは、疑いようのない椅子という、実在の力なんだってことを言うんですね。
この実在の力って何かって。
言葉を変えると、椅子は椅子でなければならぬって。
こういうことでもあるんだって。
これどういうことかって。
椅子もね、日常生活のうちで与えられたあらゆる属性があるわけですね。
座るための椅子とか。
座りがね。
そうなんです。
座ることを超えてってことですよね。
そういうことなんですよ。
農夫が農夫であらねばならぬと、
何かに捧げ、自分の身を尽くし、捧げ切ったように椅子もまた捧げているのであると。
自分を召し。
だから椅子も新しい生を受けている。
椅子も椅子として生きるとしようとしている。
すごい、これ椅子もびっくりですよね。
そういうことですよ。
椅子も、え、そうなの?みたいな。
座られるためのものだと思ってたって。
椅子も言っちゃいそうなぐらい。
うん、なんですよね。
本当にこういう、いろんな椅子にまとわりついているものが、
削ぎ落とされた真の実在の椅子っていうものを描くからこそ、
もう、見るものに訴えるものが実に多くあるんだってことが言いたいんでしょう、これ。
だから別にね、ゴッホの椅子の絵を見て、
休息や眠りのことだけを感じないといけないってわけじゃないわけですよ。
もっといろんな豊かなものを感じさせてくれるわけですよ。
この椅子っていうのはね。
ゴッホの手紙と「ほつれが溶けて」
これちょっと続き読んでいきますね。
これゴッホの手紙、
続いている文章ですけどね、ゴッホの手紙の文章が差し込まれてます。
僕はいつも自然を食べて待っている。
誇張してみることもあるし、時にはモチーフを変えてみることもある。
しかし、結局、画面全体を発明してしまうということは決してないのだ。
それどころか、画面は自然の中でほつれが溶けて、自ら出来上がって現れてくる。
こういうゴッホの言葉があるんですよ。
いい言葉ですね。
もう一回。
僕はいつも自然を食べて待っている。
誇張してみることもあるし、時にはモチーフを変えてみることもある。
しかし、結局、画面全体を発明してしまうということは決してないのだ。
それどころか、画面は自然の中でほつれが溶けて、自ら出来上がって現れてくる。
自分が描いているということではなく、画面が勝手に現れてくる。
この言葉を引用して、ここで引用してくる小林良さんもすごいんですけど、
これ小林良さんが言うわけですよ。
ほつれが溶けて、椅子が現れた。
これは名付け難い一つの祈願が、脱出されたというごときものであって、
睡眠や休息を暗示せんとした、画家自らの意思も、
こうなってはもはや溶けてしまったもつれに過ぎないようである。
本当に絵画の本質を言ってくれてますよね。
未礼の絵の頃、平の絵の話の頃は、
からの育ちの過程というか、
無視、自らを召して、存在そのものの力に迫り、
ほどけるっていう表現に、無視、自分を滅するっていうことが、
現れてる気がするというか、
それを絵にできるっていう、
面に現れてくるっていう、
すごい話してますね。
すごいな。
僕ここの本を読んだとき、本閉じたもんな。
全身全霊が疲れた、すごすぎて。
一つの到達点って感じがしますよね。
ごっこの絵から、
そして小林秀夫さんの絵がそれを読み解いてくれて、
これ以上言葉で味わわなくても、
いったん寝かしとこうみたいな気持ちになりますね、確かに。
そうですよね。
そうなんだよな。
これからね、小林秀夫さんも、
俺今ね、中盤ぐらいのとこだったんですけどね、
もう後半からほとんど小林秀夫さんの言葉ないんですよ。
ひたすら手紙を訳してるだけになってくるんですよ。
そうなんですね。
小林秀夫さんもね、もう言うことがねえって。
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