今回は、小児外科医である松永正訓の『運命の子 トリソミー』です。 本書との出会いは、街録chでの配信がきっかけでした。 このラジオを通じて、 ・松永先生の生きる姿勢や ・障害児をもつ両親の葛藤と受容するプロセス を深めていきたいと思います。 街録chでの放送回 https://youtu.be/a7pmeD86ML0?si=WoWGvha7-drqt0R5 |
Summary
ポッドキャストでは、松永正訓医師の著書『運命の子』を通じて、医師としての生き方に迫っています。特に、13トリソミーを抱える朝日くんとその家族との関わりを通じて、生命倫理や医療の課題について深く考察されています。エピソードでは、松永正訓医師が自身の開業医としての経験と使命感を振り返り、地域の患者や家族に寄り添うことで得られた新しい価値観について語ります。また、障害を持つ子どもたちとの関わりが彼の文学的な表現にも影響を与え、豊かな人間関係の重要性も浮き彫りになります。松永正訓医師が著書『運命の子』を通じて、医療的ケア児を抱えた家族の生き様を描いています。彼の哲学は、現実の苦悩から生まれた倫理観をもとに、家族と医療の関係に新たな視点を提供します。松永正訓医師が自身の著作『運命の子』について語り、創作に対する姿勢や出会いの重要性を探ります。
本の背景と著者
- こんにちは。- こんにちは。
- じゃあ、じゅんさん、今日はどんな一冊を持ってきてくれましたか?
- 今日はですね、松永正さんの『運命の子 取曽見』という本になります。
- 文庫?ですね。- うん、文庫本ですね。
- これあれだよね、昨日のメッセンジャーでじゅんさんが、これを明日使いたいって連絡してくれて急に。
- はい。そうなんです。普段なら中田さんに何の本が使うかってことをあえて教えてないんですよね。
- そうそう、当日この場で知ってるんですよね。
- あえて中田さんにはリスナーの視点に立ってもらうために教えてなくて、それ自体楽しんで2人でやってるんですけれども、
- 今日は、昨日の夜ね、実は明日これ扱わせてほしいってことを中田さんに伝えましたと。
- で、本来なら今日ちょっと違う本を扱う予定だったんですけど、僕も昨日の夜にたまたまこの本を読むことになったんですよ。
- はい。- っていうのも、妻がこの本買ってたんですね。
- もともと?
- そう。で、妻が外録チャンネルってYouTube、中田さんにも昨日の夜送って、ちょっと途中まで見てもらったんだけども、
あそこでこの著者の松永さんが出てる動画で、それ見て妻はこの本買ったんですって。
- うーん。
- 僕はそのこと知らなくて、家に置いてあったから手に取って読んでみたの。知らずに。
- あっ、動画じゃなくてさっき本から入ったんですね。
- そう、本から入った。で、でも初めに読んだ瞬間に衝撃が走って、もう一気に第三章ぐらいまでガーって読んで、で、調べたら外録チャンネルが出てきて、
またその動画にもすごく衝撃と感動を覚えて、で、なんか急遽、中田さんにも昨日の夜中9時に送りつけて。
今日のご収録が9時だからほぼ時間がないんですけど。
- そうですね。昨日の9時ぐらい、9時過ぎぐらいかな。
ジョンさんからちょっとこう、熱いメッセージでこれを扱いたいっていう話が届いて。
外録っていう、まあほぼ1対1のインタビューのチャンネルだよね、たぶんね、あれは。
で、松永先生なんですよね。
- そうですね、お医者さん。
- お医者さんにインタビューされてる動画。1時間ぐらいあるんですけど。
- そうそうそう。それも見ていただきたいし、その方の、いろんな本出てるんですよね。
- 出てるねー。
- 22冊分ぐらい書いてるって動画の中でおっしゃってたかな。
- ねー。
- うん。その中の1冊ってことですね。
- そうですね。
生命倫理に関する考察
いわゆるノンフィクション作家って言われてて、
まあ実際に起きていることを、こういう風な小説にしてるというか。
- うんうん。
なんかジョンさんの中でもうちょいその、これを、今回、
この文学ラジオで扱いたいなーって思った背景とか。
- そうだよね。
- なんかどういう風に扱っていきたいかみたいなこととか。
- うん。そうだよね。
前段のとこもうちょっとだけ、なんか聞いてみたいですけど。
- そうですね。なんか、いやー、ちょっといろいろあってうまく話せないんだけども。
- うん。
- えっと、まあまだこれ僕、この本、途中までしか読んでないのでないのね。
なんだけど、もうちょっと読むだけで、デックするわけ。
で、ものすごく考えさせられるのね。
で、本当はちゃんとこういうことをね、言葉にするって、
なんか熟考して扱った方がいい気もしたんだけれども、
このデックの衝撃のままと扱ってみたいという気持ちもありましたと。
で、まずは、外力チャンネルのこの人の、この松永さんの外力チャンネルのところを見てほしい、見てほしいなと思ってて。
- 俺聞いてくれてる方も。
- そう。
その上で、僕らなりに深めてみたいなと思ってるんですよ。
あそこの外力チャンネルで話してることって、やっぱりめちゃくちゃ省略されているものだから、当たり前だけども、
やっぱりこの本読むことの意義をめちゃくちゃ感じたのね。
うん。
で、その、それは、実際に出生前診断するのかどうかとか、
そのMH治療するのかどうかみたいな話っていうことは、
なんかそういうことはちょっと今の僕らにはちょっとあんまり語れないというか、
本当はそういうことを生きた人じゃないと語るべき言葉がない気がしているから、
その今日はそういうことは扱えないんだけども、
だから、この人のなんかこの生きる姿勢を少し扱えたらいいなと思ったのと、
もう一つは、
今回この、トリソミとして生まれてきた、この朝日くんのご両親の、
だから、その代理体験するって本当に文学の価値だし、松坂さんが書いてくれた意義がここに眠ってると思ってて、
あの、本当に、
そうですね。
動画確かに見ていただくと、今、じゅんさんが言ってくれたところの背景とか、
最初の10分ぐらい見るだけでも結構、
そうですね。
こういうことを言ってんだなっていうことがわかるし、
できれば全部見てもらってから戻ってきていただくっていう感じですね。
そうね。
うん。
まずは知らない方は、あの動画見る方がうるものが大きいと思う。
で、
触れやすいね。
そう。
既に描いてないお前を、
この動画見る方が、うるものが大きいと思う。
で、
触れやすいね。
その感じです。
それが、なんか、あのチャンネルの価値だし。
で、その上でもっと知りたい方は、なんかこの、一緒に、この作品を深めれるといいなと思って、
うん。
はい。
うん。
どんな感じですか?
いやー、
大事な回になりそうで。
じゃあちょっと入っていきましょうか
いきましょう
はい
この本がいつ書かれたのかなんですけど
2013年に書かれてるみたいなんですね
うんうんうん
で第20回小学科ノンフィクション大賞を大賞しましたと
で今僕が持ってるのは文庫本なんだけど
文庫本が2024年になってるっていう
お昨年ですね
そうですね
はいことです
ちょっと動画見てる前提で話すつもりなんだけど
少しだけ見てなくても
まあ分かるように話しておくと
さっき話したように松永さんは
小児外科医として大学病院で勤めていて
その後開業医として今やっていますと
で開業医で出会った障がいのある子供が
朝日くんということですと
はいなんで朝日くん朝日くんって出てくるのは
この障がいを持った子供のことですと
お母さん慶子さんって言って
お父さん信俊さんっていう形で出てきます
はいはい
でちょっとそれを踏まえて
あと書きから読んでいけたらなと思います
はいはい
あと書き何を感じながら執筆したかって
副題がついてます
じゃあこれちょっと読んでいきますね
はい本書は偶然がもたらした多くの人との出会いによって
歓声したように思う
初めて朝日くんの自宅を訪ねる前に
私は可能な限り朝日くんの家族に寄り添いたいと思い
家族の話に耳を傾けること自体が朝日くんの命を
鼓舞する応援のエールになると信じていた
その思いは今でも全く変わっていないが
実は私に2つの余談があった
それは朝日くんの生涯を需要することは
両親にとってかなり難しいだろうという思い込みと
生涯の重さを考えれば数ヶ月の時間の向こうには
朝日くんの命は存在していない可能性が高いという
当てず医療だった
だから朝日くんと関わるならば
この子の人生の最後の最後までを見届けたいという気持ちがあった
そして聞き書きを始めた時点で最終的に
そういった形の本ができるのではないかと朧げに想像していた
だが全くそうはならなかった
なぜ私が先を見通せなかったのだろうか
それは私が確固たる生命倫理観を自分自身の中に気づいておらず
きちんとした準備もせずに話を聞き始めたからであろう
そして朝日くんの両親の言葉を耳にしてすぐに
私は大変な不安感にとらわれた
それは朝日くんの周辺にいる人間の中で
13トリソミーという障害に対して最も偏見を抱いているのは
意思たる自分自身なのではないかと疑い始めたからである
私は本校とは別に
自分が大学病院に在籍していた当時の
新生児外科症例の手術記録を書庫から引っ張り出し
生命倫理を巡って両親と対立した症例を原稿に書き出してみた
生命とは直接関係のない見た目の危険を理由に命に関わる
先定危険の手術を拒否する親との激しい圧力なども何度か経験した
生まれてきた命は誰かの所有物ではない
親のものではなく赤ちゃん自身のものだと私たちは考えていた
それ自体は間違っていないだろうけれども
そんなありきたりの言葉に心が動かされて
自由との障害を許せる子供を親は受け入れることができるだろうか
私はその問いに対する答えを持っていないことに気がついたのであった
といったんここまで
です
うんうん
ちょっと長かった
でバーって読んじゃったんですけど
今日はでもそういうこともね
そういう回でもあるという
そうですねはい
なんか
ね
ね
そっかそっかでもこっから入ろうと思ったっていうじゅんさんの
そうですね
ねちょっと拝見聞きたいけど
そうですね
いや全体感が俯瞰されてるからかな
そうです
そう
なんでここを読まず読んで後書き引き続きこの後も読んでいきたいんですけれども
なんか
あれなんだよなぁ
いろいろなんか感じることあると思うんですけれども
うんうん
これ
自分が偏見
偏見を抱いているのは自分自身なのではないかと疑い始め
で
自分は生命倫理っていうものを実は持ってるようでもっていないということに気がついたんだっていうことが書いてありましたよね
はいで
なんかお医者さんであっても考えれば当たり前なんだけれども
そうなんだよなって
まず思った
確かに
びっくりしましたびっくりというか
そうなんだよね
多分どの職業においても何かちらのこの倫理とか
その現象をどう捉え何を問題とするかとかなんだろうな
そういう
物事を認識とかそれに対して自分がどう関わりに行こうかっていうスタンスを決めるある哲学みたいなもの
っていうものが本当は問われてるんだと思うんですけれども
えっとお医者さんもそれはもちろん同じで
特にお医者さんは何か問われそうなんだけども
て方も実際それなりに答えてるんだとは思うんですけれども
こう書かれているとはいえ
だけどもやっぱりこれ一つの極限の状態のケースを目の当たりにした時にもっと深く突きつけられてくる問いよっていうことなんだと思うんですよね
うん
うん
それはあれなのかな13トリソミーの患者さんは今まで何人も出会っておられてるけど
アスタヒ君たち家族とは何か関わり方が他とはまた違ったかゆえに
うんそうだね
先生の中でそういう生命倫理観をもう一回問い直されることが
そうだね
っていうことなのかな
確かに確かに
これあの外力チャンネルの動画でも流れてたけども
その今まではずっとそういうものは手術はしてはいけない医療行為をしてはいけないっていうふうなことが医学の見解だったと
だけれどもそれがまあ2000年ぐらいから少しずつ変わり始めたって話が出てきたよね
はいありました
でえっとそういうだから時代の動きがあり医学の発展とともに
えっとそもそもこの13トリソミーの人でも生きられる道が少しずつ出てきたし
その考え方ももっと多様になってきてもっとご両親の思いを大事にしようみたいなこととかも出てきて
こういう朝日君のように医療行為をしていくケースみたいなものが出てきたから
時代としても本当はこの問いを突きつけてきたっていうことでもあるんでしょうね
うんうんうん
なるほどそうですよね時代の変化もそこに相まって
うんうんうん
松永先生の生き方
いややっぱ中田さんにあのガイログチャンネルの最後
あの松永先生の人生を少し語る部分があってそこまだ見れてないと思うからあれだけども
やっぱりなんか松永先生の生き方とか生きる姿勢にも
ものすごく感動して
なんか僕は同時代にこういう人が生きているってことに出会ったことをものすごく幸福に感じるぐらい衝撃を受けて
うん
でまぁそこに書かれてあったのは何だまぁちょっとまぁ見てほしいんだけれども
その大学病院として19年間生きてきたことを松永先生も病によって閉ざされてしまい
開業員にならざるを得なかったって話が始まるのに
うん
でえっともちろん開業員っていうのは望んでそこに望んでそれを行う人もいればでも松永さんの場合はそうじゃなかったんですよね
大学病院で働きたかった人だったのね松永先生はね
でえっと働けなくなりそれだったら研究の道をやりたかったけれどもそれもなかなか実現できずに開業にならざるを得なかった
でそこから19年今経ったんだけれども15年ぐらいは開業員の意義みたいなものをやっぱり見出しづらかったっていう話があったんですよ
これがまずすごいなって思って
15年間その開業員としての使命みたいなものを見出せない状態の中で
いや多少はあったと思うんですよもちろん
でも深い多分使命感みたいなものを松永さん自身は感じられずにいたという事実がまずまずすごいと思ったし
でそこで結局つかんだ使命っていうものが
なんかこの開業員だからこの街にいる半径5メートル以内の親御さんとか子供たちのために力になることなんだみたいなことを言ってて
ものすごい遠くなことなんですよそれって言えば当たり前じゃんってなるんだけども
その当たり前のことを実感するために15年もかかったっていうことだと思っていて
そこにものすごくなんかいろいろ感じることがあるわけ
でねその動画で松永さんがその話をしてくれたんだけどそこに何か触れてないものが僕ちょっとあると思っていて
これ松永さんこの朝日くんのところにもこれ最初から取材するつもりでこれ関わりに行っている
し何らかの本にしようと思ってこれ関わりに行ってるんだよねこの後書きにも書いてある通り
はい最終的にはそういう本ができるのではないかとおぼろげに想像していたって書いてあるから
僕その松永先生は19年間積み上げてきた大学病院としてのものが一気に崩れ去った喪失感っていうものをものすごく強く感じたってあの動画で語ってくれてて本当にすごかったんだと思うんだね
でその中で僕支えたのはこれ文学の道なんだと思ってるんですよ
絶対そうだと思ってる
大学病院で見てきたそのガンの小児ガンの子供たちで亡くなってきてしまったその子供とご両親の家族の戦いみたいなものを知られてないから
世の人に伝えたいっていうことをずっと思っていたから
でそれをやり始めて最初の作品でもそれなりに手に取ってもらえたっていうことが
ものすごいこれ松永さんの 性を支えたと思っていると思ってて
最初の作品がその大学病院じゃ出た後に一作目が出るのかな そもそも大学病院時代に見てきた子供たちのことを書いてるんですって
書いてる作なんだ
しかもそれが文学というのがまた 皆さんがそう感じたのもあれだよね
印象的だなぁと思って もうちょっとジャーナリズムぽく書く人もいるだろうし
そうだね そんなに境がないんですよねだからねあるじゃないというか
でも読み手のじゅんさんには文学だって感じるものがそこにある 作品ってことなんですよね
そうですね
うん やっぱり
いやーかぽぽまあそうですよちょっとどんどん脱線していくからまた最後に改めて 考えてみてもいいのかもしれないんだけど僕自身も何か一人の書き手として
えっとすごくやっぱり 石村道子さんとかもこういうノンフィクションを扱った人だったし
なんかこういうノンフィクションの作品を書くことが現代の文学の役割だと思っていて
なんか こういう文学のあり方だよなって自分自身もなんか感じたんだよね
いやそれはねちょっと扱いたいよねどこかにちょっと聞いてみたいよねもうちょっとね 大層ですね
またちょっと最後の時間があればそうしましょう うん
そういやだからこれその松永さんってその その大学病院でいた時
と大行為でやるってことにまず大きく役割が全然違うわけですよね 自分としては大学病院のでのことを求めたくなるわけですよ
そうなんだよね多分僕らがわかんないぐらい違いがあるのかな
そうそうきっとねお医者さんの世界の 大学病院あの動画で書かれたけど言われてたけど大学病院っていうのは臨床する医療行為をする
ということ以外にやっぱ研究があるし教育があるしっていう そこに松永さんはやりがいを見出していって役割を見出していった中で
海洋医ってなると全然違うわけだよね それはそのまず研究がないし教育もないしで
文学と医療の交差
治療するって言っても全然違うじゃないですか 大学病院はやっぱり遠方から集まってきて大きな手術を扱うっていうこと
だけど町の海洋医って風邪ひいてきて薬をもらいたいから来て なんかちょっと処方して薬渡してみたいなこととか
そういう感じになり自分は何のためにやってるんだって 海洋医でさえも思ってしまうところがいたと
なんだけども海洋医としてしかやり気 にないない役割ってことをこの人ちゃんと突き詰めていって見出していった
でそれがやっぱりこの患者との関わり方なんだと思うんだよ 思ってるこの朝日くん
海洋医ってもう時間が自由だから 徹底的にこの人たち向き合おうっていう風にやれるのって大学病院じゃできないと思うんだよね
動画でもおっしゃってたよね行こうと思えば週3ぐらい帰られたとか 時間を調整できたみたいな
ってこともできたしそれを本にして伝えるということもある別の役割として社会に 果たせるだろうと
っていうことを なんか見出していった
だなぁっていうのが なんか改めてこの跡掛けを読んで感じて
来てる
なんかだから僕も多分自分自身がなんか僕の話なんかするのはあれなんですけど なんか2019年ぐらいからずっとおぼろげながら自分の使命みたいなものを自分自身問い続けてきている
と思っていて 彼これ5年6年ぐらい経つんですけれども
なんか15年かかってもいいぐらいなんだなっていうか なんかみたいなことを感じて
そうなんだよね 相当長い年月に感じるもんね15
15年目
すごいよね だから松永さんの人生の物語でもあるのか
その中で来てるんだよね
なんか松永さんが開業になってこういう患者さんと出会うということ自体がまず 開業としても生まれなんじゃないかなってわかんないけどあるんじゃ
でもね 珍しいんじゃない普通に考えたら
病気の種類としてはもう大学病院でそう 修復されるようなもんだってことかな
だからそれが松永先生のところに舞い降りてきたってことも一つの運命だし 松永さんがこういう家族によって
開業としての使命を教えてもらったっていうふうに多分見れると思っていて まともにね
だから松永さんが この開業としてのこの使命を見出していったとも言えるんだけども
見出す 見出してもらい続けてきた
っていうことでもある
なんかわかりやすい医師と患者の関係とも違いますね
医師としても何かもらってるっていうか 一方的に患者に与えてるわけじゃない
こういう関係
ちょっと 続き読んでいきましょうかね
後書きの続きですかね
ちょっとさっき読んだところ 少し遡って
中度の障害を有する子供を親は受け入れることができるだろうか 私はその問いに対する答えを持っていないことに気がついたのであった
朝日くんに寄り添いたいという気持ちは最後まで強く持ち続けていたが それだけでは障害人の需要という命題に答えられないと悟り
私はゴーシュ病や ミラーディッカー症候群の子供と家庭を訪れた
母親の言葉を拝聴するうちに私は一人の医者であると同時に道を問う 一個人になっていたように思える
私の中の曖昧な生命倫理感は一旦解体され 私は事故の中に新しい価値基準を作り上げるような感覚を得ていった
そっか先生の中でも自分の価値基準を一旦解体して
これが多分その障害のお子さんを持った親の中にも起きることでもあったりするって いうふうに動画でも言ってた
そうだよね
そうなんですよ 先生も一個人として
そういうことが 解体されて新しい価値基準を作るような感覚だったと
まあそりゃそうだよね
だから僕らも 多分読書するってことは
これに近しい まあ生の経験じゃないとそれは全然違うんだけど運営の差なんだけどでもなんか
近しい経験ができると思っていて なかなかこういう極限状態
の中で 生きることは珍しいし
あの状態の中でどんどんどんどん 日々
究極の選択を突きつけられる その手術をするのかしないのかとか
全国高級機をつけるのかどうかとか そういう連続の中で自分がどういう選択をしていくのかってことを
読んでると
迫られる感覚もしてくるから なんか作り上げられるといいですよねってなんか僕は思いました
じゃあちょっと 続きますねはい
幸せの家で 知的障害の大人を持つ5人の母親たちに話を伺った時は衝撃的な思いをした
一つ一つの話が重く 各家庭に壮大なドラマがあった
聞き取りは長時間となり 当初はすべての家族の物語を文字にしたが
原稿量の企画に従い 一つの家族だけに話を絞らざるを得なかった
そしてこの頃から私は今回の原稿をどんなことがあっても世に立たなければならないという 義務感のようなものを感じるようになった
今回の原稿というのはこのまさにこの本の原稿 そうですねうん
そっか何が感じさせたんだろうとかねこれだけ聞くと
気になりましたねー これ
なんか これ読んだ時に
なんかやっぱり こういう風な
状況に向き合っている人って 珍しいとは言えやっぱ少なからずいて
懸命に生きている人が 少なからずいるんだなぁって
その文章を読んでもなんか感じますよね
なんか俺 読んだことを
妻に話したんですけど さっき読んだよっつって
でうちの子供も最中障害を持っててさ で僕は
妻婚っていうか妻の連れ子だからさ 僕がもう自分の息子とその息子と出会ってるのってさ
もうあれだよ 中度の知的障害の状態になっていて
まあ普通の子供っちゃ普通の子供なんですよ でえっとやっぱり生まれたばかりの時は医療的啓示だったんだよね
心臓も手術してるし冷静な時にも 肺も肺機能も問題があったし
で 3歳になるまでずーっと酸素つけてたから
でそのこと僕は知らないからさ あれなんだけど昨日の夜夜中
2時ぐらいまでさ 妻と話しててさ
妻のその なんだろうな
まあこういう壮絶なドラマ まさに
うんすごいなぁ本当にって 改めてじっくり聞いた
いや普段あんまりそういう話しないんですよ
語る機会がない その対応で日々忙しく
いや気になって聞いたこともあるんだけども何度かで何度か違しい話したこともあったんだけど まあでもなんだろうな
そういうことを 昨日の夜まで深く語ることなかった
そういう
いやー本当に何か これちょっと後で読んでいきますけど
マジでこのアサギ君のご両親がマジですごすぎて
無名の人でやっぱり
やっぱりこういうふうに 生きてる人っているんだなっていうか
そこになんかすごい感動しますよねなんか
僕は妻に対する 前からある尊敬の人を感じてましたけれど
また一段となんか感じました
昨日 聞いて
それはなんかもうなかなか言葉にできないんだけど
本当に想像し得ない ですね
例えば私からすると
ね軽々しく分かったとも言えない 領域
うーん ちょっと続き読んでいきますかはい誕生死した誕生して死ぬことに誕生死した
障害児の家族との出会い
18トリソミーの赤ちゃんの物語は両親に話を伺いながら 落霊涙が落ちる落霊しそうになった
そんな自分を医者として甘い姿勢だと感じたが 澄んだ心で自分は患者家族に学べばいいと思い直した
私の中に芽生えた新しい生命倫理感は行けちゃんという名前がイメージの中で空に 向かって伸びていくように私の中で育っていった
障害人生児を授かるというのは誰にとっても耐え難い不条理な苦痛である しかしだからといって
子供を見放したり家庭を育てしまう親はほとんどいない 逃げることは必ずその辛さに向き合わざるを得ない
長い時間をかけて 受け入れたり反発したりしながら
徐々に前へ進んでいく 医療関係者はそのことを知らなければならない
建前だけの倫理で家庭を説得し従わせるのは実は倫理的ではない 時間はかかっても両親はやがて新しい価値基準を構築し始めるはずだ
家庭が悲哀の底から立ち上がるのを待ち続ける根気を意思は持たなければならない 朝日君の2歳の誕生日に自宅を訪問して話を聞いたとき
稽古の言葉は裕祖行きのビジレイクではなく誠実で温かみに溢れていた 認めて乗り越えて承認して
ある時点に到達した人の言葉だった 稽古の佇まいは障害児を抱える母親という姿を超越し
私には光栄しくさえ見えた 世界で障害児
障害申請書を授かるってことは タイガタイプ条理で
だからといって子供を手放したり家庭を捨てしまう親はほとんどいないって 書いてあってまぁちょっとデータとかね見たわけじゃないけどでもこれ
捨てしまう人もいるんですよたくさん これで離婚するか
この両親のが離婚していくか受け入れられずに離婚していくか えっと帰って絆が深まっていくか大きく
分かれ 1
医療的ケア児の現実
で 離婚しなくても
自分の子供を殺してしまうっていうご両親もいるんですよ 医療的気味って
もう ずっと見る見ないといけないずっと在宅で介護したりとかして
ここのあの 朝日君も
1時間に1回ターンを取り除かないといけないだから1時間が起きないといけない もう逃げないんですよずっと働けないのはもう当たり前のことで
っていうそういう環境下中で その医療的気味の問題っていうのはその
それを見る両親の不可の問題みたいなものとかもあるし いろんな問題があるんですよねなんか
だからなんだろうなぁ そういう風になってしまうことをなんだろうなぁもう
責めることができないぐらいの境地に いるっていうのがあるから
だけどもう片方では それを
乗り越えていくっていう人もいるということなんですよね うん
それがこの今回朝日君たちの家族のケースだったわけで これを
知れたのは すごいなぁ
こういう生き方があるんだってことを 知れることにこの本の価値がものすごくあると思う
うーん それはあれなんですかそのこういう生き方がある種正しいストーリーだ
みたいな感じで打ち出しされ方をされてしまうとそれが苦しくなる人もいる じゃないん
そういうことではないとして 書かれているようなイメージ
なんだろう一つのケースとして書かれているのかなそれともちょっと違うのかな っていうのが
あの あーすが松永先生やっぱりすごい人だから
哲学としてもなんかすごい考え抜いてる人だから なんか
そんな簡単にね問いに対する答え出しに行かないから こうしたほうがいいとか言わないですよ
だから読めると思う
なんかねー 一応ちょっと僕もなんかいろんなことを思ったからどのことをどこ読んだ時に何話そうか
なんかまとまってないんですけれども じゃあですか今日
なんかあのあの動画でもさ授業のプロセスが少し語ってくれてたじゃないですか ありますか
もっと深くそのことについてこの本を扱えるからですけどもね なんかあるいはまさにキューブラルスのさ授業のプロセスだと思ったわけですよ
うんあの 解説を欲しいかも知れば
まあでも そのまずまず否定するところから入っていくんだよね
現実を でそこから授業に至るまでのプロセスっていうものがあってなかなか授業できない
でそのちょっと授業したりそのやっぱり否定したりっていうことを繰り返し繰り返しずっと行きつ 戻りつつしつつ
だんだん授業していくというプロセスになっていくんですけれども 最初は否定の方が大きいわけですよね
だから そういうもんなんだってことを僕まず一旦自分の中で改めて深く
受け止めたつもりというか受け止めたつもりなんですよそれ何かっていうと多分 えっと否定が強すぎるとやっぱりこの子も生まないでほしいですとか
えっと効果もえっと手術はいいですもうこのまま つまりえっともう数ヶ月後になくなっていっていいですっていうことを
迷いなく多分選んじゃう可能性が高いと思ってて でも本当にそれで良かったんだろうかって後になって後悔していくということの方が
大きい気がしていて本当にそれでいいんだろうかってことに対して 問い直す自分で自分自身の決断を問い直す力ってものを
すごい大事な気がして そういうためにこれを疑似体験することが大事だし僕はその自分自身も多分そういう
ふうな気持ちになっちゃうんだろうなってことをすごく読みながら感じて 一旦それを保留せよ保留せよってことを自分自身に問い直したいなって思ったんですよ
うーん なんかそういうことが本当に
感じられてくる読んでるとまあそういうそういう本でもあるんです うーん
だって綺麗事じゃないもんねそこ そういう否定をしてしまう
ことも
それを否定することができないっていう感じもあるし そうだねね
まあそうねそういう状況になった時に そういう同じ境遇にあった人と出会えたらいいですよねで相談できたりするともいいですよね
ででも一つの相談先としてこの本があるんだと思っててやっぱり そのあの外力インタビューもあくまで松永さんが語ってるじゃないでもこの本の中には
さあこのご両親の言葉がたくさん書かれてるわけ そこには生々しいやっぱり葛藤が書かれてるから
一つにやっぱり対話相手になれるんだろうとなり得るんだろうなってことを感じたのに うーん
それでさあこれさあ
最後の言葉が印象的でさ 稽古の言葉は稽古ところお母さんね稽古の言葉を予想行きのビジレイクではなく
誠実で温かみに溢れていた 認めて乗り越えて承認してある時点に到達した人の言葉だったって
稽古の佇まいは障がい者を抱える母という姿を超越し 私には光合宿さえ見えたって書かれてあるじゃない
光合宿って書いてあるけど本当に何か ねぇ
松原さんがどういう宗教を持ってるか 抱いてるかわかんないけど本当に神や仏を見るかのような
ものだったっていうぐらいの勢いだったってことでしょ うーん
それをこういわゆる一般のね普通の生活ですよ 生活をしている人にそのそれを感じるって
ねえ じゃあ自分の人生で最近そんなことあったっけとか思うとね
相当マネなっ 何か出来事のように感じました
これ松永さんもすごいんだよなぁこれやっぱりここまでずっと向き合い続けて寄り添い 続けたからこそ
こういう風なことをまさに見ることができたし たぶんしか同じ境遇
でも ここまで高校しさを感じ取れると感じれないと言う気がしてて
これやっぱ松永さんもこれすごいんですよやっぱり松永先生も
こういうさあ 普通の
ねえ巷に生きている人々の中に 高校しさを発見するって
その人の中に眠っている聖なるものを発見するってことに 僕の中では言葉を言い換えられるんだけど
尊いですね本当に
こういうことを発見できる人になりたいし これ別に慶子さんも自分が何か高校してなんか思ってないですからね未人もね
当たり前のことをしてるだけですみたいなね もうてか当たり前てかもう
ねっ ある局地を懸命に生きている人だから
ねえ 自分にはこの高校した見えてないですからね
それを こういうふうに松永さん書いてあげることによって
自分自身をこういうふうに 受け止められる
ってこともきっと このご両親の力になっただろうし
そうだよね必死で生きてるって言う そんなこと考えてない
よね
松永先生の倫理観
そう ちょっと続きをできますか
障害申請時の家族は効率して生きていくことはできない まだ決して効率してはいけない
医療福祉教育の関係者たちあるいは友人や親族 近隣の人たちと
共に生きていくと決めることが家族の新たな出発となる その手助けを医療の面で実践していくことが医者にとっての生命倫理であろう
倫理は詩弁ではない行動である 私はそういうことを学んだ
って書いてあるんです
効率して生きていけないっていうのは本当にそうだと思うんだよね さっきの
医療的ケア児って そのまちまちによって
ヘルパーさんが来てくれたりとか その訪問介護来てくれたりとか
デイみたいな形で預けられるかどうかみたいなこととかって本当にまちによって 違うんだよね
なかなかそういうケアを受けられないところがあるわけ 僕の息子でさえもあったから
僕たちが引っ越ししようと思って引っ越しできないってことを 僕も経験したから短い期間の中で
引き受けられないっていうのが
で医療的ケア児ってやっぱそういうの多いし ああいう重度の障害を受け入れられる
福祉施設って少ないんだよね
だからそういうのが受けられなくてさっき言ったように 自分の子供さえを
殺してしまうってことが起きてしまうぐらい そういうことが起きてはいけないから
絶対一人でも両親だけでやれるもんじゃないから 絶対孤立しちゃいけないんですよ
でそれをどうやって作っていくか社会の構造としてもどうやって作っていくか ってことが大事な中で
医者としても 待ち医者としても
絶対家族とともに生きないといけないんだってことを 決意した
松永さんにとってはこれ本当におじさんに向けたメッセージもバンバンあるように 読んでいく
でこれ
ねえ 手助けを医療の面で実践していくことが医者にとっての生命倫理であろうと
倫理は詩弁ではない行動である私はそういうことを学んだ 書いてあるんですよ
俺これすごい やっぱそうだよなぁと思ってこれちょっとね初めにのところを読むんだけども
初めにところにこういうことが書かれてあったのね 読みますよ
障害児を授かるとは一体どのようなことなのだろうか その不条理な重みに人は耐えられるのか
受け入れ乗り越えることは誰にでも可能なことなのだろうか この問いかけに答えるために福祉のあり方や社会の仕組みを深く考察していくのも一つの方法
だろう あるいは宗教は哲学の中に疑問を解くヒントが含まれているのかもしれない
だがそれよりもこの13トリソミーの赤ちゃんの家族の言葉に耳を傾け その言葉の一つ一つを丁寧にすくい上げていけば
何らかの答えが得られるのではないかと私は思い立った そして
家族から話を聞いていくこと自体が13トリソミーの赤ちゃんの生命をこぶし 家族への勇気になると考えた
って書いてあるんですよ 先生にとってもこれはだからある種思い立った
今回のこういうことがあって こういうやり方をとってみようみたいなことを思ったのかな
もともとはだから大学部員にいらっしゃったからどっちかっていうと そっちを研究しようとしたり
少し書物の中に答えを例えば見出そうとしたりすることを先生もされてて でも今回はこういうふうに思い立ったっていう感じなのかな
ねえ そうなんですよ
いやーこれ読んだ時にさ この赤ちゃんの家族のさ言葉に耳を傾けその言葉一つ一つを丁寧にすくい上げていけ
ば何かしらの答えが得られるのではないかと私は思い立ったって書いてあるじゃない ここなんだよねなんか
本当に生きた哲学ってやっぱり懸命に生きている人の中にあるんだな
僕が経営している五つ都市高 哲学者の五つ都市高先生とかはさ
経理事業学っていうのは経理事業学ってこれ定学のことですよ だから経理事業学は経理事業学的経験の後に来るべきものであるっていうふうに言うんですよ
だから哲学っていうのは哲学的経験の後に来るべきものであるってこと言うんですよ 経験が先なんだ
そう経験があるんだと 経験があって初めて哲学になるんだと
うーん まさにこれですよ
うーん いやーすごいよ
その言葉の一つ一つを救い上げていくとっていうことを書いてくれてて
キューブラロスのさ 需要のプロセスのさ
あれもさ何人も何人もさ 死に直面する病に直面する人と
見てきて見てきてその生きた経験の中を見てきて生きたケースを見てきてようやく あの
理論と言ったらいいのかそういう抽象的なものとしてプロセスが 生まれてきているってことじゃないですか
うーん
僕らが 現実問題生きているのは理論先に出会い
哲学先に出会いみたいなことが起きちゃうけれども 本当はその奥にそれを生きてきた人々がいるっていうことなんですよね
で本当はそこを感じないとその理論の深さを感じれないんだよね
だからこういう本当にこの何回も言うけど この生のケースを同じように代理体験するかのように触れていくってことの意味が本当にあるんだよね
一国にね
で医療現場にもそれがないんだろうねこういうふうに書いてるってことか 少ないんだろうねここまでのね
質の経験向き合う経験ができるのは少ないんだろうね
それじゃねお医者さんも実際 治療を講演してそれを
研究して論文にしてみたいなことはあるんだろうけども
まあそれもどこまでピュアにできてるかってとこだよね 医学の世界もヒエラルキー上がっていくためにアカデミックで経緯のために論文を書く
みたいなことがあるのかもしれないしまぁちょっとわかんないけど
だから松永先生は 倫理っていうのは詩弁ではない行動である
やっぱり 生にこういうことを生きることにして初めて
いかに倫理が養われていく ってそうだよね
ちょっと続きをんできますかはい 単名と定まっている
偶然と文学
朝日君の物語の聞きかけは当初の予測に反して彼の生きる記録となった 需要できない家族を描くのではなくって
不条理を超えていく家族の姿が浮かび上がった 何人もの
障害児との出会いはほとんどすべてが偶然によるものだ つまりこの作品は偶然が触媒し生き物のように成熟し
自ら形になっていったように思う これですこれから文学ってここですよね本当になんか改めて読んで感じた
自分が作り出してるんじゃないんですよこれ 松永先生も
ああ 偶然と言ってますねうん
松永先生はもうただただ器になってるだけというか媒体になってるだけっていうか もう
目にしている家族のことを書いて言ってるだけだから うーん
ああなるほどねでそこに文学ってものを感じる 文学生まれたな文学がそこに生まれたん
うん
すごいなって思ったのか急にそこで偶然の話するんだっていうか
それ言いたかったんだね うーん
ちょっと経路が違うというかこれまでと流れと
その感覚があるんだろうなぁ松永さんの中で
かかざるを得ない世に出さなければならない義務感って言ってたもんね うーん
もう何か欠かされてますね本当に
各という委託を受けて 書いてますよね
過去の文学ラジオでもねそういう方いてたくさん扱ってきたんでこういうの2ワード となってある種欠かされたみたいな
フルの話って何度も出てきてるけど この本もそうなんだなと思って入れ
うーん こうであらなくてはいけないって僕なんか
1 書き手の端っくれとして固めて感じの実感を
感じます
ん 続き
第20回小学館ノンフィクション大賞を受賞し気の早い人は次回作は何を書くのかと聞く だが私は自分から何も書かない
次の出会いがあるまでひたすら待つだろう その出会いは1年後かもしれないし永遠に訪れないかもしれない
だからこうした危機書きは本作が最後になる可能性もある 結局のところ
私はあくまでも極普通の医者であり 自分から題材を探索して文章を書く作家ではない
だから無理をして何かを書く必要はないだろう ここなんですよか
なんか作家ってもしかしたら本当に名乗るもんではないのかもしれないな とすら感じてきますね
こういうの読むとね うーん
僕も なんかそういう
人であらねばならないなってもう僕はなんか自分で詩人て名乗っちゃったけど でも
なんかそういう風でならないばならないな 感じました
そういう出会いがあったら書くし 無理やり探索して何かを題材を探して書く
僕も改めて自分が詩人を名乗るっていうことの意味は何にあるかっていうと こういう
出来事と出会った時に見逃さないし その声にちゃんと耳をすませるってことを
決意し
ある委託のようなものを 感じ取る
っていうことなんだと思う うん
うつらになりますっていう そういう宣言なんだと思うんだよ
うん
自分への宣言でもありそうですもんね 誰かへっていうかもしかしたら
そうだね
うん
まあこれでここからは本作を作り上げるにあたって 内野さんに感謝申し上げたいって書いてあって
終わるんですよ 今季2回目のインフルエンザワクチンを
朝日くんに打った日に自宅の取材にいて 松永あたり
後書き いやーすごい良かった丁寧に後書きを
ね触れてこれて ちょっと予想外時間経ったなぁ俺今4分の1だ
と言ったの本当は 自分の意味想像と何か
まあでも良かったじゃないですか丁寧に後書き 後書きだけでも本当にいろんなことを感じ取れる素晴らしい
文章だし 内容でした
これは 徹底的な使いましょうそうですねはい何回かに分けつつ
大事にうん
じゃあ一旦 はいいよいよ本題に入っていくんですけれどもそれは次回ということで
はいここで一旦終わりたいと思います ありがとうございます
59:49
Comments
Scroll