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#115 南無阿弥陀仏の言葉の重み、信ずることと知ること / 倉田百三「出家とその弟子」朗読解説その3
2026-07-18 24:13

#115 南無阿弥陀仏の言葉の重み、信ずることと知ること / 倉田百三「出家とその弟子」朗読解説その3

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今回は、倉田百三の戯曲『出家とその弟子』


本書は、大正時代に大ベストセラーとなり、ロマンロランからも大絶賛された。
浄土真宗とキリスト教のエッセンスをいれた親鸞とその弟子たちの話です。
宗派を超えた宗教の本質に迫る、戯曲。
私はこの本を読むと、「カラマーゾフの兄弟」を彷彿します。

感想

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それでね、まだね、これね、同じ第2幕なんですけれどもね、
あの、他のね、浄土教の神徒たちとね、神蘭が会話する場面があるんですよ。
で、ちょっとそこもね、いい場面だから、読んでみたいんです。はい。
で、この場面はね、その5、6人の
神徒たちがね、同業って言いますけど、仏教の中ではね、
あの、5、6人の同業が、神徒たちが来て、で、これ縁路はるばる来たから、
神蘭様にね、ぜひお目にかかりたいと言って。
で、神蘭が実際に、じゃあお会いしましょうって言って。
で、この神徒たちと神蘭とが、
対話する場面なんです。はい。
で、本当はこれ、同業1、同業2、同業3とかってなってるんだけど、もうちょっとね、まとめて同業っていう形で、僕、同業と神蘭の会話って形ですと読ませてもらいますね。
はい。
同業。
実は私たちが、14カ国の境を越えて、はるばる今日へ参りましたのは、
王女の一儀が心にかかるからでございます。
一儀ってその、王女をするっていうこの一つの出来事が、心にかかる。気になって気になって心配なんですってことなんですよ。うん。
王女の一儀が心にかかるからでございます。
私たちは是非とも、今度の御承の一大事が、助けていただきたいのでございます。
皆に代わって、私が一向にお願い申します。
何とぞ、王女の道を教えくださいませ。
神蘭。
さほどに懸命に道を求めなさるのは、自珍に師匠に存じます。
感心いたします。
私はいつも世の人が、心身を軽いことに思うのを不快に感じています。
心身は一大事じゃ。
親近勝負じゃ。
地獄と王女との追い分けじゃ。
別れ道じゃ。
人間が一番真面目に耐せねばならぬことだでな。
だが、あなた方は、国のお寺では聴聞なされませんのか?
あなた方の住んでいる地域ではね。
そのお寺でお話、説法を聞かないのか?と、この話をね。
道行。
毎度聴聞いたしています。
03:00
神蘭。
どのように聴聞していられます?
道行。
阿弥陀様に、何卒今度の御所を助け給われと一筋にお願い申せば、
いかなる悪人も必ず助けて下さると、こう受け給わっていますので。
神蘭。
その通りです。それでよろしい。
道行。
そこまではたびたび聞いて、よく承知いたしています。
それから先を詳しく教えていただきたいので。
神蘭。
それを聞いて、何になさるのじゃ?
道行。
極楽参りがしたいので。
神蘭。
極楽参りは、お国で聴聞なされてよく、
ご承知の通りの念仏で、確かにできるのです。
道行。
でも、なんだか不安な気がしまして。
神蘭。
安心なさい。それだけで十分です。
道行。
あなたのご安心が賜りたいので。
安心したいんです。
神蘭。
私の安心も、ただその念仏だけです。
道行。
でも、あまり曲がなさすぎます。
曲がないっちゅうなそん。
面白みがない、つまらないっていうことですね。
神蘭。
その単純なのが、東流の念仏です。
単純なものでなくては、真理ではありません。
また、万人の心に触れることはできません。
道行。
ではございましょうが、
あなたは長い間、比叡山や奈良で、
ご見学あそばしたのでございましょう。
私たち無学な者にはわからぬかと存じますが、
ご教養の一部をおむらしなされくださいませ。
それを賜りに、はるはる参ったのでございます。
国の土産にいたします。
神蘭。
いや、そのさまざまな学問は、
極楽参りの邪魔にこそ、なれ、
助けにはなりません。
信心と学問とは、別事です。
たとい八方の宝像を極めたとて、
極楽の門が開けるわけではありません。
念仏だけが、正常の業です。
正しく定まる行いです。
ということですね。
もし、おのおの方が、
神蘭は難しき教釈もわきまえ、
あるいは王城の別の司祭も存じおるべしと、
06:00
心にくくおぼしめして、
はるばる尋ねていらしたのならば、
まことにお気の毒に思います。
私は何も難しいことは存じませんでな。
そのぎならば、なんと北霊に、
有識学者がおられます。
すばらしい学者がおられますと。
そこに行ってお聞きなさいませ。
同行、ご謙遜なるお言葉に痛み入れます。
なおさらゆかしく存じます。
心ひかれます。
北霊一の収祭ときこえたるあなたさま、
なんのおろさかがございましょう。
神蘭、北霊なんとで積んだ学問では、
執理の道は得られなかったのです。
私は学問を捨てたのです。
そして念仏申して助かるべしと、
良き師の仰せを賜って、
信ずるほかには別の司祭はないのです。
同行、それは真相でございますか?
本当でございますか?
神蘭、何しに虚言を申しましょう。
思わせぶりだとおぼしめさるな。
およそ真理は単純なものです。
救いの手続きとして、
外から見れば念仏ほど簡単なものはありません。
ただ六字立てな。
だがうちからその心持ちに分け入れば、
限りもなく深く複雑なものです。
おそらくあなたがたが一生かかっても、
その底に達することはありますまい。
人生の愛と、運命と、悲哀と、
あなたがたを一生かかって体験なさる内容を、
一つの簡単な形に煮詰めて盛り込んであるのです。
人生の歩みの道すがら、
振り返るごとに、
この六字の深さが見えてくるのです。
それを知恵が増すと申すのじゃ。
軽書の競技を極めるとは別事です。
知恵が増えても心の目は明るくならんでな。
もし無意味がたが神蘭に相談なさるなら、
五十口の聖名でよろしいと申しましょう。
教釈の聞きぼこりはもっての他のことじゃ。
それよりも明々に念仏の心持ちを味わうことを、
心がけなさるがよい。
人を愛しなさい。許しなさい。
悲しみを耐え忍びなさい。
業の催しに苦しみなさい。運命を直しなさい。
09:04
その時、人生の様々な事象を見る目が濡れてきます。
仏様の御慈悲がありがたく心にしむるようになります。
生身だ仏がしっくりと心にはまります。
それが本当の学問と思うものじゃ。
道行恐れりました。
どんな私たちにもよく腹に入りました。
極楽へ参らせていただくためには、
ただ念仏すればよいでございますな。
ただそれだけでよいのでございますな。
鋭い刀で切ったように心がはっきりとしてまいりました。
ただ一つ私にお聞かせください。
この念仏して浄土に生まれるというのは何か証拠があるのですか。
心乱。
真心に証拠はありません。
証拠を求むるなら信じているのではありません。
ちょっと飛ばして。
法人、聖人の御関係、教えってことですね。
法人、聖人の教えようもそらごとではありますまい。
いや、たとい法人、聖人に騙されて地獄に落ちようとも、
私は恨み見る気はありません。
私は身だの本願がないならば、
どうせ地獄の他に行くところはないみです。
どうせ助からぬ罪人ですもの。
そうです。私の心を著しく表現するなら、
念仏は本当に極楽に生まれる種なのか、
それとも地獄に陥る因なのか、
私は全く知らぬと言ってよい。
私は何もかもお任せするのじゃ。
私の希望、命、私そのものを仏様に預けるのじゃ。
どこへなと連れて行ってくださるでしょうよ。
と言って終わるんですよ。
ちょっと朗読だけで伝わりました?
どこを取り上げていいのかわからないぐらい、
全部がすごかったです。
すごかったよね。
これいいよね。
ただ念仏を唱えるだけでいいんです。
生無駄仏の六次を唱えるだけでいいんです。
でもそれがあまりに単純すぎて、
本当にこれだけでいいんでしょうか?
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ってなるんですよ、信徒たちは。
その通りですよね。
だからその先を聞かせてください。
っていうことに来るんだけども、
信蘭はそれだけなのです。
その単純なのが当理優の念仏なのです。
って言うわけじゃないですか。
これはすごいことですね、ほんとね。
なんか僕も最近ね、本当に、
言ってる意味はわかるんだけども、
もうその言葉の重みが僕にはまだわかんないんだってことが、
実践に重いんだなって感じてるんですよ。
特にこういうことに触れていくとね。
でももうなんかそこなんだなって思ったよ、本当に。
仏教たちは自分を欠けた存在っていうか、
不足、欠けている部分を埋めたくて埋めたくて、
たずねてきていて、
どうにかこの自分を、
ここを満たしたいっていうか、
ここを欠けている不安を
満たしたくて、
生きている。
そうなんですよ。
神論って本当に母性的ですね。
いや、その欠けたるものが人間でしょうがって、
それで良いのですっていうことになりますもんね。
さっきのシーン、一個前のシーンで、
この姿をあるがままに保っておく方が良いって、
そこの気づきを入れてから、
もうそこで、それでしかないっていうか。
ついでも不安から埋めたくなるのが人間だから、
求める同業者たちの気持ちもわかる。
求めてしまうというかね。
だから、自分の欠けたところ、
まあこれももう自分なのかって言って、
こうやって需要するじゃないですか。
でも神論のすごいところは、
自分がいかに至らないかっていうことを、
深く深く感じ取ってる人なんですよね。
どこまでもどこまでも自分が罪人なんだっていうことに
言っていく人なんですよね。
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それがすごい。
で、そのたんびに、これで良い。
これで良い、そしてそこを何もかもお任せするってね、仏に。
そこと等しいんだなって思う。
自分がもともと欠けている存在だから。
あとのことは、それで仏にお任せするっていうか。
こういうとね、もうなんかその、
じゃあまあもう努力しなくていいですね、とかね。
そういう感じになるのがね、ちょっとまた別なんですよね、それはそれでね。
やっぱり自分に与えられているものをね、
快化させないっていうのもね、またこれ罪なんだと思うんですよ。
満身とはね、全く一致しないっていうかね、そうですよね。
これね、法念のすごいところはね、神論の師匠さんの法念のすごいところはね、
法念は自分にものすごい厳しい人でしたからね。
すごい修行をしてましたからね。
それでいて、私に対しては温かい眼差しを向けていたっていう人ですからね。
すごいことです。
これ学問をしてたんだ自分はっていう話が出てきてね。
心身と学問とは別事ですって。
信ずるということと知るということは別なんですって。
これもすごいテーマなんだよな。
そもそもね、知ることができないものをね、信ずるしかないことになってくるから、
知ることができないものが信ずるってことだからね。
知らないと信じれないっていうのではね、いつまでも信ずるってことは始まらないのかもしれないんですよ。
この世のことはね、人と人の信頼とか信用とかはね、
その人のことを知って信用するってことはあると思いますよ。
でもね、どうですか、もうちょっと深いもの、目に見えないものの話になってくると、
からっていう話ではなってこないですよね。
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でね、僕がこれすごいなーって思ったのはね、
ただ一つ私にお聞かせください。
その念仏して浄土に生まれるというのは何か証拠があるのですかって。
神徒が尋ねたときに、診断が、
心身には証拠はありませんって。
よかったですね、本当に証拠を求めるのに。
いや、本当にそうだよな。
でね、診断はね、私はね、
どうせ助からぬ罪人ですものって言うんですよ。
地獄の他に行くところはない身なんですって言うんですよ。
これを持ってる診断がすごいんですよ、本当に。
だからどうせ地獄に行く身だから、仮に行けなかったとしても、
もう仕方がないことっていうか、当たり前のことで、
だから私に可能性があるのは念仏を唱えるということしかないんです。
だから私はそれを信じてるんですっていうことなんですね。
その信じるということにね、証拠はないんですって言うんですよ。
僕はこれやっぱ気持ちいい。
いや、証拠はありますよ。
実際、無料授業に書かれてあります。
法蔵菩薩が誓願を立てられて、っていうこと言うでしょ。
普通の僧侶だったら。
でもね、そう言われるよりもね、証拠はありませんって言うほうがね、
証拠のいいですね。
これが診断の魅力だなと思って。
どこまでも誠実ですね。
そうなんですよ。
これね、パンニションの中に出てくるある場面があってね。
実際この出家と出資にも近い場面出てくるんですけどね。
ちょっと今日は扱わないですけどね。
どういう場面かって言うとね、
悠焉がね、念仏を唱えるんですよ。
本来念仏ってね、唱えると、
いう訳歓喜って言ってね、心が踊って喜びに満ち満ちてくるんだって言うんですよ。
でね、念仏を唱えるとね、だんだん浄土が見えてきたり、浄土に行きたいって気持ちも湧き起こってくるっていうね。
そういうことみたいな力を感じるんだっていうね。
そういうことが念仏を唱えるってことなんだって言われるけれどもね、
悠焉は自分は一生懸命念仏を唱えてもね、眠たいんだって。
全浄土って感じも全然してこないんだっていうこと言うんですよ。
なんでなんですかねって。
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これ普通の人に言ったらね、お前はまだ甘いって言われるでしょうよ。
それが、新南はなんて言ったかっていうとね、私もそうなんですって言うんですよ。
これはすごい。本当にすごい。
なんかさ、普通だったらね、そういう経験誰にもがあるんだけれども、やっぱり長く修行してると、
なんだろうな、やっぱり長くやればやるほど掴めるものがあるからさ、そういうことを言って、まだまだ足りないんだよとかね。
でも新南はさ、さも自分が完璧だとは言わない。決して。
自分が優れてるとも言わない。
で、自分もわかんないんですとか、自分もそうなんですとかっていうふうに言うわけじゃないですか。
すごいですよね。
こういう人にやっぱ信頼しますよね。なんかついてきたくなっちゃいますよね。
本当に。
なんかこう、さっきの同業者との会話でも感じたんですけど、
何ていうのかな、分離してないっていうか、相手と自分を分離させて、
同じだよって、踏み込むような、そういう温かさをすごい新南の言葉から感じる。
なんか正解?なんかこのネタが正しい、なんか完璧で正解で、それを押し付けるっていう姿勢もないし。
そうなんですよね。
とても温かい。
そうなんだよな。なんか押し付けられたら辞めちゃう人いるかもしれないですね。もうね。
あなたはなんかそう感じるのかもしれないけど、私は感じないから、もう私は違うのかもしれないとかね。
これはもう合わないのかもしれないとか言ってね、辞めちゃったりとかね。
でも、そっか、新南でもそう思ってるのか。でもそれでもなお、今でも念仏を唱えてるってどういうことなんですか。
とかってね、なってきますしね。
本当にそのあるがままを、それでいいんだよっていうのを体現してるっていうか、そういうふうに、そういう姿に見える。
いいですね。ちょっとまだ第1幕、第2幕だけなんですけれども、なんかもうすでにいいですね。
いいです。
こっからの第3幕、もうね、より極まってきますんで。
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一旦ちょっとここで区切りましょう。ありがとうございます。
ありがとうございます。
24:13

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