オリンピックに向けた準備の様子
戦後史開封 昭和100年あのとき私は
第4回、五分でわかる昭和39年。令和7年は昭和元年から数えて100年目、つまり昭和100年にあたります。
100年にわたる我が国の歩みを、1年ずつ切り取って振り返ります。
第4回目の舞台は昭和39年。昭和39年の出来事や世相を12歳の子供の目線でお届けします。
町全体が工事現場のようだった。10月の東京オリンピック開幕に向けて、私の住む町でも首都高速道路の建設が進んでいた。
去年完成した部分は日本橋の上にかかっていて驚いたが、私の家の近くも川の水を抜いてその上に道路が作られた。
9月に完成したモノレールと同じように羽田空港と都心を結ぶためのものだ。 自動車が増えると排ガスで空気が汚くなるという人もいるけど、
もともとドブ臭い川だったので、私は別にいいと思う。 工事中はトラックの砂ぼこりでせき込む日もあったが、オリンピックのためと思えば我慢できた。
オリンピック直前には東京と大阪を4時間の速さで結ぶ東海道新幹線が開通し、柔道などの会場になる日本武道館も完成した。
学校では男の子たちを中心に切手がブームだった。 先生に内緒で学校に持ってきていたが、珍しい絵柄のものは値上がりするらしい。
切手博士みたいな子もいて、いちいち周りの子の収集に値段をつけていた。 学校ではオリンピック学習も開かれて、
大会の歴史や意味、東京はアジアで初の開催ということや、90カ国以上が参加することなどを勉強した。
街をきれいに、外国のお客さんに恥ずかしくないようにといった話も多くて、ちょっと退屈だったが、
いざ開幕すると、私はオリンピックに夢中になった。 10月10日土曜日
前日の雨はすっかり上がり、空は真っ青だった。 学校から急いで家に帰り、家族でテレビの前に座った。
感動したのは、聖火ランナーの姿だった。 国立競技場の聖火台に最後に立ったのは、私より7つ年上の19歳。
広島に原爆が投下されたその日に、広島県で生まれた人だという、 原爆については学校で学んだが、
あの残酷な日に生まれた人が、19歳のお兄さんとして晴れの舞台に立っている。 あの日から人が成人するほどの時間が経ったことを、多くの日本人はどう感じているのだろう。
日本がオリンピックをやれるような国になったことを、 どう思っているのだろう。
そんなことを考えていたら、 戦争を経験していない私まで、なんだか涙が出てきた。
今回初めて正式種目となった柔道や、東洋の魔女と呼ばれる女性たちのバレーボールなどで、 日本は金メダル16個を獲得した。
東京では靴を履いていたけど、男の子たちはエチオピアのマラソン選手、 アベベの真似をして校庭を裸足で走るのが流行った。
みんなオリンピックの話題で持ちきりで、 きって博士は寂しそうだった。
私が一番感動したのは競技よりも閉会式だった。 開会式のような整然とした国別の行進ではなく、
各国が入場後に自由に混ざって行進したのだ。 いろいろな肌の色の選手たちが笑い合って肩を組んだり、
写真を撮ったり、中には肩車している選手たちもいた。 世界では今も戦争が起きたり、原爆実験が行われたりしているけど、
私の目の前の光景は全然違った。 人間っていいなぁ。
スポーツの力って大きいなぁと思った。 世界はこれからどんどん平和になっていくのだろう。
私が生きているうちにまた東京でオリンピックをやってほしい。 その時は絶対に会場で生の競技を見たい。
そしてあの閉会式のように多くの外国人たちと触れ合うのが私の夢だ。
閉会式の感動
終戦から19年目。 昭和39年生まれの人は今年歓励を迎えます。
10月10日の東京五輪に向けて都内は町中が工事現場のような状態でした。 開幕ギリギリの9月には東京モノレール。
10月1日は東海道新幹線。 3日に日本武道館が完成。
学校ではオリンピック学習も行われました。 一方海外ではベトナム戦争が本格化。
台湾の参加を理由に五輪不参加だった中国は 大会期間中に核実験を成功させました。
戦後四海風昭和100年 あの時私は
最後までお聞きいただきありがとうございました 案内役は私ナレーターの武井百合でした