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始まりました、「大人の近代史」よろしくお願いします。
はい、よろしくお願いします。
じゃあ早速、今日はね、とってもなんだろうな、大人なテーマになります。
お、いいね。
いや、だけどね、ちょっとは結構なリスクがあるし、自分もちょっと覚悟を持ってやらなきゃいけないなっていうテーマでもあるんだよ。
なんだよ、リスクって。
なのでテーマは、誘客から慰安婦に至る性売買の歴史。
お、なんか長そうだな。
そうそうそう。ということで、早速ね、この性売買のね、歴史っていうところで、もちろんこれってさ、教科書では習わないよね。
習わないっていうか、載せないよね、こういうのは。
そういうのはもうタブー視してるし、だから自分もなんだろう、本当にこれね、前々からちょっと本とか取り寄せてちょっと調べてたとこあったのよ。
だけど、いやーなんかこれやっていいのかなっていうその葛藤がずっとあった。
葛藤ですか。
そうそう。なんでね、今回はまずは大人の近代史ではこの大きな枠を話せたらいいなっていうところで、全体的な流れを説明したいなって思います、今回は。
じゃあまずね、どこまで遡るかにもよるんだけど、あんまり遡っても近代の歴史に戻ってこれなくなっちゃうんで、江戸時代ぐらいをちょっと軽くやってから近代に入っていこうかなと思うんだけど、
江戸時代ね、まず生売買をしている女性っていうのはいくつか種類があったのね。
まず一つに優女って言われる。これは主に江戸時代で性サービスをしていた女性を指すんだけど、働いている場所が幕府が公認した裕閣などにいた人たちなんだよね。
で、ここで特徴の一つはその性サービスをしてたんだけど、それだけじゃなくて歌とか舞を見せたりもしてるっていうとこなんだ。
そういうところもあったっていうね。
で、次に出てくるのが召盛女、または召売女って言うんだけど、知ってるかなこれ。
いや、知ったことない。
これは裕閣で働いている人たちじゃなくて、日本の宿場で働いてて性サービスをする女性のことを指すんだけど、
必ずしも性サービスをしてない人もいて、仲井さんとかもこの召売女とかそういうふうに呼ばれることもあるんで、
ちょっと一概に必ず性サービスをしてたっていうところにはならないんだけども、そういう人たちも多くいたっていうのは現実にあった。
これは幕府が黙認をしてた。知ってて処罰の対象にはせずに黙認という形をとってた。
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ただ条件っていうのがあって、宿屋に1件につき2名までとか、そういう取り決めもあったんだよね。
なんかその、宿屋に常駐してる人って感じなの?
そうだね、そんな形でいいと思う。
宿つきの、言い方悪いけど、売春婦みたいな感じなのかな、イメージ的に。
そうそう、もちろんその宿の仕事もしてたと思うんだよ。
まあそんな形で、誘客っていうとさ、やっぱ場所って限られてくるわけじゃん。
そうすると、ない地域はじゃあどうすんだっていうところになるんだけど、
そういったものでこういう人たちが現れてきたっていう経緯がある。
なるほどね。
そうそう。で、次に隠れ売女っていう。
なんかもうそのまんまな気がする。
そうそう、これは江戸時代で非公認、幕府が認めてない人たちで正サービスをする女性のこと。
だから幕府が公認してない場所で売春を行うっていう。
だから見つかったら処罰の対象になる、この人たちは。
なるほど。
そう、まあ大まかに分けてこんな感じにいるんだけども。
ちなみにこの遊女っていう言葉は平安時代から遊女って遊ぶに女っていう言葉あった。
ただ呼び名が遊び女って言うんだけど、この遊び女が音読表記になって遊女になった。
まあちょっとした小ネタでした。
江戸時代初期に入って幕府が公認する有名な三大誘客って言われるのができるのよ。
これが江戸の吉原、大阪の新町、京都の島原っていうような大誘客ができるわけ。
で、これなんでできる経緯かって言ったら、幕府は秩序を維持するためというか、
その性の秩序というか、それまで戦国時代とかでも男性が多く遠征をするわけ。
で、その時に合間だったりとか敵の妻を合間しちゃうみたいな、そういう秩序が保たれない現状もあったわけ。
で、あとは単純に資金源になるっていう、この収益の一部は幕府に収めるっていう仕組みにしてたの。
だからこの誘客っていうのは結構重要な資金源になってたんだよね。
で、その誘客で働いている遊女っていうのは、実際に生活区であったり借金などがあって見売りされた人たちなわけよ。
だからいわばこの人身売買なわけよ。
あーそうだね、そのイメージか。
そうそう。自由意思で働いているわけじゃないっていうところが特徴の一つなんだけど。
しかも安政の江戸地震とかでもちょっと触れたけど、遊女っていうのは働いている周りを壁や堀で囲まれた場所で働いてて、逃げ出せないようにしてたっていう。
もう要は奴隷的拘束を受けてたんだよね。
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で、客店のためにこう行進があって、その前に並べられて、そんで客が来たらひたすら客の相手を引き続けなければならないっていう。
そういった華やかさとはほど遠い悲しい現実があったわけ。
あーなるほどね。
で、この後ペリーが来航して、そのきっかけに鎖国が日本は解かれるわけなんだけど。
そこで欧米とかの、その世界との関わりが盛んになっていく時期でもあるんだよね。
で、その当時の欧米の傾向としては奴隷制の廃止っていうのが掲げてた。
っていうのと、あと性売買によって、実際に性病が蔓延したっていう事実があって、その性病の防止策の取り組みに強化してた。
そうなのか。
そうそう。だから日本に来た時にフランスが日本の優女に対して強制的に性病検査をしたっていうのが、これがまあ日本でいう性病検査の初って言われてるんだよね。
あーそうなの。
そうそう。それまで日本っていうのはさ、あの全く性病検査っていうのはなかったから。
で、日本でさ、初めて性病検査所ができた、この後できるんだけど、これは長崎にロシアの艦隊の水兵が丸山誘拐っていうところを利用したの。
で、そこで優女からあの梅毒をもらってかかっちゃった。
で、そこでロシアが1860年に長崎の稲沢っていうところに梅毒の検査所を作るように要求して、そこで初めて日本で梅毒の検査所ができたんだけど、
実際にね、この検査した結果、丸山誘拐の優女っていうのは半分以上がもう梅毒にかかってたんだよね。
半分か。
そうそう、その当時さ、江戸時代って他にもこの長崎だけじゃなくて、いろんなところで梅毒って結構流行ってたんだよね。
だけど、有効的な薬もなかったから、もうどうしようもない状況になってたわけ。
そんなところに、欧米の圧力の下を日本各地で検査所ができていったっていう経緯がある。
で、日本は明治維新に入っていくわけなんだけど、そこで国際社会で欧米と対等な立場に立っていくにはっていうことを考えさせられるわけよ。
不平等条約をさせられたりとかあって、だから今まで古いこの幕藩体制の時にあった身分制、優女に関しては奴隷の扱いだよね。
こういった性売買に関しても、国が主導で管理とか統制をしていかなきゃいけないっていうふうに考えるようになったわけ。
1872年に芸衝技開放令っていうのを出すんだけど、これが主に将棋芸技って言われている人たちの人身売買を禁止した。
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これちょっといきなり将棋芸技っていきなり出てきたんだけど、まずこの芸衝技開放令っていうのは何なのかっていうと、人身売買する際に発生するこのお金だよね。
身の代金って言ったらいいのかなっていうのは、そもそも不正であって、それによって問題が起こっても訴訟には応じないよっていう政府の見解を出した。
さらに性サービスをする女性が、今まで優女っていうのは決められた場所にもう拘束を強制的にさせられてたっていうイメージがあったわけじゃん。
実態はそうだったんだけど、それを性サービスする女性が自ら貸し座敷っていうのを借りて営業するようにしたわけ。
要は女性が自らっていうところ自発性を持たせたわけなんだけど、ただ実際はこれは建前でしかなくて、
貸し座敷業者っていうところに将棋は拘束されて、結局は優女と同じようにその場所に自由がない状態で拘束される。
こういう貸し座敷を借りて働く女性のことを将棋っていう。それで芸妓っていう人たちが何なのかっていうと、
芸妓っていうのは京都では芸妓さんっていうね、のことなんだけど、料亭とか茶屋で歌や舞いをして客をもてなす人たちなんだけど、
この時代の人たちって全てではないんだけど、密かに成敗をする女性っていうのもいたの。これは表向きはそうでないから、
さっき言った将棋とは違って、賢敗の強制もない。賢敗っていうのは売毒の検査ね。
もう一つこの時代でよく言われる名称が出てくるんだけど、釈夫っていう。これは料理店の酒の席で客の接待をして、その中で密かに成敗をする女性。
今の時代にも何かありそうじゃない?
そうだね。これも必ずしも全員がそうしてるってわけでもないから一概には言えないんだけど、このさっき言った芸将棋解放令っていうのはじゃあ一体何なのかっていうと、
人身売買はダメだよって禁止にしたの。だけど性売買に関しては禁止をしてないんだよね。
だから人身売買はなくすって方向だけど、性売買は認めるような形になっていくわけ。
しかも人身売買に関して現実と建前っていうのがあって、実際に継続して人身売買っていうのは見られた傾向にあった。それ以降も。
前言った佐田役子の時も、佐田役子って芸妓だったんだけど、実際に15歳の時に伊藤博文に愛人としてなってるっていうのもあるし、
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そもそも佐田役子っていうのは幼い時に芸妓として売られて、その時人身売買は禁止だったはずなのにそういうのがあったっていうのがあるからね。
その後に1876年に入って、政府が性売買の取締りについて発表するんだけど、これは何かっていうと、性売買の取締り権限を警察にした。
警察が管理というか、例えば貸し座敷とか商議の営業申請っていうのは、警視庁に出さなきゃいけないっていうふうにした。
それで週1回は必ず券売を受けなきゃいけないっていうのもあって、沖縄では実際1900年から券売を受けなきゃいけないふうにちょっと地域差はあるんだけど、
しかもこれ優女と結局変わんないんだけど、貸し座敷業者も商議も取り分の数パーセントは政府に納めなきゃいけないっていうのが取り決められた。
しかも結局優格っていうようなその区域から外に働いている商議の人は移住しちゃいけないっていうふうになってるから、
だから実は江戸時代にあった優女とあまり変わってはない。ただここで警察が管理するようになったっていうところはちょっと特徴の一つですね。
この後、性売買の歴史って人の流れによって反映していくんだよね。
例えば北海道を例にしてみると1871年にススキの優格っていうのができたんだけど、
これは北海道ってさ、それまで未開の地って言われててさ、
アイヌ文化が栄えていた土地でもあってさ、そこを日本の本土の人たちが開拓民を送って、
多くの男性がその北海道、当時は江戸地って言われてたけどそこに行ったわけ。
彼らの娯楽場としてできたのがこのススキの優格だったんだよね。
これは他でも言えることなんだけど、人のこういった流れ、流入によって性売買をするところっていうのはできていくっていう傾向にある。
次にね1873年ぐらいになると日本の各地に賃貸って言われて、要は軍隊だよね。
軍隊が日本各地に置かれるようになる。
これ中央集権国家になって日本っていうのは軍備を強化していくっていう傾向に走るんだけど、
そこで数多くの賃貸ができるわけで、その周りにも性サービスをする場所っていうのを同じように作っていくっていう歴史がある。
だからこれが何だろう、軍と性売買の関係性がもうすでにこの頃からできてるんだよね。
この流れは日本本土だけじゃないのよ。
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例えばその朝鮮なんだけど1876年に日朝修行条規って言って朝鮮がこの時に開国するのね。
これはアメリカが日本にしたように、日本も朝鮮に対して日本側が有利な不平等条約を結んだのよ。
これによって日本人が多く朝鮮に流入するきっかけになるんだけども、
それまで朝鮮王朝っていうのが表向きは性売買っていうのを禁止してた。
でも影ではキーセンとか言われる人たちがいて、性売買は存在はしてたんだよね。
日本人が来たことによってもう公然とアメリカとか欧米がしたように日本に居留地を作ったみたいに、
日本も朝鮮に対して居留地を作ってそこに貸し座敷とかそういった性売買場を作って、
公然とそういった取引が行われるようになった。
性売買をする女性っていうのは主に日本からその時は連れてきてたのが多かった。
日本って近代になって海外にこうやって積極的に進出していくんだけど、
それと共に性売買の関係者も含めて移住を推進していってるっていう傾向がある。
ただこれとはね、流れとは逆に日本本土では、
例えば自由民権運動とかキリスト教の考えもあって、人権をこういった無視した性売買っていうのは良くないっていう流れもあった。
これが1893年に、県では初めてなんだけど群馬県で公認の貸し座敷とか商議っていうのは廃止されたんだよね。
ただ元々群馬県っていうのはそもそも性売買の数が少ない県で、
廃止後も公認されてない支障っていうんだけど、
そういったサービスをする女性たちが出現して、完全に亡くなってはないっていう現実はあるんだけどね。
この頃の日本の中枢にいた人の主な考えっていうのが、
これちょっと象徴している言葉があったので取り上げたいんだけど、
1896年にロンドンのデイリーニュースの記者の質問に対して、当時の首相伊藤博文が言った言葉なんだけど、
彼らをもって、彼らっていうのは将棋のことなんだけど、
彼らをもって単に不徳と呼ぶなかれ、憐れむべし彼らの中には貧苦に迫る良心を助けんため、
身を売り功を試さんという高尚なる目的を抱ける者もある。
故に苦行中善行を積む者は再び社会に出ることができるのであるっていう風に言ってる。
要は性サービスをする人、良くない人って捉えるんじゃなくて、
彼女たちも彼女たちなりに良心を助けるためだったりとかそういう目的があって、
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苦しみながらも道徳にかなった働きをしてるんだっていう風に言ってる。
さらに福沢諭吉なんかも将棋の力を借りて社会の秩序を維持すべきっていう風に言ってる。
こういう風に見ると福沢諭吉に関しても学問のすすめで、
人は生まれながらにみんな平等って言いながらも、
この将棋に対しては平等っていうのがちょっとかけ離れたような形に見えるんだよね。
だからこういった性サービスをしている人の人権っていうのを、
この言葉からもそのこと自体を問題として取り上げてないというか、
実際に拘束されて自由もない奴隷的な待遇を受けてるっていうことを無視して、
美化したような言い方なのかなっていう言葉かなと思って。
1900年になって政府が訓令第17号っていうのを出すんだけど、
これは性サービスをする将棋に対して細かな取り決めを出すんだけど、
今まで年齢制限って取り決めがなかったんだけど、
将棋は18歳以上じゃなきゃダメっていう風になった。
しかも警察に名義登録が必要で、
今まで外出っていうのはダメだったんだけど、
警察の許可があれば外出してもいいよっていう風にはなった。
だけど許可が必要だから実際に自由に外出できるっていうのはなかったわけ。
結局はちょっと変わらない部分もあったんだけど。
ここで将棋名簿の削除が本人の意思で警察に言えば、または書面で送れば可能になった。
これはどういうことかというと、自由意思でその性サービスをしている将棋自身が希望すれば、
その将棋を辞めることができるってことだ。
これは今までなかったことで、
例えば自分の意思で辞めたいって言っても奴隷的な拘束で借金もあって辞めれないっていうケースも多々あったんだけど、
これで警察に言うことによって辞めれるっていうことになっていく。
ただ貸し出し企業者に暴力に遭うケースとかもあって、
なかなか辞めたいけど辞めれないっていう人たちもいたのは現実だ。
だけどこの訓令が影響して、実際に将棋を辞めれた人たちも増えて、
この訓令が出される前の1899年だと、日本国内で将棋の数って約5万2千人ぐらいいたんだけど、
1902年になると約3万8千人って結構減少傾向にはなっていったんだよね。
日清戦争の後の不景気も影響していると言われてるんだけど、
ただ1904年になってまた4万2千人って結構増えてるんだよ。
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これ何で増えたと思う?
日露戦争は負けそう。
日露戦争に入っていくわけよ。
なのでさらなる日本は軍の増強を図ったわけよ。
軍が増えるイコール整備所も増えるっていうこの流れなんでね。
日本各地に陸海軍の軍の大難手段っていうのが各地に配置されるわけなんだけど、
そこでまず手段が設置されるにあたって工事をする人が、
労働者が数千人ぐらい流入をするわけよ。
しかもそこにできた後に軍の兵種も増えて、
それに伴ってそこに誘拐みたいな地域ができて、
整備場合が拡大していく。
これで何でこう作ったのかっていう政府の見解というかのがあって、
一応建前上は兵士の不満解消、
整備を感染の防止とか地元の繁栄っていうふうには言われてるんだけど、
実際にどうなのかちょっと疑問は残るけど、
ここでちょっと台湾の方に目を向けたいんだけど、
日清戦争に勝利した後ってさ、
台湾って植民地になったわけじゃん、日本の。
ここで台湾に日本の守備隊を置くために日本人も多く流入したの。
なんでそこでまた成敗する女性も日本から多く連れてこられたの。
ここで日本の過死座敷とか将棋制っていうのを導入してった。
ここで年齢制限なんだけど台湾に限って、
なぜか16歳以上っていうふうにしてるんだよね。
日本ってさ、本土は18歳以上だったじゃん。
だけど台湾に限っては年齢制限を低くしてるんだよ。
より集めやすくするっていうのもあったんだけど、
これさ16歳以上にすると、
日本から連れてくる日本人も16歳だったら台湾で働かされちゃうっていう現実があった。
この台湾っていうのも要は性病蔓延のため、
日本軍返しの娯楽のためっていうのはさっきと似てるんだけど、
あとはその日本からの移民が定着するためっていう建前もあった。
あとはそのアヘン中毒の予防とか言われて、
実際に台湾人の成敗をする人がいて、
その人たちがアヘン中毒になってるケースもあった。
その人との接触を立つためっていう建前だね。
そういうので作ったっていう日本の見解があるんだよね。
ここでちょっと注目したいのが台湾で今まで貸座式制とかいうものが入れられてたんだけど、
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これは飲食とか歌や舞があるやつだよね。
だけど台湾で性的行為だけを目的に、
安く短時間で済ませる軍用の性的施設が作られた。
これが日本軍慰安婦制度の原型って言われてるんだよね。
そうなんだ。
こんな風にして慰安婦っていうものにちょっと近づいてきたところで、
ちょっと今回は一旦ここで区切りたいと思います。
どんな感じでしょうかね。
慰安婦っていうかその売春の歴史かな、今やってきたものっていうのが。
そうだね。実際に第二次世界大戦に入らないと、
慰安婦って言い方はしないからね。
やっぱりそういうのを調べてこなかったっていうのもあるし、
調べようって完全に思わないと、
多分そういう情報って入らないじゃん。
だからそういう意味で、こういう機会じゃないとなかなか触れないことだし、
大灼けの場で語りにくい話題でもあるから、
いい機会を提供してくれてありがとうっていう感じかな。
今回自分が話したのも、実際に全てが実態と合っているかっていうのも、
それも合ってない部分もあるだろうし、
いろんな意見がこれに関してすごくあると思うんですよ。
ということで、今回裕郭からこのセイバイバイの歴史っていうのを話させていただきました。
また次回聞いていただけると嬉しいです。
ありがとうございました。
ありがとうございました。