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ベンジャミンフランクリンは言った、節約した1ペニーは、稼いだ1ペニーである。
始まりました、「大人の近代史」よろしくお願いします。
よろしくお願いしまーす。
1ペニーって言われても、ちょっとピンとこねえけどな。
ねえ、なんか、1セントのことらしいけどね。
あー、なに、昔の単位?
なんか、そういう別名で呼ばれてたらしいよ。今も呼んでるのかわかんないけど。
あー、そうなんだ。
あ、これアメリカの人なんだけどね、ベンジャミンフランクリン。
うん、フランクリンは有名でしょ。
そうそうそうそう。
あ、そうだなと思って。
あの、稼ぐことだけがさ、お金を得るだけじゃなくてさ、やっぱ節約するっていうこともさ、稼いだことになるんだなっていうね。
あー、どうだろうね。何だろうね。考え方次第だろうね、そこは。
そうそう。まぁ今日はさ、あの、ちょっと通貨のね、ことを取り扱いたいなと思って。
お、さすが。金と言ったら小片郎だもんね。
いやいや、あの、元銀行マンの長丸の方が本来であれば。
銀行マンじゃないよ。
あ、そうなの?
うん。
まぁ、ということで、今回のテーマは、ニクソンショックと沖縄の通貨機器をやりたいと思います。
あー、なんかね、これはすごい良いテーマ来たね。
あー、でもまぁ、だいぶちょっとね、現代寄りにはなってるんですけども。
うん。
まぁ、時代背景がね、戦後の話だったりするんで、今回はちょっと取り扱いました。
まぁ全然、だってさ、とはいってもさ、ニクソンショックなんてもう50年前だからね。
そうそうそう。
そう、50年前はもうなんか、俺の中じゃ近代史的なちょっと扱いでいいと思っちゃってる。
ということで、まずさ、ニクソンショックっていうのは何なのかっていうと、
これは1971年の8月15日にアメリカ大統領リチャード・ニクソンが、
ドルの金交換停止と10%の輸入課長金を柱とする経済政策を発表したことなんでね。
んー、なんか今、よく分かんなかった。
あ、そうそうそう。ちょっと、こっから詳しく説明するんで。
うん。
まずはちょっと時代背景から触れて、ちょっとさっき言った、よく分からなかった部分も解説していくので、
はい。
聞いてください。
よろしく。
時代背景っていうのは、当時共産国などを除いて、世界は基本的に金本一世を採用していたんだよね。
うん。
そう、でまぁ詳しくはこれ、高橋コレキオの回で金本一世については語ってるので、
よかったらその回を聞いて、この今の回を聞いていただくと、より理解が深まるかなと思います。
はい。
で、各国のさ、通貨の価値っていうのは、金によって担保されていたんだよね。
うん。
そう、で、世界恐慌によって各国は金本一世を一時的に停止するんだよね。
03:01
うん。
で、第二次世界大戦の終盤の1944年になって、アメリカとかイギリスをはじめ、連合国側でブレトン打つ会議っていうのを行うんだよね。
うん。
で、この中で決まったのが金本一世の復活だったんだよね。
うん。
ただ、そのまま金本一世を復活させても、これまで戦争や世界恐慌の時とか、うまく機能しなかったって経緯がある。
そこで、金と各国の通貨の交換っていうのは、一旦アメリカのドルを仲介することで、金の交換比率をアメリカが調整をするって役割をすることにしたんだよね。
うん。
それによって金本一世を安定するっていうことにしたの。
うん。
これをさ、よくブレトン打つ体制とか、あとまたは金ドル本一世っていう言い方もするんだよね。
うん。
なぜここでアメリカが仲介に入るのかっていうところなんだけど、
うん。
アメリカは第一次とか第二次世界大戦でも直接本土が戦争の被害を受けることがなかった。
で、生産基盤を破壊されることなく、戦争特需によって輸出を伸ばすことができていたんだよね。
うん。
こうしてアメリカは世界一の経済大国になっていったっていう背景がある。
うん。
で、アメリカにはさ、大量の金が集中して、一時期はね、金本一世の3分の2がアメリカに集中するっていう事態になってた。
うん。
という背景からも、アメリカが仲介に入ることで、より金本一世の信頼を高めて安定させるっていうことに繋がるんだよね。
うん。
で、このブレトン打つ体制下ではさ、さらに各国の通貨はドルとのレートを固定する固定相場制にしたんだよね。
うん。
日本はこの時1ドル360円にしたの。
うん。
で、このレートね、ちょっと後で出てくるので、大人の方覚えておいて欲しいんだけども、今はさ、1ドル139円とか、確か今日見たら。
なんか、そうだね、140円いったかいってないかみたいな感じのところだよね、今。
そうそう。だいぶさ、もう、この時50年前とかだけどさ、もうそれだけでも違うんだなと思ってさ。
まあそうだね、あのだいぶ円高にはなったよね、その時に比べたら。
そうそう。でも今どんどん円安になっていってるって言われてるのにね。
うん。まあ一時期に比べたらだいぶ円安だからね、今。
まあまあそうなんだけどね。
うん。
で、この体制がしばらく続いて、1971年にさっき冒頭で言ったアメリカ大統領ニクソンが、金とドルの交換を一時的に停止しますっていう宣言をするんだよね。
うん。
でさ、え?これ、ドルさえあればさ、いつでも金と交換できるじゃなかったの?っていうようなさ、そんな信用が失われて、世界経済っていうのはこう大パニックになるんだよね。
うん。
なんか、弁護士目指すから付き合ってたのに、駄菓子屋の店主になるってどういうこと?みたいな、そんなさ。
06:05
よくわかんない例えだけどね。
まあ、そんななんだろう、こう夢見てた世界がさ、まあ崩壊した日でもあるんだよね。
うん。
で、なんでこんなことになったのかっていうと、その背景にはさ、順調だったアメリカ経済っていうのは、1950年代に入ると駄菓子屋の黄金時代となるんだよね。
ん?
あ、ごめん。駄菓子屋ちょっと引きずっちゃった。
いやいやいや、あ、いいよ。駄菓子屋の黄金時代でいいよ。俺はそのまま。
いや、ほんとに1950年代は黄金時代なんだけどね。
うん。
1950年代に入ると、朝鮮戦争が始まるんだよね。
うん。
で、軍事物資などの調達のためにアメリカっていうのは、各国からの輸入が増えて、で、そうなるとさ、アメリカの国際収支っていうのは赤字へこう転換していったんだよね。
うん。
で、ドルが流出するっていうことになるから、イコール金が流出するっていうことが続いていくんだよね。
うん。
で、極めつきはさ、1960年代のベトナム戦争が始まって、泥沼化になっていくんだよね。
うん。
で、それで軍事費がアメリカ膨らんで、金の流出がさらに加速をするって事態になった。
うん。
そう。で、それに加えてさ、西洋諸国だったり日本もそうだけど、戦後の復興を遂げて発展してきたことによって、それまでアメリカの輸入に頼っていた経済が変わってきたんだよね。
うん。
で、一方アメリカの経済はさ、停滞して、国内でも失業率も増えていったっていう事態になった。
うん。
そうするとさ、多くの国がさ、本当にドルはいつでもこれ金と交換できるの?っていうさ、信用が失われて、ドルを金ともうすぐに交換してくれっていうようにアメリカに要求するっていうことになってきたんだよね。
うん。
で、アメリカはさ、これ以上金本位制を維持するのは難しいっていう風に判断して、ニクソン大統領がこの新しい経済政策っていうのを発表したっていう経緯がある。
うん。
で、ニクソンショックのアメリカの狙いなんだけども、アメリカの輸出をさ、こう伸ばして輸入を制限したいんだよね。
うん。
そうすればさ、国際収支は黒字に向かうっていう予測で、これはさ、ドルの価値を下げることによって、まあ輸出が促進されるわけで、
うん。
例えばさ、100ドルなんだろう、何でもいいんだけど、100ドルの大人のおもちゃが、日本ではさ、3万6千円だったとするじゃん。
何で大人のおもちゃって。何で卑猥なんだよ、急に卑猥になった。
いや、例えばね、ごめん、だいぶ立派なものだけど、で、それがさ、100ドルの大人のおもちゃが、日本ではさ、3万円になったとしたら、
うん。
ドルの価値が下がって、そうするとさ、日本ではさ、アメリカ製品を買おうってする購買意欲が上がって、大人の階段は上がっていくよね。
09:04
あの、例えがよくわかんねぇ。
そう。それで、あの、輸出が伸びるっていうことに繋がるんだよね。
うん。
で、輸出が促進をされるっていう面があって、
うん。
あと、冒頭で言ったさ、輸入に対して10%の輸入課長金っていう、これ、あの、輸入に対する追加の税を設けることで、こう、バランスを取ろうとしたんだよね。
うん。
で、これに対して各国はさ、混乱を避けるために、為替市場をさ、いち早く閉じるっていうことにしたんだよね。
うん。
ただね、日本は市場をこれ開いたまま、今まで通りの1ドル360円のままでしばらく対応したんだよね。
うん。
これ、肉層ショックによってさ、ドルの信用が失われて、価値が低下しているところに、日本円は依然と変わらないレートで対応しているわけよ。
うん。
で、そしたらさ、ドルを持ってる人っていうのはさ、日本円と交換しようとするよね。
うん。
で、結果、日本は2週間市場を開放したままにして、その期間に約ね、40億ドルの外貨が一斉に日本に流入したって言われてるの。
うん。
そう。で、これね、日本はかなりの損失をこむって、戦後経済史の最大の謎って言われ方もするんだよね。
うん。
ちょっと、何でこんな対応したのかっていう真実は、なんか、こぼんやりしてるんだけども、
うん。
例えば、ニクソン大統領の経済政策発表の時に、すでに日本の外国為替市場っていうのは開いていた時間帯だったんだよね。
うん。
で、反対にさ、ヨーロッパ諸国とかは市場が閉まってる時間帯で、市場が開くまでに対応する時間があったんだよね。
うん。
っていうのもあるし、あと日本は貿易取引の90%がドルで決済をしてたから、
うん。
市場を閉じるっていう、まあ、決断ができなかったって言われてる。
うん。
あとはね、その大倉賞を顧問していた柏木裕介っていう人がいるんだけど、
うん。
彼は通貨の神様って言われるほど日本政府にこう信頼されてたんだよね。
うん。
で、彼がね、市場は絶対に閉鎖してはいけないっていうふうにニクソンショックが起こった時に総理に言って、
そのままね、欧米諸国へ視察しに行ったんだよね。
うん。
で、彼がその帰ってくるまで誰も決断できる人がいなかったって言われてる。
うん。
で、結局この柏木っていう人が帰ってきて、このまま固定相場制を維持したら日本が孤立するっていうふうに考えが変わって、
で、その後日本は変動相場制と火事を切るっていうふうになったって言われてる。
うん。
そうそう。まあ、だいぶだから日本だけちょっと対応が遅れたっていうことはあったんだよね。
うん。
で、ニクソン大統領の金とドルの交換を停止する発表っていうのは、1971年の8月15日なんだよね。
12:02
うん。
そう、これさ、8月15日って言ったらさ、極音放送が流れたさ、日本の終戦の日なんだよね、8月15は。
そうだね。
こんな日に発表したっていうのはさ、アメリカが経済発展していく日本が気に食わなかったんじゃないかっていう説もあったりするんだよね。
うん。
まあ、こんなこんなでちょっとニクソンショックが起こったことによって、大きくさ、影響を受けたのはさ、沖縄なんだよね。
うん。
もちろん日本本土もさ、大きな影響を受けてるんだけど、特にこの沖縄っていうのは、当時さ、第二次世界大戦後ずっとアメリカの姿勢喧嘩だったんだよね。
うん。
これ、市政権っていうのはさ、立法、司法、行政の3権をさ、行使する権利、これをさ、アメリカが持ってたわけで、沖縄の人たちの代表からなる琉球政府っていうのはあったんだけども、その上にアメリカ国民政府っていう最高統治者がいるような状況がずっと続いてた。
うん。
で、そんな沖縄っていうのは戦後27年間アメリカの統治が続いていったんだよね。
うん。
それで、ニクソンショックの時は、9ヶ月後に日本へ返還されるってことはもう決まってた。そんな時期だったんだよね。
うん。
で、当時さ、沖縄の人が使っている通貨っていうのは、ドルだったんだよね。
うん。
ただ、9ヶ月後は、これ日本円になることが決まってるから、沖縄にとっては大問題だったんだよね。
うん。
1ドルさ、360円だったレートがさ、もう崩れてさ、ドルの価値がどんどん下がっていくわけで、
うん。
つまりさ、沖縄の人の資産が少なくなってしまうっていうことを意味してたんだよね。
うん。
で、これを話す前に沖縄のちょっと通貨の歴史を戦後から軽くやりたいんだけど、
うん。
終戦直後っていうのはさ、沖縄は無通貨時代って言って、配給とか物々交換で過ごしてたんだよね。
うん。
で、その後1946年にB型軍票と新日本円の併用っていうことになったんだけども、
うん。
あの軍票っていうのはさ、軍が占領した場合の経費等に用いられる通貨で、
うん。
このB型軍票っていうのはアメリカが発行しているもの。
で、まあちょっとこれからのB型軍票って長いんで、ちょっとB円っていう言い方にちょっとこの回ではしたいと思うんだけども、
B円。
B円。そうそうそう。
で、あと新日本円っていうのは、戦後っていうのは旧来の日本円から新日本円の切り替えが行われたんだよね。
うん。
なんでまあちょっと今そんな言い方したけど、まあこれも日本円っていう言い方にちょっとこれからします。
うん。
で、あのB円と日本円のこの併用が、の期間っていうのはわずかね5ヶ月間だけなんだよね。
うん。
そう。で、それからね日本円のみになったの。
うん。
B円っていうのは廃止されたんだよね。
うん。
目的っていうのは、あの軍票っていうのはさ、国際的監修で発行国に支払い義務があるっていう風にされてるんだよね。
15:03
うん。
だから直接アメリカの経済的負担になるから、この負担を回避するために日本円が採用されたんじゃないかって言われてる。
うん。
で、その1年後のね1947年にB円が復活して、またね新日本円との併用が始まるの。
うん。
これなぜかっていうと、その時ね沖縄ね、かなりインフレになってたんだよね。
うん。
そう戦後ね、日本は物資がなかったわけで、沖縄っていうのはさ、米軍の放出する物資に支えられて、本州と比べると物資があった方なんだよね。
うん。
で、その物資をさ求めて、外地から日本円が流入してきて、沖縄こうインフレになったって言われてる。
うん。
で、それを改善する目的でB円が導入されたんじゃないかって言われてる。
うん。
で、あとね、このさらに59ヶ月後に日本円が廃止されて、B円のみになったの今度は。
うん。
これね、冷凍なんだけど、1ドル360円の時に1ドルね120B円だったんだよね。
うん。
日本円に比べるとB円の方が3倍も高い価値だったんだよ。
へー。
で、これなぜかっていうと、背景にはさ、米蘇冷戦とか中国が共産化してったってことが考えられるんだよね。
うん。
そこで沖縄をさ、戦略的に重要な場所にするために、日本の本州からさ、安く資材を輸入できるように、それでさ、基地建設を急ぐ目的もあったっていう風にされてる。
うん。
で、住民もさ、このB円を使うことで安く輸入品を買うことができるっていうメリットもあったんだよね。
うん。
で、1958年になって、このB円も廃止されて、ドルに変わるんだよね。
うん。
で、このドルもさ、当時価値が高いもので、引き続きさ、沖縄っていうのは輸入品を安く買うことができてたんだよね。
うん。
そう、そのため沖縄でさ、輸入に頼るっていう状態が結構長いこと続くことになるんだよね。
うん。
そう、なんかこれさ、調べててさ、沖縄ってさ、大規模な製造業があるっていうイメージあんまなくない?
うん、ないね。沖縄の産業っていうのがさ、やっぱり空洞化してるのが問題だからね、そもそも。
そうそうそう。で、このさ、要因の一つにさ、沖縄で製造業が育ったなかったのはさ、外国製品が安く手に入る期間が長いこと続いて、そのさ、必要性がなかったっていうのもあるんじゃないかって言われてるんでね。
まあ、マーケットもなかったしね、そもそも。
まあ、そうだね。
うん。
もともとのもね。
そうそう、だって結局日本じゃなかったからさ、っていうのもあるし、だからなんだろうね、難しいとこだよね、そこは。
うんうん。で、まあ、こうして沖縄って今、観光業中心になってるんだけどね。
うん。
で、沖縄っていうのはさ、13年8ヶ月間このドルを使用して、もう完全にドルっていうのは沖縄の人たちの生活に根付いていたんだよね。
18:07
うん。
で、そんな時にニクソンショックが起こるっていう。
うんうん。
さらにさ、ニクソンショック後に日本はさ、変動相場制と移行したわけで、
うん。
それまで1ドル360円だったレートがこれどんどん下がって、沖縄返還時には通貨交換のレートっていうのは1ドルね、305円に決まったんだよね。
うん。
そうするとさ、どうなるかっていうと、沖縄の生活必需品の80%近くが、当時日本商品で輸入品の値段が上がるんだよね。
うん。
そしてさ、沖縄の人っていうのは、ドルを持っていてももう価値がどんどん下がっていっちゃうから、品物を持っていた方が得だっていう心理が働いて買い溜めに走るんだよね。
うん。
で、それに販売業者も便乗して値上げするっていう人たちも出てきた。
うん。
で、結果ね、沖縄返還前後では急激なね、物価上昇が起きたんだよね。
うん。
例えばね、ゆでそばがね、28%も値上がりしてんの。
うん。28%ってでも相当だよね。
相当相当。やっぱね、早期そばとかね、八重山そばとか結構そば、沖縄多いからね。
そうだね。なんかその辺が上がっちゃうと、でかいね、痛いね。
うん。まあこれ、そばだけじゃないんだけどもちろんいろんな商品が値上がりしてったんだけど。
うん。
でね、沖縄にはさ、予貯金を含めると、当時ね、約10億ドルのお金があるっていう風にされてたの。
うん。
で、仮にさ、これがさ、円に対して10%ドルの価値が下がると、1億円の損失になるわけよ。
うん。
結構大きなダメージというか。
うん。
で、そこでさ、沖縄の人たちの損失を最小限に抑えようと、日本政府がね、対応を行うんだよね。
うん。
で、これはね、ニクソンショック前のレートの差額、55円を保証するっていう対応だったんだよね。
うん。
で、具体的にはね、沖縄返還前に流通しているドルを確認する日を1日儲けんの。
うん。
で、沖縄返還後に、その確認したドルを日本政府が差額分を保証するっていう。
うん。
で、これ確認日はね、沖縄返還の7ヶ月前の10月9日に行われたんだけど。
うん。
保証される対象っていうのは、沖縄の住民、沖縄に住所がある日本国民と沖縄に永住権を持っている人っていうのが対象だった。
うん。
で、確認場所っていうのはね、沖縄の各金融機関とか役所なんかで行われたんだよね。
うん。
で、ちょっとね、このドルの確認方法なんだけども。
うん。
最初はね、通貨確認日に沖縄の人が持ってるドルに直接こう、証紙を貼って、それを返還後に見せれば保証するよっていう対応にしようとしたんだよね。
うん。
21:00
で、それにはさ、証紙がさ、絶対に剥がれないようにしなければいけないんだよね。
うん。
そう、剥がれちゃうと無効になっちゃうし。
うん。
不正もされちゃうかもしれないから。
うん。
剥がれないようにこれ、どう対応したでしょうか。
え?バロンアルファでくっつけたとか?
あー、もうなんかほぼほぼ正解っていうか。
え?そんなレベルなの?
セメダインを買い集めたんだよね。
マジで?すげえな。
そうそう、当時セメダインってもあったんだって。
うん。
証紙にこうセメダインをつければ強力に接着されるから、だからね、日本中からセメダインを買い漁ったの。
おー。
ほんとセメたよね。
セメダインだけに?
そうだね。
たださ、結果、直接ドルに証紙を貼ると、アメリカ政府がさ、ドルとして認めなくなるんじゃないかっていう懸念から、これね断念してんの。
あ、結局ダメなのか。
やってないの。
うん。
次にね、考えたのは、祝復帰、琉球政府っていうスタンプをドル紙幣に押すっていう案があったの。
うん。
で、これはね、アメリカ政府から反対が実際にあって、断念をするんだよね。
うん。
そうそう、紙幣に勝手にスタンプを押すなっていうことかもしれないし、アメリカからしたらさ、祝じゃねえだろっていうのもあったのかもしれないよね。
まあ両方だろうね。
うん。で、結局、これ対応っていうのはね、消しゴム付きの鉛筆で対応したの。
うん。
鉛筆の先端のさ、消しゴム部分に朱肉を付けて、ドル紙幣にチョンってこう、そんな目立たないように押したんだよね。
うん。
そうそう、長丸もほら、チョンチョンされるの好きでしょ。
あー、小片郎って結構ドMチックなところもあるから、そういうの好きでしょ。
やめなさい。
で、それと確認書をその時に一緒に発行して、そこに消しの代わりに切手を貼るっていう対応にしたんだよね。
で、これなんかちょっと調べてたんだけど、結果買い集めたセメダインはその後どうなったかっていうのは調べられなかったんだよね、ちょっと。
そこ気になるだろうな。
気になっちゃって。沖縄まで運んだっていうのはちょっと確認したのよ。
うん。
そう、これは戦後接着材紙の最大の謎って言われてるの。
どこにセメダインが消えたかみたいな。
そうそうそう。
で、これら一連の準備作業っていうのは秘密が漏れないように日本政府側と琉球政府側の数名だけで準備を進めたんだよね。
国民にもアメリカ側にも一切これ伝えなかったの。
これはなぜかっていうと、この計画が漏れると、例えば沖縄以外のフィリピンとか香港とかアメリカなどからドルが流入してきて、
そのドルを例えば沖縄の人に持たせて、確認日の日だけドルを確認させて、後で55円の保証を得ようとするっていう考える人も出てくるんじゃないかっていう懸念もあって。
24:06
だから絶対に情報が漏れないように準備を進める必要があったんだよね。
琉球政府側の担当の人は家に帰らないようにして、家族にも秘密にして、アパートを借りて準備作業を実際にしたんだよね。
国民に公表したのは実際に確認日の前日だった。
1971年10月9日に午前8時から午後10時まで沖縄全域でドル通貨の確認作業が一斉に行われたんだよね。
混乱を避けるため沖縄の全ての銀行はその日一旦閉鎖して、
これね、預貯金に対しては金融機関で処理をするんだよね。
ただ家にある現金に対しては沖縄の人が直接ドルを持って確認してもらわないといけないから、確認場所には長蛇の列ができたんだよね。
中にはすごい人がいて、長市内のあるホテルで実際にあった話なんだけど、そのホテルっていうのは定員20名ほど利用できたんだよね。
確認日の日、各部屋っていうのは日本の本州からの旅行客で満室だったんだよね。
ホテルの主人っていうのは朝から客室を回って12時間ほどお金を預からせてくださいって客に言って、
借用書を渡してドルをかき集めたっていうのがあって、そのままその主人は銀行へ行ってドルを掲示してその確認をしてもらってお金はお客に返したんだよね。
こんな人もいたんだなと思っちゃって。
すごいね。貸してくれた人もすごいけど。
すごいよね。これほんの例外だと思うんだけど、
多くの沖縄の人っていうのは必死に家にある現金をかき集めて、ドル確認をしてもらったっていう、結構かなりのパニック状態だと思うんだよね。
前日に言われてるからね。
まあそうだよね。
沖縄県全域って357箇所で確認作業が行われて、数えたドルっていうのは合計約6000万ドルぐらいじゃないかって言われてる。
アメリカ側はこれ一切知らなかったから反発の声も実際あって、返還前だったし、沖縄にいるアメリカ軍人とかは保障の対象外だったんだよね。
こういうちょっと反発の声もあったけど、なんとかなだめて確認作業自体はストップすることなく無事に終わったんだよね。
これ沖縄返還前に大量の日本円が沖縄へ輸送するんだけども、これ自衛隊の輸送艦が日本円540億円を積んで沖縄へ届けたんだよね。
27:02
その後トラックなどに大量に積まれて各金融機関などに運ばれていった。
この時の操縦量は320トンって言われてる。
全然よくわからない量だね。
1万円札だけでも約390万枚って、1円玉だけでも約1500万個だって。
1500万個って1500万グラムってことだもんね。
そうだね1グラムだから。
すごいよね。
桁が違うからわかんない。
数字の魔力ですげえって思ってるだけなのかマジですごいのかちょっとよくわかんないわ。
そうだね。
その後1972年に5月15日に沖縄っていうのは日本に返還されたわけで、
5月15日から5月20日間にかけてドルから日本円の切り替えが実際に行われた。
交換件数っていうのは約29万件って言われてて、交換された円っていうのは約315億円って言われてる。
これで通貨交換っていうのは終わって、めでたしめでたしっていう話では決してなくてさ、
この日本円の保証は全てされたわけじゃなくて、
例えばドル確認日から日本円の切り替えまでの7ヶ月間の沖縄の人が手にした、
例えば給料だったり、そういう資産は保証の対象外なんだよね。
結構あるよね7ヶ月間ってさ。
そうだね。7ヶ月間の間に為替レートがどれだけ動くかもちょっとわかんないけどね。
さらに沖縄返還前後の急激な物価上昇で現地の人っていうのは苦しんだんだよね。
その後沖縄復帰時っていうのは沖縄の県民所得っていうのは全国平均の約6割だったんだよね。
これ今現在でも約7割ほどっていう低い水準になっているじゃん。
他にも沖縄は琉球処分にしても沖縄戦だったりその後のアメリカ統治、
米軍基地の問題にしてもたくさんの問題を抱えているなと思って、
これって沖縄の人が自ら望んだものじゃなくて、
常に外部からもたらされたものっていうのを思ったんだよね。
というのを感じた回でした。いかがでしたでしょうか。
通過機器もそうだし、沖縄ってやっぱりアメリカのルールでやっていたことが日本に返還されたときに、
全部それがガラッと日本仕様に変わるわけじゃん。
法律もそうだし、そもそも身近なところで言うと車?
今左通行するじゃん。
右通行だったのを返還と同時に切り替えたっていうのも結構すごい大変だったらしいし、
30:01
道路も逆になるわけじゃん。
大混乱だよね。普通に考えたら。
だからそういうところも、それが全部悪いわけでもないけど、
そういうのも一挙あるなっていう気もするからさ、なんだかんだ。
全てが悪い風に捉えなくてもいいと思うんだけど、
でもやっぱり沖縄っていうのは常に犠牲になってきた歴史もあるから、
その辺はね、岡太郎最後に言ってたけど、
大国、日本だからちょっと大国っていうのも変なんだけどさ、
大きい国に常に混乱されてきたっていう歴史を考えみると、
もうちょっとうまくならないかなっていう気はするけどね。
そうだね。ということで今回のテーマはニクソンショックと沖縄の通貨危機でした。
最後にちょっとお知らせなんですが、
この番組っていうのは聞いてくださっている大人からの寄付でちょっと成り立っているところがありまして、
既に寄付してくれた方っていうのは本当に改めて感謝というかありがとうございますっていうのを伝えたいっていうのもあって、
これ寄付したから何か得点があるっていうわけではないからさ、
本当さ、実際ふざけた話なんだよね。
だけどさ、一応そこには思いがあって、できるだけ多くの人に聞いてもらいたいっていうのがあって、
例えばお金を払うとこの放送が聞けるようになりますみたいなことはやりたくないというか、
自分があんまりそういうの好きじゃないから、
あと単純にその余裕がないっていうのもあるんだけど、
楽しく継続していくってことを優先した結果、今寄付っていう形にしていますっていうのをちょっと伝えたくて。
まあね、簡易性とかさ、有料放送とかそういう選択肢もあったはあったけど、
なんかね、そこにはなかなか足が向かなかったというかさ、なんだよね。
やっぱりちょっと善意に頼って寄付っていう流れにしようっていうのが、
一応今のところの結論でちょっとやらさせていただいててっていうところがあって、っていうところだよね。
そうそうそう。
なんでね、ちょっとでも寄付してもいいかなって思ってくれる人が少しでもいたら、
その番組の継続とか、そして僕たちのモチベーションが上がります。
まあまずはね、小片郎の編集代っていうところを何とかしないとだからね。
まあまあ、いろいろね。
概要欄に実際その寄付のリンクがありますので、覗いてみてくれたら嬉しいなって思ってます。
はい、実際ホームページをポチってやってくれるだけでも嬉しいです。
はい、それではちょっと最後にお願いになって申し訳ないんですけども、最後まで聞いていただいてありがとうございました。
ありがとうございました。