1. 鬼の目に木琴
  2. #3 表現することでギリギリ生..
2024-06-20 29:30

#3 表現することでギリギリ生きてる

・うまくいかない録音
・なんとか仕事してる
・赤坂真理さんと松本俊彦さんのトークショー
・僕は本の買い物依存
・生きるためのアディクション
・表現することで生きる
・死を常に意識している
・「鬼の目に木琴」とは
00:03
鬼の目に木琴、始めてまいります。
だいたい1週間に1回くらい更新していこうと思って、
実は数日前にもちゃんと撮ったんですよ。
ですけど、なんか
そのオフィスで、前回と同じオフィスで撮ったんですけど、
やっぱり反響が気になってしまって、ちょっと音声をいじっくり回したら、もうなんか
反響がハウリングみたいになっても、すごい聞き取りづらくなってしまって、
自分で聞いてても煩わしいので、もはやカットいたしました。
なかなか、こうね、あの
うまくいかないところも多いんですけれども、
なので、とりあえずBGMとか、編集とかあんまりそういうのは気にせず、
撮れるときに撮ろうと思って、既読しております。
そうですね、今日もすごい調子がいいわけじゃないんですけど、なんとか撮れそうだなぁと思って、
撮ってるんですけれどね。
最近、
前足の症状の一端なんですけど、ちょっと胆が絡むところもあったり、ちょっと咳込むときもあって、
季節の変わり名でね、咳込む方多いと思うんですよ。
僕の場合は、いつも通っているお医者さん、内科のお医者さんがあるんで、そこに相談してみたんですね。
そうしたら、アレルギーじゃないってことを言われて、
アレルギーの前足ってあるらしいんですね。ずっとそれは知らなくて、
アレルギーの前足ってどういうことかっていうと、アレルギーの症状って、なんか鼻水が出たりとか、
あとは目が痒くなったりとか、そういうことが多いような印象があるんですけど、そういうものだけではないわけですね。
もちろん食べ物を食べて、なんか痒くなったりとか、
喉がイガイガしてくるとか、いろんな症状があるじゃないですか。
そういうアレルギー症状の一つに、前足と似たような呼吸器の症状が出ることもあるらしいんですよね。
それを知って、それでアレルギーの薬を処方してもらったんですよ。
そうしたら、なんか結構調子いいかもってことになったんですよね。
結構その、症状はだいぶ良くなって、ただそのアレルギーの薬で、しかもアレルギーの薬もやっぱり色々あって、
03:03
なんかちょうど呼吸器に効くようなアレルギーの薬っていうのもあるらしいんですよね。
それプラス、バクモンドウ糖っていう漢方をね、一緒に処方してもらって、
ちょっとひどい、一番ひどい時には、あの吸入器を使う。ただ吸入器を使うとやっぱりすごい治りが良いですね。
もう本当に一変で症状がなくなりました。
ただそんなにすごいひどくない時以外は使ってなくて、
そうですね。
で、そのちょっと症状が出て収まらないなと思ったら漢方も使って、
まあ、そこまでまあまあ収まってきたなと思ったら漢方はなしにしてみて、
それでもまあまあだいぶ落ち着いてきたなと思ったら試しに弾薬してみるというかね、アレルギーの薬を飲まないでみるみたいな感じで言ってますかね。
一応お医者さんからもそういうふうになんかコントロールしてね、あの症状を見て症状が出たら薬飲んでいけばいいしってことであの処方を受けているのでね。
もう世の中の薬でね、全部そういう飲み方したら良くないんですけど、一応お医者さんの言うとおりにしているから大丈夫だと思います。
だからもし咳の症状で特にね、症状の特徴としては、
夜に咳き込むと。まあやっぱり寒暖差とか自律神経とかあるんですかね。
まあそういうものって夜とにかく咳き込むって言うんですね、症状としては。
だからもしかしたら夜症状がひどい。
日中はそうでもないという方はもしかしたらアレルギー全息などの可能性もありますので、
でもこれもねわかんないですよ。お医者さんじゃないといろんな検査とか症状とか薬との兼ね合いとかいろんなことを
加味して判断できるものですからね。まあ素人判断はどうかしないように。
ただお医者さんに行ってね、いろいろ相談してみるっていうのもよろしいのかなと思います。
まあそんなこともあったりしてるんですけど、先週は結構その仕事をまあまあちゃんとやってるんですよね、それでもね。
オフィスに毎日行ってるんです結局。まあ毎日、そうね、ほぼ毎日ですね。ほとんど毎日行って、まあ週6くらいで行ってますね。
ただ行ってだいたい2、3時間、まあ長くても5時間くらいですかね。
ちょっと仕事をして、まあ仕事をね、そのいろいろ、まあ今は特に広報、広告ですかね、広告とかちょっと
これがどういうところに売り込んでいこうかなとかね、まあそういうところが中心になります。あと記事書いてブログ書いたりとか、まあそういうものその他
06:07
もろもろをやることはね、いくらでもあるのでそういうのをやったり、こういう授業をやってみようかなとかいうプランを練ったりとかそういうことに
費やしております。 今日はね、わりとお昼過ぎくらいには行けたんですよね。
ちょうど今日夕方から
講演会、対談があって、その対談に行きたくて、そのこともあって、ちょっと早めに行こう、行動しようと思って
日中のうちから行こうと思ってね、そうじゃないとだいたいいつも夕方くらいから夜までなので
ちょっとね、それも遅いでどうなのかと思いつついたんですけど、できればね、お昼、もしくは午前中くらいから
夜まで仕事できればいいかなと思うんですけど、なかなかね、ちょっと難しいですよね。
今日ちょうど、講演会じゃないですね、対談、対談に行ってきたんですね。
大歓山の蔦屋があるんですね。 蔦屋ってあちこちにあるんですけど、特に大歓山の蔦屋っていうのが
いろんな、そういう本の、なんていうんだろう、ブックトークというか、本の
イベントがあるんですね。 本のイベントやってるところで、前もいろんなところで紹介してるんですけど、
B&Bっていう下北沢の本屋さんがあって、そこもね、ほとんど毎日、そういう本のイベントやってたりするんですけど、
結構、大歓山でもそういうイベントやってるんですね。
そこで、今日やったのが、赤坂まりさんっていう作家さんですね。
映画にもなった、バイブレーターの原作を書かれている方ですね。
赤坂まりさんが書かれた、
えーとですね、なんて本だったかな、ちょっと間違えたね。
赤坂まりさんの書いた、安全に狂う方法っていう本が出たんですね。
新しく出たのかな。
それのトークイベントで、その赤坂まりさんと、アディクション、依存症関係の専門家の松本俊彦さんの対談イベントだったんですね。トークイベントだったんですよ。
松本俊彦さんは、本当に何度もお話は聞く機会があるというか、聞きに行ってて、
リアル開催で、その場に行った講演会とか、そういうやつでは3回くらい、それ以外のリモートのものだったら、3,4回、それ以外に聞きに行っているくらいには、結構お話を聞いたり、記事を読んだりしている方ですね。
09:16
非常に本当にわかりやすいし、すごくスッとお話が入ってくる方なんですよね。
また赤坂まりさんもすごい面白い方で、僕はあんまりそんなに存じ上げなかったんですけど、何でしょうね、本当にいろんなところから言葉が出てくるというか、
なんか本当に、身体というか心の中に四次元ポケットがあって、その四次元ポケットの思わぬところから思わぬ言葉を引っ張ってくるような、
非常に面白い話だったんですよね。 もちろん一つの、このトークの共通項からわかる通り、一つのポイント、トークの話題としてはアディクション、依存症があったわけですね。
依存症についても、いろんなもちろん考え方があったりはするんですけれど、
依存するということは、ある種の生きることであって、
何かに依存することによって、なんとか生きていられる人というのはいっぱいいるわけでね。
言ってみれば、誰しもが何らかの依存をして生きていると、依存症の状態にあると、この依存という言葉は何て言うんでしょう、
いろんな依存の定義があるんですけど、依存症の依存、アディクション、アディクトですね。
アディクションという捉え方で言った時に、でもみんな何かしらの、そういう何かに夢中になって、何かにとらわれて、何かを気にしてしまって、何かから逃れられないことっていうのはいっぱいあるよねっていう。
でもこれはね、ベースの話なんですよ。それはもう何か共通項というか、多分そのアディクションという言葉と向き合った人であれば、多分当然の理解というかね。
依存症ということ自体が悪とか、治さなきゃいけないものっていうよりは、どこかそれっていうのはある種の生き方であったりとか、ただその生き方も決して簡単な生き方ではないんだけれども、でもやっぱり多分アディクションっていうのは生き方だと思うんですよね。
僕自身も、でも何か僕自身もあんまりその依存ってものとはあんまり関係がないというか、自分自身がやっぱり依存ってことが怖いところがあって、それでいうのは何かある種差別的でもありますよね。
何かこう依存は悪いことだっていうのがどっかに多分僕の中にも偏見があって、だから依存しないように依存しないようにっていう意識があるっていうのはあると思うんですよね。
12:01
もちろん、薬物依存であったりとか、物質依存ですよね。物質的な依存っていうのは本当に強制的に依存に入っていってしまうというか、そのコントロールが、もちろん難しいんですけど、非常に生理的に、生理学的に影響を受けてしまうという点での恐ろしさっていうのはあると思うんですよね、特にね。
ただ、何でしょう。依存っていうのは不妊の病、要するに認知できないんですよね。認められないんですね、自分ではね。
っていうところもあって、改めて自分を振り返ったときに、結構本を買うっていうことの依存結構あるなと思って、ある種の買い物依存に近いところがあるなと今日気づいたんですよね。
もう全然、会場がTSUTAYA書店、もちろん本屋さんなので、ちゃんと本買って帰りましたもんね。
もうお金もないし、もうなんか全然本なんて買ってる場合じゃないし、本だって読みきれないほどあるのに買っちゃいましたね。
やっぱりなんかね、読みたいし、なんかここで買わないともう会えないかもしれないって本たちがあり、そこで衝動を抑えられずかっていうと、やっぱりそこで使ってしまうお金を。
だから、なんかある種の買い物依存の一種のところもあるなと思って、本っていうと健全な感じがしちゃうけれども、やっぱりどこかコントロールできないところがあるっていう点では、全然ある種の依存症だなと思うんですよね。
それ自体でなんかこう、被害がなさそうに見えるけど、ちゃんとなんかこう、被害があるというか、お金はちゃんと減ってるしね、なんかこう、ご飯を食べるお金を減らしてまで、そんなね、本を買うっていうのはちょっと理屈で考えたら理に変わらないわけですよね。
でもなんかそういうこともあったりしつつ、なんでしょうね、アディクションというものとか、あと、なんでしょうね、あと表現ということですかね、今日話であった中で言うと、私も後でよく調べてみようかなと思ったんですけど、赤坂さんっていろんな表現をしていると、まあ、踊り踊ったりね、身体表現ですね、そういうパフォーマンスアートっていうものにも親しんでいらっしゃると。
やっぱりご本人はまず作家、小説家なんだけれども、その小説家っていうところでは、何かこう、できないことっていうことの部分がそこに行っているっていう話もあったりして、僕自身もほんとそうなんですよね。
一応こう、そう最近ではなんかマルチアーティストっていう風になることにしたんですよ。
15:01
で、なんか、なんだろうな、すべてが本業ではないというか、まあ本業ではないんだけれども、まあ、
だから、何かを与えられた条件のもとに何かを生み出すっていう意味でのクリエイターっていうとちょっとなんか違うなと思って、あくまで自分自身が表現することに軸を置いたアーティストだと思うんですね。
しかもなんか、軸を一つにやるわけじゃなくって、やっぱりいろんな多面的で、でもじゃあその多面的なのはなぜやってるかっていうと、結構生きることだってところがあって、いやもうなんか表現せざるを得ないんですよね。
なんか文章であったりとか、詩であったり、随筆であったり詩であったり、あとはその踊りであったり、木琴であったり、絵であったり、そういったものでしか、何でしょう、成り立たないものっていうのがあって、そういうことで、
なんかね、発散って言うとちょっと違うんですけど、なんかそういう表現をすることでしか、表現をして何とか生きながらえているというか、表現と共にあることによってギリギリ生きてたれるところがあるんですよね。
で、その媒体がやっぱり少ないっていうのは結構自分にとってもリスクで、なんかやっぱりその身体表現でしか成し得ないものがあったり、それは別に誰かに見せるとか、誰かに認めてもらいたいとかそういうことじゃなくて、なんかもうとにかくね、そう表現せざるを得ないんですよ。
絵を描いて描かざるを得ないっていうか、文章にせざるを得ないっていうか、それによって誰かに読んでもらいたい、誰かのためになりたいっていうよりは全然もう本当に自分自身が生きていくためにやるしかない表現なんですよね。
まあそういった意味でのマルチアーティストっていう感じで今は生きてますかね。
いや本当にそんな感じで、なんか写真を撮ったりとか、あとほら、僕自分の自撮りもまあまあ撮るんですね。
でもこれもね、ある種のアディクションなのかもしれない。
やっぱり一時期本当に自撮りっていうか自分の写真をいっぱい撮ってたんですけど、やっぱり自分の写真を撮るっていうのはとにかくね、いつ死ぬかわかんないっていう感覚と一緒にあるんですよ。
とにかくね、自分っていつ死ぬかわかんないから、残しておかなきゃっていう思いが強くって、それがね本当にこの文章を書いたり絵を書いたりするものの一つの根本にもあるんですよね。
こうやってポッドキャストに残してるっていうのはどこかそういうところがあって、わかんないじゃないですか。
本当に本当に思ってて、明日にも死ぬかもしれないし、死ななくてもそれができなくなる。絵を描けなくなったり、音楽を演奏できなくなったり、言葉を話せなくなったり、何が起こるかって本当わかんないから。
わかんないっていう恐怖と向き合うには、こうやって表現するしかないというか、残す少しでも痕跡を残したくなってるんですよね。
18:06
だから誰かに向けてとか、何を残したいとか、質が結構どうでもよくて、質なんてね、時代によって変わるし人によっても変わるし、何を優先順位にとるかによっても違いし、文脈とか見方によっても変わるじゃないですか。
でもそんな中で、とにかく表現するっていうことでしか、ギリギリ添えてきてられるっていうか、表現することで恐怖と戦えてるっていうんですかね。
いつ死ぬともわからない自分という命と向き合うには、表現ということによって、ちょっとでも痕跡を残していくことによって、恐怖を耐えられているってところがあるんですよね。
なかなかこの、結構せっかく作ったものとかが台無しになっちゃったり、それこそ今録音もね、実はこれ3回目で、日曜日に1回撮って、月曜日にもう1回撮ったんだったかな。
多分2回くらい撮って、両方とも失敗したんですよね。何かうまくいかなくて。
なんかね、やっぱりそれで凹んじゃったところもあるんですよね。
なんで凹んだかっていうと、もちろんうまくいかないっていうストレスもあるけれど、せっかく語った言葉が痕跡を残せずに消えてしまうっていうところに恐怖を感じたんだと思うんですよね。
なんか自分がせっかく見出したものが、どこにも残せずに消えていくっていうことが怖いんだと思うんですよね。
だから本当に誰でもいいから、一目でも見てくれれば多分安心するんだと思うんですよ。
自分はここにいたよとか、自分はここで残したものがあるよってことを残したっていうか、ある意味ではずっと孤独なんでしょうね。
なんか孤独で一人でいるっていう感覚が多分ずっとあって、
例えば誰かと一緒にいても、自分を見ていない時ってあるわけじゃないですか。
誰かと、たとえ二人きりだとしても、常に相手を見たりしてないですよね。
どこか他のところに気が向いていたりする中で、ある人のことをずっと見ていることってまずなくて、
そんな中で、その人を意識する瞬間って何かなっていうと、それが作品であったり歌であったり、
そういうコンテンツになった時に初めてそこで向き合ってもらえているところっていうのは、
なんかその方がずっと向き合えてもらえていると思うんですよね。
一緒にたとえ過ごしていたとしても向き合えていないものが、
こうやって声とか、絵とか写真とか、そういうものになっていることによって向き合えているところっていうのがあると思うんですよ。
21:04
なんかそういうものでもいいし、でもそれが別に誰にも届いてなくてもなんならよくって、
ただ、残せたら誰かに届くかもしれない、もしくは誰かに届いているかもしれないと思えるだけで、
多分生きられるんですよね、なんとか。
うーん、そうね。だから常にね、本当に死ぬのが怖いというか、何かができなくなることが怖いというか、
老化ってそういうものじゃないですか、常に絶対どんどん死に近づいていくものだし、
何て言うんだろう、何かができなくなっていくこと?
またね、それとは別にやっぱり死っていうのは、いつを訪れてもおかしくないものだから、
そのための保険をかけておきたいっていうんですかね。
ある意味ではダイイングメッセージを常に残し続けているというか、
だからある意味では自分にとってのこういうポッドキャストとか、文章とか、絵とか踊りとかも、
音楽とかも全部ね、ある種のダイイングメッセージなんですよね。
そこにいたっていうことを記して、何とか気が向けば誰かがそれを手繰り寄せることもできるし、
気が向かなくても誰かがそれを目にすることもあるような存在として、
なんだろうね、それがじゃあ100年後、200年後に残らないと嫌かっていうと、そこまで傲慢なわけじゃないけれども、
なんか少なくとも今ここで生まれたものが、ここで終わってしまうことに儚さとか辛さを感じるのかもしれないですね。
本当にその、ある種の恐怖とどう付き合うかということで、
恐怖って結構大きいのかな、
その中で何に人はその恐怖をぶつけていったり、それを紛らわせたりするのかっていうところの一つにアデクションっていうものが多分あるんだと思うんですよね。
非常にその依存症っていうものについては、本当に生き方だし、
それについて、本当にまだまだ人間、人類っていうものが向き合っていかなきゃいけないものなんだと思うんですよね。
まだまだ向き合い方が足りないっていうか、
それである種の薬物弾与だとかダメ絶対とか、
また医療の籠の中に閉じ込めるとかね、そういったことではもう全然解決しきれないというか、受け止めきれないものなんだと思うんですよね。
生き方そのものとしてのアデクションっていうものをどう考えていくかっていうのが非常に大事だなと思いますね。
そのダイカン山でのイベントがあったのが今日のハイライトでございました。
24:05
あとは本当にちょっとずつ仕事をなんとかできないかなと思って動いておりますが、
道半ばというか、まだ始まったばっかりなんですけどね。
これからっていう感じですかね。
っていう感じで、ポッドキャストも本当にもうちょっと編集とかしたりして、
しかも週1回で定期的にとか、他のポッドキャストみたいなことを僕もちょっとしてみたいなと一瞬思ったんですよ。
無理だなと思って。
定期的っていうのがまず、自分のコンディションが定期的にとれるようなコンディションではないし、
編集っていうものにかける余裕とか、
編集することによって、編集するという行為を思うからこそ失われてしまうものも出てくるだろうし、
自分らしくないと思っちゃうんでしょうかね。
あんまり自分自身が編集っていうものを求めてなかったんでしょうね。きっとね。
そういうのもあるんだと思います。今思うと。
編集するっていうことになんとなくキャッチーですよね。
すごくわかりやすいし、ある種の価値観だし、編集するのが楽しい、編集した方がいい、編集に魅力を感じるっていうのは、
非常に受け入れられやすいし、わかりやすい価値観なんだけれども、
なかなか結局そこには自分の意識はいかないし、そこに嘘をつこうとしたところは確かにあるかもしれないですね。
全くの嘘でもないし、別にそれが嫌なわけではないんだけれども、
どこかそこにストレスを感じていた自分もいたのも確かだなと思いますね。
なので、本当に調子がいい、もしくは撮れるときにどんどん撮っていきたいし、
こんな感じで、自分が生きた痕跡を残せるものとして、生き続け続けていきたいなと思っております。
ということで、鬼の目にもっきんっていうタイトルは、もちろん鬼の目にも涙から来てるんですけど、
なんとなく僕のいつもお世話になっているか、すごい好きなポッドキャストである、
飼い犬にパンを噛まれる様、いらっしゃいますね。
そう、飼い犬にパンを噛まれるって、なんかね、最初ね、飼い犬にパンを噛まれるっていうのは、僕も国語の先生だから、
なんかね、ちょっとまた安っぽいことを使って、って一瞬思ったんですね。
でも慣れてくるとね、やっぱりどこかそこに、あの、二人の、なんか、影というか、空気、雰囲気感が馴染んできて、
27:03
なんかすっかりそこに魅力が乗っかったんですよね。
だからまあ、自分もなんかそこにリスペクトというか、そのね、敬意を表してというか、
僕もなんか、ことわざから入れたいなと思って、いくつか考えたんだけれども、
で、その中で、なんかほら、あれは飼い犬とパンじゃないですか。
でも僕なんだろうと思った時に、あんまない、なんか古典のね、なんてことわざに古典のね、要素を入れても面白くないし、
じゃあ僕のアイデンティティとして、古典、職業としても、古典が職業と言っていいのかというと、なんかちょっと違う気もしていて、
なんかこう、いろいろね、微妙だなと思って。
ただ、もっきんっていうのはまあまあ、まあまあ特徴的だし、いいかなと思って、
じゃあそれを何に合わせようと思った時に、まあ鬼の目にもっきんにしようかなと思ってね。
全然ゴロも良くないし、なんか面白くもないし、意味もわからんし、しっくりもきてないんですけど、
まあこういうのはやっぱり、こうね、時間が解決してくれるんじゃないかなと思って、
僕の本当にお世話になっている、ドラエロ・イン・ザ・スカイもそうですよね。
イン・ザ・スカイなんて全然ピンときてなかったけど、今もうすごいしっくりきてますもんね。
不思議ですよね、ポッドキャスト番組って本当にいろんなポッドキャストあるけど、
なんかもう本当にしっくりこないものばっかりじゃないですか。
本当にしっくりきたことがほとんどない、むしろ。
ちょうどポッドキャストのね、リレーも配信リレーも計画されてますけど、
ディスコードでね、入ってていろんなポッドキャストさん、またね、全然知らなかったポッドキャストさんをどんどん知っていくわけだけれども、
やっぱりなんかしっくりこないんですよね。
でもやっぱりね、こういうの時間がかかってというか、だんだん慣れていくもんなんですよね。
面白いですよね、人間ってね。
ということで、鬼の目にもっきんっていうタイトルで、いまだに自分でも覚えられてないんですけど、
なんだっけって思うんですけどね。
こちらの番組もちょっとやっていきたいと思いますので、お聞きいただければ幸いです。
ではまたお会いしましょう。ありがとうございました。
29:30

コメント

スクロール