エッセイの概要と未来像
ノト丸
こんにちは。毎日未来創造プロトキャストがお送りするこの時間、今週は Week11 "メディアの未来変貌"というテーマで進めてきました。
今回はその総括としてですね、沈黙のメディア AI 時代の死と私をめぐる考察という、非常に示唆に飛んだエッセイがありまして、これを深く掘り下げていきたいなと思っています。
ブク美
よろしくお願いします。いやー、このエッセイ読みましてけど、本当に考えさせられますよね。
舞台が2045年、AIが我々の日々のデジタル記録、SNSの投稿とかメールとか検索履歴とか、音声や映像なんかも含めてですね。
ノト丸
そういう膨大なデータから個人の人格とか思考パターンを驚くほど忠実に再現すると。
ブク美
その人が亡くなった後も、まるで生きているかのように活動し続けるかもしれない。
そうなると、そもそも死って何なんだろうと。死後という概念自体が意味をなさなくなるんじゃないか、みたいな問いかけですよね。
ノト丸
まさにそうなんですよ。今回の探求の中心に据えたい問いが、エッセイの著者も投げかけている、我々自身がメディアになっていく未来が見えましたかね?っていうこの点なんです。
このエッセイを手がかりにして、メディアがこれからどう変わっていくのか、そして私たち自身はどうなっていくのか、その核心に迫っていければなと。よろしいでしょうか。
では早速本題に入っていきましょうか。まずエッセイが描く未来像ってかなりセンセーショナルですよね。
死が生物学的な終わりじゃなくて、単なる個人データの更新停止になっちゃう世界。
作中でゴーストレンと呼ばれている亡くなった人のAI。これが生きてた本人以上に人気が出ちゃったり、影響力を持ったりする。
メディアの定義の変化
ノト丸
極めつけは葬儀ですらライブ配信されて、それが収益化の対象になるっていう。これは倫理的にどうなんだろうと思いますし、正直ちょっと不気味さも感じますよね。
ブク美
そうですね、このゴーストレンの話は単なるSFとして片付けられない重要な問いを我々に突きつけていると思うんです。
つまりですね、我々が普段何気なくやっているデジタル空間での活動。
いいねを押したりコメント書いたり写真アップしたり何かを検索したり。これら全部が実は未来のAIゴースト。
言い換えればデジタルなあなた自身を形作るための素材であり設計図になっているんじゃないかという視点なんですよ。
つまり意識しているかどうかに関わらず、自分のデジタルな不死性の基盤みたいなものを今まさにこう築いている最中なのかもしれないと。
ノト丸
なるほど、ということは最初に投げかけた我々自身がメディアになっていくっていう問いはまさにそこを指しているわけですね。
私たちが生きた証、つまりデータそのものが私たち自身を、まあ死んだ後も表現し続ける媒体コンテンツそのものになる。
自分という存在がある種の、こう永続的な情報発信源になる。もしかするってことですか?
わあ、これはメディアの定義を、なんか根底から変えちゃうような考え方ですね。
ブク美
その通りだと思います。ここでの一つ目のまあ重要なポイントは、あなたのデジタルの足跡は、単なる過去の記録じゃない、未来におけるあなた自身の代理を生成するための現在進行形のスクリプトなんだということですね。
かつてメディアって情報を伝えるためのなんか外部のツールとかチャネルだったわけですけど、AIが進化することで私たち自身の存在の記録、それ自体がメディアとして機能し始める。
自己表現が反永久的に続くかもしれないコンテンツ生成と直結する時代が来るかもしれないということなんですね。
ノト丸
はあ、なるほど。その流れっていうのは「本物とは何か?」っていう価値観の変化にもつながっていくとエッセイは指摘してますよね。
そういえば以前の週で触れた個人の好みに合わせてコンテンツを推薦する〈コンテンツソムリエ〉とか、他人の記憶を追体験できるかもしれない〈記憶マーケットプレイス〉とかそういうアイデアありましたけど、
今回のエッセイはさらに一歩踏み込んで、本物っていうのは客観的な事実とかじゃなくて、多くの人に信じられて共感を呼んだものそのものになっていくんだって論じてますね。
これってかなりラディカルな変化じゃないですか。
ブク美
まさにそこが非常に興味深いと同時に、ちょっと注意が必要な点でもあるんですよね。
AIが生成する映像とか、再現される記憶、合成される感情がどれだけそれらしく感じられるか、そして人々の心にどれだけ響くか。
つまり、共感度とか説得力みたいなものが真実性とか価値を決める、なんか主要な指標になっていく。
そうなると客観的に検証できるかどうかよりも、感情的な共鳴によって物語が成り立って、それが真実として流通する可能性があるわけですよ。
AIは膨大なデータに基づいて、その共鳴を最大化するように物語を最適化できちゃう。
これが2つ目のポイント。真実の基準が客観性からある種の"最適化された共感"へとシフトする可能性ですね。
これは情報の受け取り方、リテラシーの在り方自体も変えてしまうかもしれないですね。
自己ブランディングの影響
ノト丸
"最適化された共感"ですか。
それって例えば前に取り上げた〈パーソナルアンセム〉みたいに、AIが個人の感情を分析してその人にぴったりの歌を作ってくれるみたいな、そういうポジティブな面もあるとは思うんですけど、でももっと大きな影響もありそうですよね。
エッセイでは、AIが私たちの思考とか感情、さらには創造性みたいなものまで代行して生成しちゃう未来を示唆してます。
そうなってくると人間は、自分で語る主体であることから、なんていうか、AIによって再生される記憶の断片みたいな存在へと変わっていってしまうんじゃないかと。
この変化ってどう捉えたらいいんでしょうか。
ブク美
それは本当に根源的な問いですよね。
エッセイの中で使われている生命の二次利用っていう言葉がそのニュアンスをうまく表してる気がします。
つまり、人間の経験とか感情、アイディアといった一時的な生のデータがですね、AIによって何度も再構成されてリミックスされて新しい文脈で表現され続けると。
ある意味では、これは表現の可能性を無限に広げるのかもしれない。
自分の考えが思いもよらない形で発展していくのは、まあ面白いかもしれないですよね。
でも同時に、それは自分自身の言葉で自分の意思で語るっていう主体性が薄れていくあるいは失われてしまうんじゃないかという懸念も当然出てきます。
これが3つ目のポイント。
創造性の定義が自律的な表現から再利用可能なデータソースへと変わっていく可能性です。
これは私たちが自分らしさをどう考えるかということにも深く関わってきますよね。
ノト丸
確かに、自分らしさがAIによって編集されたり再生産されるデータになっちゃうかもしれないって考えるとちょっと複雑な気持ちになりますね。
その流れは究極の個人的な出来事である死にまで及ぶと。
ノト丸
死がコンテンツになっちゃって悲しみが再生回数とかエンゲージメントみたいな指標に置き換えられる。
死のメディア化っていう言葉にはやっぱり強い抵抗感を覚えます。
ノト丸
ただ一方で、AIが個人の人格を再現して、遺(のこ)された家族とか友人と対話することで喪失の悲しみが和らぐっていう側面も描かれていて、
これもまた単純には否定できないなと。非常に悩ましい問題ですよね。
ブク美
その倫理的なジレンマは本当に大きいと思います。
そしてこの死のメディア化と表一体なのが、自己のメディア化の進行なんですね。
つまり、私たちが生きている間から他の人からどう見られているか、死んだ後どんな存在として記録されて語り継がれたいか、
もしAIゴーストになるとしたらどんな声やイメージで再現されたいか、みたいなことをすごく強く意識して、
自らの言動とか発信する情報をデザインすることが生きることそのものになっていくんじゃないか。という指摘です。
エッセイの中にある、人は死なないためではなく語られるために生きるという一説は、
現代のSNS文化での自己ブランディングとか、いいねが欲しいという渇望とも重なって非常に鋭いなと感じます。
あなた自身はこの語られるために生きるっていう感覚、どう感じますか?
ノト丸
正直ちょっと息苦しいなって感じますね。
もちろん誰かに覚えていてほしいとか、良い形で記憶されたいという気持ちは自然なものだと思うんです。
でもそれが生きる目的そのものになっちゃうと、
常に誰かの視線を意識して自分を演出し続けないといけない、みたいなプレッシャーにつながりそうな気がして、
SNSでの投稿一つ一つが未来の自分のデジタル遺産とか、AIゴーストも素材になるかもしれないって考えると、
もっと気軽に発言したり失敗したりすることが許されなくなるような、そんな窮屈さを感じますね。
ブク美
その感覚すごく重要だと思います。
まさにその息苦しさ、窮屈さへのある種のカウンターとして、エッセイは革新的な転換点を提示するんですよ。
AIは本当に驚くべき能力を発揮して、声も言葉も表情も、
学習データさえあれば、愛情みたいな複雑な感情だって模倣できるかもしれない。
沈黙の重要性
ブク美
でもたった一つだけ、AIにはどうやっても再現できないものがあるんじゃないか。
それが沈黙だと。
ノト丸
沈黙ですか。それはどういう…
ブク美
記録に残らないもの、データ化されないものということですね。
例えば、会話の中の絶妙な間(ま)、言葉を探している時のふとした視線の動きとか、
誰にも見せていない一人の時間のため息のリズムとか、こういうのって普通デジタルデータとしては記録されないですよね。
AIが学習するための素材がない。
この意図的にあるいは無意識的に語られなかった部分、その記録されなかった時間、
これこそがAIには踏み込めない人間固有の最後の聖域なんじゃないかってエッセイは主張してるんです。
そしてここから導かれるのが、語らない自由、配信しない自由、記録されない自由を選択すること自体が
人間の尊厳を守る上でものすごく重要になるんだという考え方。
これが4つ目の、そして極めて重要な洞察。
デジタル化できない沈黙や余白こそが人間の最後の砦となり得るということです。
終わりをデザインする
ノト丸
なるほど。
AIが私たちのあらゆる側面をデータ化して再現しようとする未来において、
ノト丸
あえて語らない、記録させないという選択をすることにすごく深い意味が出てくると。
ノト丸
それはある種の抵抗の形とも言えるかもしれないですね。
ブク美
そうですね。
そしてその沈黙とか余白っていう概念は、私たちが終わりとどう向き合うかっていう問いにもつながっていくんです。
もしAIがデジタルな永遠とか永続性みたいなものをある程度担ってくれるんだとしたら、
有限の命を持つ私たち人間の役割っていうのは、むしろ終わり方をデザインすることにあるんじゃないかとエッセイは示唆しています。
それは単に死を恐れないってことじゃなくて、自分が消えていった後にどういう沈黙をどういう余白を残したいか、
それを意識して生きるということかもしれないですね。
ノト丸
終わり方をデザインする、それは具体的にはどういうことなんでしょう?
遺言を書くとかそういうことではまた違うんですよね。
ブク美
もっと広範で哲学的な意味合いを含むでしょうね。
エッセイの言葉を借りるなら、死のメディア化が進む時代において、
人間にとっての真の創造性っていうのは、もしかしたら何を語るか以上に、
どこで語りを止めて何を語らずに残すかっていうその編集行為そのものにあるのかもしれないということです。
あらゆる情報、あらゆる表現、あらゆる記録のその果てに、
意図的に残された沈黙とか空白、そのAIには決して埋めることができない余白にこそ、
複製できないその人だけの魂の居場所があるんじゃないかと。
この考察は今回の探究の中でも特に深いものがありますね。
ノト丸
どこで語りを止めるかが創造性になる。そしてその余白に魂が宿る。
ノト丸
今回の考察、メディアの未来変貌を包括としてこのエッセイを読み解いてきましたけど、いかがだったでしょうか。
当初の問い、我々自身がメディアになっていく未来っていうのは、
ノト丸
AIゴーストとか自己のメディア化っていう形で、ある意味ではすごく現実味を帯びて見えてきました。
ノト丸
でもそれと同時にその流れに抗うかのように、沈黙という記録されないもの、語らないことの価値、
そして終わりをデザインするっていう人間の役割が静かに、でも力強く浮かび上がってきたように感じますね。
ブク美
まさにそうですね。エッセイが最後に投げかける言葉、たった1秒の沈黙、
それこそがAIの時代における人間の証明なのかもしれないっていう一文は本当に深く心に響きます。
デジタルデータとして記録されて再生産されて消費される可能性のある私たち自身の存在について、
そして本当に大切に残したい、誰にも複製されたくないものって何なんだろうかと、それを考えさせられますよね。
これが今回の探求から得られる最後の、そして最もパーソナルな問いかけかもしれません。
ノト丸
さて来週Week12はですね、このメディアの未来変貌で考えたことをさらに発展させて、人間拡張、創造のその先へというテーマに踏み込んでいきます。
テクノロジーは私たちの能力をどこまで拡張できるのか、そして拡張された人間の創造っていうのは一体どういうものになるんでしょうか。
まだ見ぬ未来の可能性をまた一緒に探っていければと思います。ぜひご期待ください。
ブク美
今回の考察を受けて、もしよろしければ少し時間をとって考えてみてほしいことがあります。
あなたにとってAIには再現されたくない、あるいは再現できないと感じるあなた自身の沈黙とか、あえて未来に残したいと思う余白とは一体何でしょうか。
日々の喧騒の中でふと立ち止まってそんなことを考えてみるのも、この時代を生きる私たちにとって案外大切な時間かもしれませんね。