00:06
はい、お疲れ様です。
入ってますね、入ってますかね。
えーっと、7月の8日、水曜日、夜の8時9分です。
はい、えー、今日はね、午前中はドイツ語をやって、
午後から大学図書館の方に行きまして、スピノザエチカ翻訳作業ですね。
ついに、ついに、第一部定理十五終わりました。
終わりましたというか、一通り翻訳が終わって、
ここから、定理十五めっちゃ長いので、全体を見直して、
ちょっとまたブログの方の記事をまとめていきたいなと思ってます。
定理十五長かったね。
そうですね、と。
まあまたちょっと、そうやな、定理十五。
まあね、ちょっとここ今寝室に一通り、
エチカの上野訳、スピノザ練習版の上野訳、佐藤訳、旗中訳、
駆動、斎藤訳ですね、全部一応持ってきました。
で、ちょっと尾行ですね、尾行ちゃうわ。
注釈ね、注釈とかどんな感じで打たれてるのかなっていうのを
ちょっと見ていこうかな、しゃべりながら。
まあね、定理十五ちょっとだいぶかかったんでね、
もうちょっと全体を通して一回読み直して、
何が書かれてたっていうのかっていうのをもう一回ちょっと見直さないと
ブログに記事も書けませんという感じにはなってますんで、
そもそも定理十五、定理十五自体は一行で終わりですわ。
何であろうとあらゆるものはすべて神の中にあり、
神なしには何者もありえずまた考えられることもできない。
はい、これで終わりですわ。
何であろうとあるものはすべて神の中にあり、
神なしには何者もありえずまた考えられることもできない。
03:01
まあそういうことやな。
ですね、今ちょっと上野訳から、スピノザ前週版上野訳の方から見ていってます。
計省略でございますね。
美行の一行目に注釈打たれてますね。
神を人間のように身体と精神とからなり、感情に従属するものとして思い描く人々もいるが、
彼らが神の真の認識からどれほど隔たっているかは既に証明された事柄から十分明白である。
まあまあね、人格神ではないよと。
神は人間のように身体と精神とからなり、感情に従属するものとして思い描く人々もいるが、
彼らが神の真の認識からどれほど隔たっているかは既に証明された事柄から十分明白である。
まあまあね、人格神ではないよと。
スピノザの神はですね、人間のように身体と精神とからなっているわけではありませんということを言っているわけですね。
これに対して注釈、体っていう部分に対して35、注釈3番号35番で打たれてますね。
これはどんな感じの注釈でしょうかと。
体、身体ですね。
コルプス、物体とも訳せる語であると。
この後文脈によって身体が物体のいずれかはテルが、元のラテンが同じコルプスであることに留意されたり。
なるほど、コルプスというのは身体であり物体であると。
延長物ってことやな要は。
スピノザ的にはそこは体なのか物体なのかっていうのはどちらにしても延長物ですよということで、
特にそこは原文ではですね、どちらもコルプスという統一された言葉で表現されていると。
ただ日本語に訳そうとするときに文脈によって身体というふうに訳すところと物体と訳すところで訳し分けるんで留意してくださいねということですね。
これがまず一つ目の注釈と。
次、注釈番号36どこでしょうか。
これはもうすでに微行に入ってますよね。
微行のですね。
06:03
私がすでにそれに答えていることに気づかれるだろうというのもこれらの議論は物体的実態すなわち延長実態が外部分から複合されるという彼らの仮定並みに基づいているが、
私はそれが不条理なことをすでに定理12及び定理13の経緯により示しているからであると。
彼らというのは仮想的として想定されているんですよね。スピノザにとっての彼ら。
スピノザにとっての仮想的としての彼らですね。
私が物書きたちに見る議論はこういったものであると。
それによって彼らは物体的実態は神的本性にふさわしくなく、
またそれに属することもできないと懸命に示そうとする。
だがしかし注意深い人なら私がすでにそれに答えていることに気づかれるだろうと。
なるほど。
というのもこれらの議論は物体的実態すなわち延長実態が部分から複合されているという彼らの仮定にのみ基づいている。
そもそも物体的実態ですよね。
物体的実態は彼らという人たちによると部分から複合されているという仮定をされているわけですけれども、それは違いますよと。
物体的実態というのは部分から複合されているわけではありませんというのがスピノザの主張ですよね。
ここの延長実態というところに注釈番号36番で注釈打たれてますね。
注釈番号36。
オペラではすなわち延長実態、四部、エクステンサムが省略されている。
物体的実態と延長実態はデカルトでは同義語である。
オペラではすなわち延長実態が省略されている。
物体的実態と延長実態はデカルトでは同義である。
オペラ版ですね。36番。
物体的実態すなわち延長実態って言われてるんだけども、
オペラ版ではすなわち延長実態とか省略されていて、
しかもデカルトでは物体的実態と延長実態は同義語であると。
なるほどね。これはいいですわ。
注釈番号37番。
09:13
彼らは物体的実態が有限であるという結論を演画ために、
無限で唯一で分割不可能としか考えることができない物体的実態を
有限な部分から出来上がり、複合的で分割可能なものとして考えるのだから、
同様にまた他の人々は線は点から出来上がると挙行した上で、
なるほど。これも同じことを言ってますよね。スピノザ。
線は点の集合ではないよって言ってるわけですね。
線は線であって、点が無数に集まったものが線になってるわけじゃねえんだと。
線は線だと。点とは全く別物なんですよということが言いたいわけですね。
37番。線は点から出来上がるっていう部分に注釈番号37番打たれてますね。
これは何でしょうか。
出来上がるコンフラーリですね。コンフラーリ。
オペラでは複合されるコンポーニーに書き換えている。
なるほど。コンフラーリね。コンフラーリ。
出来上がるっていうものはオペラでは複合されるコンポーニーに書き換えている。
なるほど。
まあまあ意味的な違い、込められているニュアンスが違うっていうぐらいで、
そこまで大きく意味が変わってくるって感じでもないのかな。
注釈31を参照。
注釈31を読んでみます。
出来上がるコンフラーリ。
オペラは構成される。コンスティチュイですね。コンスティチュイ。
構成されるに書き換えていると。
コンフラーリには金属を糸化して塊に成形する意義があり、
バチカンマニスクリプトの方が意をよく伝えていると思われる。
12:00
だからコンフラーリっていうのは、そもそも金属を1回溶かして塊にもう1回成形し直すっていう意味があるんだと。
これは確かにイメージしやすいですよね。コンフラーリ。
金属を1回溶かして塊に成形し直す。
そういう意味で出来上がるっていうイメージを持っておいた方が良いってことですね。
なるほど。線は無限分割は出来ない。
だが、物体的実体が諸々の物体ないし部分から複合されるという仮定は、
物体は面から複合され、面は線から、最後に線は点から複合されるという仮定に劣らず、
全くの配理であると。そういうことですね。
結局、物体的実体が諸々の物体ないし部分から一つ一つ独立的な部分が複合されて、
それが結合して物体的実体が出来上がっているっていうのは配理であると、不合理であると言ってるんですね。
なるほどね。
そしてこのことは、明晰な理性の不可理性という見解によする全ての人々、
とりわけ真空の存在を否定する人々であれば、認めずに済ますことは出来ないと。
そしてこのことは、明白な理性の不可理性という見解によする全ての人々、
明白な理性の不可理性という見解によする全ての人々、
とりわけ真空の存在を否定する人々であれば、認めずに済ますことは出来ないと。
その何かっていうと、物体的実体が部分から複合されて、
部分から複合されるという仮定に劣らず全く配理であると。
だから結局、物体的実体が部分から複合されるんだという見解、
15:07
そのことは、とりわけ真空の存在を否定する人々であれば、認めずに済ますことは出来ないんだと。
だから、仮に物体的実体が分割され、その部分が自称的に区分されるとしたら、
ある部分が消滅して、欠けたまま他の部分は以前と同様に相互に関連しているということはどうして出来ないのか、
どうして真空が出来ないように全ての部分が調整し合わなければならないのか、
相互に自称的に区分される事物なら、
その一つが他無しにあることが出来、他無しでそれ自身の状態に留まることがもちろんできる。
こういうわけで自然において真空は与えられず、
全ての部分が真空が出来ないように、互いに協力し合わなければならない。
だから、ここからもまた部分は自称的には区別されないということですね。
すなわち、物体的実体はそれが実体である限り、分割不可能であることが出てくるのであると。
要は、物体的実体はそれが実体である限り、
何かそれを分割して個々の部分に分けて考えることは出来ないのだと。
全ての部分が関係性の中で連動し合って、互いに協力し合って存在しているのだと。
それは何かある部分が消失して欠けたまま空白が出来るという状態にならずに、
その空白部分というのが真空部分というのが埋め合わせられて、
他の部分が調整し合って埋め合わせられるように、
全ては関係性の中にあるんだ、みたいなことが言われているんだと思いますね。
はいはいはい。
注釈番号38は、そしてそのことは明石な理性の不可微生という見解によするところに打たれていまして、
それが38、注釈番号38。
18:03
Vですね。バチカンマニスクリプトは見解によするセンティーレですね。
見解によするセンティーレとなっているところをオペラは知っているスキーレに変えているが、
ここでは知っているかどうかではなく、むしろある立場取りがポイントであろうと。
スピノザは明らかにデカルト主義者たちを念頭に置いているのであると。
あ、なるほど。ここで言う彼らっていうのはデカルト主義者のことだったんですね。
デカルトは明石反面に知られた者だけに同意するなら決して謝ることはないと主張していた。
実際続く議論はデカルによる真空の否定を念頭に置いたものであると。
なんかむずいんよね。否定しているのか否定していないのかみたいなものを理解するのが結構難しいんですが、
デカルトによる真空の否定を念頭に置いたものであると。
デカルトは明石反面に知られた者については決して謝ることはないと主張してたんですよね。
しかも真空の否定をしてたんだと。そういうことなのかな。
だからデカルトは真空の存在を否定する人々であれば認めずに済ますことはできないと。
なるほど。だからデカルト主義者のことを言ってるわけですね。ここで真空の存在を否定する人々っていうのは。
そういうふうに真空を否定する人々なんだから、真空部分がある部分が消失したら、その欠けた部分がそのままになるのではなくて、
全ての部分が調整しあって真空部分を埋めるということからもわかるように、
物体的実態はそれぞれが分割して一つ一つ孤独に存在しているわけではなくて、
分割不可能で一つなんだということをデカルト主義者さん、あなたたちが真空を否定しているというところからも
わかりますよねと説得しているわけですね、スピノザは。
21:00
はいはい、なるほどね。
次、注釈番号39番。これについては他書ですね。
これについては他書で、どこですかという注釈なのかな。
39番。他書っていうのはデカルトの哲学原理第2部定理3にその議論があると。
なるほど、これはまあいいでしょうと。
はい、じゃあ次注釈番号40番ですね。
では、なぜ我々は本性的に量を分割する傾向があるのかと問う人があるかもしれないと。
そうだよね、だからそもそも物体的実態は分割なんてできないというふうに言ったんだけど、
じゃあなぜ我々が本性的に性質として量を分割する傾向があるんでしょうかと問う人があるかもしれないですねと疑問を呈しているわけですね。
私の答えはこうであると。
量が我々によって考えられる仕方は2つある。
1つは抽象的に、言い換えれば悲壮的に考えられる場合。
これはもちろん我々は量を表彰する場合であると。
もう1つは量が実体として考えられる場合であり、これは知性のみでなされると。
ここで2つに分割、2パターンに分けているわけですね。
そこで我々がもし、この方がより安易なので体制そうしているのだがと、
ちょっとなんかコメントつけてますね。
そこで我々がもし表彰作用においてある通りの量に注意を向けるなら、
だから第一パターンですよね、悲壮的な部分。
表彰作用においてある通りの量に注意を向けるなら、量は有限で分割可能なもの。
量は有限で分割可能なもの、諸部分からできているものとして見出されるだろうと。
悲壮的に見るとですね、抽象的に悲壮的に見ると、
量は有限で分割可能なもの、諸部分からできているものとして見出されるだろうと。
これに反して第二のパターンですね、次。
これは一番難しいことだがというまたコメントがあって、
もし我々が知性においてある通りの量に注意を向け、
もし我々が知性においてある通りの量に注意を向け、
これを実態である限りで考えるなら、
その時量は我々がすでに十分示したように無限で唯一かつ分割不可能なものとして見出されるだろうと。
24:08
だから抽象的、悲壮的に考えたら量は分割可能だけど、
これに反して知性においてある通りの量に注意を向けたら、
無限で唯一かつ分割不可能なものとして、
物体的実態は見出されるだろうということが言われているわけですねと。
その中で注釈番号40番ですね。
表彰作用においてある通りの量に注意を向けるならと。
はい、注釈番号40番。
表彰作用、イマギナチオですね。
想像とか想像力とも訳される語だが、
いわゆる知性、いわゆる知覚もこの作用とスピノザは考えていると。
イマギナチオ、表彰作用、知覚もこの作用とスピノザは考えている。
第二無定理49の美行ですか。
知覚、想像とか想像力、知覚、知覚作用ってことね。
知覚作用って要は自分が感覚的に何か物事を認識する作用みたいなことかな。
ここで言う表彰作用は知覚も含んでますよってことを言われてるんですね。
そうやな、だからこの一つ目のパターンですね。
抽象的、非相的に考えられるっていうのは我々の知覚も含みますよということですね。
自分が意識として知覚作用というのがありますよね。
その知覚作用というもので考えると量は有限で分割可能なもの、
物体的実態は有限で分割可能なものになってしまうと。
ただこれに反して知性において量というものを考えるとってことですね。
ただこの知性において考えるということが難しいわけですね、要は。
そういうことが言われてますと。
次、注釈番号41周辺について見てみましょうと。
以上をもって第2の議論に対しても答えたことになると考えると。
ちょっと延ばしてるから第2の議論がどんな感じかわからんけど、次いきましょうと。
27:04
なぜならその議論もやはり
物体は実体である限りで分割可能であり、処分分からできているという論点に基づいているからであると。
以上をもって第2の議論に対して答えたことになると。
でもやはり物体は実体である限りで分割分から処分ができているという議論論点に基づいているからである。
たとえそうでないとしても、私はなぜ物体が神的本性にふさわしくないのかわからないというのも、
定理14により神的本性がそれによって自動を被るような実体は
神のほかに与えられることが一切できないからであると。
神以外には神的本性が自動を被るような実体は自己原因ということですね、つまりは。
神が自分自身に対して神的本性に対して何か働きかけをすることはできるけれども、
それ以外のものが神的本性に対して何か影響を及ぼすことはできないですよということですよね。
神のほかに与えられることが一切できないからであると。
私は言うすべてのものは神の中にある。そして生じる一切は神の無限な本性の処方則によってのみ生じ、
神の本性の必然性から出てくる。
これもだから完全に自己原因のことを言ってますよね。
で、カッコですぐ示すようにって書いてある。
そこに対して注釈番号41番が打たれていますと。
はい、41番。
すなわち次の定理16。
なお、バチカンマニュスクリプトでは神の本質の必然性から出てくる。
カッコすぐ示すようにの部分は下部の余白に異なった筆跡で挿入されている。
おそらく元の主考との称号による補正であろうと。
オペラも同文。
うーん、なるほどね、なるほどね。
神の本性の必然性から出てくる。
カッコすぐ示すようにの部分は下部の余白に異なった筆跡で挿入されている。
へー、そうなんですね。
なるほど。異なった筆跡ってことはスピノ座以外が書いた可能性もあるってことなのかな?
30:05
そういうことが示唆されてるんでしょうね。
あえて異なった筆跡でっていうふうに書いてるんでしょう。
ですので、なるほどな。
何かその肯定者とかが書いた可能性があるということが示唆されてるんですかね。
確かに。
全てのものが神の中にある。
そして生じる一切は神の無限な本性の諸法則によってのみ生じ、
神の本性の必然性から出てくると。
なるほど。
それへどんな根拠を持ってしても神が他から受動するということはできないと。
あるいは延長実態はたとえ分割可能であると仮定されようとも、
それが永遠かつ無限であることが認められさえすれば、
神的本性にふさわしくないとは言えないのであると。
だからこれについては今は十分としておこう。
あるいは延長実態はたとえ分割可能であると仮定されようとも、
それが永遠かつ無限であることが認められさえすれば、
神的本性にふさわしくないとは言えないのだと。
だから、ちょっと言ってることを二点察定してるような気もしますね。
延長実態がこれまでは絶対に分割可能ではないんだと、
ひとつながりのものなんだよと言ってたのに、
最後に延長実態がたとえ分割可能であると仮定しちゃうんですよね。
仮定しようとも、それが永遠かつ無限であることが認められさえすれば、
神的本性にふさわしいんですよということですよね。
要は分割できたとしても、永遠かつ無限であれば、
神的本性にはふさわしいですということです。
が最後に言われてますと。
だからこれについては今は十分としておこうと。
ただまた後でそのあたりについても言われる機会があるんですかねというのが
何かちょっと匂わせられて終わってますね。定理15がね。
ここまでで定理15終わりなんで、ざっとスピノザゼン終盤
エチカの上野治先生役の注釈部分をちょっと読んでみましたと。
結構時間がたってそうですね。
すでに32分喋っちゃってるので、
どうするか他のやつも行くか、
ちらっと他の翻訳者の方がどんな注釈を打ってるかっていうのも見ておこうかなと思いますと。
33:01
次じゃあ工藤佐藤役ですね。
工藤佐藤役の方ですね。
どんな感じの注釈を打たれてるんでしょうかと。
これはね。これは注釈打たれてるんでしょうか?
打たれてるんでしょうか?
打たれてはいますね。
これね、結構工藤さん、佐藤さんの注釈って結構スピノザの入門書的な部分があるというか
スピノザの哲学を翻訳部分の解説をするっていうよりかは
工藤さん、佐藤さんの解釈を注釈部分でしてるみたいなところが結構
この二人のエチカの注釈部分についてはあるのかなと感じてるので
ここの部分についてもそういう感じの解説みたいな内容になってるのかなと思うんですけど
ちょっとね、3つ、1、2、3と注釈が打たれてるんですが
該当部分を探すのがちょっと難しそう。
長いんでね。定義15。
1はどこにあるでしょう。あった。
だが私はこのことをより詳しく説明するために反対者たちの議論を反駁するであろうと。
彼らの議論はすべて次の点に記される。
第一。その第一に注釈番号1が振られてますね。
彼らは物体的実態は実態である限り部分から成り立っていると思っている。
物体的実態は実態である限り部分から成り立っていると思っている。
それゆえ彼らは物体的実態が無限であり得ること、したがってまたそれが神に帰属し得ることを否定する。
そしてこのことを多くの例を挙げて説明する。
これらの例から1、2を引用しようと。なるほどね。
だからデカルト主義者たちは部分から成り立っているということを多くの例を挙げて説明しているんだと。
実際この注釈番号1番で言われているのを読み上げてみましょう。
スピナザは無限を次のような種類に分けた。
36:03
1、自らの本性あるいは自らの定義によって無限であるもの。
2、自らの本姿勢によってでなく、原因によって無限であるもの。
3、何ら限界を持たないために無限と言われるもの。
4、あるものの最大最小がわかっていても、その部分がいかなる数によっても数えることができないほど多いもの。
右のうち1は本性上無限と言われ、神の無限性を表している。
2は原因による無限として、無限様態の無限性を表している。
ただしこの無限は神から抽象して考えると部分に分解され、分割され、有限あるいは無限的、再現的な無限とみなされる。
3の無限が、3の限界がないという意味の無限には、
右の1の本性上無限と2の原因による無限が含まれているが、
またデカルトが哲学原理第1部26、27において示したような無再現的な無限も当然そこに含まれるであろうと。
4の無限をスピノザは単に無再現的無限と言っていると。
やっぱり注釈番号1見てみたけど、
この工藤さん、斉藤さん役のスピノザのエチカの注釈に関しては、
この翻訳者2人のスピノザに対する解説という部分が大きいのかなという気がしてますね。
なんかこう、客観的な注釈っていう感じではなくて、
かなり解釈が入ってそうな感じがしますね、2人の。
そんな感じの注釈になっているなと感じますね。
はい、じゃあ次。
一応注釈番号2も探してみましょうか。
注釈番号2がありません。
注釈番号2どこですか。
ありません。
ありません。
注釈番号2がどこですか。
あれ?注釈番号2どこですか。
39:26
注釈番号2はね、だいぶ、えー、そうやな、えー、そしてこのことは、名責な理性が誤りないことを知る人たち、名責な理性が誤りないことを知る人たち、とりわけ空虚の存在を否定する人たちのすべてが承認しなければならないことであると。
そしてこのことは、名責な理性が誤りないことを知る人たち、とりわけ空虚の存在を否定する人たちのすべてが承認しなければならないことであると。
さっき上の訳の方でもこの辺注釈打たれてたような気がしますが、どんな感じのことが書いてるんでしょうか。
空虚な空間は古代以来の問題で、特に17世紀には哲学者、物理学者、医学者などの間で議論の的になっていたスコラ学者の間ではいわゆる空虚の嫌悪が一般的であったが、
ガッサンディは不可分の非延長的アトムを考え、空虚な空間が可能であると主張した。
デカルトはこのガッサンディの考え方に反対した。
彼の場合、延長度物体と同じものとみなされているから、延長を持たない空虚な空間は全くの無と考えられた。
スピノザはこのデカルトの説を認めながら、彼とは異なって延長の不可分性、無限性に基づいて空虚な空間を否定した。
なるほどね。だからそういうことですよね。
スピノザはデカルトが空虚を否定しているわけですけれども、デカルト主義者の人たちが空虚を否定するのであれば、
それを根拠にして、そもそも延長的実態の不可分性というものが否決するんじゃないかみたいな結論をスピノザは持っているわけでして、
だから延長の不可分性、無限性に基づいて空虚な空間というものを否定したと。
42:04
だからスピノザと結論、空虚な空間というのを否定しているという部分についてスピノザとデカルトは同じなんだけど、
一方のデカルトは空虚な空間というのがないということから、延長というものが分割された延長というものを一つ一つ物体というものが分離した、
分割された延長物というものを考えるわけですけれども、ただ同じようにスピノザは空虚な空間の否定したところから延長というものの不可分性とか無限性というものを結論すると。
同じ空虚な空間の否定でもその最終の結論部分というのは全く正反対なものになっているんだよみたいなことが書かれているんですね。
なるほどねと。
じゃあ次、最後、最後、3番、注釈番号3ありますかね。
どこでしょうか。
はい、これは見つかりました。2番のすぐ後ですね。
なぜなら物体的実体はその部分が実体的に配置されるように分割されるならば、
残りの諸部分が以前と同じように相互に結合し合っているのに、なぜその一部分が消滅しないのであろうか。
またなぜ空虚が存在しないように全ての部分を接合し合っていなければならないのかと。
じゃあ今からちょっと注釈番号3番読みます。
実体的な区別とは物体と精神のように一が他なしに考えられ存在し得るような区別である。
実体的な区別とは物体と精神のように一が他なしに考えられ存在し得るような区別である。
実体的な区別とは物体と精神のように一が他なしに考えられ存在し得るような区別である。
つまりある部分は他の部分が消滅しても存在し得ると。
つまり部分はいわば実体的に存在しているのである。
これに関して妖体的な区別とは同一の属性内の妖体間の区別であると。
なるほどな。これも分かる話だな。
実体的な区別というのが要は知性的に見た量ということですね。
45:05
知性的に見られた量というものは一つのものですね。
物体とか精神のように一つのものが他のものなしに自己原因として考えられ存在し得るような区別だから
他の部分が消滅しても空虚にならずに存在し得ると。
他の部分が調整して存在し得る。
けれども妖体的な区別というのは妖体間の区別だからそうではないんですよと。
他の部分が消滅したらそれぞれがここで区別されているので
その部分が調整されるように復活することはありませんみたいな感じのイメージですよね。
これが今言ったのが駆動・斎藤薬の地下の注釈ですね。定理15に関する注釈。
やっぱり駆動・斎藤薬に関しては結構2人の解釈を書いてるって感じがしました。
あと旗中薬と佐藤薬。これ1時間ぐらいかかもう46分喋ってますよね。やべー。
はいはいはいじゃあ次旗中薬行ってみましょうかと。
全てあるものは神の内にある。
なるほど。これも結構注釈は打たれてるんかな。打たれてそうですね。
じゃあ次まず注釈番号16番ですね。美工という部分。美工というところに打たれてますね。
じゃあちょっと読みます。
フロイデンタールはこの美工についてもそれが定理15にではなく定理14に属するべきものであると判定し、
時来多くの薬書にはこのフロイデンタール説を受け入れて特にその旨注意していると。
しかし先に私が定理8の美工2について注釈したのと全く同様の論拠から、
この美工もこのまま定理15に属させるのが正しいのであって、定理14の注たるべきものが誤って定理15に属されたのではないと。
ゲップハルト版349ページ参照。
48:05
この美工がそもそも定理14に属するべきものであるとフロイデンタールが判定してたけれども、
実際そうではなくてそのまま定理15に属させるのが正しいのであってってことが言われてるわけですね。
でもこれについては上野薬ではこの部分については何も触れられてなかったってことは、
ある程度これはもうちょっと確定的なこととして定理14説っていうのは知りづけられたと思っていいのじゃないのかなと思いますね。
さっくり次行きましょう。
次チェリー、注釈番号17どこでしょうか。
注釈番号17。
注釈番号17。はい17ありました。だいぶ終盤まで来ました。
じゃあちょっとだいぶ前から読んでいこうか。
このことは明石な推理が誤りないものであることを知るすべての人々ことに空虚の存在を否定する人々が容認しなければならぬことである。
なぜならもし物体的実態はその諸部分が実在的に区別されるような風に分割されるものとしたら、
その一部分が消滅して他の部分は依然として前のように相互に結合しているということも不可能ではなくなるであろう。
また空虚ができないような風にすべての部分が接合しなければならぬという理由もなくなるであろう。
全くのところ相互に実在的に区別されるものにあっては、位置が他なしにありうるし、またその状態にとどまりうるのである。
しかし自然の中に空虚のあるものが存せず、これについては他の箇所でのめる。
そこに注釈番号17が打たれています。
他の箇所でのめるというところに打たれていますね。
これはちょっと注釈が長いですね。
違う、違う、違う、違う。
注釈番号17。
注釈番号が長くなかったですね。
これは一般にスピナザの叙述したデカルトの哲学原理第2部定理3を指すものとされているが、
51:02
しかしそこでは単にデカルトの説が簡単に紹介されているだけなのだから、むしろこれはスピナザが晩年書こうとして果たさなかった
一般物理学に関する叙述の中でのことと関するロビンソン説も生まれてくると。
一概にデカルトの哲学原理第2部定理3を指すものかどうかは分かりませんよということが書かれているんですね。
さらっと次いきますか。
次、注釈番号18番。
18番ありました。
次ですね。
そしてこれを実態である限りにおいて考える。
これは決めて困難なことだから。
それは我々は既に十分示したように、無限で唯一で不可分なものとして現れるであろう。
このことは表彰と知性と区別することを知っている全ての人に自明であろう。
十分明白であろうと。
この知性について注釈打たれてますねと。
じゃあ注釈を読みます。
注釈18番。
表彰・イマギナチオ・想像と知性・インテレクトゥス・表彰力・想像力と知力の区別は本書においても折々触れられているが、
特にこれは知性改善論における主要テーマの一つであったと。
そうなんですね。
知性改善論。
知性ね。
まあちょっとここについてはあんまり。
そうですね。知性改善論における一つのテーマであったと。
さらっと次行きますか。
これはもって私は第二の論拠にも応答・答弁したと信ずる。
なぜならこれもまた物質は実体として仮分的でありかつ部分からなっているということに基づいているからであり、
物質は実体として仮分的でありかつ部分からなっているということに基づいているからである。
そして仮にこの答弁でまだ十分でないとしても、なぜ物質が神の本性に値しないかは私の解し得ないところである。
なぜなら定理十四による神の他には神の本性が働きを受けるいかなる実体もあり得ないからであると。
そしてこの本性というように十九打たれています。
54:02
神の本性、これはテキストにイプサーとノミアあって文法的にはすぐ前のディビーナ、ナチュラー。
神の本性を受けることもできるし、その少し先のマテリア、物質を受けることもでき、
大抵の外国訳もそのどちらにも取れるようになっているが、
ランチェンベルグとロビンソンは物質を受けるのであることを特に注視しており、
これに反してマイゲルは神の本性を受けるものと解している。
主にここでは物質すなわち物体的実体の受動性、ないし仮分性が容認されると仮定した上での立論であって、
神の非受動性、仮分性が透明の問題となっているのであるから私はマイエルと同様神の本性を指すものと解していると。
なるほどな。これは確か上の訳の方でも神の本性と訳されてたんじゃないかな。
十九の部分ね。
なぜなら定理十四により他には神の本性が働き受ける。
いかなる自体もありえないからである。上の訳どうなのか一応見ときましょうかと。
上の訳に関してはどうでしょうか。
以上をもって第二の議論に対しても答えたことになると考える。
なぜならその議論もやはり物体は実体である限りで分割可能であり、
諸部分からできているという論点に基づいているからであると。
たとえそうでないとしても私はなぜ物体が神的本性にふさわしくないのかわからない。
というのも定理十四により神的本性がそれによって受動を困無量な実体は
神のほかに与えられることが一切できないからであると。
そうですね。やはり上の訳、スピノザイザ演習版上の訳の方でも
ここのイプサについて神の本性と翻訳されているということですので、
一番最新の翻訳をとってみてもここは神の本性という形で解釈されているんですね。
57:03
つまりはここではマイエルですね。マイエルの説が取られているんだということでしょう。
はい、次。注釈二重。
お、注釈二重はないので、これでハタナ科薬の注釈の解説終わり。
じゃあラスト、佐藤一郎薬。佐藤一郎薬。今何分ですか。やば。
57分。これ1時間の配信になりそうですね。1時間超え。
じゃあ次ですね。次佐藤一郎薬。
佐藤一郎薬が一番今まで技術の翻訳の中で一番直訳風の翻訳なんでね。
一番読んでいて意味がわかりづらい。
翻訳文だけ読んでいると一番文位取りづらいというのが佐藤薬になっているのかなと思います。
じゃあどこか打たれてますかね。注釈打たれてますかね。
注釈打たれてるんですか。どうなんでしょうか。打たれてますね。
注釈番号7番。一等待ち。
注釈番号7番。
第二の論拠は神のこの上ない完全さからも引き出されるというのも、
いうところによれば神は最高に完全な存在者であるので働きを被ることがあり得ない。
しかるに物体の性質を帯びた実体は分割可能であるからには働きを受ける。
故にそれは神の在り方に属しないという規決になる。というところに注釈7が打たれてまして、
デカルトの哲学原理第一部第二十三節及びスピノザによるデカルトの哲学原理第一部明大十六。
また、想定されている第一と第二の論拠を合わせてエチカの原型とみてよい。
神、人間とその幸いについての単論文。第一部第二章十八で取り上げられている。
そうなんですね。
神は最高に完全な存在者であるので働きを被ることがあり得ない。
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しかるに物体の性質を帯びた実体は分割可能であるからには働きを受ける。
故にそれは神の在り方に属しないという規決になる。
デカルトの哲学原理だったりスピノザによるデカルトの哲学原理だったり単論文だったりに
論拠が取り上げられてますよという注釈になっているわけだ。
はい、次行きましょう。
次、注釈番号8番。
8番、ありましたね。
そうやなものとして互いに区別されている者どもでは、かけねなしにあるものは他がなくてもありえ、またおのが状態にとどまり得る。
さて、空気は自然の内に与えられず。
これについては別に扱う。
ハタナ役とかでもこれ注釈打たれてたかな。
フランス語役者のアッピーンはデカルトの哲学原理第二文明第三を指すと記している。
デカルトの哲学原理はスピノザの生前に著者名を掲げて出版されたただ一つの著書で、1663年に刊行された。
著述の時期はエチカを書き始めた頃にほぼ重なるとみられる。
なるほど。
だからこれについては別で扱うところがどこかっていうのを示している注釈ですね。
これも同じような注釈にはなってくるな。
そんなもんか、注釈自体は。
そんなもんですね。
注釈自体はそれぐらいで終わってそうですね。
やっぱり注釈を一つ一つの翻訳書の注釈を見ていくと
やっぱり重複している部分もあるんだけど
ここでやっぱり新しい情報というか
それぞれにそれぞれが載っていない情報がやっぱり盛り込まれていて
やっぱり全部読まないと全てを兼ねるものというのがないっていう印象ですね。
1:03:06
最新のスピノザ伝習版の上野治役に関しても
全てを網羅しているわけではなくて
やっぱりこれまでの佐藤役だったりとか
渡中役にしか載っていない内容の注釈もあるので
そちらもきちっと参照していくということが大事なのかなと思って読んでみました。
1時間3分ですね。
この配信始めて以来最長の収録時間になりました。
定理15をやっと訳し終わって一段落つきそうだったので
一旦振り返りも兼ねて
注釈の方ですね。各翻訳書の注釈の方の内容の確認をしてみました。
ここからまたちょっと内容をもう1回精査して
ブログの方にまとめを作っていこうかなと思います。
ではまた次回。おやすみなさい。