今回はこちらについて話をしています。
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⚪︎質問
「念仏衆生摂取不捨」の念仏者とは、阿弥陀仏の本願を聞いて、その本願の通りに念仏している者(本願を信じ念仏している者)を摂取して見捨てないということですが、
①同じ内容の本願を聞いていても、本願を信じられずに、念仏だけ称えている者は、阿弥陀仏のお救いから漏れてしまうのでしょうか?
②もしそうだとしたら、阿弥陀仏の本願は、差別的な本願になりませんか?
(信心のある念仏者は救うが、信心がない念仏者は救わないという差別になりませんか?)
③もし、阿弥陀さまの本願が、本願に疑いある者は救わずに、本願に疑い晴れた者だけ救う本願であれば、どうして「無条件のお救い」とか、「無差別のお救い」とか、「そのまま救う」とか、そんな無責任なことが言えるのでしょうか?
④同じ内容の阿弥陀仏の本願を聞いていても、阿弥陀仏の本願によって救われる者と、救われない者が出てきてしまうのは、何が原因になっているのでしょうか?
⑤もし私の側に何か救われない原因(理由)があるとすれば、それは何でしょうか?
⑥また、阿弥陀さまは、私を救いたくても、本願に疑いある状態のままでは、私を救うことができないのでしょうか?(本願に疑いある念仏者は救えないようなシステムや構造になっているのでしょうか?)
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話の中で出したご文
⚪︎「故使如来選要法」といふは、釈迦如来、よろづの善のなかより名号をえらびとりて、五濁悪時・悪世界・悪衆生・邪見無信のものにあたへたまへるなりとしるべしとなり。これを「選」といふ、ひろくえらぶといふなり。「要」はもつぱらといふ、もとむといふ、ちぎるといふなり。「法」は名号なり。(唯信鈔文意・浄土真宗聖典註釈版P711)
⚪︎(60)
不了仏智のしるしには
如来の諸智を疑惑して
罪福信じ善本を
たのめば辺地にとまるなり(正像末和讃・誡疑讃・浄土真宗聖典註釈版P610)
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