今回は、以下の質問について話をしました。
頂いた質問
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第53回目のネットラジオ版安心問答を聞いて、阿弥陀仏の側で、この人は好きだから早く救おうとか、この人は嫌いだから救うのは遅くしようとか、そういった差別はないことが分かりました。
そこで、また重ねてお尋ねがあります。
阿弥陀仏の側で救いの差別はしていないけれども、現世(今生)で救われる人と、来世(未来世)で救われる人が出てきてしまうのは、やはり「宿善」の厚薄が関係しているのでしょうか?
浄土真宗辞典で「宿善」について調べたら、①過去世に積んだ善根のこと。
②宿世の善因縁の意で、獲信のための善き因縁のこと、と書いてありました。
また、「宿善」は浄土真宗では、信心を得る縁となる阿弥陀仏の調育のはたらきであるとすると書いてありました。
さらに「宿善の開発」を同じく浄土真宗辞典で調べたら、信心を得るための過去の善き因縁が熟して、信心が開けおこること、と書いてありました。
そうすると、早く信心獲得できるかできないかは、「宿善」が厚いか?薄いか?に拠る所が大きな要因になると、この浄土真宗辞典では読めてしまうのですが、
実際の所は、この「宿善」が信心獲得の大きな要因になるのでしょうか?
また、もし「宿善」の厚薄が阿弥陀仏の救済の因縁であるとするならば、たくさん善い行いをしたり、たくさん念仏を称えたり、たくさん聴聞をしたほうが、早く阿弥陀仏の救済に遇えると考えてしまうのですが、実際はどうなのでしょうか?
今回は、この阿弥陀仏の救済と「宿善」の関係について、またネットラジオ版安心問答でお話しを聞かせていただけると有り難いです。
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○話の中ででたご文
一 光明・名号の因縁といふ事。
十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。
(略)
また光明寺(善導)の御釈(礼讃)には、「以光明名号摂化十方 但使信心求念」とものたまへり。
しかれば往生の信心の定まることはわれらが智分にあらず、光明の縁にもよほし育てられて名号信知の報土の因をうと、しるべしとなり。これを他力といふなり。(浄土真宗聖典註釈版P874)
○鎮西派・聖光房弁長(弁阿)上人「浄土宗名目問答」
このこと極めたる僻事なり。そのゆえは、全く他力を憑みて一分も自力なしということ、道理としてしらるべからず。自力の善根なしといえども他力によって往生を得るといはば一切の凡夫の輩、いまに穢土に留まるべからず。みなことごとく浄土に往生すべし。(浄土宗全書10・ P410)
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