ヨハネの福音書14章15節から24節をお読みします。
もし私を愛しているなら、あなた方は私の戒めを守るはずです。 そして、
私が父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、 その助け主がいつまでもあなた方と共にいるようにしてくださいます。
この方は真理の御霊です。
与はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。
あなた方はこの方を知っています。
この方はあなた方と共におられ、またあなた方のうちにおられるようになるのです。
私はあなた方を捨てて、故事にはしません。
あなた方のところに戻ってきます。
あと少しで、与は私を見なくなります。
しかし、あなた方は私を見ます。
私が生き、あなた方も生きることになるからです。
その日には、私が父のうちに、あなた方が私のうちに、 そして私があなた方のうちにいることがあなた方にわかります。
私の戒めを保ち、それを守る人は、私を愛している人です。
私を愛している人は、私の父に愛され、私もその人を愛し、私自身をその人にあらわします。
いすかりおてでない方の与だがイエスに言った。
主よ、私たちには御自分をあらわそうとなさるのに、 与にはそうなさらないのはどうしてですか。
イエスは彼に答えられた。
誰でも私を愛する人は、私の言葉を守ります。
そうすれば、私の父はその人を愛し、 私たちはその人のところに来て、その人と共に住みます。
私を愛さない人は、私の言葉を守りません。
あなた方が聞いている言葉は、私のものではなく、 私を使わされた父のものです。
以上です。
今日はこのところから、イエスの戒めを守る人に対して 御言葉からお話しいたします。
皆さん、おはようございます。
先週のですね、19日の木曜日ですか、 東京地方に桜の開花宣言がなされました。
そして翌日20日がですね、春分の日ですよね。
そして春分の日の最初の満月の次の日曜日がイースターですね。
今年はなぜか早めの4月5日になります。
そんなイースターと関わりがあるような、 イエス様の十字架と復活にも触れている、
今日の言葉から学んでいきたいと思います。
いつも出していますが、おそらく最後の晩餐と言われるような席で、 国別説教としてですね、弟子たちに語られたところです。
その前にですね、こういう問いがあると思うんですね。
どうしたらイエス様の愛を私たちは知ることができるのだろうか。
あるいはどのように神様を身近に感じることができるのだろうか。
これはクリスチャン共通の問いじゃないのかなと思うわけですね。
その答えをあえて簡単に申し上げるなら、こういう問い。
その答えをあえて簡単に申し上げるなら、あえて簡単に言うならばですね、
イエス様のいましみを守るときに、私たちはイエス様の愛を知り、
また私たちが神様の言葉を自分のものとするときに、 神様を身近に感じることができると言えるかもしれません。
言い換えれば聖書の言葉が欠かせないということですね。
あえて単純な言い方をしています。
なぜこんなことを言うかと言いますと、
今日のイエス様の言葉は難しいんですね。
実はそこの中にこういうことが書いてあるということで、最初にお話ししました。
今日のイエス様の言葉、ヨハネノフ君賞の難しさとも言えるんですけれども、
前も言いましたが、読んでいる表面はわかる。
イエスを愛するとか、あなた方の中に留まるとか、
あなた方と共に住むとか、いっぱいある表面的な意味は、
日本人であれば、日本語がわかれば理解できるんです。
でもその言っていることの意味が何なのかとか、
どういう状況のことを言っているのかということを理解するのが難しい。
それがヨハネノフ君賞ですとか、
ヨハネノの中のイエス様の言葉を理解する難しさになっているんですね。
ですからそのイエス様が今日言っていることの意味が、
私たちにとってどんな意味なのかとか、
どういう状況のことを指して言っているのかということを、
少しでも皆さんが理解できるように解説していきたいと思うんですね。
その中で、イエス様や神様を身近に感じたり、
愛を知るということに触れられればと思います。
空いていますが、今日は聖霊の話が出てくるんですけれども、
来週以降の話に聖霊のことが出てくるので、
今日はそこは触れません。
ですので、それは覚えておいていただいて、
今日のところを見ていきましょう。
まず第一の点は、復活のキリストにあい、
いのちに生きるということを見ていきます。
14章19節でイエス様がこのように述べているんですね。
あと少しで世はもう私を見なくなります。
しかし、あなた方は私を見ます。
これからだけ読んでみましょうか。
私が生き、あなた方も生きることになるからです。
あえて言えば表面的にはわかるけれど、
何を指して言っているんだろうかということが
わかりにくいじゃないかと思うんですね。
この言葉を理解するには、
あと少しでという言葉と、
20節におそらくしばらくするとという言葉が
出てくるはずなんですね。
その日には、その日にはという言葉が手がかりになります。
それはイエス様の十字架と復活の時を指しているんです。
イエス様の十字架があって、
復活したイエス様が現れるということと関係しているんですけども、
何がそこからわかるかというと、
ここではイエス様が復活の後に、
弟子たちの前に現れます。
実は、「よはもう見なくなります」ということは、
何を言っているかというと、
よく聖書でもわかるんですけど、
復活のイエス様に弟子以外はあっていないんです。
簡単に言うと、イエス様を信じていない人は、
復活のイエス様にあっていないんです。
言い換えれば、弟子たちやイエス様を信じた私たちは、
復活のイエス様に会う、見ることができる、
そういうふうに捉えることができるんですね。
与党の対比ということです。
ちょっと今日は頭使いますからね。
後で難しかったらレジュメ見てください。
さっきの19節の中でこういうことを言っていますね。
「しかし、あなた方は私を見ます。
私が生き、あなた方も生きることになるからです。
復活のイエス様に出会った弟子たちが、
イエス様と共に生きる、それはどういうことか?」
これはこういうことなんですね。
復活のイエス様に出会った弟子たちが、
イエス様がこれまで教えてきたように、
イエス様が真の神様であると、
信じることができるようになるわけですね。
それを信じていないし、理解できていないから、
何度もピリッポが、例えば、
イエス主よ、父を私に見せてください、
というふうに言ったりしてますよね。
でも復活したイエス様に出会った弟子たちは、
このイエス様こそ、父なる神様と等しく神なんだ、
ということが分かって信じるようになるんです。
そうやってイエス様を神として信じるようになると、
彼らはイエス様と同じ復活のいのち、
永遠のいのちに生きることになるんですよ。
それがですね、私が生き、
そして信じたあなた方も生きることになる。
神のいのち、復活のいのちに生きることになるんですよ、
という意味ですね。
ちょっとこれ途切れてしまいましたね。
そういうことが今見たことなんですけども、
それは次の言葉につながっていくんです。
20節の。
イエス様を信じ、復活のイエス様に出会って、
イエス様が神だと信じた弟子たちは、
イエス様と同じ神のいのち、永遠のいのちに預かりました。
そしてその時には、その日には、これ読んでみましょうか。
私が父のうちにいることが、あなた方に分かります。
繰り返しますけれども、この時にですね、
弟子たちは、イエス様と父なる神様がですね、
これまで言ったように、神として親密な関わりにあるんだ、
ということを本当の意味で理解する。
そして今まで言ってきたように、
イエス様が父なる神様と別でありながら、
一つであるということが本当に分かるようになるんですよ、
ということを言っているんですね。
さらにですね、もう一つ難しいことに話が繋がっていくんですけれども、
イエス様はこうも言っているんですね。
イエス様と父が一つであり、
その父なる神様の中に、
イエス様がいるということが分かった時に、
今度は、ちょっと読んでみましょうか。
あなた方が私のうちに、
そして私があなた方のうちにいることが、
あなた方に分かります。
これね、難しい言葉なんですけれども、
あえて言うとですね、
これは何を意味しているかというと、
弟子たちがですね、
イエス様と自分たちが、
お互いの中に留まっているということが、
分かるようになるということなんですね。
つまり、さっき言いました、
イエス様と父なる神様は親密な関係を持っている。
実はそのようなイエス様と父なる神様が持っている親密な関係を、
弟子たちが今度はイエス様と持つことができる、
そのことが分かるんですね。
道人御子が持っている、世界の始まる前から持っている、
親密な関係の中に、親密な関係と同じような関係に、
弟子たちも私たちもイエス様と持つことができる。
それをですね、お互いの中に存在することが分かる、
という表現で言っています。
もっと難しくなりますからね。
実はこれはですね、
神学用語では相互内在と言うんです。
ミューチャル・インドゥアリングってね。
お互いの中にお互いが存在していると言って、
単なる何かですね、
突拍子もないことじゃなくて、
実はキリスト教の伝統の中で理解される、
受け継がれてきた、
由緒ある考えなんです。
イエス様の中に私たちが存在し、
そして私たちもイエス様の中に存在する、
何回も言いますけど、
相互内在ということが、
実は突拍子もない考えに思えますけども、
2000年のキリスト教の伝統の中で理解され、
受け継がれてきた、
由緒ある考えや信仰なんですね。
これあえて三民一体なんですけども、
もうちょっと言うと、
父なる神、子なる神、御子なる神が親しく交わりを持っているように、
私たちも神とその親しい交わりの中に入るという、
そういう考えにもつながっていくんですね。
もう春早々ですね、
目が覚めるような、
あるいは眠くなるような難しい話になりましたけれども、
やはり私たちは、
5年、10年、20年クリスチャンとなって歩んでいく中で、
このような深いとかですね、
難しい、
しかし私たちの信仰の本質と関わるようなことも、
理解していく必要があるのではないかなと思ってお伝えしました。
そしてもう少し、もしかしたらわかりやすく言えるかなと思うんですけども、
実は、
永遠のいのちに生きるとか、
神のいのちに生かされるということの中には、
このような相互内在、
お互いの中、イエス様の中に私たちが生き、
そして私たちの中にイエス様が生きているという、
そのことも含まれているということなんですね。
もうちょっと言い換えますと、
永遠のいのちに生きる、神のいのちに生かされているというのは、
繰り返しますが、
父なる神様とイエス様が持っているような親しい関わりの中に、
私たちも入れてもらっている。
非常にわかりやすく言うとですね、
何かこう、中のいいサークルとかあるじゃないですか。
そういうところに行くと、
自分もあの中に入りたいなって思うわけですよね。
そうすると、そこに入るとですね、
本当に親しいサークルで、
何か自分の居場所があるみたいな感じがあるかもしれません。
今思い出したんですけど、
私はね、今からちょうど、
ちょっとじゃないか、
1984年の4月の19日にですね、
イエス様を信じたんです。
その時に、
あるアメリカの選挙団体の、
そういう交わりに行ったんですね。
簡単に言うとですね、
実は私大学入ったんですけども、
寂しい気持ちがあったんですね。
知らない人ばっかりじゃないですか。
それで、知らない人ばっかりで、
大学入ったはいいものの、
何か人間関係にもちょっと躓いたりして、
寂しい気持ちがあったんですね。
そしてたまたま知り合った方が選挙師で、
そういう選挙師たちとかですね、
日本人のクリスチャンの交わりに行った時にですね、
あの人たちの仲間に入れたら、
どんなにいいだろうかって思ったんですよね。
で、イエス様を信じて歓迎されて、
その仲間に入って、
本当に心が潤うような体験をしました。
それは人間関係ですけども、
そのと似たようなことがですね、
イエス様と道の親しい関わりの中に、
イエス様を信じた私たちも入ることができて、
そしてそのいのちを体験して、
心が満たされていく。
実はですね、この、
神のいのちに生かされていくという意味での
相互内在が、
私にとってどんな意味があるのかなとか、
あるいは生活の中で、
それが自分とどう関わっていくのかなと。
実はですね、いつも言ってますが、
それを知ることが、
体験することが、
クリスチャン生活の醍醐味ではないかと思うんですね。
そしていつも言ってますけども、
それはマニュアル化できるものじゃなくて、
皆さん一人一人が生活の場とか、
皆さんが持っておられる性格とかですね、
人間関係の中で、
そして御言葉の出会いの中で、
皆さんそれぞれが経験していくものなんですね。
だから私はそれがこれだと言わないんですけども、
イエス様が本当に広く言っているように、
皆さんにもこういう関係がありますので、
ぜひ日常生活の中で、
それがどういう意味なのかということを知っていただきたい。
そんなこともあって、
まず最初の点をお伝えいたします。
まずは復活のイエス様にあって、
いのちに生きるということを言いました。