ヨハネ-22からの礼拝メッセージ。2026年5月17日録音。
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サマリー
このメッセージは、ヨハネの福音書16章16-22節に基づき、「悲しみは喜びに変わる」というテーマで語られています。イエス様は、弟子たちが十字架にかけられる際の深い悲しみを予言し、その悲しみは世の喜びとは対照的であると述べました。この悲しみは、私たちの力ではどうすることもできない喪失や苦しみとも関連しており、日本の歌謡曲にも歌われるような普遍的な人間の悩みです。しかし、イエス様は「悲しむ者は幸いである。慰められるからだ」とも約束されており、悲しみは無意味ではなく、神の慰めへと繋がる道であると示唆しています。 さらに、イエス様は出産の苦しみに例えて、悲しみや苦しみは喜びを生み出すための「産みの苦しみ」であると語りました。この苦しみは、単なる肉体的な痛みだけでなく、心の痛みや霊的な痛みも含む広い意味を持っています。そして、この苦しみの先に、イエス様ご自身の復活という圧倒的な喜びがあることが、イザヤ書の預言とも結びつけて語られました。最終的に、最も重要な約束として、イエス様が悲しみ苦しむ弟子たちに自ら会いに行ってくださるという事実が強調されています。これは、私たちが神を見出すことよりも、神が私たちを見出し、会いに来てくださることの重要性を示しています。この先んじて会いに来てくださるイエス様への信頼こそが、私たちの重荷を軽くし、平安と希望を与えるのです。
弟子たちの悲しみとイエス様の予言
ヨハネの福音書ですね。16章の16節から22節です。
16章16節から22節をお読みします。
しばらくするとあなた方はもう私を見なくなりますが、またしばらくすると私を見ます。
そこで弟子たちのうちのある者たちは互いに言った。
しばらくするとあなた方は私を見なくなるが、またしばらくすると私を見る。
また私は父のもとに行くからだと言われるのはどういうことなのだろうか。
こうして彼らはしばらくするとと言われるのは何のことだろうか。
何を話しておられるのか私たちにはわからないと言った。
イエスは彼らが何かを尋ねたがというのに気づいて彼らに言われた。
しばらくするとあなた方は私を見なくなるが、またしばらくすると私を見ると私が言ったことについて互いに論じ合っているのですか。
まことにまことにあなた方に言います。
あなた方は泣き、嘆き、悲しむが、与は喜びます。
あなた方は悲しみます。
しかし、あなた方の悲しみは喜びに変わります。
女は子を産むとき苦しみます。
自分時が来たからです。
しかし、子を産んでしまうと、一人の人が世に生まれた喜びのためにその激しい痛みをもう覚えていません。
あなた方も今は悲しんでいます。
しかし、私は再びあなた方に会います。
そして、あなた方の心は喜びに満たされます。
その喜びをあなた方から奪い去るものはありません。
以上です。
今日はこのところから、悲しみは喜びに変わると題して、読み言葉からお話をします。
みなさん、おはようございます。
本当に毎週、暖かい暑いと言っていますが、
今日も初夏の陽気、昨日よりももっと暑くなるようですが、
共に礼拝できますことを感謝しています。
さて、今日は前回の続き、先週の続きから、
あなた方の悲しみは喜びに変わるというイエス様の有名な御言葉から、
3つの点をお話ししていきたいと思います。
まず最初は、私たちの力が及ばない悲しみや苦しみということを見ていきましょう。
16章の20節、イエス様の御言葉です。
少し長いのですが、読めるかと読んでみましょうか。
あなた方は泣き、嘆き悲しむが、
世は喜びます。
あなた方は悲しみます。
しかし、あなた方の悲しみは喜びに変わります。
イエス様は断言しているのです。
どういう意味かというと、弟子たちがイエス様が十字架にかけられる、
その時が来てイエス様が死ぬ、
そういう現実を前に弟子たちが深い悲しみに沈むであろうと、
そう断言しているのです。
しかもここでは、いつも私が言う原文のギリシャ語を見ますと、
あなた方という英語のYouにあたる主格代名詞、
ギリシャ語のヒュメイスという言葉がわざわざ2回繰り返されていて、
悲しみが強調されています。
時々言うのはイエス様が自分を指しているエゴーという、
私こそはということと同じ、それにあたるヒュメイスという言葉が、
この赤い字で書いたところにわざわざ書いてあるのです。
あなた方は泣き、泣き叫びという意味ですね。
声を出して泣く、大げさな言葉なんですけれども、
あなた方は泣き、嘆き悲しみは弱い喜びます。
あなた方は悲しみます。
しかし、あなた方は悲しみます。
しかし、あなた方の悲しみは喜びに変わりますと言って、
とにかく彼らが弟子たちが、
泣き悲しむ、あなた方こそそういう時を迎えると、
イエス様が断言していることがわかるのです。
そしてもう一つ弟子たちの深い悲しみはですね、
この弱喜びますという、この弱という言葉と、
彼らのイエス様の敵たちが喜ぶということと対比されてですね、
イエス様を十字架にかけた敵たちは拍手喝采して喜ぶということと、
あなた方はその中で泣き叫んで、
嘆き悲しむということが対比されて、
どれだけ弟子たちがつらい思いをするかということを、
イエス様は言っているわけです。
で、ここでですね、
弟子たちはイエス様が十字架にかけられるということを、
どうすることもできないですよね。
同じように私たちにとっても、
自分の力が及ばないことで悲しんだり苦しむということがありますよね。
ここでイエス様と弟子たちのような、残念ながら死別という、
死別の悲しみ、あるいは病気になってしまったり、
その他の喪失などですね、思いがけないことであったり、
私たちの力が及ばない、
そういうことの上に悲しみ、また苦しむことがある。
突然なんですけれども、皆さんは世代かな、
ザ・フォーククルセーダーズというね、
教会で言うと不謹慎ですけど、
一番の人の曲が、帰ってきて酔っ払いという曲です。
2枚目のシングルが、
悲しくて、とても悲しくてやりきれないという曲なんですね。
で、実はこの曲のサビの部分が、
悲しくて悲しくて、とてもやりきれないということを、
1番、2番、3番と繰り返されているんですね。
2番はですね、悲しくて悲しくて、とてもやりきれない、
この限りない虚しさの救いはないだろうか。
ちょっともしダメかもしれないんですけど、
音源を張ってみたので、ダメだったらごめんなさい。
ちょっとやってみましょうね。
もし流れたら、朝聴いたら、
息子に今聴く曲じゃないよって言われたんですよね。
ここですね、サビの部分。
ここですね。
ご静聴ありがとうございました。
はい、以上ですね。
すいませんね。
この限りない虚しさの救いはないだろうか、
この物悲しい声で歌っています。
そしてね、3番のこのサビの部分はですね、
悲しくて悲しくて、とてもやりきれない、
この燃えたぎる苦しさは、
明日も続くのかって言ってますね。
で、悲しみっていうのは、
いろんな日本の歌謡曲やJ-POPでもね、
テーマになることで、
私たち共通の悩みだと思います。
この2つのですね、
限りない虚しさの救いはないのだろうかとか、
燃えたぎる悲しさから来る苦しさは、
明日も続くのかっていうね、歌詞にですね、
先ほども言いましたけども、
自分の力ではどうしようもできない気持ちとか、
将来への不安が歌われていて、
多くの人の心に、
共感を呼び込んだんじゃないかと思うわけですね。
しかしですね、イエス様は、
出産の苦しみと復活の喜び
マタリンの福祉書で、
こんな約束しておられますよね。
読んでみましょうか。
悲しむ者は幸いです。
その人たちは、
慰められるからです。
こうイエス様は言っておられるように、
悲しみはですね、
無意味ではなくて、
必ず神様の慰めへと繋がる道だ、
そこに道があるということですね。
それが2番目です。
それは喜びへと繋がる、
生みの苦しみとも関係しています。
その後イエス様は、
ここを続けておられます、21節。
読めるか読んでみましょうか。
女は子を産むとき苦しみます。
自分の時が来たからです。
しかし子を産んでしまうと、
その激しい痛みをもう覚えていません。
経験のある方は思い浮かぶかと思いますし、
誰であれね、母から生まれたわけですから、
そういう苦しみとかね、
出産の苦しみなんかを、
自分についても聞いたことがあるかもしれません。
イエス様は出産の例えを用いてね、
語られるんですね。
実はここではですね、
苦しみと言い換えているんですけども、
やはりここから、
悲しみと苦しみは互いに関係し合っているということが、
なんとなく身にとれるんじゃないかと思います。
実はこの元のギリシャ語ではですね、
悲しみ、最初に見た6章20節の悲しみと、
今見ている妊婦さんの苦しみと訳されている言葉は、
どちらも同じギリシャ語なんです。
ルペエというね。
同じ言葉で、悲しみも苦しみも表しているんです。
で、実はそのルペエが表す苦しみにはですね、
体の痛みだけじゃなくて、
心の痛みと両方の苦しみ、ペイン、
そのことがですね、言われています。
最近ね、うちの教会でも岩鉄岡山カフェ関わっていますけど、
英語でね、スピリチャルペインといってね、
霊的な痛みということは、
一般的な社会でも言われているんですよね。
なぜこんな苦しみに遭うんだろうかと、
なぜと問うところに、
いわゆるキリスト教圏が言う霊的なスピリチャルな痛みがあって、
心の痛み、体の痛み、それがやはり、
人には両方起こり得る。
そしてここでイエス様は、
悲しみ、苦しみということでも、
この出産の例えを通してですね、
必ず悲しみも苦しみも喜びを生み出すための、
痛みの、海の苦しみだ、
先には喜びがあるということを語っているわけですね。
そしてさらにですね、興味深いことにですね、
このイエス様は、
悲しみと苦しみは喜びを生み出すための痛みであると、
この出産の話を通して教えています。
さらに興味深いことはですね、
実はこの、
実はですね、ここにですね、
一人の人が生まれた故に、
出産の痛みを忘れるという言葉が書いてあるんですけども、
実は元のギリシャ語で読むと、
非常に厳粛でドラマチックな言い方をしているんです。
一人の人間がこの世に生み出された喜び、
わざわざ人間、
人類学のこと、アンソロポロジーというんですけど、
アンソロポスという言葉を使って、
一人の人間が世に生み出されたことの喜びのゆえに、
苦痛を忘れますという言い方をしています。
実はこのわざわざ一人の人間が生み出されたという厳粛な言葉を使ってですね、
十字架という海の苦しみを通して、
復活されるイエス様ご自身のことが暗示されているんですね。
その厳粛な響きの。
なぜそのことがわかるかというと、
旧約聖書のイザヤ書の中に、
イエス様の復活を予告するような御言葉があって、
それとこの言葉が連動しているんですね。
ちょっと読む難しいんですけど、
イザヤ書26章の17節と19節。
子を産む時が近づいた、
妊婦が海の苦しみでもだえ叫ぶように、
主よ、私たちは御前でそのようでした。
19節読んでみましょうか。
あなたの死人は生き返り、
私の屍はよみがえります。
さめよ、喜び謳え、
土の塵の中に留まる者よ、
誠にあなたの梅雨は光の梅雨、
死は死者の霊を生き返らせます。
このような復活の言葉を通して、
実はイザヤは、やがて現れるメシアの復活という、
力の甦りを示唆していると考えられているわけです。
そしてこの言葉に連動するようにイエス様は、
一人の人間がこの世に生み出された喜びということを、
ここで語っているわけですね。
何が言いたいかと言いますと、この復活の喜び、
それは実は十字架の痛みを忘れさせるほどの、
圧倒的な喜びだったということが、
ここで見て取れるわけなんです。
この十字架の苦しみを忘れさせられるような、
圧倒的な喜びがですね、復活したイエス様と
再会するときに訪れるというんですね。
同じように私たちの悲しみ、苦しみもですね、
神様の御手の中で喜びへと変えられていくんですね。
それでは最後にその復活と喜び、復活に関わる、
イエス様が会いに来てくださる約束
素晴らしい約束を見ていきたいと思います。
実は3番目、大事なことは、悲しみ苦しむ者に、
イエス様が会いに来てくださるという約束なんですね。
続けて16章の22節でイエス様はこのように約束しています。
読んでみましょうか、3、
しかし私は再びあなた方に会います。
そしてあなた方の心は喜びに満たされます。
実はここで主語がですね、先ほどヒュメイスと言いましたけど、
言うあなた方から私、イエス様へと変わっているんですね。
実は今日読んだ箇所では16章16節の冒頭でですね、
こういう言葉が出てくるんです。
しばらくするとあなた方はもう私を見なくなりますが、
またしばらくすると私を見ますと、
16章16節の今日の取り上げた箇所の冒頭で、
この言葉がイエス様によって語られています。
そして朗読の時に日がついたと思いますけれども、
この言い回しが少しずつ変化しながら、
弟子の口から、そしてイエス様の口から語られているんですね。
あなた方はもう私を見なくなるが、
しばらくすると私を見ますという言葉が4回ですね、
弟子たちの口から。
それは一体どういうことだろうかというような、
弟子たちの引用の言葉を使ったり、
イエス様があなた方はそれを聞きたいんですかって言葉を使ったりして、
4回も繰り返されているんです。
そしてその4回繰り返されている中で、
主語は全部あなた方なんですけれども、
ここのしばらくするとあなた方が私を見ますということで、
再会の時の主語も弟子たちがイエス様に会うってなっているんです。
でもこの16章22節では、
弟子たちではなくて、私は再びあなた方に会いますと言って、
主語の逆転。イエス様が主語になっているんですね。
ここがですね、大事なポイントなんです。
この主語の入れ替わりがとても大事であって、
ある方はですね、これを解説してですね、
こう言っているんですね。
人が神を見ることよりも、神が人を見て、
神が人に会いに来てくださることの方が重要であって、
人が神を見ることよりも、神が人を見て、
神が人に会いに来てくださることの方が重要であると言っているんですね。
お分かりのように復活のイエス様は、
絶望して悲しむ弟子たちの元にわざわざ現れてくださいました。
ヨハネの福音書の最後の方でも、
戸を閉じている中にイエス様がそこに現れてくださいましたよね。
復活の場面を思い出すと、
イエス様の方が弟子たちに会いに来てくださったということがわかるし、
イエス様が先に私たち、弟子たちを見つけたということが大事なわけなんですね。
同じようにですね、今の私たちにも悲しみや苦しみがありますね。
歌謡曲もまた引っ張りますけど、
アンジェラ・アキさんのね、よく卒業式で歌われていた
十五の手紙っていうね、あのサビの部分でも
悲しみは避けては通れないけれども、なんて歌ってますけども、
そういう避けては通れない悲しみの中にあっても、
イエス様が私たちを先に見つけてくださることなんですね。
イエス様が会いに来てくださったという経験を、
クリスチャンの方はすると思います。
当然今の時代イエス様を見ることができませんけども、
それは聖霊によって私たちの心にわかることですよね。
私たちが悲しむ前からすでに私たちを知り、
先んじて近づいてくださるお方、それが復活のイエス様なんですね。
あの前もちょっと紹介しましたがですね、
最初はずきさんという、多分クリスチャンじゃない作家がですね、
アカシという本を書きました。
ある時のですね、キリスト教書店、銀座の教文堂の年間第1位の本に選ばれた本で、
多くの人のいわゆるアカシがインタビューした形なんですけども、
問わず語りのように語られているのがあります。
その中でですね、一人の女性のアカシがあるんですね。
その方はですね、沖縄の方なんですね。
時代は昭和の多分40年代だったと思うんですけども、
その方はですね、いろいろ苦労して保育園で保母さんになったんです。
お子さん4人いたんですけども、4番目のお子さんがですね、
2ヶ月の時に心臓病が発覚したって言うんですね。
その時に神様なんでこんな仕口に私は会うの?
なんでこんな重荷を負わなきゃいけないの?っていっぱい泣いたって言うんです。
彼女が言うには、信じていたものがペシャンコになるような感じだったって言うんですね。
その子は5歳になった時に用事があったので、
彼女は沖縄から東京にですね、出た時に、
ある有名な大学病院に行ったんですね。
いわゆる当時のアポナシですけども、行ったら、
ちょっとこの医者がこんなこと言ったらそうなんですね。
東京にもたくさんの心臓病の子供がいるから、
沖縄の子供に関わっている場合じゃないんだ。
沖縄に帰って病院を作りなさいって言われちゃったって言うんです。
で、運が悪かったんでしょうね。
で、彼女は途方に暮れて、もうショックでショックでって言ってるんですけども、
もう疲れてしまって、どうしようもないと思ってですね、
彼女は別の病院に行ったんですね。M病院。
で、もうカウンターも、午後のカウンターも診療もあって、カーテンが降りていてですね、
事情を説明しても午後は診療がない、
障害状がないとダメだって受付の人に言われてしまったんですけど、
疲れ果ててベンチに座ってたんですね、そこの待合室の。
そしたらたまたまある先生が通りかかって、
ドロドロちょっと見てあげますよって診察してくださったんです。
その先生はですね、今すぐは無理だけど、
一月ぐらい待ってもらえますかって言ったので、
待ちますと言って沖縄に戻ったそうなんですね。
それが11月だったんですけども、年が上げた3ヶ月後の2月になって、
その先生が病院からですね、空いてるからすぐ来なさいって言って電話があったので、
すぐに東京に行って手術をしてもらったと。
下の名前忘れましたけど、循環器センターの古田先生という方です。
救われましたって言ってるんですね。
そして彼女はこんな感想を言ってるんですね。
神様は見てくださっていたんだ。これが救いということかなって本当に感謝しました。
見えないところで、計画しないところで、救いの手は準備されていると思いました。
信じるというのは委ねることなのかな、
したことはしてもしょうがないから委ねるしかない。
本当に彼女のこの言葉ですね。
神様が見ていてくださったんだ。これが救いということかなって本当に感謝しました。
見えないところで、計画しないところで、救いの手は準備されていると思いましたと告白してるわけですね。
先ほど言いましたが、人が神を見ることよりも神が人を見て会いに来てくださることの方が重要だ。
イエス様が率先して弟子たちに復活の後、会いに来てくださったということが重要だということが分かるんですね。
同じように私たちも悲しみと苦しみの中にある中でもですね、イエス様が会いに来てくださる。
それは目に見えませんが、イエス様が会いに来て救ってくださったんだということが分かるということが、
今、聖霊を与えられて私たちがすることができる経験なのではないかなと思うわけですね。
長年信仰をやっている方は分かるかと思いますけど、
信仰生活はですね、もちろん私たちは決断をしてついていきますけど、
時にですね、自分が頑張ってしっかりしなければと考えすぎると重荷になってしまうんですね。
でもそれと同時にそれ以上に、神様はいつも私たちよりも先んじておられる。
そういう自分よりも先んじている神様ということを知るときに、
その神様に信頼すると重荷が軽くなるわけですよね。
実はこの先んじる神様について、
預言者エレミアを選んだ神様の言葉からも私たちは知ることができますね。
ちょっと読んでみましょうか。
エレミア章の1章5節。
預言者エレミアを先んじて選んだ神様の言葉ですね。
体内から3。
体内に形作る前からあなたを知り、
あなたが母の体を出る前からあなたを性別し、
国々への預言者と定めていた。
これはエレミアの預言者としての証明ですが、
人として神様が私たちに向けている眼差しも同じような、
私たちが母の体にいる前から、
私たちをご存知で選んでくださったということがわかるかと思います。
そしてイエス様は同じヨハネの15章の中で、
弟子たちを選んだということについても、
この先んじるイエス様の思いといいますか、
選びというものを語っていますね。
有名な言葉ヨハネの15章16節を読んでみましょうか。
3。あなた方が私を選んだのではなく、
私があなた方を選び、あなた方を任いのちしました。
このようにですね、私たちが自分の力が及ばない悲しみや痛みの中にあるときこそですね、
私たちが求めるよりも先にですね、
先にして私たちをご存知で、私たちを見つけて会いに来てくださる。
そんなイエス様に信頼して歩いてまいりたいと思います。お祈りしましょう。
天の神様、御名を賛美いたします。
あなた方は悲しむでしょう。しかし、私があなた方に会いに来ます。
その喜びをあなた方から奪い去るものは何もありません。
イエス様がおっしゃってくださいました。
私たちには力が及ばないことがあり、苦しんだり悲しむことがあるかもしれません。
しかし、私たち以上にイエス様が先に私たちを見つけてくださり、
気にかけてくださり、そしてご自身を表し、救いの手を差し伸べてくださる。
そこに私たちの平安があり、希望があることを感謝いたします。
どうかその先にじてくださる復活のイエス様、またご聖霊の慰めに
信頼しながら私たちがこの地を歩んでいくことができますように、どうか導いてください。
この願いと感謝を、私たちの救い主シューイエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それでは1分ほど、御言葉に応えて黙祷する時間を持ちましょう。
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