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「キリストを得る為に」2026年3月15日のメッセージ
2026-03-15 41:08

「キリストを得る為に」2026年3月15日のメッセージ

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東京ぶどうの木教会 2026年3月15日(日)主日礼拝のメッセージです。

牧師:アブラハム黄

▼メッセージをスライドで: https://x.gd/0dA0T

▼ポッドキャストへのご感想はこちらへ!: https://forms.gle/fHcRBqaFSat8EQfE9

▼教会へのお問い合わせ: tokyo.vine.church@gmail.com

▼メッセージの自動文字起こしはこちら: https://listen.style/p/tokyovinechurch

 

(聖書) フィリピ3:1-14 あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。...4 とはいえ、 肉にも頼たよろうと思えば、 わたしは頼れなくはない。だれかほかに、 肉に頼れると思う人がいるなら、 わたしはなおさらのことです。5 わたしは生まれて八日目に割礼を受け、 イスラエルの民に属し、 ベニヤミン族の出身で、 ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、 6 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。7 しかし、 わたしにとって有利であったこれらのことを、 キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。8 そればかりか、 わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、 今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、 わたしはすべてを失いましたが、 それらを塵あくたと見なしています。...10 わたしは、 キリストとその復活の力とを知り、 その苦しみにあずかって、 その死の姿にあやかりながら、 11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。...なすべきことはただ一つ、 後ろのものを忘れ、 前のものに全身を向けつつ、 14 神がキリスト・イエスによって上へ召して、 お与えになる賞を得るために、 目標を目指してひたすら走ることです。

 

メッセージ題 :キリストを得る為に (フィリピ3:1-21)

*私たちの信仰は、年を取れば、霊的な熱情が冷め、信仰が形式的、習慣的になりやすいです。しかし使徒パウロは、持続的な熱望により、年を取っても活火山のように燃え続けました。どうするなら?

 

1.フィリポ3章は、その秘訣を教えてくださいます。それは、持続的にキリストを得ようとすることでした。

*どうして、そうすることが出来たでしょう?3:8私の主、キリストのイエスを知ることのあまりにも素晴らしさの故に、キリストって・・・油注がれた人として王、祭司長、預言者の役割をされる方!サタンを滅ぼす王、罪と呪い、病を取り除く祭司長、神に出会う道、御声を聞かせて下さる預言者!←人類は神から離れて苦労しているが命、恵み、祝福に満たされた神に出会うことができるなら?人生問題の解決に

道よ、真理よ、命であるキリスト・イエスのお陰で、神の祝福を味わうから・・・牢の中迫害の中でも喜びが

#しかし、教会の中にはいつものように、キリスト・イエスだけを信じる信仰を駄目にする群れが!3:2

パウロはその群れを犬と!これは野良犬のような、攻撃的で貪りに満ちた犬。ユダの律法主義者!彼らはキリストだけでは不十分?割礼も、律法を守ることも?扇動しながら自分を誇り、騙すので、教会が?

#これを見て、正しい信仰を教える為に・・・過去の自分の信仰を3:4-6厳しく律法を守ることを誇りとしそうではない人々を攻撃した。それはユダの律法主義者と比べないほど・・・しかし、ダマスコでイエス様に出会い180度変わった。キリストの信仰はそんなものではない、愛と赦しの十字架を信じる世界?

そのとき、悟った。今までの律法を守ることを誇る信仰では、このキリスト・イエスに出会うことできない!

*しかもこの世の知識、律法も役に立ちます。無知を目覚まし、文化科学発展の為には必要だが、人間の根本問題である罪と死の権勢の前には虚しいもの。キリストを知る知識こそ、悪魔を追い出し、罪と呪いを取り除き、神様に出会わせてくれることができるので・・・人間の根本問題解決ができる。またキリストの内にどれほど神の知恵と知識が満ちているのか、その広さ、深さ、高さ、長さは!無限そのもの。

#今のキリスト者の問題は?神の特権、宝、キリストがおられるのに信仰生活しながらこの世を憧れる?


2.パウロはキリストを得ることだけで、喜ぶように! では、キリストを得るとはどうすることなのか?

*キリストと完全に結ばれ一つになる連合!―>その為に、パウロはキリストを知り、見習おうと!また、キリストの十字架を知り復活にまで達したいと。復活を知る為に十字架で死ぬと?Ⅱコリント11:23-27

*イエス・キリストの苦難を自分も担おうとしたとき、主が共におられ、復活の力で過ごすことができた。

 

3.パウロの最後の目標は?神様が与えて下さる賞を得る為に・・・走り続けること!

*12-21節、イエス様を学び見習おうとすることで、パウロは大使徒、霊的な将軍、信仰の秘密を持つものに

#私たちが救われたとするなら、霊的な赤ん坊ではなく、霊的将軍、信仰の秘密を持つものにならなければ。

→キリストを信じることで義とされたなら―>その後、私たちの内に残されている、罪の欲、人間的要素、世の価値観、奴隷根性と戦って、イエス様に見習った聖い人に! しかし、義とされたところでとどまるなら?マタイ12:45のように・・・パウロはそれを知っていたので、3:13,14安住しないで、自分の競争を、そのとき御国を

20,21卑しい体を栄光のある体に・・・御国に導かれる。 *ここに偽りの教えがどれほど多いのか!18,19節

→サランの教会オク先生の告白?

@信仰の世界は無窮無尽です。パウロのようにキリストを得ようとするとき 

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00:00
今日は、「キリストを得る為に」という対応をもって メッセージを分かち合いたいと思います。
私たちの信仰生活は 年を取れば取るほど
礼的な熱中状が冷めてしまって 信仰が形式的になり
習慣的になり 適当なレベルで安住しようとする心がある場合が多いです。
しかしパウルはそうではありませんでした。 彼は持続的な熱望によって
年を取ったとしても かつかさんのように
ますます燃え上がりました。 どうして私たちの信仰はますます冷めていくんですけど
パウルの信仰は最後の最後まで燃え続けることができたのか。 事実これが一番大事なことです。
どうすればパウルのように最後まで熱中状的な信仰を持ち続けることができるのか。
その秘訣を今日のピリッポ3章で私たちに教えてください。
じゃあパウルは何をしたからそのように熱中ある信仰を持ち続けることができたのか。
パウルはキリストを得ようとしたということです。 最後の最後までキリストを得ようとしたということです。
どうしてキリストを得ようとそんなに頑張ることができたのか。 これが8節に書かれてあります。
そればかりか私たちの宗キリストイエスを知ることの あんまりの素晴らしさに
キリストイエスを知ることの あんまりも素晴らしさにということです。
キリストイエスを知ることが素晴らしいことが分かったから、
だから素晴らしいことをもっともっともっともっと知りたくて、
彼はイエス様を得ようとしてイエス様のところで走り続けたということです。
最近教会でキリストについて分かっちゃっています。
キリストは神様の知恵と知識の宝はすべてキリストのうちに隠されている。
皆さん神様の知恵と知識の宝がどれほど神秘に輝く、栄光に輝く、
素晴らしいことが全部どこのあるにありますか。
キリストのうちに隠されている。
隠されている。
キリストのうちには一体何がどのくらいまであるのか。
私たちが最近、キリストということで復習をしてみましょうか。
キリストという名前は油注がれた人ということです。
03:01
昔王最初預言者を立てるときに油を注ぐんですけど、
この王は、世の中の王がいますけどそれは全部鍵にすぎません。
本物の王はイエス様です。
イエス様は万王の王、万種の種ですけど、
イエス様がこの世の神と言われるこのサタンを滅ぼす方はイエス様しかいません。
また罪、また罪の結果として与えられた呪い、病、すべての問題を取り除く最初、
また神に出会う道、神の御声を聞かせてくださる預言者、
この本物が、これはイエスキリストということです。
人類は神様から離れて、罪の中で、呪いの中で苦しみながら地獄に行くんですけど、
この人類を救うために、恵みと愛と命と祝福に満たされる神様に出会わせてくださる方、
神に出会うなら問題がすべて解決できるんですけど、
この神様に出会わせてくださる道を真理を命である方は、ただただイエスキリストしかいません。
イエスキリストのゆえに、このすべてを味わうことができる。
これもパウロが悟った、ごく一部のキリストの中の秘密の一部ではないかと思います。
パウロはキリストに対して、ものすごいことまで悟ってしまったので、
この際の手紙を書くときに、パウロは牢の中、刑務所の中にいました。
刑務所の中で、迫害の中でいるのにもかかわらず、喜びなさい、喜びなさいと続けて、
手紙を書きながら神徒たちを励ますことができた、この力がどこから出るのか、
キリストを知ることのあまりに素晴らしさに、
パウロは一切、キリストだけで十分という信仰を持って、キリストによって喜ぶことができた。
ところが皆さん、教会というものは、いつもこのようなキリストによって満たされて喜ぶ人がいるだけじゃなく、
また反対側の者もいたということです。
キリストに対する信仰を軽んじる人もいた。
これを二節でパウロはこう言います。
あの犬どもを注意しなさい。
横島の働き手たちに気を付けなさい。
霧傷に過ぎないかつれいを受けたということを、
自分たちをなんとか偉そうにする者たちを警戒しなさい。
06:02
ここで、パウロがある人たちを犬だという犬の表現、
私たちも犬と何と言いながら悪口をするんですけど、
犬という表現を人が使うということはいいでしょうか。
この犬どもということは、事実、ユダの立法主義者を意味するんですけど、
この犬は、皆さん、家で飼うペットを意味するんじゃありません。
これは野良犬なんです。
外に出て野良犬、野良犬たちを獲物を探し回って、
もしそれがあるなら、ガーッと何か獲物を得ようとして、激しいんです。
また、人にも攻撃するようなものすごい激しいものです。
ユダの立法学者たちをこのように表現したのは、
彼がどんなものなのか、パウロはどう理解しているのかが見えてくるんですね。
ユダの立法学者たちは何と言ったのか、
キリストを信じるだけで不十分だと。
活礼を受けなきゃいけない。また、立法を守らなきゃいけない。
そうじゃなければ救いは得られない。キリストだけでは救いは得られない。
活礼を受けなきゃいけない。また、立法を守らなきゃいけないと言いながら、
信徒たちを煽動していったということです。
彼らは偉い信仰の背景を宣伝しながら、
また自分たちがしている人脈、また自分がしているこの教理をうまく守ることを誇りにしながら、
そして教会に自分たちの存在をアピールしながら、
その教会のリーダーシップを取ろうとしていたんです。
それで教会を自分たちが操るようにそのような働きをしたいと思っていたでしょう。
彼らについてパウロが犬どもといったことを見ていますと、
彼らがどれほど利益を貪る人かということがわかります。
それにもかかわらず彼らの言葉には説得力があって、
教会の信徒たちはみんな彼らが何とか言うなら、ああそうかそうかと言いながら、
活礼を受けることは大事ですね。また立法を守る行為はやっぱりユダヤ人はやるべきでしょうと言いながら、
教会全体が彼らによって立法主義の教会に変わっていったということです。
教会は絶対そのことをやってはいけない。
礼儀的な分別力を持って真っ事の福音、イエス・キリストの素晴らしさに、
そのイエス・キリストについていかなきゃいけないのに、
ユダヤの立法学者たちについていく教会を見ながら、パウロは心が痛かったんですね。
09:04
ですからパウロは自分の過去、私はどんな存在なのかを信徒たちに説明しながら、
今彼らたちが間違えたことを知っているんだ。彼らについて言ってはいけないよと、
正しい信仰はこんなものだということを今言われていることです。
ここでパウロは昔の自分を説明しながら、彼らは間違えたということを言っているんですけど、
昔のパウロを自分自身に対して誇るように見える聖書がピリッポ3書4節5節です。
とはいえ、肉には頼ろうと思えば、私は倒れなくはない。
誰か他に肉に頼れると思う人がいるなら、私はなおさらのことです。
私は生まれて8日目に滑稽を受け、イスラエルの民に直し、ヴェネラリミン侮辱の出身でヘブライ人の中でヘブライ人、
立法に関してはパリサイ派の一員、レッシンサテンでは教会を迫害した者、
また立法の木については火の落ちどころもなかったと言う。
皆さん私たちはパウロが、ふるさとがタルソー、今トルコのタルソーの地域なんです。
またローマの市民権を持っていったと言うから、パウロは多分、違法人である父母がいるんじゃないか。
また違法人の世界で住んでいたから、彼は違法人の何かが流れているんじゃないかと思うんですけど、
全然違います。
パウロは聖徒的なイスラエル人、またサウル王の系統である王族、ヴェナミン侮辱なんです。
またキリシャ語を使うヘブライ人ではなくて、ヘブライ語を使う聖徒的なヘブライ人であり、
また彼はパリサイ人だった。
立法を守ることに対しては、これは本当に本物のパリサイ人だった。
また彼の教理規則をどれほど厳しく守るのか、彼には許されるとか恵みとか言うことは一切許されなかった。
だからパウロはダマスコまで行って、イエス様を信じる人を捕まえて殺そうとしていることを見ますと、
彼はどれほど立法に厳しい人だことは分かります。
彼の信仰は厳しく立法を守る生活を追い求めたんですけど、
これをうまくやれば神様が喜ばれるんじゃないかと思ってた。
皆さんそうでしょう。
私たちみんなも自分がこれをうまくやるのは、これをやれば神様が喜んでくださると思うからそれをやるんじゃありませんか。
12:00
パウロが昔そうしたのは、そうすることが神様が一番喜ばれるんだと思ってそうしたんですよ。
みんなそう思うでしょう。
しかし彼はそれを間違えたことだったことを彼が言っているんです。
今教会を惑わしに落としているユダヤの立法主義者を比べたら、パウロがもっともっと立法主義に近い人でした。
しかしある日彼がタマスコに行く途中でイエス様に出会いました。
太陽よりもっと明るい光の中でおられるイエス様に出会ったんですけど、
イエス様は自分が考えた立法を守ること、規則、規律を強調する方ではなかったんです。
イエス様は恵みと真理に満たされている方で、イエス様に出会ってみたらどれほど許される方であり、
恵みがまた慰めるお方、深く深く安息の中でおられることを感じたので、
そのイエス様に出会ってからは自分の目から鱗が落ちたと言われるほど彼は完全な違いでした。
自分はもともとそう思った。神様は、イエス様は、神様は立法を厳しく守る人を喜ばれるんじゃないかと思ったんですけど、
イエス様に出会ってみたら立法を厳しく守るよりは許してあげる、
慰めてあげる、愛をしてあげる、そのような姿の方だったんです。
厳しく守ることではなく、愛と許しに満たされている十字架を信じる、それが信仰だということを彼が分かったんです。
このイエス様が私たちに与えてくださるその世界を見たらどれほど恵みと喜びが満ちあわれる世界なのか、
彼の信仰に対する考え方、価値観が180度変わっていきました。
その時イエス様に出会った時、彼はもう過去は死んで新しい人になりました。
その時彼は悟りました。
今までのように立法を守ること、また厳しくそのようなことを守ることを誇りにする信仰としては、
私たちはイエス様に出会うことができない、むしろ邪魔になることだけだと。
ですから自分が今まで求めて誇ってきた立法を守る、また自分の努力によって何かを神様のために何かやっていく、
このような信仰生活ではないということを分かって、今までやったことすべてを廃説のように捨てたということです。
15:02
皆さん、私たちの信仰生活を通してキリスト、イエスに出会うことができなければ、なぜ信仰生活をするんですか?
今毎週、教会に来られて礼拝を守って、皆さん研究もされたり、いろいろなことをされるでしょう。
それを通してイエス、キリストを出会うことができなければ、信仰生活を何のためにするんですか?
何の意味もないことですよ。
私たちはイエス、キリストに出会うために信仰生活することであり、信仰生活することだけが目的ではないんですよ。
それをパウルが悟ったんです。
今まで自分を厳しく守れば、何か厳しくやればイエス様を喜ぶ、神様を喜ぶと思ったのに、
自分が実際に出会ったイエス様は、そんなことと全く関係がない。
愛と恵み、許し、慰めに満ちあうれるお方だということを分かってからは、
今まで私は何していたのか?と、イエス様に出会ってから分かったということです。
またキリストに出会うこと、またキリストに対する信仰を持っていくなら、
愛の中にいるのに、恵みの中にいるのに、悪魔を滅ぼす力もあり、
罪と呪いを取り除く力になり、またイエス様に出会うなら、神に出会う道がイエス様の中にあることを分かって、
人間の根本的な問題が全部解決できる道は、イエス様に出会うことしかないということを分かる。
厳しく守る、立法を守る信仰が、神に出会う道ではなかったんです。
またキリストのうちには、神の知恵と知識がどれほど豊かにあるのか、
してもしても、その恵み、その栄光、その神秘は限りがない。
その深さ、広さ、高さ、長さ、もうキリストの世界は限りがない世界だということを分かったんです。
そのイエス様に出会って、心がドキドキしないとは、これは何か間違いです。
皆さん、美しい姉妹を見ても男性たちは心がドキドキするんですけど、
知恵と知識の神秘と栄光に満ちあうれる、また豊かに美しさに満ちあうれていらっしゃるイエス様に出会って、
神の栄光の前で心がドキドキしないことは、これは何か問題があるのではないでしょう。
今私たちの信仰生活、信仰生活する目標、今私たちの信仰生活が何か間違いではないでしょうか。
私たちこの信仰生活をずっとすれば、イエス様に出会えますか。イエス様によって満たされますか。
18:03
今日インマーネル、インマーネル3秒はしたんですけど、私たちは本当にインマーネル3秒すれば、イエス様が私とおられ、インマーネルしてくださるんですか。
今私たちの信仰生活を通して、イエス様はどこにいますか。イエス様はどのようにイエス様に出会いますか。
今私たちが間違いを知っていることではないんでしょうか。いうことがパウロが悟ったことなんです。
私たちは信仰生活を通して、イエス様に出会い、イエス様と愛、恵み、許し、慰め、その中にある無限な力と知恵、
それによって心の中で悩みが解決でき、病みが全部消えてしまい、またイエス様に出会うことで命、恵みを豊かに与えられ、
病気の中が立ち上がり、癒され、もう力がない人が力を得、すべての問題の中にいると問題がすべて解決できるような、
驚くほどの知恵と知識のパワーがイエス様の中にあるのに、私たちの今の信仰生活を通してイエス様に出会うことができるのか。
これが私たちが今、神様に聞いてみなきゃいけないことなんです。
皆さん、今のキリスト支配の問題が何か知っていますか。
私たちは神様の子供としての特権、神の宝であるイエス・キリストを私たちのうちにもう受け入れているのにもかかわらず、
その大切さを知らなく、信仰生活をしながら、またこの世の中の憧れをあるんだ。
私は一生が主の日を捧げること、主の日を礼拝を捧げるのに、海外旅行を一度も行ったことがない。
私の友達ダレダレは、今フランスパーリーに行って、何かエペルタを見たと言いながら私の前で言っているんですけど、
私は海外旅行なんか、国内旅行も一回も行ったことがない。
私の人生、いつも礼拝ばかりで、もう礼拝、礼拝、うんざりだ。
このような状態だとするなら、皆さんはキリストが何かをわからない人であり、霊的な価値観には全くない人になるんです。
パウルは何と言うんですか。世の中の全部を得たとしても、キリストを得ることがなければ何にも得ることがない人で、
この世の中のことを全部失ったとしても、キリストを得たとしたら全てを得たと言われるパウルのこのメッセージ。
皆さん、私たちもキリストだけによって喜ぶことができればと思います。
21:05
キリストをたけ持っているなら、全てを持っているという人になれればと思います。
では皆さん、キリストを得るということは、具体的に何をすることでしょうか。
今日、インマヌエルで皆さん申し上げたんですけど、キリストとつながってキリストと一つになることが、キリストを得るという言葉なんです。
パウルはキリストを得るために何をしたんでしょう。
十節十一節、私はキリストとその復活の力を知り、その苦しみに預かって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいと思っています。
パウルはキリストと一致するために、キリストの中で一つになるために、まずキリストを知りたい、キリストを見習いたいと思ったんです。
イエス・キリストは神様に対してどうされたんですか。
神に対する熱情、神様に対する献身、神様に対する熱心、それで神様のために生きるためにイエス様は働きました。
また羊たちのために、牧者の羊飼いの心、また羊のために寄生を学びながら、彼はイエス様をどこまで進めようとするのか。
十字架の死の姿を何とか学びながら、イエス様の復活の死道を知りたかった。
死んで復活する、これは人間の世界ではありえないけど、私はイエス・キリストに見習って、死んで復活したいと思ったんだよ。
皆さん、復活を知るためにはまず死ななければいけない。
ですからパウロは、私はイエス様と共に死にたいと思った。
じゃあどうすればイエス様と共に死ぬことができますか。
パウロは福音を伝えながら、苦難を受ける、嫉妬することを、それをキリストと共に死ぬと思いました。
そのことを第2コリント11章23節から書かれてあります。
私を読んでみましょう。
キリストに仕えるために苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、無知打たれたことも比較的ないほど多く、死ぬような目にあったことも度々ありました。
ユダヤ人から40に一つ足りない無知を受けたことは5度もあり、まだ無知で打たれたことを3度、石で投げつけられたことを1度、難戦から難戦したことを3度、一夕夜会場で漂ったこともありました。
しばしば旅をし、川の難、道筑の難、東方からの難、異邦人からの難、街での難、あれので難、会場の難、二世兄弟たちからの難を愛、苦労し、骨折り、しばしば眠れず過ごし、上渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸の時もありました。
24:29
またルストランの時には石で投げつけられて、私は死んだと思って投げつけられたのに、まだ生き返られて町に入ったこともありました。
パウルはイエス様の死に、死の姿に預かるために、自分はイエス様のために福音を伝えながら、死ぬほど苦労したことがこんなにたくさんあったんです。
このようなことを通して、イエス様に見習おうとしたら、主が共におられて、復活の力で中で過ごしてくださったので、彼は死の姿に預かりながら、復活を楽しみをした、復活を味わったということなんです。
私たちもパウルのように、キリストに見習おうとする礼儀的な熱情が神様から与えられることを祝福いたします。
これから彼の最後の目標は、神様が上から私に与えてくださる賞を得るために、キリストに目指して、これから私は走り続けますということです。
パウルはイエス様に知り、見習おうために見習うことを熱心にし続けました。その結果、彼は他の使徒と比べられない大使徒になりました。
また彼の心には、年取っていればいいほど炎のような熱情、これを持った礼儀的な将軍になり、信仰の秘密を持った人になりました。
皆さん、私たちがイエス様を信じて救われるなら、礼儀的な赤ちゃんとして新しく生まれるようになります。
ところが、礼儀的な赤ちゃんとしてそのまま留まることではなく、パウルのように成長し成長して、礼儀的な将軍であり、信仰の秘密を持つ人にならなければなりません。
皆さん、私たちの信仰の救い、救いの両手があります。
まず福音をいただいて、救われることをはじめとして、これから私たちの救われたのに、表は救われたのに中身はまだ昔のまま、だから昔のまま残っている罪の欲を切り捨て。
人間的な要素、切り捨て。世の中の価値観、切り捨て。過去の奴隷の根性、全部切り捨て、切り捨て、切り捨て。
27:07
すべてと戦って、それを切り捨てることによって、清い人になり、イエス様に見習う人になります。
しかし私たちは、きっとされたというところで、救われたからもういいんじゃないか、天国に入るようになったから、私はすべてやったと思って、
それで油断してしまって、あいつからに陥ってしまうなら、皆さんそこから礼儀的な成長は止まってしまいます。
それでもいいでしょう。それで止まることだけで終わりじゃありません。
そこから進行性価値は礼儀的な戦いですけど、救われたということで止まってしまえば、それからの礼儀的な戦いには散々やられることしかないんです。
また中日書でこんな言葉が見事があります。ある人がイエス様を信じて福音を受け入れたら、心の中にいた悪霊が出てしまった。
しかし悪霊が出て行って、ああ私の家が人の心なんで、家から出て行ったらもう行くところがない、うろついて、
それからその家をずっと見たら、空っぽになってきれいに掃除までされている。
でも何にも満たされていない。だから自分よりもっと悪い7つの霊を連れて行って、そこで住み着く。
だから仮の始めの状態が、最後の状態が始めるよりはるかに悪くなった。
イエス・キリストによって悪霊が出て行って心がきれいになったら、心の中で何をよって満たされなきゃいけないのか。
見事なと、聖霊によって、またイエス様に見習うこのような信仰の秘密によって満たされなきゃいけないのに、
救われて終わりだと言っている。救われて、あなた信じますか?あなた天国へ行きます。
それであなたはもうこれから何をしても天国へ行きますから。え、いいですか?
それで始めに来て信仰を持って、それでこれから私勝手にイエス様イエス様を助けて下さい、祝福して下さい、お金を下さい、
もうこのことばっかりやりながら信仰生活をするから、その後の信仰状態がどうなるのか。
ますますもっともっと悪くなったと言うんです。
しかし、パウルはイエス様に出会って変わった後、そこで暗示することではなかった、油断することではなかった。
13節、14節、兄弟立ち、私自身はすでに取られられと思ってません。
なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身向けつつ、
神がキリスト、イエスによって上へ召して与えられる賞を得るために目標を目指してひたすら走るのです、と言います。
パウルは信仰生活を、これを共創と思ったんです。
30:04
だから自分に定められた、各々定められた道は違うんだけど、レインは違うんだけど、
自分に定められたレインを一生懸命走り続けたということです。
この走り続けた最後の決勝の戦のところで、神様が私たちに天国の市民権を与えてくださり、
そこで私たちが天国に入る栄光に輝く姿に変えてくださるんですけど、
その走る過程で油断したり暗示したらいけない。
皆さんそこに対して偽りの教えがどれほどたくさんあるのか、
18世紀、19世紀には何度も言っていますが、今も涙を流しながら言います。
キリストの十字架の敵大する人がたくさんいます、と言います。
しかしパウルはキリストを得たということで終わりじゃなく、彼は続けて続けて走り続ける。
最後にイエス様は私たちに何をくださるのか、これは21節、22節に書かれてありますけど、
私たちの癒やしい体をご自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる。
そして天国に入るように導いてくださる。
皆さんこれをよく見ていますと、
きっとされるだけではなく、成果、栄果の過程を今パウルが私たちに説明しているんです。
私たちは信仰生活が長いからもうすぐすでに救われたから、
これから私は何とかしても天国に行くから、何とか何とか油断しながら暗示しながら、
このように適当に信仰生活を知っていればいいんじゃないかと思われるんですが、大きな錯覚なんですよ。
パウルのようにキリストを学んで知り得ることを持続的に求める中で、
私たちは天国の中で神に栄光に輝く姿に変えられ、天国に入るようになるんです。
私は昔、大学生の時に私に信仰を教えてくださった方が、韓国のサランの業界という業界の岡野先生。
私は岡野先生大好き。イギリス先生も大好きですけど、岡野先生は今は天に召されていません。
しかし私は先週、岡野先生のYouTubeを見たことがあるんです。
昔々の説教、昔、亡くなる前の状態、状況の時代の説教を聞くことができました。
その先生が終わりの時、最後の時にこんな説教をしたんですね。
私は以前、一回救われたら永遠に救われるんだと、イエス様を信じることなら救いは終わったと思った。
33:05
しかし、長い牧会で学んだことは、信じるんだとことで救いが終わることではなく、
信じるということは神様に見慣れていくことが本当に大事なことをやっと悟りました。
私はそれを伝道師さんに送ってあげました。
私はそのYouTubeを見てから、先生、今になってこんな話をしたらどうするんですか。
昔先生のメッセージを聞いて、それを弟子訓練としながら、私はもう名前は言いません。
ある人に説明し、今までは手当たりの人に、他の先生からいただいた救い論、それをもって救いの確信があると言いながら、
たくさんの人に教えて、私もそう信じ続けたのに、今になって先生に言葉を変えれば、今どうするんですか。
いうような気持ちになったんですよ。
最後のときにそれを変えてくださったから、まあいいんですけど、私も救い論が昔のような曖昧な救い論ではないから、今は構いませんけど、
先生、昔教えてくださって、それを熱心に学んでたくさん弟子訓練をするんだとしてやっていたのに、今聞いたら違うんじゃないですか。
先生、このように変わっていったんですね。何とか騙されたような。
ああ、もう偉大な先生に騙されたんじゃない、というような気持ちで先週悔しかったという良いことです。
そうです、皆さん、岡倫先生も最後には悟られたというから、まあいいんじゃないかと思いますけど、
きっと、きっとされたということで救いが終わることではありません。
これは救いの始まりです。信仰生活の始まりにすぎません。
この後、イエス様に見習っていく。イエス様を知って見習っていく。
清さ清さ、またパウロのように復活に至るために十字架というイエス様の苦難を自分は何とか体を持って体験しながら、復活の姿に預かりたいと思って、
パウロのような熱心にイエスキリストに後を追いかけていく。このようなことが信仰生活なんですよ。
大事なのは私は全て終わったことではないということです。これからキリストの後についていくことです。
皆さん、信仰生活は今私たちが知っているレベルではありません。
信仰生活は無窮無尽な生活なんです。無窮無尽な生活。
先週も申し上げましたけど、目白く4章8節に、天主たちが神様の前で礼拝する姿。
昼も夜も絶え間なく続けて、聖なるかな聖なるかな聖なるかな。
36:04
全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがておられるお方。
天主たちが主の御前で礼拝をしながら、聖なるかな聖なるかな聖なるかな。
これはもう簡単主だと言ったでしょう。うわー素晴らしい素晴らしい。
天主たちは昔々から毎日うわーと言っているんです。
それほど神様は無窮な無尽な新しさを持っておられる。毎日が新しいから。
こんな素晴らしい素晴らしい神様。
だから信仰生活は、もうイエス様少し、聖書少し読んでわかった。
これで信仰が終わりではない。これはもう少しに過ぎない。
海辺で砂、砂でそこで何と言いましょうか、何か不思議なもの一個立って、ああいいなと子供たち言いますけど。
砂には、海辺にはこんなことはいっぱいあるものですから。
ですから今私たちが一つ真理をもらって、これでいいじゃないか、いいんじゃないか。
これじゃなくて、無限な無限な神様の世界の中で、無窮な無窮なこの不思議さ、素晴らしさ、たくさんあるのに、
それに関心がなく、ただただ天国に行くからいいんじゃないか。
だからこれからはご利益で何とかできないかな、こんな愚かな愚かな信仰生活をやっていることが私たちではないか。
また神様の無限な世界の鍵がイエス・キリストなんで、イエス・キリストによって全てが与えられるものですから。
私たちはこれからイエス・キリスト、イエス・キリスト、キリストを知ろうとして、パウロのように走り続け、
もうこれで信仰生活終わりになるまで走り続ける私たちになれればと思います。
パウロはそれを通してたくさん得ることができました。
神を悟れば悟るほど、イエス・キリストを悟ったら、神様は秘道を与えてくださるんですね。
何も悟っていない人に神様が新しい伝道をするように秘道を導かれますか。
自分も何も分かっていないのに、何を他の人に教えますか。
自分はキリストを知って、知ってキリストに満たされていたら、秘道を送ってくださったら、
この人に何を言って、キリスト、イエス・キリストが全てですよ、キリストが全て、このような人になるんじゃありませんか。
パウロはキリストを知ることによってたくさんの人が与えられ、
キリスト神、第三の天まで神の秘密を知って、喜びながら天国に行く。
そして栄光の冠が私のために備えられていると、叫びながら天国に行く。
39:05
殉教の道も喜んで走って行く。
素晴らしい素晴らしい働きができました。
パウロもただの人間です。私たちと同じです。
私たちもキリストに求めて、イエス・キリストに後についていくものになるなら、私たちもパウロのようになるでしょう。
教会が何を目指すべきなのか、イエス・キリスト、イエス・キリスト、イエス・キリストです。
このイエス・キリストを目指して、私たちが本当にイエス・キリストを一番よく知っている教会になりたい。
イエス・キリストから用いられる教会になりたい。
そしてイエス・キリストのために栄光ある働きをたくさんできる教会になりたい。
これが私たちの願いです。このような教会になりますようにお祈りいたします。
主よ、今私たちが知っている神様、またイエス・キリスト、
このレベルがどのくらいのレベルでしょうか。
もうすでに私たちは油断して、暗示しているんじゃありませんか。
悔い改めます。これからは油断しないで、イエス・キリストをもっともっと知りたいと思います。
神の栄光、神の神秘、知恵と知識の素晴らしい働き、すべてがイエス・キリストのうちにあり、
神の宝、イエス・キリストのすべてを私たちに教えてください。もっともっと照らしてください。
そして、主を知るごとで永遠な満足を味わう私たちの教会になりますように。
主を知るごとによって、本当に本当に日本のすべての人々に、
イエス・キリスト、私が伝えるものはイエス・キリストしかいません。
このようなメッセージを語れる私たちにならせてください。
イエス・キリスト様の皆を通してお祈りいたします。アーメン。
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