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こんにちは、ゆとり教育者ラジオへようこそ。 この番組は、普通の先生の普通じゃない話を聞いていく番組です。
ホストを務めるのは、のざたんと申します。 というわけで、今日は1回目の放送となります。
前回ですね、0回目を聞いてくださった方、ありがとうございます。 第0回目ではですね、このラジオをどうして始めるのかということや、ゆとり教育者ということの
キーワードをお話ししたんですよね。 配信した後に冷静に考えたら、ゆとりって言葉
誤解されるなーっていうのは思ったわけですよ。 一番ありそうな誤読としてはですね、ゆとりイコール時間に余裕がある状態とかね
思われそうだなと思ったんですよね。 なんか定時で帰る人とかさ、仕事が少ない人のことみたいに
そんなふうに思われそうだなぁとも思ったんですけど、そういうことでもないんですよね。 自分自身もね、あの定時で帰ったりももちろんしますけども、仕事が
少ないというわけでもないんです。
なんていうんですかね、誤った認識というか、あえてゆとりっていうふうに言葉を使ったんだけども、じゃあこのゆとりっていう言葉
別の言葉で言ったらどういうふうになるのかなという、まあそんなことをですね、今日は紹介したいなと
思っております。 早速なんですけど、この仮置きしているこのゆとりというやつなんですけども
そうですね、言葉として言い換えると、まあ余白という言葉になるのかなと思ってるんです。 その時間のことじゃないんですよね、ゆとりって。なんかね、余白だと思ってるんですよね。
じゃあ何がちゃうねんっていう話なんですけど、 まあここはですね、ちょっと自分の感覚も含めてお伝えしていきたいなと思っております。
僕のことから話しますと、正直言うとですね、忙しくないわけではないと。
やることいっぱいあります。 学校の中でもやることあるし、あとね、ちょろちょろ動く性質なもんで、学外でもいろいろやらせてもらっております。
もちろんね、このポッドキャストもそうですけれども、ボイシーでも毎日配信してますし、ノートも
そうだな、書こうというふうにちょっとやっていて、毎日のように何かやってるんですよね。 客観的に見たら多分、忙しい人、忙しそうな人のカテゴリーに入りそうなんですよね。
なんですけど、僕にとってはですね、この状態というのが、しんどいというよりは楽しいというような、そんなものが残っている感覚があるわけです。
で、これなんでだろうかと考えてみたらですね、 誰かにやらされているわけじゃないんですね。
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自分で選んで動いているって言えばいいですかね。 自分で決めて、自分でそうしている。それだから楽しいんでしょうね。
で、自分で決めてるから時間は足りなくなってくるんだろうなぁとも思っています。
まあまあそうなんですけどね。 じゃあずっとそれをフルパワーでやっているかというと、
僕の話っぷりを聞いていただいてわかるかと思うんですけども、全然全力でやるような感じでもないわけですよ。
抜くところはちゃんと抜くわけです。 力を入れるところはもちろん力を入れます。
この環境の具合っていうんですかね、これが自分が決められるっていうんですかね、自分の手の中にある状態というのが
いいのかなと思っています。そうだからこそ自分の心の状態っていうんですかね、それが穏やかな状態でいられるようなそんな気がしているわけです。
でですね、まあもちろんですね、いつも穏やかなわけじゃないんですよね。
もちろんね、叫びたい時とか、ああーみたいなことを言ってしまう時はもちろんあります。
周りから削られていく、そんな日も少なくはないんですけれども、そうですね、そんなことがあっても戻ってこれるというかね、
まあまあこの道に戻ってきたらいいよねっていう感覚があるんです。それはやっぱりなんかね、自分で
選んでいるっていうところがあるからですかね。この配信活動っていうんですかね、アウトプットする活動に関しては本当に自分が好んでやっているという部分が強いので、
まあ何で義務というわけでもないし、習慣というとなんかちょっとおかたい感じがするんですけど、まあやりたいからやってるよねーみたいな。
自分で選んでやってるよねーっていうそんな感覚です。なんか無理して続けている感じではなく、
日常の延長で続いているってそんな感覚があって、そういった部分があるからこそ、なんかしんどくなった時とかに戻ってこれるのかなというそんな感じがあります。
この感覚なんですけども、服の周り見渡しても同じような人もいるわけですよね。
学校の仕事とか、まあね他の業務の仕事でもいいんですけど、まあそのいわゆる本業と言われるものと、
別の活動ですよね。外の活動と呼んだりしますけども、この両方とも楽しんでいるように見える人がいるわけです。
これが見ていて面白いのがですね、
どっちが先とかじゃないんですよね。 どっちかが先でどっちかが後じゃないんですよ。
要するに自分の本業が落ち着いてから外をやるでもないし、 外でリフレッシュしてから元に戻ってくるでもなくて、
両方やっているから両方が強化されていくような、まあそんなように見えるんですね。
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まあ今学校の教員で言えば学校で得たものというのが外で使えているし、外で得たものが学校に持ち帰ってくるような。
だからそれをなんかぐるぐるぐるぐる回しているっていうのは削られない状態っていうんですかね。
そんなような感じがしています。 仕事の量で見たら多分多いんですよ。まあ仕事の量というかね作業量、活動量で見たら多分多いんですよね。
でも、なんとなくゆとりがあるように見えているんですよね。
だからこの2つっていうんですかね。それを見ていると、やっぱりゆとりがある人っていうのは時間があるっていう人じゃないんですよね。
なんか僕の感覚としては自分で選んでいる感覚を持ち続けている人だなぁというふうに感じていて、それを僕は余白というふうに読んでいます。
じゃあこの余白なんですけれども、この余白って言ってもいろんなふうに取られてしまったり、余白って言っても何のことなのって思ってしまうので、
ここでですね、僕はですね、余白を3つぐらいで考えるといいのかなと思っているんですね。
この余白には3種類くらいありまして、1つは物理的な余白です。
これはわかりやすいですね。隙間というような感じですかね。スケジュールに予定を入れない時間帯があるということ。
これは時間のゆとりというふうに見えてしまうんですけれども、ここに違う点が1個だけあって、
空けてあるのか空いてしまっているのかの差かなと思っているんですね。
空いてしまっているというのは受動的な感じがしますよね。たまたま今日は予定がない。
今日は予定が入っている。明日はたまたま予定がない。そうすると空いてしまっているような感じがするんですね。
実はそうではなくて、あえて空けている。あえて空けてあるという状態を作るという意味ですかね。
意図的に予定を入れないのだという選択をすることなんですよ。これが僕にとっての物理的な余白と思っています。
具体的には例えばね、朝早く起きますよとか朝活しますよとかそんな感じじゃないですかね。
決め時間の10分前に早く着くよとか。
理由は特にないですよね。自分の時間を大事にしたい。自分の時間を持つためにそこをうまくいかせるのだみたいなところかなと思っています。
僕の場合はですね、朝というより夜ですね。夜の時間にちょっとだらーんとしながら開けてみるみたいな。
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この時間は何の予定も入れずに何かをやるみたいな。そんなことをやったりしていますね。
これが1個目ですね。物理的な余白。
2つ目なんですけれども、思考の余白です。
例えば何か起きた出来事に対して即座に判断しないというかね、すぐに判断しない時間というか、隙間をどれだけ持てるかなのかなという感じですね。
これなかなか難しいんですけど、子供たちが動く言葉を発するとか、同僚とか上の人とか保護者からでもいいですわ。
いろんな情報に仕事上さらされてしまうんですけど、それを反射的に返すのではなくて、一旦置いてみようかみたいな。
そんな余白が必要かなと思っています。
特に教員の仕事って即判断みたいな仕事が多いなという気がするんですよね。
先生とか言って呼ばれちゃうと、やっぱり答えちゃうんですよね。
ん?みたいな。
ん?っていう感じで答えちゃうとか。
保護者からの連絡があったらすぐにレスしたいなという、もちろんそういった気持ちがあるのはわかるんです。
仕事を振られたら早くやりたいなとか、そういったものの素早い反応の連続性が自分の何かを削っていっているような気がしています。
だからこそちょっとでいいので、すぐに判断するのにちょっと考えさせてねっていうその余白っていうんですかね。
一旦受け止めます。受け止めるだけは受け止めますね。それでちょっと考えてから返しますね。
これは何だろうな、早く返してほしい人にとってはちょっと冷たいように感じるかもしれないんですけども、これは丁寧な回答するためのものなのだと思えばいいのかなと思っています。
そういう考える余白ですね。
これが2つ目です。
3つ目なんですけども、自分という人間の余白と言えばいいですかね。
ちょっとややこしいんですけども、ちょっとずつ説明していきたいんですけども。
例えば僕なんかそうなんですけど、教員である自分だけで100%埋まっていない状態って言えばいいですかね。
教員以外の顔がありますよ。
興味関係性が残ってますよ。
そういう状態が大事かなと思っています。
やっぱりこれがないと、職場の出来事というのが自分の全部になっちゃうんですよね。
学校で何かあったときに自分が打ちしがれちゃうじゃないですか。
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崩れていっちゃったりする。
その学校で何かあった自分が崩れると自分の全部が崩れてしまうので、しんどくなってしまうんじゃないかなと。
特にやっぱり先生の様子を見ていると、教員イコール自分の全てみたいにどうしてもなりやすい仕事だなと思うんです。
このあたりはまた掘り下げてどこかで考えたいんですけども、
やっぱり先生イコール教員イコール自分みたいになってしまう。
自分の全てにみたいになってしまうと余白がないのかなという感覚があります。
やっぱり教員以外の自分の部分というのを残しておくと、
学校のことは自分の人生の一部の出来事になるじゃないですか。
教員の部分がしんどかっただけだなみたいな。
別の顔の部分は大丈夫だぞみたいな。
そんな風になるのかなと。
先ほどお話しした両方回している人。
学校の顔とそうじゃない顔みたいなものを回している人。
外の顔ですよね。
そういう風になって、やっぱりこの状態だなと思うわけです。
どっちが先でもなくて、複数の自分が同時にある状態。
僕は教員の話じゃなくて、
教育者ラジオというところにこだわりがあるんですけども、
一つの肩書きに閉じ込めないというのが大事かなと思っていて、
僕も世の中にはみ出しすぎちゃっていて、
活動の一つに会いに行ける先生というのをやっているんですけども、
それは学校の外に出て話を聞きますよという肩書きなんですよね。
それがあるからこそ学校の中のことにも充実感というか,
何だろうな,ゆとりが生まれるんですよね。
こういったことをやっているといいなと思っていて,
この3つなんですよね。
物理的な余白のある人,思考の余白のある人,
自分という人間の余白がある人。
このゆとりがある人って,この3つの余白を意識的に残している人なんじゃないかなというふうに感じています。
では,余白を作ればいいんですか?というふうに思われてしまうかもしれないですけど,
作るじゃないなと思っているんですよね。
残すかなという感じですね。
これは,細かいなと思われるかもしれないんですけど,
余白を作るだと,やっぱり時間術の話になってしまう気がするんですよね。
効率化して,余白を作りましょう,みたいなね。
そういうのでは,実は余白は生まれていない気がするんです。
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余白っていうのは,
僕が言いたいね,余白っていうのは,
埋めないとか残すとか,そういう感覚なんですよね。
だから,そうだな,作る,無理矢理作るというものではなくて,
何だろうな,意識して開けておくような,
ちょっとした,だからゆとりなんですけど,
埋めないぞっていう,
無理矢理開けるぞではなくて,埋めないんです。
ここは支出します。
単行として埋めないで下さい。
そんな感覚なんですよ。
これ何かというと,やっぱり教員の仕事って,
放っていくと無限に埋まっていくわけですよ。
やろうと思えば,いくらでもやれてしまうんです。
子供たちのためにと言われたら,やっぱり断りにくいなとかね,
教材研究とか,行事とか,部活とか,面談とか,
保護者対応とか,研修とか,書類とか,
あんだかんだ,みたいなのがあると,
やっぱり埋まっちゃうんですよね。
だからこそ,余白大事だなと思ってて,
さっき言ったものっていうんですかね,
全部誰かのためにやったりしちゃうんですよね。
だから全部やるってやると,
やっぱりね,しんどくなっていっちゃうなと思ってて,
全部やると,自分というものが消えてしまうなと思っていて,
だからこそ,余白というものを残して欲しいなという,
あえてもうこれ以上はやらなくていいよねっていうことをね,
やるのがいいんじゃないかなと思っているんですよね。
僕がやっている実践としては,
すごくシンプルなんですけど,
ここまででいいかなって止めちゃうんですよ。
仕事する時間というのも自分で決めておいて,
終わるまでやるじゃなくて,
この時間まででできることにしようって,
これ以上はやらないでいいや,
だってできないしね,無理してもできないじゃんっていう,
だからこの時間までにできたものでアウトプットしよう,
みたいなことを決めておくことかなと思うんです。
もちろん厳しくやって守りきれない部分はありますよ,
ちょっと伸びちゃったとか,そんなことあるんですけど,
でもやっぱり自分なりに線を引いておくというのは大事だなと思っていて,
これも,これは仕事と思ってやるのか,
これは自己検査なのだと思ってやるのか,
自分で決めたらいいのかなと思います。
正直なところ,家に持ち帰って仕事をやるってこともあるわけですけど,
あるというか,いやいややってるわけじゃなくて,
まあ,しゃあないなーって,自分で選んでやってるもんなーっていう感覚でやるのと,
終わらない,やらなきゃーってやってるのと全然違うわけですよね。
だからどっちかというと,僕は自分で決めて,
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今日は早く帰るから,残しちゃったやつ気持ち悪いから,
じゃあ家帰ってこれだけやろうかなとかね,
20分で終わらせようみたいなことを考えてやったりします。
そうすると,それは余白と僕は認識していて,
頭の中にゆとりができたり,
別に誰かに頼まれたわけでもないので,
自分でやろうと決めてやっている,
無理ない範囲でやっているよというそんな感覚になっています。
なので,僕の中での余白のある人というのは,
無限に何か仕事が埋まっていくというものに,
あえて引き受けませんよとかやりませんよというのを決めている人だなと思うんです。
これは怠惰とか怠けているとかそういうことではなくて,
自分というものと仕事というのを維持しているというんですかね,
継続させているという,そういうための判断をしているんだという風に捉えています。
僕もそうです。判断をしている。
自分で小さく選択している。
自分で小さく線を引いている。
そんな積み重ねで,
余白がある状態というのですかね,
気持ち的にちょっと余裕がある状態,
そんな風に作れているのかなという風に思っているのですね。
やっぱりこの,いわゆるゆとりという状態,
この余白の状態,
これいいイメージない人いるじゃないですか,
ゆとり教育ってややされた記憶もあるからだと思うんですけど,
学力低下したな,みたいな,
犯人にされちゃった言葉なんですけど,
ゆとりって聞くとちょっと後ろめたい気持ちとか,
後ろ向きに感じちゃう人いるかもしれないですけど,
そうじゃなくて,
ゆとりってやっぱり大事だよということをあえて言いたいんですね。
それはやっぱり窮屈じゃないし,
余裕があるし,余白があるし,
この隙間がある状態というのは,
本当はネガティブな意味ないじゃないですか。
僕はそれを自分の手元に取り戻してほしいなと思っているんです。
このゆとりというものがね,
どうしても教育現場でゆとりというと,
すごく言いづらいと言えばいいですかね,
言うのにちょっと打って詰まってしまう,
そんなことがあるんですけど,
そうではなくて,
言えるようにしたい,
言っても,そうだよねってなるようになってもらいたいと思っています。
なぜそういうことを言うかというと,
世の中変化が激しいんですよ,今。
1年経ってはいろんなことが変わっているじゃないですか。
生成AIが代表例ですけど,もちろんそうだし,
教育現場も変わっています。価値観も多様化しています。
もちろん社会が変わっているので保護者の方の変化もあります。
なので,どんどんどんどん教員に求められているものというのが,
増えていくという感覚なのか,変わっていくという感覚なのか,
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非常に複雑化しているというのは間違いないと思うんです。
そこに対応するお仕事だと思うんですね,教員って。
だからこそ,全部やろうとしたら無理なんですよ。
だってただでさえ,世の中がもうあわあわなっている状態なのに,
教員がそこに全部対応できるのかといったら,
世の中にもそんな人がいないのに,
教員だけはパーフェクトです。
だからこそ,この変化みたいなものに,
ゆっくり判断できる場所と言ったらいいのですが,
一旦止まって考える。
僕はここができるかな?とか,
それは対応するのがいいのかな?とか,
やはり立ち止まって考える時間がいるんだろうなと思っていて,
だからこそ,この余白とかゆとりというのが,
現代の必需品のように僕は思っているのですね。
ゆとりというのが,この変化に飲み込まれないようにするための装備みたいな,
そんな風に思っていただける人が増えたらいいなと考えております。
最後になりますけれども,
皆さんの一日に残してある余白というのはありますかね?
時間とか,思考とか,自分の中の余白とか,
それってですね,最初から持ち合わせているものではなくて,
削られていくような日々の生活の中で,
意図的に残すものなのかなと僕は考えています。
自分の中に,ここは埋めないぞって,
ここは自分の大事なものだよって,
そういう決めておく場所というのを残しておくことが,
この余白とかゆとりにつながるのではないかなと思っております。
これはですね,自分自身もできているかというと,
完璧ではないわけですよ。
順にですね,できていないことがいっぱいありますし,
削られそうになる日もあるし,
だからこそ,意識しているというか問い続けていて,
ゆとりを持っていきたいな,ゆとり教育者でありたいな,
というふうに思いながら,まだ道半ばでやっておりますので,
皆さんもね,そういったゆとりの時間,
余白の時間を大切にしてもらえたらなと思っております。
というわけで,今日の放送は以上となります。
次回は,小さな選択について深掘りしたいなと考えております。
それでは,ゆとり教育者ラジオのざたんでした。
それではまた。