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#02 ゆとりは「私が選ぶ」で生じる
2026-05-22 23:29

#02 ゆとりは「私が選ぶ」で生じる

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「ふつうの先生の、ふつうじゃない話を聴いていく番組」
パーソナリティーは、高知の現役教員で「会いに行けるセンセイ」という活動をする「のざたん」

第2回は、前回置いた「余白」を支えている地盤について。
余白は、放っておくと残らない。残されている人は、何をしているのか——
たどり着いたのは、「私が選ぶ」という、たった一つの感覚でした。

▼ この回で話したこと
・余白を残すことを支える地盤は何か、という問い
・「私が選ぶ」という自動詞の行動様式
・主語が外にある3つの状態——やらされる、流される、反射する
・教員の日常は、気づかない選択の連続でできている
・「勉強させる」「できるようにする」という言葉が、生徒から主語を奪ってしまう話
・選ばないことも選択。「これは流れに任せる」を自分で選ぶ
・サルトル「人間は自由の刑に処せられている」が教えてくれること
・あとから「あれ、私が選んでたよね」と振り返ることでも、主語は戻ってくる

▼ 次回予告
第3回「ゆとりの正体は『半歩引く目』」

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▼ のざたんの他の活動
Voicy「学びのセカンドオピニオン」(毎日配信)
https://voicy.jp/channel/3708

note
https://note.com/nozkoh

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サマリー

このエピソードでは、「ゆとり」とは単に時間があることではなく、「私が選ぶ」という感覚を持つことによって生まれると論じられています。話者は、私たちは日々多くの選択をしているにも関わらず、それを自覚していないことが多いと指摘します。例えば、授業中の対応や事務作業、保護者とのやり取りなど、一見義務や状況に流されているように見えても、実は自分で選択しているという意識を持つことが重要です。この「私が選ぶ」という感覚は、やらされている、流されている、反射的に動いているといった、主語が自分以外にある状態から抜け出し、主体性を取り戻すことに繋がります。これにより、仕事の量が変わらなくても、心理的なゆとりが生まれ、充実感を得られるようになります。また、選択すること自体が負担に感じる場合でも、「流れに任せる」という選択を意識的に行うことで、主体性を取り戻すことができると提案されています。最終的に、この「私が選ぶ」という感覚を意識することで、自分自身に主語が戻り、気が楽になり、余白が生まれると結論づけています。

「私が選ぶ」という感覚の重要性
みなさんこんにちは。ゆとり教育者ラジオへようこそ。 この放送は普通の先生の普通じゃない話を聞いていく番組です。
パーソナリティはのざたんと申します。どうぞよろしくお願いします。 今回は2回目の放送です。
1回目はですね、ゆとりを余白というふうに言い直してみてですね。 物理的な余白とか思考の余白とか
自分という人間の余白についてお話をしております。 そして余白というのは作るではなくて残すのだというふうな意識をするといいですよ
みたいな話をしてきました。 今回の放送ではですね、
余白残すと言ったけど、その余白の残すを支えるものっていうのは一体何なんでしょうね。
何もせずに余白って残るわけじゃないよね。 放っておくとこの隙間みたいなものはどんどん埋まっていく
そんな風潮がある。特に学校現場はそんな感じがありますね。
じゃあどうやったら余白って残すことができるんだっけ? みたいなところをお話ししていきたいんですけれどもねその大切な
キーワードとして今日は一つ残しておきたいのが小さな選択だなと思っているわけです。
この小さな選択についてはじめ話していきたいんですけれども、小さな選択
私が選ぶという感覚なんですね。 私が選ぶ。この言い方するとちょっと違和感があるかもしれないんですけれども
普通の話をしている感じですね。私が選びますよと言ったら、そうですかというふうに聞こえるかもしれないですし
でもあえて言われるとなんかちょっとムズムズするようなそんな言葉かなと思うんですけれども、この言葉は自分で大事にしているんですね。
なんで大事にしているかというとこれ主語が私なんですね。
主語とかって急に言い出すと文法っぽい話に聞こえてしまうかもしれないんですが、ちょっとだけこの文法っぽい話をさせてください。
この私が選ぶ、まあもちろん主語は私でございます。 動詞は選ぶです。この選ぶ、自動詞と言われますね。
私が選ぶ以上みたいな。そんな感じなんですけれども、これを強く意識しましょうと。強くっていうかね
ほんのちょっとでいいです。ほんのちょっとだけでも強くこの心に残ってくるそんなイメージが僕にはあるのでこれを
お勧めしたいんですけれども、私が選ぶでしょ。 なんだこのなんか違和感のある言葉と思われるかもしれないんですけど
あえて別の言い方をしますと、じゃあそうじゃない 選び方っていうんですかね。
例えばやらされるとか流されるとか言われたからやるんだみたいな。 そんな言い方もあるじゃないですか。
で、この時って主語が外側にあるんですね。私ではないものになる。 例えば状況として上司が行ってきたとかね。その場の空気感がとか
何々の義務がとかね。そういったものが私を動かすのであるみたいな言い方になるんですよね。
なのでそういう言い方をしていると自分自身が何か動かされる対象になっているという感覚になるわけです。
ここに何か大きな違いがあるんですよね。 同じ仕事してても自分がやっているのか誰かが私を動かしているのかで
やはり体感が全然違うなと思っております。
前回もお話ししていますが、僕教員をやっていて、学校の仕事ももちろんやってますし、毎日ボイシーで配信をしていたりですね。
ノートに文字を書いてみたり、このポトキャストを始めてみたり、他にもいろんなプロジェクトをやらせてもらっていて、
客観的に見ると多分忙しい人分類になるわけですけれども、 そんな中でもですね、これはしんどいかと言われると、しんどいよりは楽しいなというような
そんな感覚で動いています。 なぜかなと言いますと、全部自分が選んでるんですよね。
誰かがやりなさいよと言ってやっているわけではなくて、自分が選んでやっていますよという感覚になっていると。
なので、しんどさよりも楽しさが残るなという感覚があります。
誰かに頼まれてやっているわけじゃないんですね。これやってみたいな、あれやってみたいな、これ続けたいなというふうに自分が選ぶということを意識的にやっている。
これをしているとですね、同じ1日、同じ仕事時間であっても、自動詞的に動いているので、その多動詞的な
動かされている時間とは全然お疲れ方が違うなという感覚があるんですね。
だからですね、自分が思っているのは、ゆとりがある人って時間がある人というだけではなくて、
私が選んでいるという感覚を持っている人なのかなというふうに思ってますね。
「やらされる」「流される」「反射する」状態の分析
自分でこれは自分で決めてやっていますよという、そういうことをやっていると、心理的なゆとりみたいなものが心の中に広がっていく、そんな感覚があるわけです。
こういう余白を残すという表現で、前回の放送で言ってたんですね。
ここでもうちょっと選ぶを考えてみましょうか。
選ぶって何?って言われても、そんなこと言われても何が違うの?って思うかもしれないんですけれども、
まあ、やらされるって言葉というよりは全然違いますよね。
なんか義務とか指示で動いている状態とか、これはお願いねって振られたからやりますよとか。
そんな状態はやっぱり依頼する人がいて、実行者が自分であって、
そうすると誰々が私を動かしている、そんな感覚になるのかなと。
そうするとなんかちょっと嫌だなというふうになったりする。
そんな感じが残るかなと。
あとやらされるだけじゃなくてね、さっき言った流されるみたいなのがあるじゃないですか。
みんなやってるから自分もやるのかなとか。
なんとなくの雰囲気があるからやっておくかみたいな。
これってやっぱり自分がやっているっていう感覚がないって言えばいいですかね。
自分が選んだ感覚がなくなっていくんじゃないかなと。
そんなふうな感じがするんですね。
あとですね、今言った2つとはちょっと違うかもしれないんですけど、
反射するみたいな。
何の考えもなく反応。即座に反応みたいな。
子供が呼ぶみたいな。誰かに呼ばれたらはいみたいなので、すぐ答えてしまう。
電話が鳴ったらすぐ取ってしまう。
メールが来たらすぐ返事を返すんだみたいな。
これは何でしょうね。
自分が選んでいる感覚じゃないんですよね。
何か刺激反応があって。
刺激反応が私を突き動かしているのだみたいな。
そういう感じかなと思っていて。
これも何かに動かされているような感覚が僕にはあるんですね。
今言った3つってやっぱり自分が主語にならないんですよね。
やらされたり流されたり反射的に動いていたりするみたいな。
自分ではない。動くの主体が自分ではないなと。
やっぱり何か動かされている側なのかなという感覚になってしまうんですね。
これが悪いということではなくて、
その状態を意識できていますか。
自覚できていますか。
そういうところに意識を持っていけるかがすごく大切なのかなと思っています。
日常における選択の連続とその自覚
なんでそんなことを言うかというとですね。
教員の1日、社会人の1日でもいいんですけど。
何ですかね。
僕たちの1日ってだいたい選択の連続じゃないですか。
何かやらされているとか、義務的に進んでいるとかそうではなくて、
やっぱり選択の連続でできているんですよ。
なんだけども、やっぱり日常のルーティンみたいな感じになっているから、
選んでいるんだけど選んでいるというふうな自覚をしていないという風に考えたらいいですかね。
例えばですけれども、授業をしているとしたら、
子どもの発言にどう返しましょうとか。
これは同じ説明をするのか。
全員に対して同じ説明をするのか。
個別にアプローチをしていくのか。
授業の進行を守るのか。
ちょっと寄り道するのか。
流れがある中で判断しているというか、
勝手に雰囲気で動いているとか。
そういう風に思われるかもしれないんですけど、
全部選んでいるんでしょうね。
どうやって返すかみたいなのとかね。
子どもがいたなって見たときの次のアクションって、
無意識ではあるかもしれないんですけど、
やっぱり選んで行動をとっているという風に僕は考えています。
報告者の方とか、
上司との面談でもそうですけど、
何話を聞こうとか、
どこから聞き返そうとか、
しゃべる?しゃべらない?とか、
何かうなずく?うなずかない?とか、
これも全部選択ですよね。
あと事務作業もそうですよね。
どの順番でやります?とか、
どの丁寧さでやりますか?とか、
いつまでやりますか?
いつやめますか?とか。
やらなきゃいけないように見えて、
やっているというわけですかね。
義務だからやっているとか、
仕事だからやっているというように見えてくるかもしれないんですけど、
でもやっぱり自分で選んでやってますよね。
だから、
無意識のうちにやってるって思っていること、
授業中に何をするかとか、
面談の席で何を話すかとか、
何気ない子供との会話でもいいかもしれないです。
事務作業の一つをとってでもいいんですけども、
仕事だからやってるって思ってしまいがちなんですけれども、
でもそれもやるやらないの判断というのは、
本当は自分でしてますよ。
本当は自分で選んでるんですよ。
というところに意識を持っていくだけで、
ちょっと変わってくるのかなと。
そうするだけでも、
自分が選んでやったよね。
自分が決めてこれをやっているんだ。
という風に、
そういう感覚になるとですね、
仕事の量は変わらなくても、
先ほど言いましたように、
仕事が自分に戻ってくる感覚があるんです。
この自分を仕事にしておく感覚というのが
すごく大事だなという風に思っているんですね。
なぜかというとですね、
教育現場にいると特にいいなんですけど、
教育現場における「主語」の問題と主体性の回復
引っかかる言葉が僕にとっては多いんですよ。
例えば、
先生、
うちの子は勉強しないので、
勉強させてください。
できないので成績を上げさせてください。
できるようにしてください。
やる気を出させてください。
みたいなことを言われるんですよ。
これって、
例えば今のシチュエーションだと保護者。
うちの方が子供に対して
アプローチしてほしいですよと
言ってるんですよね。
先生が子供を勉強させるとか、
先生が子供の成績を上げさせるとか、
先生が子供ができるようにするとか、
子供が勉強できるようにするとか、
なんかこれって全部
教員合宿で
やらされている
対象が生徒なんですよね。
生徒がやらされている状態って
全然主体的じゃないじゃないですか。
そうですよね。
やっぱりこれをすると
上手いこと回らないなと思ってるんですよ。
学校に行けって言われたから行くんだけど、
先生に言われたからやるんだけど、
親が言うから勉強するんだけどみたいな
そういうことをしたいわけじゃないんですよね。
教育の現場って。
主語が
自分じゃなくなっていく状態ではなくて
やっぱり
主語が自分という状態をどうしたら
生み出せるんだろうって生み出すっていうのも
言い方が変かもしれないですね。
そういう環境にするにはどうしたらいいんだろうな
って考えたときに、まず自分が
やらされるっていう感覚にならないことかな
と思っていて、そこに違和感を持つことかな
と思っていて、あくまでも
自分が選んでるんだよねって
勉強させるじゃなくて
子どもたちが学ぶのだとか、できるようにする
じゃなくて、子どもたちができていく
というか
主語を意識的に変えていくことで
関わり方というものが
変わっていくと。
その教員というのは
子どもに対してアプローチする人が
子どもたちが選ぶっていうのを支える側に
回っていく。そうすると
支える人ではなくなっていくなと。
こうすることで自分自身が
私が選ぶっていう感覚を
取り戻していけるんじゃないかなと。
子どもたちももちろんね、そうやると
私が選んでますよという風に取り戻していけるし
大人も私が選ぶということを
意識していくと
宿題的に動くということに
意識が向くのかなと。
こんなことを考えているんです。
選択の負担と「選ばない」選択
でね、ここまで言ってきたんですけど
いやいやいや、しんどいやんって
選ぶのって
構えません?選ぶって言われたら
全部選ぶの?
みたいになっちゃうんですよ。
無限に選択できるわけでもないし
選択しようとすると疲れるし
1日に判断できるようは多分
限界があるんだろうなということも思っています。
だから
選ばないんだっていう風な
タイミングを作るというのが1つかなと。
ここは流れに任せようと
決めるっていうのも一応選んでるじゃないですか。
これは雰囲気に飲まれてやったぞ
を私が選んだ。
ここは考えずに
反射的に対応しようと
選んだ。
その感覚
無自覚に流されているのではなくて
流されているよね
でもそれを選んだわみたいな
そうすることだけでも
自分が選んでいるということを
意識はできるかなと。
そうするのがすごくゆとりのある状態
これも自分が選んだからなーって
すごい単純なことです。
何でもかんでも
これは自分が選んだよなーって
なんとなくを選ぶって自分が選んだよなー
だけでも自分に
守護が戻せるかなと
これはすごく
気が楽になるんじゃないかなと思っているので
ぜひ実践してもらえたら嬉しいなと
思っています。
自由の刑と主体的な選択によるゆとり
これは難しい話なんですけど
哲学者の人が
人間は自由の刑に処せられている
というような言葉を
調べていたら出てきて
僕たちは本当は
生まれた瞬間から選ぶしかないんですよ
選ばないということができない
選ばないも選択しているんですよ
だから自由なんですよ
どっちを選んでもいいよってなっているはずです
でも自由から逃げられないから
実はしんどいんだと
そういうのを考えたくないから捨てちゃいたい
すごくややこしい話をしていますが
そういう感覚があるんだろうなと
それは僕はわかります
考えないでやっていたほうがいいよね
ただただ作業的にやっていたほうがいいよね
それはもちろんそうなんだけど
そこにはゆとりが生まれない気がするんですよ
自分で選んでいるんだと
自分でだらーんとしているんだと決めるからこそ
本当にだらーんとできるんだろうなと
考えています
やっぱりやらされていると思っているのは
自由に選べるのだということから
目を反らしているのではないかと思っています
例えば
職場しんどいよブラックだよって言って
みんな言っているところも
本当は選んでいるんですよね
この職場で働くとか
この働き方を続けているも
実は私が選んでいるんだよね
でもそれって引き受けるのがすごいしんどいじゃないですか
勘弁してくださいって言って
だけど一旦受け止めてみると
ゆとりが生まれるんじゃないかなと
自分で今これ選んだよなって
しんどいけど今選んだよなとか
でもやっぱり選んだけどしんどいよな
じゃあどうするんだっけみたいなところを
決めていいんだと
その決めていい具合はとても自由なのである
という風に考えていくと
少しずつ少しずつ余白というものが
残ってくるんじゃないかなと
その余白を残すような感覚が
芽生えてくるなという風に思っています
ちょっと言いややこしいんですけどね
でもこれをぜひやってもらいたいなと思っていて
そんなに難しいことじゃないんでしょう
自分が取った行動の中で私が選んだって
いっぱいあるはずなんですよね
朝起きる時間とか
今日着た服とか
飲んだ飲み物とか
食べた食べ物とか
子供に対しての返事とか
同僚への一言とか
これらって自分の選択でしたかって
多分その瞬間は
ん?ってあまり無意識かもしれないんですけど
じゃあ今改めて考えてみると
なんか選んでるんですよね
今あえて振り返ってみると
なんで選んでたんでしたっけって
何か思ってませんでしたっけ
何か考えてませんでしたっけっていう
私が選んだ感覚を意識できるようになるかなと
「私が選んだ」感覚の意識化と余白の創出
それが意識できるようになると
ゆとりっていうものが始まる気がしています
これは難しいことを言っているように
思うかもしれないんですけど
そんなに難しいことでもなくて
すごく単純な感覚で
私が選んでたよねって
思うっていうんですかね
私が選んでたよねこの行動って
そんなずっとやってるわけじゃないんですけど
ん?って思った時とかあれ?って思った時とか
しんどいなって思った時に
ちょっといっぺん立ち止まって
あれ?あの行動って私が選んでたよねって
戻ってくる
自分をちょっと戻してあげる
多分忙しさの中で
考えたくもないことがいっぱいある中で
無意識的にやっていることが多々あります
自分ももちろんあります
無意識的にやっていることなんかめちゃくちゃありますよ
ちょっとした時間でいいので
あれ?今日のあの選択って私
選んでたよねって思っていくと
なんとなくこの感覚的な
ものかもしれないですけど
自分を戻せるなと
そういったところに立ち戻れる
っていったらいいですかね
そうすることで余白というものが残していけるんじゃないかなと
そういう風に思っているので
私が選ぶということを意識してもらえたらいいなと思っております
まとめと実践への呼びかけ
というわけで今日は
私が選ぶについてお話をさせていただきました
というわけで
今日のゆとり教育者ラジオは
このあたりで終了します
お聞きいただきありがとうございました
それではまた
23:29

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