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2021-12-07 10:48

一戸信哉の新潟のへラジオ ライブ Vol.59 (やり直し)「マレー戦記」を書いた酒井寅吉


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皆さん、こんばんは。新潟のへラジオ、一戸信哉です。
今日、昼間59回の配信をやったんですけど、過去の回線でやったら、どうやらあまり録音状態が良くなかったみたいで、もう一回撮るかということで、ちょっと今日この時間ですけども、話してみようかと思います。
今日は、坂井虎吉という人物を見つけたので、ちょっとその話をしてみようかなと。ただ、あまり詳しいことはわかっていません。
どういう経緯かというと、おととい、NHKスペシャルで、
新ドキュメント太平洋戦争というシリーズが、先週の土曜日から始まっています。
大平洋戦争80周年ということで、真珠湾攻撃関係の企画がいっぱいあるんですけど、その中での一つですよね。
今回の新ドキュメントシリーズは、エゴドキュメントの解析ということで、日記とか日記手記の類、当時書かれていた個人的なものですね。今でいうところのツイッターのようなものっていうことなんだと思いますけど、それを解析をして、
現代のツイッター分析のごとく解析して、今のツイッターで世論を見るような感じで、大平洋戦争、海戦の前後で人々の世論がどう変わっていったかみたいなのを分析していくっていうそういう番組でした。
で、その中で主として真珠湾攻撃のことをやっていくんですけど、でも昨日の日曜日に放送になった後編ではですね、主に陸軍が主導したマレー戦っていうやつがですね、出てきます。
マレー戦っていうのも、よくこういう話題をご存知の方はもちろんご存知だと思いますけど、真珠湾攻撃の影に隠れて、あんまり話題にならないんですが、大平洋戦争開始のときですね、真珠湾攻撃と同時に日本軍は陸軍の方ですね、海軍がハワイの方に行き、陸軍がタイマレーシアの国境付近のコタバルっていうところから上陸をして、
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マレー半島を南下して、最後シンガポールを陥落させると。こっちはイギリス領でしたよね。イギリス領のマレーをマラヤって言いましたけど、マラヤを占領すると。
ということで、シンガポール陥落、2月でしたっけ。2月に陥落させたところまでが、日本の戦争のクライマックスって言ったらいい、なんて言うんでしょうね。調子良かった時ですよね。
祝賀式典も行われるし、みんなが万歳してシンガポール陥落を祝ったっていうのはよく出てくる話ですよね。
エゴドキュメントを探っていくときには、そういう出来事の裏側で当然その戦いで死んでいく人たちもいたと。
ハワイに真珠湾攻撃に行った人たちの中で死んだ人もいたとかですね。
当然マレーのマレー戦でもたくさん犠牲が出てるんですよね。だけどそのことは連戦連勝の日本軍の波蓄の勢いみたいな話の中で、かき消されていくというかですね。そういうことだったんですよね。
で、その時にいろんな人の声が紹介されていくんですけど、その中で出てきたのが坂井虎吉っていう人で、このシリーズこういうふうにやるんだっていうふうに思ったんですけど、
あれですよね。それぞれ出家を書いた人の出身地か居住地か、出身地なんでしょうね。が出てきまして、山本一六が喋った内容を紹介しても、山本一六、新潟、みたいに書いてあって、軍人、新潟って書いてあって、山本一六は新潟の人なんだなみたいなのがわかるように、
そういう紹介のされ方されていくんですけど、この坂井虎吉さんという人も新潟って書いてあったんで、ちょっと反応しまして、なんだこの人はって言ってみていたら、駐軍記者なんですよね。駐軍記者で、朝日新聞の記者なんですよね。朝日新聞の記者でマレー戦に駐軍をしていくと。
その時に、やっぱり南方の蚊に悩まされながら、進軍していって、死の恐怖とそのありあわせになりながら、頑張って戦ってた兵士の様子を見て、とてもそんな美しい戦いみたいな状態じゃなかったっていうことを国名に書いてるんですよね。書いてるんだけど、それはあまり世の中に書けたのかな。
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書けなかったんだと思いますけどね。そういうことを記録しています。私もマレーシアにいるときに、このマレー戦の戦績とかいろいろいくつか見に行って、こんなところで戦って大変だっただろうなと本当に思いましたし、
でもその戦いのことを顧みてるのは、やっぱり敗れた方のオーストラリアの人たちなんかが結構慰霊碑を建てたりするんですよね。日本軍はもうとにかくその時はすごい強かったと。自転車に乗って、自転車に乗って北から南へ進軍したと。マレー半島を南へ進軍していったんだっていう話ばっかりが語られているんですけど、
そんないい話じゃなかったよねっていうことが書いてあります。でもみんな知らないからね。シンガポールを陥落して山下大将がシンガポールでイエスかノーか追い詰めて降伏させたみたいな話になっているということです。
で、坂井さんはですね、これ実はその後に、昭和17年ですから帰ってきた後でマレー戦記という本を残されているそうです。あとマレーなんとかなんかなもう一つ書かれていて、朝日新聞に所属しながらそのマレー戦の記録を発表されています。ちょっとまだこの本まだ入手できていませんが、でも結構古書でね。
いろんなところにメルカリとかヤフオクとかでちょいちょい出品されているみたいですね。
で、その後この方はですね、横浜事件に連座して終戦のときは留置所にいたのか。明潔州で留置所にいられてた。
捕らわれの実であったという話なんですが、戦後は復活、復帰して朝日新聞じゃなくて、最後東京新聞ですかね。東京新聞の論説委員かなんかをされてたっていうふうに出てきます。
で、坂井さんの書いたものをちょっとネットでもないかなといろいろ探しましたが、あんまりネットには出てきてなくて。
まあ、過労死で出てきたのはですね、1969年だったかな。ごめんなさい。その頃、ごめんなさい違いました。
1957年に出た新聞学評論という雑誌の書評で、坂井寅吉のジャーナリストっていう本が新聞学評論、これ日本マスコミュニケーション学会の雑誌ですけど、ここに書評が書かれていて、その中で坂井さんの書いてあることが書かれています。
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で、確かにこの中で、マレー戦線に従軍して、夜襲の度におびただしく発生する発狂兵、戦闘の後に捨てられる死体、そして危機迫るような高齢、兵山町同士の醜い争いなど
というようなことを書いたけど、やっぱりそれは当時表には出せなかったというような話とか、その後特攻に捕まってみたいな話も書いてあって、そういうこういろんな経験をした上で、後に戦後、ジャーナリストとして活躍した方だということが分かりました。
で、最後にこの人、新潟県。詳しいことは分かりません。ちょっと今検索した限りでは、この坂井さんは長岡の出身ですね。長岡の出身で早稲田大学政治、政治経済学部かな。早稲田大学を卒業した後、朝日新聞で活躍されて、昭和8年に朝日新聞って書いてますので、ちょうど
昭和8年ですから、入社10年、30そこそこの時にマレー先生に行ったっていうことでしょうね。ということまでは分かりました。それ以上のことはちょっと今のところまだ分からないので、それについてはまた少し分かりましたらお知らせしたいと思います。はい、今日はこれで終わりたいと思います。ありがとうございました。
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