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今日も宮崎の時間をやっていきたいなというふうに思います。
この番組は、宮崎で活躍されていらっしゃる方に来ていただいて、
いろんな話をお伺いする番組となっています。
本日のゲストですね、株式会社ワゴン代表の西田さんに来てもらっています。
こんにちは。
こんにちは。よろしくお願いします。
また忘れてた。
この番組はですね、ボリュームのホットキャストルームからお届けしていると。
自分の名前を名乗るのはするんですけど、
理想空間の大島と申します。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
素敵空間ですね。
ありがとうございます。
すごいアーケードから階段が上がってきた。
こんな空間が広がっているんだ。
もともとここは10年ぐらい使われてなかったベルの空中で、
2階、3階の家屋を通じて使っているんですけど、
今日はみやだいの子たち。
さっきお話ししたら、展覧会?
展覧会するって言ってましたね。
展覧会で使ってくれるのもいいなみたいな。
学生さんが使っていく。
いろんなものをやっていきたいななんですけど、
それこそ西平さんのお店は、
知らんかったですけど、
もともとわりと街づくり的な要素を昔めっちゃされていた。
笑ったりがない。やってましたね。
ですよね。
それ何年前ぐらいかな。
どっぷり街づくりというか、街中のことをやってましたね。
もともとどんな流れで今に行き着いたのか聞きたいなと思うんですけど、
一番最初は地元宮崎ですよね。
実家は高岡町です。
高岡なんですか。
高岡町。だから高校生の頃、
僕高校は宮崎西高だったんですけど、
高校生の頃、高岡から西高まで毎日通って自転車で。
12、3キロ片道往復20何キロ毎日通って。
土日はこの街中に遊びに来るっていうのが楽しみで。
昔は土曜日まで学校終わったので、
学校終わったら制服のままこの街中に来て、
いろんなお店巡ったり、少ない小遣いから何かちょっと買ったりとかして、
遊んでたのがこの街中で。
その当時から好きだったんですよね。
街中で過ごす時間というか。
宮崎の街中が好きだったみたいな感じですか。
そうですね。
別に都会に憧れがあるとか、そういうあれでも。
もちろん憧れはありましたけど、
ポパイ世代だったから、雑誌ポパイを読んでは、
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原宿の渋谷のこんな店行きたいなみたいな。
こんな服、服好きだったんで。
服とかカルチャー好きだったんで、こんな服いいなとか。
それで高校が終わって、大学が北海道の方に行ったんですよね。
そうなんですよ。
北海道教育大学函館文工というところで函館に行ったんですよ。
それは教育大に行きたかったのか。
そうなんですよ。
その時は教師になろうと思って。
教師なんですね。
小学校の先生になろうと思って。
でもいい先生だったでしょうね。
イメージできる。
教育学部行けるところって言ったら、
北か南かだなって他人から言われて。
北海道なんかいいなと思って。
大陸的で広い雄大な感じするじゃないですか。
函館ちょっと行ってみようかなと思って。
受験して。
受かって函館に行くことになる。
南から北へみたいな。
で、学校生活を送りながら、
教師には結局ならなかったじゃないですか。
それはどういう。
それがまた今に繋がってくるんですけど。
お金なかったからバイトするじゃないですか。
バイトが個人商店が多かったんですよ。
バイト先が。
地元のレストランバーだったりとか。
函館も。
函館って当時は都会なんですか。
宮崎と同じぐらいの感じですね。
人口30万ぐらい。
ちょうど青函トンネルが開通するタイミングだったんですよ。
だからめちゃくちゃ盛り上がってて。
時代感じますよね。
だって僕もそんな年だから。
90年とか、
90年。
1、2年じゃないですかね。
だと思うんですよ。
で、まだバブル崩壊前だったから。
イケイケな時代ですね。
景気良かったですよね。
で、個人商店、カフェバーとか。
飲食店とか。
あと地元の方が経営する
貸し衣装屋さん。
ウェディングドレス屋さんとか。
そんなところでいろいろバイトしてる中で。
商売楽しそうだなって。
そこの社長さんが
学生だから金ないじゃないですか。
僕下の名前マサヤって言うんですけど。
マサヤお前昼飯行くかとか。
お前今日夜暇かとか。
いろいろ結構誘ってもらって。
ご飯食べさせてもらって。
なんかちっちゃい会社の社長いいなみたいな。
っていう経験がありながら
3年生ぐらいで
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先生になるよりも
自分で商売したいなってだんだん。
そっちになったんですね。
3つあって候補が。
いろんなところで喋ってるんですけど。
洋服屋さんか
飲食店か
その時バイク好きで
バイト代は服よりもどっちかというと
バイクの方にお金使ってて。
ツーストのバイク乗ってて。
それいじってレース出たりとか。
函館でやってたんですよ。
そうなんですか。意外っすね。
結構峠攻めたり。
繋ぎ来て。
当時で言ったらツーストって
NSRとかありますよね。
NSR250。
NSR乗ってたんですか。
めちゃくちゃ速いですよね。
2ストックで100パーン行けますよね。
ウィリーするようなやつ。
それ普段は乗ってて。
レース用に小さいバイク買ったりとかして。
N5とか。
それは125ccの
TZR125っていうやつで。
TZRとかね。
125。
それをレース用に改造して
レンタカーの軽トラ借りて
乗っけてサーキット行ったりとか。
バイクも好きだからバイクもいいなみたいな。
その3つで悩んで
やっぱ服かなと思って。
アメリカとかも好きだったので
アメリカ行ったりもできるかなとか。
買い付け人とか。
服屋やろうと思って。
服屋しようと思って。
大学の時に就職とかもせずに
お店をやろうみたいなイメージだったんですね。
就活しなかったんですよ。
珍しいタイプじゃないですか。
当時。
就活で企業もあれば
交通費とかが学生がもらえてた時代で
めちゃくちゃどこもそういう
待遇良かったんですよね。
全然気になれなくて
自分で商売しようみたいな。
で、函館にすごいいいお店があって
インポートの。
そこをちょいちょい覗かせてもらってたんですよ。
お客さんとして。
バイトはそこではしなかったんですけど
そこで働きたいなって思って。
で、卒業する4年生の時に
そこちょっとお店行って
3月に卒業して
しばらくバイトして宮崎に帰って
お店やりたいんですけど
働かせてもらえないですかって話したら
いいよって言うんですよ。社長さんが。
そのお店今でもあるんですけど。
すごいですよね。
そこで1年半バイトして
宮崎帰ってきて
ちょっと土方して
親からお金借りて
24の時に店始めた。
一号店は今の場所じゃなかったんですか?
今ちょうどハロー!の前に
セブンイレブンあるじゃないですか。
あそこに雑居ビルがあって。
昔。
そこの2階の7坪の店が
一番最初。
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家賃77,000円。
高いのか安いのか分からない。
当時は若草通り高かったんですよ。
壺2万円だったから
家賃が。
しかもどこも空いてなくて。
やっぱりあの辺に賑わってるから
いいなと思いながら
でも高いなと思って
自分の予算的に買い入れるのは
10万円以内だなみたいな。
それでも選択肢として
そこのお店で働いて
修行をさせてもらって
宮崎に戻ってきてやるっていう
選択肢じゃなくても
それこそ東京とか首都圏
大阪も向こうかも考えられたかもですけど
全く考えてなかったです。
宮崎の方が好き?
それがやっぱりさっきの話で
高校生の時に過ごしてた街が
宮崎の人みんなこの辺のことを
街って言いますけど
街が好きで
やるんだったら宮崎って決めてましたね。
宮崎の街は僕も
それこそ後で出てくるだろう
ギャゼットとか
僕も初めて来たのが
ちょうど30年前
20歳の時なんで
もちろんギャゼットとかも
行ってましたし
若草通りとかも
めちゃくちゃ都会の感じでもなく
確かにいい街やったんですよね
サイズ感とか
やっぱりなんでなんですかね
戻ってくるのも
宮崎一択やったっていうのも
よくわかるんですよね
80年代後半90年代の
まだ郊外型のショッピングセンターとかが
まだあまりない
まだできてなかった時代の
30万都市40万ぐらいの規模感の街
どこもあんな感じだったんじゃないですかね
地元ショップがあって
いわゆるナショナルチェーンがあんまりなくて
見たことないわこの店みたいなのが
当たり前のようにたくさん並んでて
各地域地域の店主がいる
個店の面白さみたいな
土木杖親父がいる店みたいなのが
そうですよね
そういうのがまだ面白かった時代だったんでしょうね
その時は全然意識してなかったんですけど
今思えば
24歳が第1号店を
今のセブンのところの雑居ビルで
77,000円で始めたお店が
その時もワゴン
そうですそこがワゴン
ワゴンはどういう
ステーションワゴンとか
ワゴンってもともと馬車っていう意味で
いろんなものを詰め込んで
あっち行ったりこっち行ったりして
紹介するみたいな
そんなイメージを持って
ワゴンっていいなって思って
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最初は古着屋ですか
仕入れ屋さん
新品です仕入れて
当時渋谷に原宿に
渋谷バックドロップ
アメリカ人の店があって
原宿にプロペラっていう
やっぱりアメリカ人の店があって
その店がすごい好きで
そこの会社さんから仕入れさせてもらって
で結構並行輸入のノースフェイスとか
コロンビアとか
その頃スポーツウェアですね
NBA関係
マイケル・ジョーダン・マジック・ジョンソン
前世紀だった
その辺のレプリカのユニフォームとか
ユーイングとか
ユーイングとか
僕多分だから高校生の時
ちゃいますかね
ジョーダン・ユーイングとか
そうそうマジック・ジョンソンね
セルティックス・ラリーバードとか
ありましたよね
懐かしい
別にバスケが好きなわけでもなく
野球メジャーリングは好きだったんですけど
そんなすごい詳しいわけじゃないけど
四大スポーツの雰囲気すごい好きで
アメリカンカルチャーがベースとして好きな
そうですね
アウトドア文化とか
すごい好きで
その時は全くサーフカルチャーないんですよね
全く
全くなんですよね
後々にサーフィンが入ってくる
そうですね
サーフィン好きになっちゃいましたけど
でその24でオープンして
それは結構いい感じでボーンと当たったってことですか
いや最初大変でしたよね
大変でした
1年間ぐらい
全然こっち知り合いいなかったんで
商売的なお付き合いというか
なので多分周りからは
なんか若い子がお店始めたけど
どんなお店なんだろうねっていう風に
多分言われてたと思うんですよ
ほんと始めたから
この辺その時は割と古着のお店とか
あったところの延長線に作ったみたいな感じですか
ちょっとハズレみたいな
それこそ今
ヒュッて下がるじゃないですか
あの通りとかめちゃくちゃすごかったんですよ
僕古着を買ってるイメージやったんですよね
古着もちょいちょいあったけど
僕はやっぱり当時クリッパーさんとか
キンコンカンさんとか
ピンナップっていう
セレクトショップ
今で言う
どこも最初輸入物が多かったと思うんですけど
そういったお店が
すごい人気のあるお店があって
あの通りに
あのちっちゃい通りに
土曜日の午後なんかは
こんな感じですよ
人がバーっていて
肩がぶつかるぐらいのにぎわいっていうか
今じゃ想像できないですけど
そのお店がやっぱり
人気があったというか
僕は端っこのハズレで
細々とやった
ブレイクするなんかあれがあったんですか
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それなりに面白いものをやってたんでしょうね
僕は好きなものを売ってたんですけど
2年目入って
ちょっとずつ売り上げも上がってきて
お客さんちょっとずつ
常連さん増えてきて
そうする中で
さっきのギャゼットができるタイミングで
ちっちゃい面白いお店があるから
誰かギャゼットのデベロッパーの方が来てくれたんですよ
次こんなのがここにできるんだけど
店出しませんかみたいな
ギャゼットのデベロッパーの方は地元の方なんですけど
いろいろ話を聞いてたら
なんか面白そうだなと思って
2号店お金も何もなかったんですけど
2号店ちょっと出そうかな
その時一人ですよね
土日だけ大学生の子がバイトで来てくれたり
宮台の男の子が来てくれたりとか
あとちょいちょい買い物来てくれる子に手伝ってもらったり
少しずつ仕出して
でも2号店やるにあたって
やっぱりスタッフいるなみたいな
そっから本格的に
求人とかいろいろ考えたりとか
何歳ぐらいの時しか
それが多分だから25、45だから始めて
78とかじゃないですかね
27、8くらい
で2号店ギャゼットに出して
そこがやっぱり良かった
それが当たった
言えば当たりましたね
斬新やったですけどねギャゼット
そうですね
神戸にモザイクってあったじゃないですか
あれがベースらしいです
僕どっちか
そうなんですね
俺よく覚えてる
モザイクボックスか
海岸沿いに何かあったじゃないですか
ありました
ベンチにちょっと人座ってたり
彫刻じゃないけど座ってたり
あれが元々イメージであって
デベロッパーの社長さんは
あれを見た時に
あそこの古い倉庫とそこが合致して
あんな雰囲気に何かしたいなみたいな
で2階に広いデッキがあったんですけど
あれデッキ作ったらしいです
なかったデッキを
あれ倉庫に後から
結構広く建てましっていうか
下っぽかったですけどね
後から聞きました
それこそねうちのメンバーも
高校生の時ギャゼットめっちゃ行ってた
ギャルい感じやった
地元の店がだから
その2号店3号店とかを
出した方が多かったんですよね
もちろん最初に出された方もいたけど
もう一個のちっちゃい町が
そこにできたみたいな感じで
それがまた良かったんですよね
どっから2号店やってそれが当たって
いい感じに事業が伸びていきつつ
まちづくり的なことをされるのは
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もうちょっと後ですよね
ですねそれやりだして
それで言うとギャゼットは
抜けてからになるのか
ギャゼットがなくなる前に
そうなんですよ
撤収されてるんですかね
イオンができてそこに
街中すごい空き店舗が多くなって
ギャゼットも
ちょっと方向性
リーシングに彷徨って
大変やったんだろうな
最後なんとなくそのイメージある
よく分かんない音声
それが一つになるとしんどいですよね
そのタイミングで
ギャゼットじゃなくてもいいかな
って思うようになって
それでまた街中に戻ろうって
思ったんですよね
その時にイオンとかも見てきて
これからはちっちゃい
10坪ぐらいのお店よりも
30坪とか40坪ぐらいの
大きいお店
その時ちっちゃいお店が
5店舗くらいやってたんで
どこにあったんですか
ギャゼットの中に3店舗と
3店舗もあったんですか
結局最終的に
ギャゼットの中に3店舗出して
メンズ2つとレディース1店舗
街中にレディースとメンズと
やってたんですよまだ
これなんかちっちゃい
10坪15坪ぐらいの
5つとかやるよりも
40坪50坪ぐらいの
でかいお店でやっていかないと
なんかこうお客様集めたり
そこで見てもらうための空間とか
なんかいるなっていうのを
ああいう郊外の店とかを
見て回る中で思うようになって
なんか広い場所とかないかな
って思った時に
今うちが入ってるビルで
オーナーさんが売ってもいい
っていう話があって
じゃあ思い切って
5店舗分の家賃と
賃貸収入考えたら
これ買ってもいいかなって思って
ビル買ったんですよ
でお金かけて
回送して
あそこのビルで
みんなお店ちょっと集めて
今のお店よりも
知ってる人はみんな知ってますけど
右側の広いところで
1階2階でやってたんですよ
上に階段
階段なんか階段つけて
それも最初は良かったんですよね
でもやっぱりビルしんどくって
家賃のこととか
支払いも大きかったし
これビル
不動産屋さんがやりたくて
ビルやったんじゃないしなみたいな
お店さんテナントさんが抜けたら
次のテナントさんなんか見つけてこないと
大変だし
これビル大変と思って
やっぱ売ろうと思って
今のオーナーさんにビル
売却して
そのタイミングで
これからちっちゃくて
自分たちが好きなものだけやろうと思って
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売却するタイミングで
ちっちゃい今の場所に集約して
僕がこっち来て
西木田さん認識した時は
多分もう今のお店の形やったですかね
何年前くらいですか?
それがだからもう
10年はならないかな
ちっちゃくしてから
結構最近の話ですね
ですね
10年ならないくらいだと思います
その時はいわゆる街の活動みたいなのもされてたんですか?
あまり逆にやってなかったですね
どのタイミング?
ギャゼット終わる前くらいから
ビルやって
はいからどおりからだからな
何がきっかけだったんですか?
街の活動
街の活動はあれだったんですよ
街が盛り上がってくれたらいいなっていうのがあって
漠然と
そのためにはみんなでいろいろ協力して
街中がよくやるようなことをやっていかないと
やっぱりダメかなって思って
商店街作りの活動
商店街活動
店の前を履くじゃないですか
みんなによく言ってたの
店の前を履くのと
同じ感じで商店街のことも
いろいろやらなきゃいけないかなって思うようになって
はいからどおり商店街の理事になったりとか
はいからどおりにも店があったんで
模型の富山の前に
今半地下のブティックがあるんですけど
そこの前は僕が
しがら木の下
最初僕があそこ改装して
箱作ったんです
もともとお好み焼き屋さんがあって
あの地下なんか魅力的だな
ずっと開いてたんですけどその後
なんか魅力的だなと思って
東京のブランドをあそこでやろうと思って
ちょっと綺麗にして
東京のちょっとその当時やってた
人気のあるブランドがあったんで
それを2つ3つぐらいあそこでやって
良かったんですよあそこ
ブランドが人気があったんで
すごくよく売れたお店だったんですけど
その流れで商店街の活動をやりだして
ビルを購入したのも
逆に商店街活動してなかったら
ビル購入とかもなかったでしょうね
そこでやって
なおかつあの通り若草通り自体に
新しい感じのものってなかったんで
あそこにそういう新しい感じの
雰囲気のものができたら
活性化にもひと役買えるかな
みたいなのは少なからずありましたよね
上2階カフェあるじゃないですか
あれって外階段から入っていって
渡り廊下みたいなぴゅーっと
行ってカフェの中入るじゃないですか
あれって後からついてますよね
実はあの廊下がずっと
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最後までドーンってあって
二十坪区画が
あのカフェのところ
あのまま廊下だったんですよ
二十坪区画を2つ作ってて
今のちっちゃいところ2つ
あそこだから4区画作ってたんですよ
でもその二十坪2つに
なかなか入り手がなくて
それでじゃあ
うち側も店やるかと思って
中階段作って
店をやった時に
あそこを閉じちゃったんですよ
いろんな苦労がありました
なるほど
二十坪区画あそこ2つあったんですよ
さすが
なるほど
さすが大島さん
あのまま廊下から
ずっとドーンって行ってるんです
なるほど
今だったら多分
あってもよかったかもしれないですけどね
二十坪区画が2つ
でもあれ外から見た時に
商店街からの見えがかりは
今のあの感じはすごくいいなと思うので
カフェが入ってくれてよかったですよね
カフェ収まってますよね
そうそう
商店街の活動に結構注力をしていくと
会社の切り盛りをするっていうのが
両軸をやりだしたタイムがその辺ぐらい
そうですね
大変だったですよね
そうですね
だからそれで街中が盛り上がることで
自分たちも良くなればいいなっていうのも
もちろんありましたし
そのど真ん中モールっていう組織を
今現一平の村岡くんが
一生懸命街中のこともやってる時に
5つの商店街と
あの時4つの大型店舗っていう言い方をしたっけ
山形さん、ボンベルタ、MRTミックさん、カリーノ
5つの商店街と4つの大型店舗が
はたかも1つのモールになったような
イメージで街中がなるといいよねっていうので
ど真ん中モールっていうのを組織して
そういう意図があったんですか
最初のコンセプトはそれだったんですよ
そのコンセプト初めて聞いたんですけど
それだけ切り取って聞くと
いいコンセプトだなって聞こえました
駐車場を共同でみんなで利用できるようにしようぜとか
ほんで駐車場ビジネスみたいなのが残ってるよね
多分その理念は僕欠片も見えない
郊外の大型店舗に対抗するには
ここで戦うんじゃなくて
通りで戦うんじゃなくて
通りを結んでなおかつ
大型店舗が4つあるから
それを1つのモールのイメージしてやっていこうぜ
っていうのが最初のコンセプト
それいいですね
でも多分今それみんな理解しない
27:00
もうそれも10年ぐらいになるから
それも言わなくなったし
もう薄れちゃいましたよね
なくなってますね
僕が初めて聞いた時は
商店会をまとめる組合
みたいな感じの聞き方をしていたので
それって必要なの?みたいな感覚はあったんですけど
元々のコンセプトはそういうコンセプト
そういうコンセプトだったんですよね
それにAアンカーで西木さんも結構
どっぷりやってましたね
毎週のように打ち合わせして
どうあるべきかみたいな話から
こんなことやろうぜ
あんなことやろうぜ
大変ですよね
やってましたやってました
それが僕を追った時は
全くそうやったんですか?
みたいな感じなんですけど
委員長も1年間勤めさせてもらいましたしね
どこでそれがなくなったんですか?
それで言うと
本当に自分の商売が大変になったっていうのが
大きいですかね
いわゆるボランティアに近いというか
結果的には街が良くなったら
自分にフィードバックされるだろう
っていう想定のもとで
結構長期スパンの話で
多分注力されていたが
その前に自分のところが
体力的にしどくなってきたみたいな話で
本当にそれどころじゃないぜ
それは時代の流れも
そうですね
商売的にオリジナル力入れだしたんで
ショートパンツエブリデイ始めて
それを本当に軌道に乗せたいなっていうのもあって
なおかつそれを強化するにあたって
仕入れをいろいろやめて
そういう風に舵を切り出した時だったんで
ビルも売却して
お店もちっちゃくして
ある種自分一人になったんで
そこに費やす時間がなくなっちゃったなみたいな
すいませんみたいな
活動もできなくなって
岡草通りの商店街の理事もやってたんで
理事長にもお話ししてすいませんって
ここに時間を使えなくなっちゃって
理事もちょっと抜けさせてもらって
っていう感じ
必然的にいわゆる自分の会社を
そうそうそうそう
悪い意味本業なんやみたいな話ですね
オリジナルの方をグッと展開していくような流れになっていく
それがまた工場とか今につながっていくっていう
面白いですよね
なるほどね
さっき言ってた通りで
ちょうど今30分くらい経ったんで
早いですね
まだ過去の話
現在の話
ちょっとこれ分けていきたいなと思うので
30:00
一旦ここで止めたいなと思います
ありがとうございました