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2024-02-09 14:43

001 夢野久作「創作人物の名前について」(前)

夢野久作のエッセー「創作人物の名前について」(前)

小説の登場人物の名前って特徴的だし、作り手もめっちゃ考えてるんだよ。というエッセーを読み上げます。寝落ちしてくれたら幸いです。


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寝落ちの本ポッドキャスト
こんばんは、Naotaroです。
このポッドキャストは、あなたの寝落ちのお手伝いをする番組です。
タイトルを聞いたことがあったり、実際に読んだこともあるような本を淡々と読んでいきます。
エッセイにはですね、面白すぎないツッコミを入れることがあるかもしれません。
作品はすべて青空文庫から選んでおります。
さて、今日はですね、
夢野久作三著 創作人物の名前についてというエッセイを読んでいこうと思います。
小説に登場する主人公とかは、みんななんか大げさな名前がつきがちですよね。
有栖川小雪とか、あと何ですか、西音寺何ヶ志とか、基本名字が三文字みたいな。
それについてのエッセイを語っていらっしゃる夢野久作さん。
ドグラマグラなどで有名な作家さんです。僕は読んだことはありませんけど。
本日はこの夢野久作さんの創作人物の名前についてというエッセイを読んでいきます。
それでは読んでまいりましょう。
これは探偵小説に限らない。小説を書く人は誰でも経験するところであろう。
いかなら作家の場合でも小説の中の主人公や相手役、俳優の人物が決定するのと、その人物の名前が決定するのはほとんど同時ではあるまいかと思う。
AともBとも名前を決めないで書いていくことはちょっと不可能ように考えられるし、
単に名前だけ決めて性格や年齢、身分までをはっきりさせないまま、行き当たりばったりに筋を運ぶのは少々乱暴であり、
危険ではないかと考えられるので、少なくとも私などには到底できない芸当である。
ところでその名前の選び方であるが、これがなかなか容易でない。
将来感の悪い私などはこの名前の選定について特別に悩まされるので、
何の苦もない名前をつけているらしい他人の創作などを読んでいるうちに、つくづく自分の不器用さに愛想をつかすことさえある。
仰向けにひっくり返って太平洋楽を並べている読者諸君に、
こんな愚痴をこぼしても始まる話ではないが、
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創作の中の人物の名前なんかどうでもいいじゃないか。どうせデタラミにつけるんだろう、
とか何とか言っている血も涙もない人々には特に大きな声で申し上げておく。
創作中の人物の名前を選ぶということは、我が子の名前や自分のペンネームをつけるよりももっともっと苦心するものである。
それこそ血の滲むほど涙ぐましい、というほどでもないが、相当の神経衰弱に値する苦心を要するものということだけは記憶しておいていただきたい。
極端に神経過敏になってくると、その創作の出来不出来は、創作中に活躍する人物の名前の読み方一つにあると言ってもいい。
良い名前が出来ると思わず筆が進んで筋が面白く変化してくる。
金色矢舎の妙味は、簡一オミヤの名前の対象にある。
フトトギスの生命は川島武夫と片岡奈美子の八字によって永遠に生きているのじゃないかといったような気持ちになってくるのだから容易でない。
そんな馬鹿なことが、と笑えたくなる人は、もう少し酒を読んでから笑いたくなってもらいたい、と開き直りたくなるくらい、作家にとっては重大な問題であると思う。
特にこの感が深いのは主人公の名前で、特に探偵小説の場合においてそうではないかと思われる。
明智小五郎、手塚隆太、本村総六、田原岩尾、シャーラック・ホームズ、アルセーヌ・レヴァン、ルコック、ソーン・ダイク、エラリー・クイーンなどなどの名前は、単にその名前が紙面に顔を出しただけでも読者の血を沸かす。
その人物の風細性格から、その服装までもが、役女として眼前に浮かび上がる。
朝雲を破る太陽の如く、深夜を早朝するサーチライトの如く、前編の正規を一挙に躍動させ、一挙に躍動させ占めるのだから大したものである。
しかも、他の名前では絶対に読者が承知しないのだから、作者も一生懸命になって首をひねらざるを得ないのである。
名前は忘れたが、ロシアのある作家は、作中の人物の名前にふさわしいのが見当たらないために、一日中モスクワの街中の評察をのぞき回って、足が棒だか棒が足だかわからなくなったという。
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そうしてやっとの思いで気に入った名前を発見したその時の作家の喜びようと言ったら、それ頃観天規天、天の舞い足の踏むところを知らなかったという。
もちろん私はそれほどの苦心をした覚えはない。
今の世の中では電話帳というものや紳士録というものがあるから、東京市中をうろうろする必要なんかないのであるが、それでも電話帳や紳士録に載っている名前では、なんだかインテリアブルジョージ見ているような気がして満足できない場合がしばしばある。
のみならず、私は九州の山奥みたいなところに狐や狸と一緒に住んでいるのだから、どうしても空に名前を考え出さなければならない場合が非常に多いのであるが、
しかもこの空に考えるということが、はなはだ骨の折れる問題で切羽詰まった挙句、目を閉じて地引きを開いて指で押さえたところを見るという始末という字であったり、一という字であったりするのでがっかりする。
注釈です。これはつまり、どんな字が思い浮かばないということを言っていますね。
牛が3つってどういう字なんだろう。ひしめくですかね。続けます。
または、女の名前のために博物児展を開くとジャガイモが出てきたりポンカンが出てきたり、バクテリアというカタンカナが並んでいたりする。
何々ジャガコ、ポンコ、バクコなんていうのではないので、うんざりしているうちに1時間や2時間は飛んでしまう。
大正7年頃であったか、なんとかという飛行商工が夫婦相談の上で、今度生まれる子を男の子と決めてナポレオンという名前に決めているところへ女の子が生まれたというのでナポコと付けたという話が新聞に出ていたが、
我が子なら構わないかもしれないが小説は売り物だからそうはいかない。読者をバカにしていると言って怒られてしまうに決まっている。
そのほか、よさのオーギスト、いまいてがわしろうごろうざえもん、またげちょっとろく、福田メリ子なんていうのは実在の人物ではあるが、小説の場合ではちょっと通用しがたいようである。
のみならず、小説の名前の名前の付け方には色々な条件があって束縛され方が普通の場合よりもはなはだしい。特に探偵小説も場合においてそうした傾向がはなはだしいように思われる。
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第一の条件というのは、自分の書こうと思っている人物の性格や夫妻にぴったりした名前でなくてはならぬということである。
もっとも昔の小説だと夫妻と心が一致している場合が大変に多いのであるが、それはおとぎ話か神話以来の一種で、現実味の強い今の小説ではそう手軽くいかないから困る。
人は見かけにもよらぬものという原則に従って、夫妻のそのような場合でもそうした矛盾した人物にぴったりとくる名前でなくてはいけない。
夫妻の方にぴったりとする名前を選べば、同時にその正反対の性格の漢字もその中にこもっていなければならない。
同時にこれに反する場合の愉快を心の片隅に残すところがあるのだから、なかなかことが面倒である。
おまけにそこへ作者の好みが付随してくるのだから、いよいよことが面倒になる。
徳富裕香は片岡奈美子を美人と感じるかもしれないが、私には大した美人とは感じられない。
中年以上のおばさんで好人物には違いないが、あるいは相当のおしゃべりではないかとさえ感じられる。
それだけろかと旧作の頭の値打ちが違うんだと思われたらそれまでであるが、しかしそれは腕前の問題ではない。個性の問題と思う。
探偵小説の中では、昔風に悪人と善人とを区別しなければならない場合が非常に多い。
ずっと昔、今でも歌舞伎謎では、悪人の妊娑が悪く、名前までも毒々しいが、この頃では、特に探偵小説の中では、妊娑の入穴、美しい人物が思いもがけぬ大悪党だったり、札付きの善家者が善人であったりしなければならないことが多いのだから、
そんな感じの名前を最初から考えておく必要がある。
中心から気心の知れた優しそうな名前の人間が、最後に手錠をかけられるようなことを書くと、前にもなべたような理由で、読者は何となく欺かれたような不満を感じる恐れがあるのだから、そのややこしいことを一通りではない。
要は、人に名は体を表す的なことがないと、文句言われちゃうよということですね。これが第一の条件。続いて、第二の条件は、その人物の夫妻が名字だけ、もしくは名前だけでもすらりと目に浮かぶような名前をつけなければ損である。
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もちろん、その裏をいって現実性を強める方法もないではないが、普通の場合、岩山道蔵という美少年だの、青柳美容吉、なんという周回な共感なぞは落題である。
太郎子と花子と二人並べたら花子の方が美人に決まっているし、松子と清子なら清子の方が病気勝ちに決まっている。
大山宗太郎が小男で、小川一平がクモつく大男と書いたら、読者はちょっと首をひねるであろう。
第三の条件は、読者に清くされやすいことである。
これは特に難しい条件であるが、創作人物の名前を選ぶについては、第一の条件とともに最重要な考慮を払わなければならぬ問題である。
といっても、理屈は別に難しいことではない。
早い話が田中とか山本とか林、中村、または張兵衛、吉代、太郎、二郎、三郎といったようなありふれた名前をやたら組み合わせて並べていくと、
読者はきっと途中で作中の人物を混戦させてしまう。
筋からはぐらかされて、あくびを出すか本を投げ出すかとするところがあるのだから、こんなのはまず遠慮した方が賢明である。
そうかといって、猫舌とかワニ口とか黒出とか赤ましといったようなとっぴな名前を出すと、
その一つでも全編の実感を和やにする恐れがある。
またはハセクラとかショウジといったような珍しい実在名を持ち出すと、
振り柄の間違いという恐ろしい危険に陥りやすいし、わざとらしい漢字が必ずつきまとうのだから、
やむを得ない限りそのを使わない方が無難と考えられる。
確かに佐藤さんとか鈴木さんとかが作中で主人公になることはないですね。
といったところで、今日は時間がそろそろになってきました。
寝落ちできたでしょうか?
続きはまた次回。おやすみなさい。
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