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423_卒業式の「感動」って、本当に必要?〜教師が語る、過剰演出への本音〜
2026-03-24 09:27

423_卒業式の「感動」って、本当に必要?〜教師が語る、過剰演出への本音〜

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卒業式が無事に終わりました。生徒たちは立派に式に臨んでくれましたが、教師としては手放しで感動するばかりではない、複雑な思いを抱いています。過剰な演出で感動を誘う卒業式のあり方には疑問を感じ、むしろ日々の地道な教育活動こそが問われるべきではないでしょうか。生徒には潔く巣立ってほしいと願う一方で、「ありがとう」だけでは語り尽くせない努力や苦悩もまた存在します。今回は、そんな卒業式に対する教師としての本音を、皆さんと共に考えていきたいと思います。

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みなさん、こんにちは。今日も明日も授業道、黒瀬直美です。この番組では、中学校・高等学校の国語教育、働く女性の問題、デジタル教育についてゆるっと配信しています。
今日は423回、卒業式の感動って本当に必要?教師が語る過剰演出への本音、というタイトルでお届けしたいと思います。
卒業式が終わりました。うちの中学校3年生は、洋行では少しギクシャクしたり、適当に受け流しているように見えましたけれども、本番ではビシッと決めてくれました。さすがですね。
生徒たちは立派に式に臨んで、返事も礼も決意の言葉も本当に立派でした。
普段は甘えてダラダラっとしているように見えても、やるときにはビシッと決める。でもそれも日々の取り組みがあってこそなんですよね。
そう考えると、私たちの日々の教育活動の成果って、なかなか顕在化しにくいものなんじゃないかと、そういうふうに感じました。
それはそれでちょっと置いておきまして、卒業式の準備をしながらふと考えたことがあります。
子育てで多忙だった時期に卒業生を出した経験があるんですけれど、その時は式の後のホームルームに十分な準備ができず、動画も作れなくて大したこともできず、
他のクラスが華やかにいろんな動画を見たり、色々指揮士とか準備をいっぱいしているのを見て、なんだか情けない思いをしたことがありました。
でもベテランになって考えてみると、過剰な演出をしなくても、そこまでの日々の取り組みがあればひけ目に思うことはないんですよね。
そう思えるのもやっぱり経験をある程度積んだからだなというふうに思います。
で、今現在私の卒業式に向けての準備は、デジタルスキルのおかげで動画作成も15分で終わり、文集もQRコードを作って電子書籍にするし、一言メッセージカードもパワーポイントで見せるなど、非常に軽やかに準備を終えることができました。
思えば過去を振り返ると卒業式って本当に色んな形がありました。
私が教員になった頃はもう少し生徒が元気で、卒業式に実習的に先生ありがとうございましたっていう感じで一斉に声を合わせて、退場する時にちょっとしたパフォーマンスをしたり、
それこそ式が終わった後に今までどこからどこで練習してきたのかわかんないような歌を歌ったり軽いダンスをしたりして、自分たちで企画したメモリアルプチパフォーマンスっていったようなことをやったりしていたという記憶もあります。
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あれって生徒が元気だった時代じゃないかなと思います。
でも時代が過ぎるにつれてだんだんと学校も管理的になっていて、生徒の自主的なパフォーマンスっていうのをあまり許すっていう方向にはいかなくて、むしろ卒業式は厳粛におごそかに行うっていうように移っていったように思います。
これはやっぱり卒業式が感動的なイベントとして過剰に演出されるっていうことへの違和感とか抵抗感とか、あるいは批判的な声が上がったからなんじゃないかなっていうふうに感じています。
それとちょっと関連づいているのかもしれないんですけれど、今まで一生懸命担任の先生が取り組んできて卒業していく生徒たちの別れにあたって、かなりセンシティブになる担任の先生もいらっしゃいました。
例えば5時間も6時間もかけて黒板アートを書いて自分の思いを生徒に伝えたり、あまりにも作り込みすぎた動画、これ徹夜で作ってそのCDを生徒分焼いてあげたりっていうような卒業にあたっての感動イベント演出が過剰になりすぎるっていうようなそういうこともあったように思います。
花束の交換とか、保護者から先生へのプレゼントっていうのもちょっと何か過剰になりすぎていた時代もあったんで、その時代の時は管理職の先生もやっぱり一線を引くっていうように指導されたっていう場面もあったと思います。
私自身がやってきたことは、やっぱり生徒が自主的に卒業文集をクラスのみんなと協力して作るように仕向けたことと、せいぜい寄せ書き程度の色紙とか、それから黒板アート、これも生徒にやらせましたね。
私自身は5分か10分で作れるアイムービーのスライドショー、だいたいそういったものが私の定番になりました。
しかし考えてみると、別にその日だけ感動を演出するんじゃなくて、これまでの取り組みの中に日々感動ポイントがいっぱいあったわけですよね。
だからむしろそちらの方でしっかり感動を味わいたいなっていうか、味わいたかったなっていうような思いもあります。
私の考えとしては卒業式のたった1日だけですっごい感動して涙して、ああよかったっていう、そういう涙するために涙するっていう卒業式のあり方っていうのは非常に疑問を感じています。
むしろ私自身プロとしてどうだったのかと、それを考えた場合、とても手放しで涙するっていうことがなかなかないわけですよね。
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やっぱり正直うまくいかないこととか、生徒に対して厳しく当たらないといけなかったところとか、情報できなかったところとか、自分自身が至らないばかりにうまくいかなかったこととか、
それは感動する以前の苦い思い出とか山ほどあるわけですよ。
そんなことを思い返していると手放しで感動するっていう気分になれないっていうのが私の率直な気持ちですね。
もちろん一部の生徒にとっては思い出深い卒業式にしてあげたいなっていうそういうふうな思いはあるけれども、
その感動までに至らなかったということをすべて感動的なストーリーにひっくり返してしまうっていうのもあんまり私は好きではない。
苦々しい思いをかみしめながらさらに力強く次のステップに進むっていうような、そういうふうな状況が私は望ましい状況だなって思っています。
というかもうだんだん先生いなくても自立してさっさと育ってほしいっていうそういう気持ちがすごくあって、
いつまでもクラスの後ろ髪引かれるんじゃなくて潔く前を向いてほしいっていうのが私は実は好ましいスタイルなんですね。
でも自分自身が中高校生だった時の卒業式のことを思い出すとやっぱり同級生との思い出が募って、
同級生とたっぷりお別れを楽しむっていうのが良かったので、あの子たちにとってもそういうのが一番良かったことなんじゃないかと思います。
担任としてはありがとうっていうふうに言われるのは嬉しいけど、それ以上にそのありがとうっていうふうに言われる以上のことをしてきたっていう自負があるんですよね。
ありがとうって言われるより困難に立ち向かって他者のためにも頑張れる人になってほしいんですよ。
そういう思いが強くてありがとうって言われて涙が出るっていうようなことはないんですよね。
そんなこと言わなくても困難に立ち向かって強く前を向いて他人のために役立てるようなそういう人になってほしいみたいなそんな気持ちになっちゃうのが私なんですよね。
ということでありがとうって言われること以上に目に見えない努力を私たちはやり続けたっていうそういう誇りもあれば、一方でそこまで至らなかったっていう苦々しい思いもあります。
だから卒業式っていうのは私にとっては手放しで泣いたり惜しんだりすることのできない非常に複雑な日なんです。
プロとしてどうだったのかということを徹底的に自分に問い詰めてしまい、手放しでは喜べないっていうのが卒業式に対する私の実感ですね。
生徒の皆さんにはやっぱり青春をしっかり楽しんでいただきたいと思います。
そして3月31日までは何があってもこちらが対応しなくてはいけないので引き続きプロとして気を緩めずに3月31日までしっかり担任としては冷静に構えていきたいと思っています。
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それでは今日の配信はここまでです。
聞いてくださりありがとうございました。またお会いいたしましょう。
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