スピーカー 1
二番経営 〜組織を支えるNo.2の悲喜こもごも〜。
この番組では、なかなか表に出ない会社の二番、No.2をテーマに、
トップのビジョンの実現の仕方や、この仕事の面白さ、大変さなど、
No.2の悲喜こもごもをリスナーの皆さんにお届けします。
スピーカー 2
こんにちは、株式会社オーツー・パートナーズ、取締役の勝宮水礼です。
スピーカー 1
源頭社新しい経済編集長の、しだれゆうすけです。
二番経営、第10回です。よろしくお願いします。
スピーカー 2
よろしくお願いします。
スピーカー 1
今回はですね、前回非常に盛り上がった、世界のホンダを支えた、
藤沢武夫に見るNo.2論の第2回。
実は前回聞きたかったこと、話したかったこと、まだ途中で終わってしまったので。
スピーカー 2
そうですね。
スピーカー 1
お二人が出会ってからですね、ホンダ総実郎さんと藤沢武夫さんが出会ってから、
その出会いのエピソード、そしてその後にですね、
ホンダが大きくなるにつれて起こってくるトラブルを、
いかに二人が乗り越えてきたかという話を、第9回でしておりますが、
その続きをですね。
スピーカー 2
続きをお話したいと思います。
スピーカー 1
よろしくお願いします。
スピーカー 2
No.2のエピソードというところなんですけども、
前回まではですね、ちょっと危機を乗り越えたみたいな話がありました。
1969年というタイミングに乗っていきます。
この69年というのは、
ホンダ議研に藤沢さんがジョインしてから20年ぐらい経っているタイミングです。
この頃になるとですね、ホンダはですね、もう世界進出を遂げていてですね、
もう世界のホンダと言われ始めています。
ただその時の世界というのはオートバイで世界を取っている、そういうホンダですね。
国内ではトップメーカーにもうすでになっているというタイミングです。
ホンダさんといえば自動車のイメージの方が強いかもしれないですよね。
その自動車の普通車第1号というのが生まれたのが、
1968年からですね、開発されたH1300という車種になります。
この市場に投入したこの戦略製品ですよね。
それを巡るエピソードになるんですけれども、
その新しい車を開発をしていました。
その開発チームっていうのは、ホンダ総一郎さんはトップですし、
世界メーカーのトップになりますから、
実際にその自動車を作る現場っていうのは社員たちで構成されているわけですね。
研究所の所長ですとか、若手の社員たちで一生懸命作っていました。
ところがですね、ホンダ総一郎さんというのは会社のトップでありながら、
技術部門のトップというのも兼ねている役職だったんですね。
もともと技術はホンダさん、他の経営は藤沢さんという役割分担だったのでそうだったんですけれども、
スピーカー 2
実はそのトップのホンダ総一郎さん、この自動車の開発の時にですね、
過剰とも言える現場介入というのを繰り返してきましたと。
どういうことかというと、現場がもうこれで行こうというのを積み重ねたところで、
最後にですね、鶴の一声で、これダメだよ、これ作り直せっていうのを、
ふわっと来たトップがですね、言って現場を立ち去っていくと。
何となく想像できるエピソードなんですよね。
で、要はこうやって設計をしたものを、この設計はこう変えなきゃいけない。
製造業の中では設計変更という言葉があって、一般語っぽいですよね。
これで完成、設計できた。で、次に渡っていくときに、ちょっと待てよと。
こう直さないと不具合を生じちゃうという設計変更というのは、よく起きることではあります。
ただですね、その設計変更を起こされちゃ困るタイミングというのもあるんですね。
どういうタイミングかというと、設計開発をしている人たちというのは、
設計ができました。図面を出す、出図って言ったりするんですけども、
そこからですね、今度は生産部隊にそれが渡ってですね、
生産技術っていう部門なんですけども、その方たちは製品をどうやって量産していくのか。
どういう工場のラインで作っていくのかっていうのを検討し始めるんですね。
そういうタイミングがあります。
その生産に設計情報が渡った後、設計変更をすると、
こうやって作ろうっていうのを決めたところが、もう一回最初からやり直さなきゃいけないんですよね。
スピーカー 1
バラシになっちゃうといろいろ。
スピーカー 2
当然ですね、そういうやり直しをしなきゃいけない設計変更というのもあるんですけれども、
当時の技術人から見ると、
いやいや、トップの言うこの変更指示っていうのはちょっといかがなものかっていうものもかなりあったようなんですね。
でもそれを言われたのは現場の担当者ですから、
社長が来てお前こう変えろって言われたら絶対に変えなきゃいけないですよね。
でもそれで現場が疲弊しまくってると。
スピーカー 1
振り回されるみたいな感じになっちゃってる。
しかもその社長が技術者ですからね。
スピーカー 2
そうなんです。技術のトップで、もう世界的に成功した技術者でもあるわけですよね。
スピーカー 1
よくわかんない文系社長が雰囲気で言ってるんであれば、
いやいや技術的なロジックでこうですよってこともあるけど、そうはいかない感じですよね。
スピーカー 2
おっしゃる通りなんですよね。
あまりにもその担当者に直接指示をするということで現場が混乱したので、
当時の技術研究所、開発部門のトップが社長に直訴してお願いだからやめてくれませんかと。
何かおっしゃりたい時には私に一回おっしゃってくださいと。
そういうお願いをしました。これもよくある風景ですよね。
その時に当時の技術部門開発のトップだった杉浦さん、所長の方がいらっしゃるんですけども、
スピーカー 2
その方がおっしゃった言葉が残ってるんですけども、
強力な創業者がいて、しかもその人が技術的にトップに立っている。
加えて過去にどえらい成功体験を持っている。
そういうリーダーがいるということは行くところまで行ってしまわないと、
途中で止めるということはとてもできない企業体質だったと。
スピーカー 1
そういうことをおっしゃるんですね。
スピーカー 2
何かその当時の混乱ぶりっていうのが本当によくわかる言葉だなと。
止めたい潜めたいけども行かざるを得ない。
誰もブレーキ効かないっていう感じですね。
ただずっとそういう介入が続くことで、結果販売の時期が伸びちゃいました。
スピーカー 1
その第1号の車が。
そうです。
スピーカー 2
販売の時期伸びるっていうのはよくある話かもしれないです。
今だったらゲームとかありますよね。いつ販売っていって。
スピーカー 1
はい、ありますけどね。
スピーカー 2
でもようやく販売にこぎつけましたと。
でもですね、売れなかったですねこれが。
スピーカー 1
そうなんだ。
スピーカー 2
まさに失敗に終わったということで。
普通車ですので、すごいスポーツカーとかトラックとかそういうものではなくて、一般の乗用車ですので大衆の方に買っていただくそういう車だったんですけども、アピールができなかったと。
で、その時に手段であるはずの技術が目的になっていたっていうセリフを当時書かれている。
もうみんながですね、寝ないで作って時期も伸ばして社長が言うことにも全部答えてやったけど全然売れんかったと。
それでですね、若手の技術者っていうのがみんなで集まって合宿をしましたと。
これもなんかよくあるんですけども、その反省会合宿をしてですね、その時に何が原因だったのかと。
どこの技術なのかどういう売り方だったのかっていうのをずっとけんけんがくがくやりましたと。
実はその時にそこに呼ばれたのが藤沢武雄さんだったんです。
聞いてくださいと。ギリシャこれからやりますんで。
藤沢武雄さん技術のことわかんないです。
営業でもあります。でもマネジメントとしてぜひ来ていただけませんかと。
で、その時にギリシャのメンバーが話をしてですね、出した結論っていうのが、
当時ですね、ホンダ総一郎さんっていうのは空冷エンジンというのにこだわられていたそうです。
空冷っていうのは空気で冷やすっていう字ですね。
一方でですね、当時大衆車には水冷エンジンっていうのが一般的だったんです、世界的には。
水で冷やすんですね。
自動車のエンジンっていうのは、そのエンジンの部品の中では小さい爆発が連続で起きて、
それでピストンを動かしていきますので、すごい高熱になります。
それをそのままだとオーバーヒートしちゃうので、それを冷やしていかなきゃいけないんですけども、
それをですね、普通は水を使って冷やすんですけども、
スピーカー 2
ホンダさんは空冷っていう技術にこだわったと。
何でかと、オートバイ空冷だからなんですね。
それで世界通ってるんですよ。
スピーカー 1
そうか、出てますもんね、エンジンが。
スピーカー 2
でも、やっぱり自動車、しかも一般車ですね、大衆車では水冷の技術の方がいいっていう結論がやっぱりギリシャの中であって、
そういうふうにしようと思ったんだけど、社長の鶴の一声で、空冷車になってしまった。
それがやっぱり失敗の原因だったんじゃないかということを話してですね、
技術の素人の藤沢武雄さんもそれを聞いてですね、水冷に利があるっていうふうにご理解をされたということですね。
その時に藤沢武雄さんに合宿に来ていた方が、当時藤沢武雄さん副社長をやられていたんですけども、
副社長から社長にお伝えいただけませんかという話を聞いてですね、
実は藤沢武雄さんというのはこれまでですね、技術とかものづくりに関しては一切口を出さないという役割分担のもとやってきたんです。
20年間絶対に口を出さなかった。それはお互いの約束だったんですよね。
でもそれを聞いて社長のとこ行くんですね、藤沢武雄さんのところに行って、これは水冷のほうが利があると思います。
私は素人だけれどもこちらのほうがいいと思ってます。
で社長は藤沢武雄さんこう言います、空冷でも同じできるんだよ。
副社長に説明しても分かんないだろうけどねっていうのが最初のセリフだったそうです。
これはお互いの役割分担を決めて、当然俺のほうがもう超超超専門。
これは世界の本田総一郎だ。当然ですよね。素人に言われたらちょっとイラッともされたと思います。
その時に藤沢武雄さんが返した言葉がまたすごくてですね、
あなたは本田技研の社長としての道を取るのか、あるいは技術者として残るのか、どちらかを選ぶべきじゃないでしょうか。
スピーカー 1
おーなるほど。
スピーカー 2
技術者のこだわりを持って空冷で行くのか、社長としてだったら水冷を取りますよねっていうことを言って。
そしたらしばらく黙ってですね、考えた本田総一郎さんは俺は社長としているべきだろうっていうふうにおっしゃって。
スピーカー 1
はー。
スピーカー 2
断面してじゃあ水冷をやらせるんですね。藤沢武雄さんが聞いたらそうしよう、それがいいって言ってこの話は決着したそうです。
はー。
なんかちょっと哀愁漂うやりとりというか。
これすごいですよね。
なんかこう現場の意見とそのトップとのギャップっていうのがあって、その間にですねナンバー2がまさに翻訳者として入って、
下からの意見を正しく上に伝える、なんかそういうエピソードですね。
スピーカー 1
前回の放送では新しく出てきた埼玉の工場でみんながオフィス散らかしてたら暴れ回ったみたいな。
あれはどっちかと言えばナンバー1社長の思いをちゃんと伝えるみたいな。
スピーカー 2
そうですね。
スピーカー 1
きれいにしていくことが大事なんだみたいなことを多分伝えてたんですけど、まさにその逆ですよね。
逆ですね。
マーケットの反応も見た上で社長にこの二択を迫るっていう、確かに技術論を戦わせても勝てないけど。
そうなんですよね。
だからアーティストになるのかみんなを大きくしていくのかどっちにするんですか?
スピーカー 2
いやもうまさにですね、空霊の技術でもできるんだと、それを証明してみせるっていう技術者としてのこだわりでいくのか、
みんながハッピーになる術がそこにあるんであったらこだわり捨てたほうがいいですよねと。
スピーカー 1
いやすごい話だな。
スピーカー 2
それで何か収まって、無事その後水霊でっていう形になっていきましたと。
スピーカー 3
なったんだ。
スピーカー 2
ホンダっていうのは自動車でもヒット飛ばしていくそういうメーカーになったんですけれども、
次のエピソードはですね、25年間一緒だったんですけど20年経ったところですね。
そっからなんですけども、今度は1973年退任の時のお話です。
1973年っていうのは会社として設立25年っていうタイミング、締めの年ですね。
そのタイミングで藤沢武雄さんお年としては62歳、ホンダ総一郎さん66歳という5年間でした。
2トップ何ら問題なくやったんですけども、藤沢武雄さんの経営者としての考えとして、
トップっていうのはもう体力も知力も充実してないと絶対できない経営者っていうのはですね、
という思いがあったのでやっぱり引き際を常に考えてらしたそうです。
その時にですね、設立25周年っていうのを自分としては節目にしなきゃいけないなと。
ただそれは自分の考えであって社長は違っていいっていうふうにも藤沢さんは思われていたんですよね。
なので藤沢武雄さんはご自身がですね、ホンダ総一郎さんに私は辞めようと思いますって言ったら絶対にホンダさんは
分かった俺もっておっしゃるだろうというふうに目の前で言われたら言うに違いないと思ったので、
あえてですねご本人に言わなくて当時他の役員に私は今年で退任をしようと思うんだということを伝えたそうです。
当時の専務の方からですね、ホンダ総一郎さんにちょっとタイミングを見て伝えてくれと。
間接的に言うことでそうかってこうホンダ総一郎さんが考えるそういう時間ができる。
自分から直に辞めます。じゃあ俺も辞めるみたいな感じにならないようにしたらしいんですけども、
藤沢武雄さんがですね、自分の経営判断で唯一と言ってもいい失敗は間接的にそれを伝えたことだっていうふうに後でおっしゃるんですけども、
スピーカー 2
実はですねその専務から藤沢さん今年退任されるということだそうです社長と言われたホンダ総一郎さんはですね、
言われた瞬間にですね、二人一緒だ俺もやって言ってその瞬間にも退陣をですね即断したそうです。
なんかこれもちょっと震える感じなんですけども。
スピーカー 1
いや震えますね。
スピーカー 2
なので藤沢武雄さんとしてはホンダ総一郎さんをまだホンダのトップにし続けていたかったんで全然できると思ったので、
自分が直接言ってそこでいやいややめてくださいっていうふうに言うこともできたかもしれないけど、
間接的に言ったので即断したら当時の政務としたら上が言うんだからそれをもう押し返すこともできない。しょうがないって感じですね。
スピーカー 1
振り返ると結局自分が言ってたほうがいやいや待ってくださいと。
スピーカー 2
あなたは続けるべきですみたいなことをおっしゃられたんですけどそんなになっちゃったという感じですね。
スピーカー 1
いやでもすごいなだから別に誰が伝えても同じだったってことですよね。
スピーカー 2
そうですね。
スピーカー 1
そう決めてたんだろうな多分。
スピーカー 2
完全にもうバディですよね。
スピーカー 1
ですよね。
スピーカー 2
なんかもうベタハーフみたいな感じでもう一人では存在しえない。
でなんかそれって間接的に伝えた状態ですと。
この頃ですね本田総一郎さんと藤沢武雄さんが一緒に何かするってことほとんどなかったんです。
年に1回か2回食事会みたいなところで一緒に会うぐらいしか一緒にない。
そんな関係だったらしいんですよ。
でもやっぱ完全にここら通じ合っていて。
すごい。
でその退任の即断をされた後にですねお二人がたまたま出会うんですね。
でその時の何かやりとりもですね残されていて。
その時に本田総一郎さんからまあまあだなって言うんですよ。
そしたら藤沢さんがそうまあまあさって言うらしいですね。
で本田総一郎さんが幸せだったなって言ったら藤沢武雄さんが本当に幸せでした心からお礼を言います。
俺もお礼を言うよ。
いい人生だったなって言って引退の話は終わったっていう風に。
はいなんかご自身の中で書いてあるんですよ。
なんかもう大洲康二郎監督がなんか映画にしそうじゃないですか。
スピーカー 1
もう完全なラストシーンですよね数々の映画にあるような感動の。
スピーカー 2
こんな綺麗なっていうのはちょっとなかなかないと思うんですけれども。
でその年ですね1973年にお二人は社長と副社長揃ってですね退任をされて。
その後も取締役としてはお二人ともですね10年間藤沢さんは10年間残られて。
最高顧問とかなんかそんな形でずっと残られていらっしゃったんですけれども。
その後もですねこれだけのお二人なのでなんか言いそうじゃないですか。