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2024-08-24 19:16

#85 沼津から東京へ、そしてまた沼津へ/ゲスト:れいちゃん

今回の対話会のお相手はれいちゃん(一般人・29歳)です。

沼津で育ち、一人立ちしたいために東京へ出ますが、その後下田を経て、もう一度沼津に戻ってこられたそうです。

前回、さささんとも、沼津エリアの人が東京などに一度は憧れて出るという話が出ましたが、まさにその一例という話でした。

そんな半生を聞かせてもらいます。

※今回マイクの設定ミスで、私の声が非常に聞こえづらくなっております。申し訳ございません🙇‍♂️
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サマリー

れいさんは沼津で生まれ、初めて東京に出た経験を語ります。東京での生活の忙しさや人々の速さに圧倒され、再び沼津に戻る決断をしました。現在は栄養士として働きながら、実家での生活の楽さを実感しています。れいさんの経験を通じて、沼津の茶業界への関わりや成長について語られます。特に、彼女が学んだお茶の種類や地元での仕事の楽しさが紹介されています。

沼津から東京への出発
今日はれいちゃんに来てもらいました。
れいちゃん、よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
緊張してるわ。
急に手汗が、手がかいてきた。
この切り替えモードです。
全然無理やろな、緊張感も。
無理ですね。
大丈夫。
ありがとうございます。
軽くで大丈夫なんで、
れいちゃんの自己紹介をお願いします。
沼津生まれ、沼津育ちの29歳の一般人のれいこです。
お願いします。
お願いします。
一般人。
一般人でいいか。
一般人っぽくないけど。
じゃあ軽く、経歴って聞いても大丈夫そう。
例えば沼津から離れたことあるのかとか。
ある。あるんです。
私は中高、高校まで沼津でいて、大学は行かず専門学校に行ったんです。
栄養士の専門学校に行って、東京の専門学校に行ったから、
そこで東京に出たいっていうのが第一志望で、
地下を出たいゾーンの高校を卒業して、
地下出たい、東京行きたい、で見つけた専門学校が東京にあったから、
そこで2年間寄り暮らししたんです。
だけど、東京で生活するの大変そうだなと思って、
沼津に戻ってきたんです。
下田での生活と苦悩
就職は静岡県がいいと思って、戻ってきたんです。
いきなり予報屋に入れちゃうけど、何が東京の生活がすごいなと思った?
そもそもが満員電車とかが苦手で、
人の動きが早いじゃないですか、東京って。
電車もしてるけどね。
私から見るとみんなせかせかしてて、大変。
確かに東京は東京で、お店もいっぱいあるし、
電車もすぐ来るじゃないですか、3分に1本とか。
だから、便利っちゃ便利なんですよ。
だけど、私の住んでた、その専門時代に住んでたのが、
わりと東京でも田舎のとこだったんです。大森駅って。
わりと東京らしくないとこだったから、それがまた良かったんです。
2年間行けたんです。
でも就職ってなると、やっぱそこからもっと出なきゃいけないから、
大変だな、私には合わないな、せかせかした世の中がと思って。
便利に出ましたね。せかせかした世の中が。
そういう風に戻ってきたんですけど、
就職先は御殿場の会社に、本社が御殿場のところに決まったんです。
でもそこから配属されたのが下田で、
栄養士として最初、社会人初めて働いたのが、下田の病院だったんですよ。
そこで下田に1年、2年経って住んでたんです。一人暮らし。
町の人口密度がすごい高かったね。
それが辛くて、極端すぎて、
私は別に下田が嫌いではなかったんだけど、
住むところじゃないってその当時思ってて。
下田の人に謝る。
そう、その時は本当に社会人になりたてで、19歳でなったんですよ。
それで知らない、下田はそこまで行ったことなくて、その当時。
海もサーフィンとかやらない人間だから、海の遊びを知らない。
でも下田って海がいっぱいあるから、海行きたくなるんだけど遊べない。
ボケと見に行ってたの、何回かは。
なんか寂しいな。
仕事も過激だったから結構、病院だったから3食の食事をやってたんだけど、
朝は本当に4時起きとかから、早いんです。
朝食作りから。
夜は全然夜9時とか、病院24時間開いてるもんで遅くまでやってて、
その生活が結構体がきつくなって、
店舗をせめて帰ってくれって言って、
一人じゃもう心もメンタルも持たないし、
家に帰っても何もないっていうか、周りもほんと何もないとこだったから、
帰りたい。せめて実家、沼津なんですけど、
実家への帰還と新たな挑戦
通らず、とりあえず金持ちは富士になったんですよ。
だけど富士は通えるから、沼津から30分。
じゃあ実家に住みますって言って、
そっから今まで、実家で住んでて、
栄養士の仕事も割と満たされた気がしたんで、
転職してお茶屋さん、茶通店でお世話になりました。
茶通店の方はじゃあ、栄養士は何でなりたかったんですかね。
何をやりたいかって考えた時に、
学校の進路相談というか、私は本当はトリマーになりたかった。
動物が好きで。
本当はトリマーがなりたくて、
学校見学、専門学校の体験入学みたいな、
トリマーの学校ばっかり行ってたんですよ。
だけど、実際働くってなったら、
多分大変な世界になると思ってたから、
資格とか持てるような、いつでも使える資格を持っているような、
そこに行った方がいいって思って、
何が好きなんだろうと思ったら、
食べることが好きだから、
食べることが好きだから、
食べることの仕事っていうか、そういう学校なんだろう、
調理師、栄養士。
栄養士ってすごいかもって思って、
自分もカロリー計算とか、
この食物は何だみたいな、いろいろあるじゃないですか。
そういうので視野が広がるかと思って、
栄養士の学校を選んだ。
そこも2年で、大前提で東京に行きたい。
私は東京に出るんだって決めたから、
それで条件のいい学校がちょうどあって、
一人暮らしでもできる、栄養士の資格も取れるっていうので、
栄養士っていう選択になりました。
そういう意味で言うと、
今まで沼津の人、この番組に入ってきても、
沼津あるあるだよねっていう話で、
だいたい沼津の人、高校出がち。
本当に?
学校とか就職とかで、
沼津は大世代だみたいな。
深い気持ちが強い人なんですね、沼津の人って。
そのケースの方も聞いていただきたいなって。
今すごい面白いなと思うんですが、
一人暮らししたいって言いますけど、
実家は、実家暮らしはしたくなかった。
どっちかっていう。
おけいちゃんも最初そうやった?
私も実家暮らしはしたくなかったんです、最初は。
で、出たかった。自立して。
もう一人の、自分たちは結構厳しいかったんで、
文献徳が厳しめなんですよ。
ちょっと縛られたくないっていうので、
一人になりたいっていうのはあった。
でも実家は戻ってきた。
それはなんで?
選択肢としてさ、
ペンバーとか東京とか、別の町に行く選択肢とか、
例えば私の話で言うと、
なんで実家でまだ沼津で戻ってきたの?
そうなんですよね、なんかね。
やっぱり実家は楽。
楽なんですよ。
帰ったらご飯があるし。
楽が勝っちゃった。
で、出ようと思えばたぶん出れる。
いつでも出れたんですよ。
でもまだやっぱお金のことも考えちゃう。
そこで、今出ても家賃とかで引かれる。
給料も良くなかったんで、
この安い給料で沼津に通える距離なのに
わざわざ済むのはもったいないって思って、
ずっといたかもしれない。
もっとお聞きしたいのが、
めっちゃ気になってるのが、
栄養士、そこも42人あるんですけど、
満たされたって栄養士、
何が満たされた?
もうやり尽くした。
人を全部覚えて。
終わって、後輩も育てて、
もういいかなって。
でももうやりたくないかって言ったら、
そういうわけでもなくて。
一回走り切ったみたいな。
そうそうそうです。
結構ね。
それはでも俺、
こんだけお友達になって、
栄養士全然知らんかったから、
すごい。
今日も玲音ちゃん笑ってるけど、
泣いてた玲音ちゃんもおった?
もう毎日。
毎日泣いて、
毎日一人暮らし、
下田なんてその当時一人じゃなくて、
帰って開けてハイボールまだ飲んで、
まだ二重足足。
もう酒バーってなって、
帰って酒飲みながらご飯作って、
そのまま食べてとか、
もう次の日朝早いから寝なきゃとか、
もう時間があっという間に過ぎてくる、
そのくらいで。
辛かった?
辛かった。
お疲れ様。
ありがとう。
辛かったことだった。
じゃあそれを経て、
今度は茶津玲さん、
僕も佐藤さんとお声にさせていただいてて、
たまに玲音ちゃんと出会ったら、
玲音ちゃん、茶津玲さんみたいな、
そうですよね。
そんな流れで、
お茶津玲さんに入ったきっかけは?
きっかけが、
それこそ、
もう栄養士が不規則な時間の仕事だったんですよ。
朝昼夜関係ないみたいな。
で、シフトも結構まちまちだったから、
定時がある会社が良くて、
まず。
定時あるジムが良いかなって思って、
ジムには挑戦したことなかったんですけど、
ずっと栄養士の調理場とか、
現場やってたから、
沼津での茶業界の経験
ジムは全く無知なんですけど、
沼津で家から通えるところで、
定時で帰れるところ。
で、私は何がアピールできるんだろうとか、
もう職しかないから、
普通の建築会社のジムとかだと、
何も知識がないから分かんないんですよ。
でもお茶だったら、
まずは一応飲食の部類だし、
カロリー計算できるでしょ?
お茶もカロリー計算できる?
いけない。ゼロ。
お茶ゼロ。
そういうのがあるから、
いけるかもって思って応募したんですよ。
そしたらそこオッケーもらって、
このまま6年後まで6年くらい。
僕も本当に沼津に来て、
沼津って静岡じゃないですか。
なのでやっぱお茶のことは、
一家は触れたりとか学ぶたり。
多分沼津で一番最初にやったイベントが
お茶のイベントなんですよね。
それこそ先ほどのお世話になって、
結構面白かったんですけど、
6年以上続いて沼津に来た感じ。
喋れないこともあるかもしれない。
退職はもうすでにされてる。
どうでした沼津のお茶屋さん?
良かったですよ。
取り付けたかどうかわからないけど大丈夫?
良かったです。
本当に家族経営の会社だから、
その家族の中に入っていくっていうのは、
最初勇気はいたんですけど、
その当時まだ23歳とかで入ったから、
めっちゃ若かったんですよ。
若いうちに入って、
23歳ぐらいで入ったから、
19歳から働いて、
若かったからみんなも甘く見てくれたっていうか、
優しかった。
本当に優しく教えないと、
辞められても困るっていうので。
すごかった。
みんなの守るようなオーラがすごくて、
いろいろ教えてくれたりして、
よくしてもらって、
いろいろ。
最初事務所で入ったんですけど、
最後の方は工場の方。
工場も敷地にあるんですけど、
事務所と工場。
工場の方で半年以上かな。
そこで働いて、
そっちの人と飲みに行く人が多くて、
可愛がってくれて。
可愛がられてすごい。
激甘でした。
激甘。
みんなが激甘。
笑えなかった。
大丈夫だった。
人ばっかりだったから。
お茶のことに静岡からの人が来れるって、
ちょっと僕は羨ましいことがあったよね。
全然違うけど、
大阪市のようなタコ屋店とか、
ほんまか。
ありますね。
どうですか、お茶に触れてみると。
お茶の世界がそれまで、
家では飲んでたけど、
ペットボトルでお茶が飲めるから、
今まではそれで詰まってたんですけど、
普通の給酢で入れたお茶とは、
全然違うから、ペットボトルと。
違いますよね。
びっくりした。
やっぱり入れた方が美味しいなって思って、
そこに勤めてからは、
ペットボトル飲んでたけど、
毎日1回は給酢で入れるようになった。
何やったかな、今。
コーヒー飲みながら喋ってる。
お茶飲んでる。
お茶じゃない。
詳しくなかったけど、
そこにずっといると、
こういうお茶もあるとか、
仕事の楽しさと成長
種類もいっぱいあるとか、
産地によって味が違うとか、
茶葉の色も違うとか、
そういうのは近くで見れることができたから、
それは良かったかもしれない。
好きなお茶って言えるかって。
好きなお茶?
僕がさっき言ったとおり、
社長に教えてもらった茎茶は、
全く知らなかったけど、
紅茶ですよね。
あれはお得感も感じて、
お茶のまだ知らない世界を知ってたし、
お得感もあって。
さつぜさんのお茶は、
2袋目買って。
そうなんですか。
ありがとうございます。
もういないけど。
私も茎茶は買ってました。
いつも家で。
しかも葉っぱの部分も多いじゃないですか。
だからそんなに甘みもあるし、
水だしでも美味しい。
水だしこの間は夏だから。
美味しいです。
全然甘くない。
色も綺麗だし。
ちゃんとれいちゃんのお茶屋で働いてたことが、
立証されて良かった。
良かった良かった。
良かった?
でもなんか色々、
事務員からのサービスエリアとかの配達もしてて。
そうなの?車運転して?
そうなの?車運転できる?
できる。
一応できて、
サービスエリアとか村の駅とか、
ここら辺だと、
沼津のサービス、
プラットパーク、
沼津上り線下り線あそこだったり、
富士山も行ったし、
伊豆の月ヶ瀬?
うん。
そこまでは行ってた。
楽しかった。
はい。
一人で育んで。
女性ってさ、
一般的に運転がちょっと。
うん。
運転の心配はなくて、
私自身は。
大丈夫。
重たかったけど、
1キロ段ボールで持てるから、
重たいけど、
一人でできるから、
気楽で、
ドライブカテラって言ったらいいのか分かんないけど、
ドライブカテラ行ってきて、
楽しかった。
どんな経験してきたんだね。
そうなんだ。ありがたいこと。
何年くらい?
6年。丸6年。
栄養士よりも全然長い?
長い。失敗。
そうです。
小学校1年生。
そう。長いです。
本音です。
辞めちゃって。
何で辞めた?
結婚しただけです。
それってのは、もともと大人かぐらいで行っては。
そうですね。
旦那さんも何回も
昼前から
行ってたけど、
凄い旦那さんってね。
怒らない。
怒られたことない。
大丈夫?
大丈夫です。
19:16

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